第5話

「!?」


 時が止まったのかと思った。少なくとも、俺の呼吸と心臓は、一瞬停止したのではあるまいか。

 あまりに突然の出来事に、俺は慌てて顔を逸らした。


「な、何すんだよ!?」

「おっと、意識が鮮明になったようだな」


 慌てて二、三歩後ずさる。俺は我ながら、怪物を見るような目で、葉月の目を覗き込んでいた。まさかこんな形で、ファーストキスを経験することになるとは。

 そんな俺の、貧弱な恋愛経験になど構わず、葉月は落ち着いた態度だった。その顔には、既に先ほどまでの微笑みが再構築されている。


「改めて問うぞ、佐山。私たちの仲間になって、ご家族の仇を討つ気はないか?」

「馬鹿言うな!」


 唐突に唇を奪われたことと、『仇を討つ』という言葉とに、俺の脳みそはフル回転し始めた。しかし、理論的な思考にはまだ至らない。

 

「突然何しやがる! あんた、目的は何だ! 大人たちの差し金か!」

「ちょっと待て。私の話を聞いていたか?」

「ああ聞いてたよ! さっぱり分からなかった! 大体初対面で、キ、キス、するなんて、何考えてるんだ!」


 すると葉月は眉間に手を遣り、首を左右に振った。動転しきった俺に、何をどう説明するか、苦心している様子だ。


「意識がはっきりしたのはいいが、現実に対する拒絶反応が出ているな。まずは深呼吸しろ。落ち着くんだ」

「あ、ああ、それにはどうしたらいい?」

「だから深呼吸だ!」


 俺は上を向き、はあっ、と音を立てて息を吸い込んだ。いつの間にか、雨は止んでいる。

 俺の元にも、日の光が差し込んできた。それは、柔らかな光だ。微かに目を細めながら、俺は身体をくの字に折り、再び音を立てて息を吐き出した。


「繰り返すぞ、佐山。私たちは、君に復讐の機会を用意してやることができる」


 荒い呼吸をしている俺に向かい、葉月が告げた。


「待て、それは――」


 俺は言葉を発しようとして、数回咳き込んだ。なんとか呼吸を整え、再び葉月と視線を合わせる。


「それは、できない」

「何故だ?」


 俺は、冷静になれと自分に言い聞かせながら、言葉を繋げた。


「人を殺すなんて、俺にはできない。俺が殺されるかもしれない!」

「それは君の腕次第だ」


 違う。そんな答えを求めてはいない。いや、そもそも質問に誤りがあった。


「人殺しなんかしたら、俺は、俺から家族を奪った連中と同格になる! 殺人犯になるなんて、親父もお袋も望んじゃいない!」

「それはどうかな」


 葉月は片手を顎に当て、じっと俺に視線を注いだ。


「確かに、お母様は悲しむかもしれない。だがな、佐山。それは喜劇の中だけの話だ。君が死んで天国に逝った時、もしお母様に責められたらどうする? どうして復讐してくれなかったのか、と」


 咄嗟に言い返そうとしたが、言葉が喉に詰まってまた咳き込みそうになった。その隙を狙ってか、葉月は僅かに上半身を折り、上目遣いに俺を見上げてきた。


「さらに言わせてもらえば」


 微かに胸元が開いて見えてしまったので、俺はさっと目を逸らした。


「自分の身を潔白にしておきたいがために、君は殺人を躊躇うのか。それこそさっき私が言った通りじゃないか。『君にとって、ご家族はその程度の存在だったのか』とね」

「じゃあ、あんたはどうなんだ?」

「何?」


 少しばかり、葉月の顔が歪むのが見えたような気がした。構うものか。俺は内心そう言い捨てて、追及する。


「あんたは家族を亡くしたことがあるのか? 俺のように――」

「ある」


 俺は口をつぐんだ。あまりに返答が端的で明確だったからだ。


「二人共刑事だった。味方に裏切られて死んだ」

「う、裏切られた、って……?」


 思わず答えを促した俺に向かい、葉月はビニール傘を置いて両手を腰に当てた。軽くかぶりを振って、ため息をつく。それは冷たい吐息だった。


「警察にかけられていた圧力のせいだ。政府と癒着していた製薬会社が、治験結果の偽装をして、その揉み消しを警察に要求していたんだ。捜査を止めるように、とね。その捜査にあたっていたのが、私の両親だ」


 ドラマみたいな話だが、それが逆にリアリティを持たせていた。ここ数年の目まぐるしい政権交代の間に、いつの間にか大企業が、政府との違法なパイプを繋ぐことが見過ごされてしまう。珍しい話ではなかった。


「両親が製薬会社の研究所に踏み込んだ時、バックアップは準備されていなかった。たった二人の専従捜査だ。それを押しつけられて、それでも私の両親は、製薬会社を睨んでいた。それで、返り討ちに遭ったんだ」


 ごくり、と唾を飲む俺。聞けば、その製薬会社を担当していた警備会社というのは、半ば暴力団のようなものだったらしい。それを、会社も政府も、知っていながら放っておいたのだ。


「母は最初の銃撃戦で殺された。それでも父は、一人で戦おうとしていたんだ。母の遺体を守りながらね」


 何故そんなことを、葉月は知っているのだろう?

 俺が微かに首を傾げるのを見て、葉月は『ああ』と言って目を上げた。


「私たちには特別な情報の入手ルートがあるんだ。その時の研究施設内での戦闘は、私も見た。監視カメラに保存された映像を通してね」


 中途半端に頷く俺。その前で、葉月は視線を下げた。


「ど、どうしたんだ?」

 

 葉月の、いや、葉月の父親の身に、一体何があったんだ?

 すると、葉月は思いがけない動作に出た。自分の両肩に手を回し、自分の身体を抱き締めたのだ。

 俺は急に、不安に襲われた。つい先ほど会ったばかりとはいえ、葉月が初めて見せた怯えの感情だ。俺をスカウトしに来たと言っていた葉月。きっと武器の扱いにも長けているのだろう。人を殺したこともあるかもしれない。そんな彼女が、細い肩を震わせている。


「何があったんだよ?」


 俺は興味半分、怖さ半分で、葉月の心中に迫った。父親に何があったというんだ?


「殺されたんだ、父さんは」


『父さん』という言葉遣いをするところに、俺は葉月の傷口を垣間見たような気がした。やはりそうだったのか。だが、どうしてそこまで怯えているのだろう?


「それは……気の毒に」


 俺がそう声をかけると、葉月は小さな声で呟いた。


「ここまで話してしまったんだから、父さんのことを話さないではおけないだろうな」

「あ、べ、別に、そんなに辛いことなら――」

「生体実験に使われたんだ」


 俺は絶句した。生体実験、だって?


「父さんは身体が丈夫なのが取り柄でね。どんな事件に巻き込まれても、どんな酷い傷を負っても、必ず現場復帰してきた。そのお陰で命を救われたという刑事には、私も何人か会っている。でも……」

「でも?」

「その屈強な身体を持っていることが、仇となるとはね。父さんは死ぬまで、いくつもの実験に身体を使われたんだ」


『それはどんな実験だったのか』などと、訊ける状態ではなかった。これ以上、葉月の胸中の傷に塩を塗るような真似はできまい。


「ご、ごめん、訊くべきじゃなかった」

「いいんだ」


 気丈にも、葉月は目を上げた。再び笑顔を作ってみせる。だが、その瞳が揺らいでいるように見えたのは、俺の気のせいではあるまい。


「私から話せるのは、ざっとこんなところだ。さっき渡した写真に、連絡先を書いておいた。もし私のオファーを受ける気になったら、連絡してくれ。誰かには繋がる」

「誰か、って?」

「ああ、それと」


 ビニール傘を拾い上げながら、葉月は言った。既に、怯えの感情は表出していない。


「今日はテレビを点けていてくれ。私たちの仕事ぶりを、君に見せられるかもしれない」

「それってどういう……?」

「とにかく、写真をなくさないでくれ。失礼するよ」


 俺に有無を言わせることなく、葉月は会話打ち切って、くるりと背中を向けた。僅かに雨に濡れた髪が、艶っぽく輝いている。

 俺は声をかけることもできず、その後ろ姿が見えなくなるまで、ぼんやりと葉月の背中を眺めていた。


         ※


 その日の夕方。

 俺はのろのろと歩き、伯父に指定されたマンションに至った。俺の部屋は、二十五階だった。鍵を開けると、短い廊下があり、左右にバスルームや冷蔵庫、洗濯機などがある。

 部屋は思いの外広かった。十畳間にシングルベッドがあり、広い窓からの眺めはなかなかのものだ。テレビはちょうど、ベッドの反対側に置かれていた。


 俺はすぐにもベッドに倒れ込みたかったが、流石に泥まみれではマズいだろう。身に着けていたものは全て投げ出して、俺は冷たいシャワーをざっと浴びた。それから、勝手の分からない新居に戸惑いつつも、自分の下着とパジャマを見つけて着込んだ。


 さて。

 葉月は『自分たちの仕事ぶりを見せられる』と言っていた。何が起こるかは分からないが、確認はするべきだ。俺はベッドのそばに置かれたリモコンを手に取り、電源を入れた。

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