第4話
俺がそちらに視線を遣ると、数名の男がビール瓶を空けていた。だいぶ酔いが回っているらしい。
しかし、一体何が楽しくて笑っているのだろう? 人が死んでいるというのに?
その時、俺は思い出した。俺たちは親戚付き合いというものをあまりしてこなかったということを。理由は単純で、父が多忙だったからだ。
父の仕事は、薬剤師だった。薬剤師と言っても、研究所に籠って薬品の開発をするのではない。世界中を飛び回って、新たな薬剤となるような植物の採集をしてくるのだ。帰ってくるのは、せいぜい年に三、四回というところ。母は専業主婦だったし、父方の親戚との付き合いは皆無に近かった。
だが、それで『こんな行為』が許されるだろうか? 自分で言うのもなんだが、両親を喪って絶望の淵に立たされている人間がいるのに、しかも葬儀の場であるのに、高笑いをしながら談笑するとは。
次の瞬間、こんな言葉が俺の耳に捻じり込まれてきた。
「旦那の方は遺体が見つかってねえんだろ? 月にでもぶっ飛ばされたんじゃねえか?」
俺は、自分の胃袋の底から、炎が轟音を立てて吹き上がってくるのを感じた。
気づいた時には、俺は薄いベールを破り捨て、ビールに口をつけている男たちのテーブルのそばに立っていた。
「あ、お前、学者さんとこのガキだろ? 全く気の毒になあ、いきなり親がいなくなっちまって」
ゲラゲラと下品な笑い声が続く。それは、俺の逆鱗に触れる事態だったが、相手の言葉はそれだけにとどまらなかった。
「まあ、こうして親戚が集まる機会なんてそうそうありゃしねえ。どうだ、てめえも一杯」
ぐっとコップとビール瓶が差し出される。
「……けるな」
「ああ? よく聞こえな――」
「ふざけんなッ!!」
その直後、俺の右足は脳信号の到着を待たずして、男たちのテーブルを思いっきり蹴り上げた。あたりに響き渡るのは、テーブルが倒れる鈍い音、瓶類が割れる鋭い音、それに俺の叫び声。
足に鈍痛が走るが、構っている場合ではない。もう、こんなところにいるのはたくさんだ。
俺は誰かに声をかけられるのも待たずに、葬儀場を出て、土砂降りの雨の元へ足を踏み出した。
こんなことをするのに、俺には自分の意志をいうものが介在しなかった。脳みその隅っこに追いやられた理性は、今の俺を止めるには貧弱すぎる。
父さん、母さん。
俺は胸中で呟いた。いや、もしかしたら口に出てしまっていたかもしれない。だが、知ったことか。
俺は雨に濡れながら、勝手に足が動くのに任せて、道路を闊歩した。誰かにぶつかったり、車に轢かれたりはしなかったのは幸運だったのだろう。しかし、爆弾テロから一週間経って、そして皮肉にも、親戚からかけられた不条理な言葉によって、俺は両親と過ごした日々を思い出していた。
父は、料理が好きだった。日本に帰ってくると、毎回自分の行ってきた国のソウルフードを振る舞ってくれたものだ。一食食べてきただけで、しかも日本にある食材だけでそれを再現してしまうのだから、父の味覚は大したものだ。母も父には敵わないと思っていたらしい。
父がいない間、すなわちほとんどの時間は、俺と母の二人暮らしだった。サッカー部で毎日疲労困憊して帰ってくる俺に、母は適度な励ましと、十分な愛情を捧げてくれた。
そんな二人が、こんなことでいきなり命を奪われて。俺は一人、残されて。
どだい許されるはずのない事件だったのだ。それに加えて、あの親戚たちの態度はなんだ。
俺は知らないうちに、自分の唇を噛みしめていた。黒の学ランに赤い染みは目立たなかったけれど、この鉄臭さ。出血しているのは間違いない。
悔しかった。ただただ、悔しかった。唇から流れ出た血は、俺の悔しさのボルテージが、限界を振り切ってしまったことを示しているのかもしれない。
人や車にぶつからなかった俺の幸運は、呆気なく尽きた。アスファルトの段差に足を取られたのだ。
「うあ!?」
そのまま、目の前の水たまりに倒れ込む。泥水が俺の口から、鼻から流れ込み、俺を呼吸困難に追い込む。
「ち、く、しょう」
咳き込みながら、俺は両手を握りしめて四つん這いになった。なんて無様な姿だろう。
雷雨に打たれ、大人たちに絶望し、こんな街の一角で地面にへばりついている。日の光が差すこともなく、どこにも救いなどない。
「畜生!! ふざけるな!! 馬鹿野郎!!」
俺は喉が掻き切れる勢いで、声を張り上げた。いや、これは声と言えるのだろうか? この、誰にも聞かれることのない、心の叫びが?
自分の拳が血塗れになることにも構わず、俺はひたすらにアスファルトを殴り続けた。その間、何を叫んでいたのか、自分にも分からない。ただ、俺の身体が骨の髄から、怒りと憎しみ、それにどうしようもない悲しみに侵されていたのは間違いないと思う。
俺は身体の内側から、何かが込み上げてくるのを感じた。しかしそれは、胃袋からではない。もっと身体の奥、強いて言えば心の底から浮き上がってきた。肺が揺すられ、喉が鳴らされ、頭が痙攣し始める。
これが号泣というものなのだと、俺は初めて知った。
どれくらい時間が経ったのだろう。雨が、止んだ。
いや違う。後頭部だけ、水滴が落ちてこなくなったのだ。まるでそこだけが、俺にとっての安息の場所であるかのように。俺はゆっくりと上半身を起こし、顔を上げた。
女が立っていた。俺と同い年ぐらいだが、『少女』とは呼べない気がする。
そう、『気』。オーラとでも言うのだろうか。何か大きなものを抱えて生きている、そんな『気』が彼女の周囲に漂っていた。
「大丈夫か、君?」
心配するというよりは、逆に相手を安心させるような、そんな微笑みを浮かべている。目鼻立ちは整っていて、美人の部類に入るだろう。青いフォックススタイルの眼鏡と、長いポニーテールが印象的だった。
俺が立ち上がると、目線がちょうど並んだ。
「佐山潤一くん、だね?」
突然の部外者の登場に、俺は少しばかりの驚きをもって頷いた。もしかしたら、相手を追い返すだけの体力がなかったのかもしれない。
「私はこういう者だ」
差し出された一枚の紙切れ。俺はゆっくりと、腫れ物に触れるような思いで、それを受け取った。
『美奈川葉月』とある。それ以外には何も書かれていない。裏も見たが、真っ白だ。
名前だけ知ってもしょうがない。そんな疑問を俺の顔から感じ取ったのだろう、葉月ははっきりとした口調でこう言った。
「我々は、テロリストを狩るテロリストだ」
「狩る……テロリストを?」
怒気の抜けきっていた俺は、ただ葉月の言葉を復唱した。しかし、頭に残された冷静な部分(ごく僅かだったけれど)は、更なる疑念を露わにした。
「どういう意味だ?」
カラカラに渇いた喉から、声を押し出す。しかし葉月は全く意に介さない様子で、
「これも渡しておこう」
と、もう一枚の紙切れを寄越した。いや、紙ではない。写真だ。
俺はそれを覗き込んだが、視覚の情報処理能力がダウンしたのか、何が写っているのか分からない。
「その男は、ダリ・マドゥーという。今回のメイプルデパート爆弾テロを計画した男だ」
再び写真に目を下ろす。確かにこれは、人間の顔だ。まだそれ以上の情報は入ってこなかったけれど。
「随分と大胆な男だ。テロが起きたその日に身元が割れたよ。今私たちは、この男の足取りを追っている」
そうなのか。だから、どうした? 全く話が見えてこないのだが。相変わらず仏頂面を続ける俺に向かい、葉月はやれやれといった調子で肩を竦めた。
「何故君にこんなことを教えているのか、って?」
俺は僅かに顎を引き、頷いてみせる。そして、次に葉月が発した言葉に、唖然とすることになった。
「私は君をスカウトしに来たんだ、佐山潤一。私たちに、君が抱いている復讐心を貸してほしい。その代わり、私たちは君が狸寝入りせずに、復讐を果たすのを手助けすることができる」
復讐、だって? 突然何を言い出すんだ、この女は?
俺が言葉の意味を解釈し終える前に、葉月は続けた。
「目には目を、歯には歯を、だ。君には、こいつらを殺す権利がある。お母様を奪われたのだからね」
「それが……」
「ん?」
「それが復讐、なのか」
「そうとも」
大きく頷く葉月。俺の肩に手を載せ、ぎゅっと握りしめてくる。微笑みは相変わらず、彼女の顔立ちをよく引き立てている。しかし、
「もし復讐しないというのならば」
そう言いながら、葉月は眼鏡を外した。同時に口元は一文字を描き、微笑みは一瞬にして消え去った。
「君のご家族は君にとって、死んでも復讐してもらえないという、『その程度の存在だった』ということだ」
俺は自覚できるほどに、頬を引き攣らせた。
「な、なん、だって……?」
「言葉通り。君はご家族をその程度にしか想っていなかった、そういう意味だ」
驚いている。そう自覚できる。しかし、俺の頭の中は、未だに五里霧中といった状態だった。
が、その霧は一瞬で晴れ渡ることになった。葉月に唇を奪われたことによって。
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