第3話


         ※


 倉庫から外に出ると、全身が洗われるような思いがした。埃だらけになった後に、バケツの水を頭から引っ被ったかのような。

 海風のお陰だ。潮の香りが、俺たちを包み込んでは流れていく。

 今回の現場が海岸沿いでよかったと、心から思った。そうでなければ、いつまでも現場の血生臭さが鼻について離れなかっただろう。


 今は七月上旬。時刻は午前一時を回ったところだった。あたりを見渡せば、臨海工業地帯のランプがあちらこちらで輝いているのが見える。


 それらを一通り視界に収めてから、俺はすうっ、と息を吸い込んで、思いっきり吐き出した。それから念のため、拳銃の弾倉を交換する。

 そこまでやってはみたものの、完全に現場の臭いを消し去れるわけではなかった。何せ、自分は返り血に塗れているのだ。


「仕方ねえよ、潤一。さ、早く乗れ」

「あ、ああ」


 憲明に急かされ、俺はゆっくりと、逃走用の車に乗り込んだ。後部座席だ。葉月は気まずさを拭いきれなかったのか、俺と肩を並べることなく、助手席に乗車。最後に憲明が、運転席に腰を下ろした。ガトリング砲は、大まかに分解されて車の天井に括りつけられている。


「和也を回収しに行くぞ。そのままアジトへ帰るからな。っと、その前に、潤一」


 そう言って、バックミラー越しに視線を寄越す憲明。


「RC、解除しとけ。まさかとは思うが、帰るまでの間にトラブルに巻き込まれたら敵わねえ」


『RC』とは、『リアル・コンバット』の略称だ。俺が倉庫内で、脳震盪から一気に意識を覚醒させた一種の能力。何故そんな力が備わっているのか、自分でも分からない。だが、使えるものは何でも使うのが俺のポリシーだ。

 具体的には、視力や聴力の飛躍的向上と、超人的な挙動を可能にする。ただし、一日に十分間しか発動することはできない。発動条件は簡単で、右のこめかみに軽い打撃を与えればいい。逆に、解除する時は左のこめかみを叩く。ツボを押し込むように。

 また、発動してから一旦解除し、再び発動させることもできる。合計時間が一日十分、ということは変わらないが。


 左のこめかみを軽く押すと、どっと疲労が俺の全身にのしかかってきた。RCが解除されたのだ。残り時間は一分半といったところか。

 俺は深く、背もたれに寄りかかった。すぐに眠ってしまいたかったが、どこか神経が高ぶって、とてもじゃないが寝付けない。きっと、和也の回収という任務が残っているからだろう。


 移動すること、約五分。

 車は歓楽街に出て、とあるビルの裏手に停まった。そこには、影に呑まれるようにして、小柄な人間が立っていた。


「遅いよ~、皆!」

「悪かったな、和也」


 狙撃手・和也は、少し長めのリュックサックを背負って待機していた。憲明に向かって唇を尖らせながら、俺の隣に乗り込んでくる。するとすぐに、前の座席に顔を覗かせた。


「葉月、大丈夫? 怪我はない?」

「無傷だよ、和也。心配かけてすまなかったね」

「ああ、よかったぁ!」

 

 なんだ、心配してくれる相手は葉月だけか。


「危ないところを救ってくれた。佐山がね」

「え」


 葉月の言葉に、一瞬挙動停止する和也。


「おい、車出すぞ」


 ため息混じりの憲明の声に、和也は慌てて腰を落ち着けた。


「な、なんだよジュン、カッコつけちゃってさあ!」

「そんなつもりじゃねぇよ」


 真夏だというのに長袖・長ズボンを着用している和也は、両腕の袖で俺の肩をパタパタと叩いてきた。しかし、そんなことに関わっている余力はない。

 小学生かよ、お前は。そう思いはしたものの、敢えて口にするという愚行は犯さない。


 俺は再び背中をシートに押しつけて、腕組みをして目を閉じた。するとふと、一ヶ月前のことが記憶に立ち昇ってきた。俺がこのメンバーに加わった時のことが。


         ※


「奥様、亡くなったんですって。ご主人は生きてるのかどうかも分からないようだし」

「爆弾テロだなんて、最近物騒よね、日本も」

「残ったのは高校生のお子さんだけでしょう? かわいそうに……」


 俺は深く椅子に腰かけ、そんな遣り取りを聞いていた。学ランをきっちり着込んで、何を見るともなく俯き、涙を流すこともなく。

 六月に入ったばかりで、その日は土砂降りだった。時折、雨が地面を叩く音に混じって、雷鳴が耳に入ってくる。


 俺の両親が爆弾テロに巻き込まれて死亡、または行方不明となったのは、つい一週間前のことだ。『メイプルデパート爆弾テロ事件』。テロと命名されているが、国内外含めどの組織からも犯行声明は出されておらず、謎の多い事件だと言われている。

 俺が今いるのは、母の葬儀の場だった。遺体の確認が行われ、DNA鑑定の結果、身元が判明したらしい。要するに、それだけ遺体は酷い状態だったということだ。


「潤一くん、大丈夫かい?」


 肩に手を載せられ、俺はふと顔を上げた。


「和樹伯父さん……」


 そこにいたのは、中肉中背のどこにでもいそうな男性だった。俺の父、佐山博也の兄、佐山和樹である。この葬儀に出席している中で、最も俺や両親と交流のあった人物だ。

 伯父は今、眉をハの字にして、俺に痛まし気な視線を送っている。


「今しか話せないことなんだが、構わないかね?」

「はい」


 我ながら脱力しきった状態で、俺は応じた。伯父は敏腕弁護士だから、きっと今日も仕事が残っているのだろう。

 実の弟が事件に巻き込まれたというのに、不謹慎ではないか。

 僅かにそんな言葉が俺の脳裏に浮かんできたが、すぐに霧散した。この一週間、俺の面倒を見てくれたのは、他ならぬ伯父夫婦なのだ。文句を言える筋合いではない。


 そんなことを考えていると、伯父は俺の正面に回り込み、手を取った。ゆっくり持ち上げ、自分が手にしていたものを、そっと俺の掌に載せ替える。


「マンションの鍵だ」

「マンション?」


 マンションだって? どこの、誰のものだ? 

 疑問が俺の顔に出たのを察したのか、伯父はすぐに説明を始めた。


「いいかい、潤一くん。君にはこれから、一人暮らしをしてもらうことになる」

「一人……暮らし……?」

「ああ、そうだ」


 俺の背に腕を回し、軽く擦る伯父。


「残念ながら、今の私たちには君を養うだけの時間がない。子供はいたことがないし、どう接したらいいのかも、正直分からないんだ。私が多忙な身であることは、分かってくれるだろう?」

「はあ」


 相変わらず俺は、空気の抜けるような調子で返答した。要するに、出ていけと言いたいわけか。


「お金の心配はしなくていい。私たちからも、君の養育費は工面させてもらう。だが、一緒に暮らすのに十分な時間がないんだ」


 再び『分かってくれるだろう?』と繰り返す伯父。


「このマンションは、私の知人がオーナーを務めている。ほら、君のお宅の斜向かいに、つい先日完成した高いビルがあるだろう? あの、一階にコンビニが入っている、灰色のビルだよ」

「はい」


 俺は中途半端に頷いた。カクン、とこうべを垂れるように。


「部屋番号や細かい話は、この封筒の中の書類に書いてある」


 そう言って伯父は、鍵の上に白い封筒を載せた。


「ひとまず、今日と明日の分の食料は、備え付けの冷蔵庫に入れてある。それに、博也の、つまり君のお父さんの銀行口座にも、しばらくは生活に不自由しないだけのお金は入れておいた」


 なんとも手回しの早いことだ。


「だから潤一くん。君は何も心配せず、ただ今まで通りの生活を送ってくれればいいんだ」


 その時、今までぼんやりとしていた俺の意識に、カッと光が差した。

『今まで通りの生活』だと? そんなものに戻れると思っているのか? 両親を殺された、この俺に?

 俺は、自分の目が見開かれるのがはっきりと分かった。これを伯父がどう解釈したのか、そんなことは知らない。だが、伯父が俺の理解者たり得ないことは、この時点で揺るぎない事実となった。

 そして、次に伯父の口から発せられた言葉は、そんな俺の判断をより強固にするものだった。


「まあ、潤一くんは成績もいいし、しっかりしているから大丈夫だ。めげずに頑張って、前を向いて歩いて行こう!」

「は……?」


 俺は思わず顔を上げ、伯父の顔をまじまじと見つめた。

『頑張って』だと? この男は今、俺に向かって『頑張って』と言ったのか? 今の俺が誰にも言われたくなかった言葉を?


 俺の頭がフリーズしている間に、伯父は笑顔と思しき表情を浮かべ、腕時計を見下ろして驚いてみせる、という下手な芝居をした。


「ああ、もうこんな時間か。すまない、潤一くん。何かあったらすぐに連絡してくれ」


 無言のままの俺にそれ以上構わず、伯父はその場を後にした。


 それから先、俺はいろんな親戚に、『かわいそう』だの『気の毒に』だのと言われた気がするが、明確な記憶としては残っていない。今思えば、それこそ脳震盪を起こした時のように。


 現実と非現実の薄いベールを破ったのは、斎場の一角で湧いた笑い声だった。

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