夢に咲く花は甘かった。

薄ピンク色に咲き誇っていたソメイヨシノの花びらが散り、緑の葉へと変わっていった。徐々に気温も上がり、日差しも温かいものから鋭いものへとなっていった。気づけば学ランから夏服へと衣替えする季節。新しいクラスの中でも段々とグループのように仲良いやつらがかたまりかけた頃、僕は珍しく夢を見た。


僕は不眠症だ。夜中に突然目がさめてそこから再び眠りにつけない日が週に数回ある。だからといって日中眠くなる訳でもなく、学校でも居眠りをせずに真面目に授業を受けている。全くもって生活に支障はないので医者に行くまでもないと勝手に判断している。不眠症になって、唯一損したことと言ったら、夢を見なくなったことだろうか。小さいころこそよく夢を見ていたが、中学校に上がって、夜更かしを覚えた僕の睡眠時間がぐっと下がった頃から全く夢を見なくなった。目をつむって意識を手放している時間が短くなったのだから当然だ。夢を見なくなった、よりも夢が見れなくなった、という説明のほうが的確なのかもしれない。そんな僕が数年ぶりに見た夢は悪夢だった。


夢の中の僕は半袖のワイシャツに青と灰色のチェックのズボンを履いていた。見慣れた中学の制服だった。椅子に座っていた僕は、座ったまま辺りを見回した。右手に、天井から床までぎっしりと詰まった本棚が6列ほど見えた。懐かしいこの本のこもった匂いとこの場所の薄暗さで僕は自分が通っていた中学校の図書室にいることに気づいた。視線を手元に落とすと机の上に、プリントが一枚と昔愛用していたシャープペンシルとまるっこい消しゴムが置いてあった。「進路調査票」と書かれたそのプリントには、学年組出席番号と自分の名前しか書かれていない。この机を挟む形で本棚たちの反対側には、グラウンドが見渡せる大きな窓ガラスがあった。窓一枚隔ててもでも聞こえてくるセミの鳴き声とグラウンドで練習中の運動部の掛け声にうんざりしながらも、夢の中の僕はその真っ白な紙をじっと見つめていた。窓から差し込む夏のジリジリとした日光は、レフ板のようにまっさらな紙によって反射し、僕の目をくらませた。それでも僕は目をそらさずに、紙だけを見ていた。半袖のシャツからのぞく白い腕にはポツポツと鳥肌が立っていた。図書室の中はクーラーがかかっており、長い時間座ったまま何もせずにいるとさすがに寒く感じてくる。それでも夢の中の僕はじっと紙だけを見ていた。それからどれくらいの時間が経っただろうか。突然図書室のドアが開いて、何者かの足音が静かなこの場所に響き渡った。だんだんと近く上履きが床に擦れる音に思わず僕は紙から目をそらし、音の正体のほうに向いた。そこに立っていたのは見覚えのある顔だった。しかし夢の中の僕はそいつが誰か分からなかった。ただただ吐き気がするほど見覚えのあるものだった。


「ーー、ここにいたんだ。探したんだよ。」

そいつは屈託のない笑顔を浮かべて、そう口にしたように見えた。さっきまで鮮明に聞こえていたはずの音が消えて、深い海底に僕は突き落とされた。まただ。蝉の音も、運動部の掛け声も、ありとあらゆる音が消えて、お前は誰だ、と聞こうとしても喉から声が発せられない。体の自由が奪われて、額から汗が垂れてきた。さっきまで鳥肌が立つほど冷え切っていたのに。そいつはやはり見慣れた笑みを顔に浮かべて、僕の隣の椅子に座ってきた。僕の感覚はまだ戻らない。

「まだ進路、決まってない?」

机の上の紙を指さしたそいつの手は、夢の中の僕の腕と対照的に薄く日焼けしていて、健康的だった。そいつの聞いた質問に答えたくても声が出ないから答えようがなかった。なかなか返事を返さない僕をじっと見つめるそいつはまたあの笑顔を浮かべた。


「俺と同じとこにしろよ、腐れ縁ってやつ」

さっきよりも近くでみるやつの笑顔はとても整っていた。くっきりとした二重まぶたの瞳は三日月の形に細められ、目じりの方には愛嬌のある笑いじわが出来ていた。綺麗に曲線を描く唇からは肌の色と打って変わって真っ白な歯がちらりと見えた。一般的にはイケメンの部類に入るのだろうか。そいつの笑顔は誰1人として嫌悪感を抱かないであろうものだった。ひとつの歪みもない、絵に書いたような綺麗な笑顔。

でも、夢の中の僕はそいつの笑顔を見て息苦しさを感じていた。あまりにも整いすぎているそいつの笑顔からは生気が感じられなかった。まるでお面を被っているかのような綺麗な笑顔。なんだか狂気すら感じる笑顔を観察していると、僕の瞳を通して心の奥底まで全て見られている感覚に駆られた。素早く目線を逸らし、また紙の方を見る。


そいつが立っていた時は気づかなかったが、いつが来ている僕と同じデザインの半袖のワイシャツからは柔軟剤の匂いがした。春風とともにやってくるような花の甘い匂いだった。時が経つにつれて、クーラーの風に乗って僕の方に流れてくるその匂いはなんだかきつくなっていくようだった。僕は椅子に座り直すフリをして、その匂いを避けるように、そいつとの少し距離を置いた。そいつは、まだ笑顔のままこっちを向いている。ジリジリとはるか遠くに聞こえる蝉の音に焦りが募る。このままでは僕の全てがそいつに知られてしまう。全て見透かされる。僕はそいつのことを全く知らないままなのに。なぜ僕は見覚えのあるこの笑顔を思い出せないのだろうか。なぜ。なぜ。疑問が積み重なってゆき、バクバクと心拍が早まってくる。また額から汗が垂れてきた。時の流れがとても遅く感じる。いつまで紙を見つめ続ければいいんだろう。真っ白な紙にもさすがに飽きてきた。


「おい。顔色悪いけど、大丈夫か?」

そいつは僕の顔を覗き込み、聞いた。さっき距離をとったばかりなのに。甘い花の匂いがグッと近づく。突然のことに反応が遅れた夢の中の僕は思わずそいつから離れようとして、後ろに重心を動かした。その拍子で僕は椅子から転げ落ちた。世界が反転した気分だった。図書館の床が抜けて、僕は底へ底へ、奈落へと落ちていった。重力に習って勢いよく落ちていくと、下から上へと強く風が吹いてくる。パタパタとワイシャツが音を鳴らし、風が僕の髪をなびかせる。その風に乗って香ってくるそいつの花の匂い。やはり段々とムカムカしてくるようなきつい花の匂いに変わっていく。吐きそうなほど甘いその匂いから逃げるように僕は鼻をつまんだが、効果はなかった。花の匂いは強まるばかりで、頭から離れなかった。まるでその花の匂いが毒ガスのように僕の脳内を充満してゆく。段々と意識が薄れていく感覚に身を委ね、僕はやっと夢から覚めた。


目を開けるといつも見上げる天井があった。風邪をひいて、熱が出た時のような脱力感に僕は襲われた。前髪は汗で額にべっとりと張り付いていた。同じように、着ていた寝間着代わりのTシャツも汗で体に張り付いていた。身体の周りを汗の膜で覆われたような感覚だったにも関わらず、喉は乾ききっていた。体内の水分が一滴残らず搾り取られたのかもしれない。しばらくベットに横になっていた僕は、湿ったTシャツを脱ぎ捨て、キッチンに降りた。静まりかえったキッチンに置いてある時計の短針は3と4の間にあった。正直シャワーを浴びたいところだが、それよりもまた横になりたかった。冷蔵庫を開け、あと少し残っていたペットボトルの水を一滴残らず飲み干した僕は部屋に戻った。未だに熱がこもる部屋の窓を開けると微かに鳴るジリジリという蝉の声と共に季節外れの花の匂いが風とともに流れて来た気がした。やはり今夜も寝付けないな、と察した僕は、カバンから携帯を取り出して、ぐるぐる巻きにされているイヤホンを解いた。イヤホンを耳に入れる。今夜はこれが聞きたい、というバンドがぱっと浮かび上がらなかった。僕はいつものプレイリストをシャッフルにして再生ボタンを押した。テンポの速い曲調にのるボーカルの高い声とベースの低音。このバンドの曲は最近ドラマの主題歌に抜擢されたとかなんとかで、よく街中で耳にする。正反対なふたつが合わさって、交差して、上手く重なり合う。ふたつがひとつになる。ベットに横になり、音楽を聞いていたら、気づいたときには朝日が部屋の壁を照らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

制服と鉄格子 @mugigi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ