制服と鉄格子

桜とともに別れを告げた。


高校に入ってもう1年が経った。新しいクラスの自分の席から見える学校の門に咲く大きなソメイヨシノを見るのももう2回目。春休み中にクリーニング屋に出していたまだ真新しいアイロンの匂いがする学ランを着ていると、初めて高校の門をくぐった時を思い出す。開放。自由。生きてきた中で最も晴れた気分だった日。それに反比例するように入学式の日の空は曇っていて、春風とは言い難い強い風が吹いていたけど、僕の心は高揚感で満たされていた。風に吹き飛ばされてゆく桜の花びらが、僕の喜びを祝福する紙吹雪のように見えた。やはりあの日は今までで、そしてこれからも一番好きな日だろう。一年前の思いに浸っていると、廊下の方から騒がしい声が聞こえてきた。かなり早く着いたはずなのに、やはりクラス替えが気になるのか、春休み明けの1日目はみんな普段より早く学校に来るようだ。すかさずカバンの中から携帯と読みかけの単行本を取り出して、耳にイヤホンを突っ込んだ。この全ての音がシャットダウンされる感覚がとても心地よい。僕の耳を密封してくれるこのイヤホンもかれこれ3年ほど愛用している。懐かしさに駆られた僕は、入学当時よく聞いていた好きなバンドの曲を流して、担任が来るまで小説を読むことにした。ガシャガシャと乱暴に、でも規則的に奏でられるエレクトリックギターと激しく鳴り響くドラムの音で耳が満たされる。そして指に触れる紙の無機質な感触。先週立ち寄った本屋で買ったこの本は、今年の夏に映画化されるとかで店内の最も目立つ場所に置いてあった。最近よくある「ラスト10ページであなたは裏切られる!」とかいう謳い文句がデカデカと書いてあるポップに目をひかれた僕はまんまとこの本を手に取ってしまった。読んでいくとなかなか面白い話で、親友に裏切られ、彼氏を盗られたとある女性が復讐のために親友を殺す依頼を殺し屋に頼むという物語だった。あらすじだけ読むと昼ドラのような泥沼な内容だが、主人公の清々しいほどの貪欲さに僕は好感を抱いていた。もうすぐクライマックスにたどり着くこの物語を、紙に印刷された文字を、僕の目が必死に追ってゆく。他人の音が聞こえない世界。他人の存在が見えない世界。それこそ僕のユートピアだ。


毎度の如く長い長い始業式が終わり、新しいクラスでのホームルームが終わった。担任が消えた教室はまた騒がしくなっていった。クラス替え直後で友達作りに励んでいるクラスメイト達。そして窓側の席にぽつんと座る僕。本当はもう下校して良いはずなのに誰一人と帰る気配がない。思い思いに周りのやつと会話を広げ、朝僕が来た時は綺麗に並んでいた机も椅子もぐちゃぐちゃに乱れていた。一人、騒がしい教室の中をかいくぐって教室の反対側にあるドアへとたどり着けるわけがなく、諦めた僕はこの騒ぎが治まるまでまた自分の世界へと戻ることにした。カバンから携帯と小説を出し、イヤホンを耳に入れようとした時、席の前に座っていたやつがいきなり振り向いて大きめの声で僕に話しかけてきた。

「おい、お前2組だったやつ?何中?」

ゆっくりと顔を上げて見てみると、やつはにこにことこっちを真っ直ぐに見つめていた。人を直ぐに判断するのは良くないことだ、とよく大人は言うが、こいつのように初めて話す相手に質問攻めはどうなのだろうか。やつは首元のボタンを2つほど開けたワイシャツの上に、学ランの代わりにパーカーを着ていた。窓から射し込む太陽の光に当たった髪は茶色い毛束が斑にあった。春休みの間ブリーチした髪を昨日の夜必死に黒染めしたせいだろう。典型的な問題児にしか見えないやつは、戸惑う僕を気にもとめず、椅子をさらに近づけて笑みを浮かべながら僕の返答を待っている。俗に言う人懐っこい笑み、なのだろうか。視線をあまり合わせないように目を逸らしながら東中だった、と答えると僕の顔をじーっと見つめてきた。その顔からは笑みは消えていた。そいつのつり上がった目尻とハッキリとした太い眉から圧を感じる。大きな猫に目をつけられたカエルのような気分だった。なかなか目をそらさないやつに困惑と苛立ちを覚えながらも目線を下げてイヤホンを耳に入れようとするとやつは今度は最初と打って変わって声を低めて言ってきた。

「なぁ、東中で飛び降りあったってまじ?」



一瞬にして目の前が暗くなった。話し声で騒がしかった教室に響く話し声が聞こえなくなって、まるで海に突き落とされたかのような感覚になった。深くてくらい海に溺れるかのように息ができなくなる。顔中の筋肉が固まり、思考回路も動かない。ただただやつの威圧的な目線を感じる。時が止まった気がした。自由がきかない身体に焦りが積もっていき、僕の中の何もかもが壊れてゆくような感覚から、脳内はぐちゃぐちゃになっていった。僕の体は長い間固まっていた。でも頭の中はつねにいろんな感情が蠢いていた。つぅ、と背中に嫌な冷や汗が垂れた感覚でやっと僕の表情筋がまた動き出した。目にするものに色が戻り、ついでにガヤガヤとうるさかった周りの話し声も戻ってきた。

「まじ。」

短く返事をして、何事もなかったようにイヤホンを耳に入れた。そしてまた、さっきも聞いていたバンドの曲を流して本に挟んでおいた栞を取った。しばらく僕の方をじっと見つめていたそいつも、会話を終わらせようとしていた僕の意図を読み取ったのか、いつの間にか隣の席のやつと会話を始めていた。まだ完全に感覚が戻っていないのか、単行本を持っている手は微かに震えていた。小説ももうあと残り50ページほど。クラスのやつらが帰る頃までには読み終わるだろうか。深い息をついてふと窓の外へと目をそらすと、遠くに咲くソメイヨシノが強い風に吹かれてパラパラと散っていった。春といえば別れの春。その言葉を耳にすると、人々は悲しさや孤独を連想するだろう。だから出会いの春という言葉をあとにつけ加えてその淋しさを誤魔化そうとする。なかったことにしようとする。みんな春に縋っている。僕もそのひとりだ。僕にとって別れの春は、過去を消し去ってくれるものだ。心地よい風と暖かい日差しが混ざりあって、全てを浄化してくれる。夏、秋、冬と起こったことを別れとともに無かったことにして、まっさらなページの始まりを春は告げてくれる。桜の花びらは僕にとってはお祝いの紙吹雪なのだ。春はいい。

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