第四章

「虚像の月」

咲 雄太郎



第四章 非日常の終わり



 俺はまた静かな水面に立っていた。風も音も無ければ、海なのか池なのか、はたまた湖なのかもわからない。そうだあの水面だ。浅くそして温度の感じられない、空気のような水。

周りは真っ暗だった。光さえ通さない漆黒の闇。もうどこにも月は浮かんではいなかった。当たり前だ。上に月が無いのだから水面に月が映るはずがない。これでいいのだ。

 そんなことをうっすらと思った。

 どこへ行くわけでもなく、限りなく続く水面をゆっくりと歩いた。まだあきらめきれないでいたのかもしれない。前後左右、自分の存在すらもわからない暗闇で、いつかまた俺をあの優しい光が導いてくれるのではないかと、どこかで信じたかった。

 もうここに月はない。

 そんな不確かな絶望を自覚するために、俺は絶え間なく歩き続けた。もうここに月はないのだ、そう悟った時俺は立ち止った。

どうやら俺は水面に浮かぶあの幻想的な月でさえも逃してしまったらしい。空にある到底届くことのない本物の月の代わりとして俺はあの虚像の月を選んだはずなのに、再び掌を開けて、その儚い姿を拝もうと見た時にはもうあの月は俺のものではなくなっていた。

虚像の月は所詮、虚像でしかなかった。

 本物が空で輝くからこそ、その美しい姿を映すことが出来る。始めから何も無いところに月は浮かばない。

 俺は葵が好きだった?

 彼女の孤高なる精神と儚弱な魂。それはジャックナイフのように鋭く、砂で作った城のように脆かった。まるで虚像の月そのものではないか。

俺はそれがすべてだと盲信して、遥かかなたの天空に光る月を見失ってしまったのだ。


 最悪の気分で朝を迎えた。ここ数日間ずっとそうだ。まるで絵具全色をパレットの上で混ぜて、できた濁色をキャンパスの上へと塗りたぐっていくような、そんな嫌悪が寝起きを襲うのだ。シーツは汗で濡れており、深めにかぶっていたタオルケットも朝になるとはだけている。翔は心配してくれているが俺は何も言わなかった。

 葵はあの事件以来学校に来なくなったが、翔をはじめ翠やあの五百蔵でさえ、誰も何も聞いてはこなかった。そんな気遣いに甘えるように俺も週末までの二日間は無断で学校を休んだ。一人になりたかった。一人で悩んで、一人で後悔して、一人でけりをつけたかった。

休んでいる間、俺は「ヤマアラシのジレンマ」と言うものを考えていた。

ヤマアラシのジレンマ。面白い言葉だ。小学生のとき何かの本に載っていたのを見たことがあった。確か心理学の本だったような気がする。どういうきっかけで心理学の本なんぞ読んだのかは覚えていないが、そのヤマアラシだけはとても印象に残っていた。いわゆるたとえ話の一種みたいなものだ。

 ヤマアラシと言うのは、チクチクとした針で全身を覆っているネズミやハムスターみたいなあの生き物のことだ。そのヤマアラシは寂しい生き物である。彼らは身を寄せ合って互いを温めることが出来ない。大切だからと言って近づけば近づくほど、その鋭い針で仲間だけでなく自分までも傷つけてしまうからだ。悲しきジレンマだと俺は思う。

相手を思うからこそ傷つけまいと近づかない。だけどそうすれば今度は思う相手がいなくなる。そうやってぬくもりを感じたり傷ついたりして、お互いに適度な距離を見つけるというのだという。まあそんな教科書に出てくるような教訓めいた話は後になってから知ったのだが、読んだ当時、弱冠一〇歳だった俺は、ただそのヤマアラシたちがかわいそうだと心底思ったものだった。ヤマアラシにそんな過酷な運命を背負わせることに悲しみを覚えていた。

 俺たちはきっと距離を見失ったヤマアラシだ。相手を傷つけることしか知らない無知な獣に等しい。相手を過度に信用しすぎて、それにそぐわなければ簡単に距離を置く。近づきすぎることと、はなれすぎることを永遠と繰り返し、結局距離は縮まらない。その差はあまりにも大きかった。夜空の月を眺め、それがどこにあるのか確認できても行きつくことはできない。到底届きはしない距離にあるその月は、まるで葵そのものだった。

 だがしかし、たとえそれがわかっていたとしても、俺は手を伸ばさなければいけなかった。背筋を伸ばし、うんと手のひらをいっぱいに開いて、意志を示さなければいけなかったのだ。それが真に大切にしてあげることではないのか。

相手との距離だけを気にして、踏み込まず、「うんよし」と満足しているのは大切にしているとはいえない。ただ諦めているにすぎない。

俺は逃げてしまった。中途半端に踏み込んで、手に負えないことだと判断するや否や、踵を返して逃げ出したのだ。


俺は枕のそばに置いてあった時計に目をやった。九時を少し回ったところだ。汗でべたつく服を脱いで適当に放り投げた。最悪な気分はまだ残っていたが、さっきよりは随分と楽になっていた。起きぬけに今日は何曜日だったかなと頭を捻って、三〇秒後ようやく今日が土曜であることを思い出す。学校を休んでいたせいかとても長い休日に思えた。

翔はもう起きているのだろうか。俺は布団の上で胡坐をかきながら咄嗟にそう思った。まだここは夢の中のような気がして、リアリティが感じられない。きっとここ最近寝過ぎていたせいだ。

大きな欠伸を吐いてから目をこすった。そうしてからあれと思う。なんだか目の周りに乾いているような違和感を覚えたのだ。泣いたのだとすぐに気付いた。

 夜な夜な俺は泣いていた。鼻をすすりながら込み上げる悲しみに耐えかねるように泣いているのではない。ただ涙が出た。布団に入り、横を向いているとなぜだか自然に涙がこぼれた。俺はそれを拭こうとは思わなかった。道に咲く花を意図して踏もうなどと考えないのと同じように、涙の通り道を湿らす雫を拭き取ろうとは思わなかった。

 俺は確認するように涙の軌跡を指でたどる。そしてぺろりと舐めてみた。しょっぱくて切ない味がした。

 のっそりと、それこそ冬眠から覚めたばかりの熊のように布団から体を起してリビングへと向かった。

「おう、おはよう。なんだ今日はやけに早いな」

 やはり翔は起きていた。すでに二時間も前から起きていたようなすっきりとした声をあげて俺を見ていた。翔の笑顔を見るのがすごく久しぶりに思えた。笑うとえくぼが出る。垢抜けきれていない少年の顔だ。

「あのさ、翔」

 俺はさえない頭を横に振った。今日起きた時、俺は翔に全てを話そうと決めていた。この三週間に起きたすべての事柄を。いつかは翔に話そうとは思っていた。それこそ最初は葵と正式に別れた時(正式に別れるという表現は少し変だが)に言ったほうがいいと思っていたが、それも今じゃ関係無い。もうどうでもよくなっていたというのが本心だ。

「光、散歩にでも行かねえか?」

 翔はそこでタイミング悪く言った。いやむしろそこしかないというタイミングを見計らってそう言ったのかもしれない。どちらにしろ、話の腰を折られた俺は結局受け身に回るしかなかった。

「散歩?どうして急に」

 翔は「あー」と言う間延びした声を上げる。

「あそこ、二丁目の交差点すぐ近く。最近あそこにシーディーショップが出来たの知ってるか?」

「それはまあ、知ってるけど。よく通るし」

 翔はまたも「あー」と言葉を濁す。

「あと、駅の反対側。長い坂道を登ったところ。結構高低差激しいから上から見るとすげー面白いんだぜ。きっとあそこで食う飯は最高だ」

 翔はまるでバスガイドのように観光スポットを挙げた。まあこれほど雑な紹介もどうかと思うが。

 俺は「だから何?」と首を傾げる。そんな露骨な態度が翔は気に食わなかったのか、口をへの字に曲げてやれやれと肩をすくめた。

「つーかよお、散歩するのに理由がいるのか?光は、飯を食う時何か目的を持って食ってるわけじゃねえだろ」

 俺は「確かに」と心の中で呟いた。それに呼応するかのように翔は「それと一緒だ」と頷いた。

「わかった、あと二〇分で用意するよ。ちょっと待ってて」

 俺は顔を洗って、歯を磨いた。水が冷たくて涙の軌跡はすぐに洗い流された。二〇分と言ったが実際にはその半分もかからなかった。靴を履き替えて俺と翔は外に出た。

「どこ行くんだっけ?」

 俺は翔にそう聞いた。

「まあ歩きながら考えるさ、そんなことは」

 翔は呑気にそんなことを言って静かに歩きだした。

 この辺を徒歩で散歩するのは初めてのことかもしれないと、俺はいつもと違うゆっくりと流れて行く景色を眺めながらそう思った。普段どこでも自転車を活用しているせいか周りの風景はいつも同じ速度で過ぎ去って、気に留めるようなこともなかった。だから家の近くに青と赤で散りばめられた紫陽花が、悠然と咲いていたことに初めて気がついた。

数歩歩けばもう世界は一変した。大げさな言い方だが、そんな気分を味わった。少し目線を下げるだけで、少し速度を変えるだけで、俺が普段見落としていた、俺の知らなかった世界がそこにはあった。見る花によって色合いが変わる。それこそ七変化の代名詞とも言われる紫陽花のようだった。

「たまにはこういうのもいいよな」

 翔はそんなことを口にする。俺は同意するように頷いた。

「俺さ、葵と別れたんだ」すんなりと言うことが出来た。翔は特に驚いた様子もなくただ曖昧に「ふうん」と答えた。

「ふられちまった。俺が葵を傷つけて、それが嫌で逃げ出してきた」

 空を見上げた。快晴と言うほど晴れてはいなかったが、太陽がまぶしくとても清々しい朝だと思った。

「傷つけて逃げた、のか…。お前らしくないな」

 翔はそう言いながらも前を向いていた。

「誰かの期待を裏切ってめそめそと帰ってくるっていうのは、なんだか嫌な気分だな」

「そんなの、俺はしょっちゅうだよ」と翔は自嘲気味に笑う。「両親に兄貴に五百蔵に…。まああいつは別にいいや」そう言ってまた笑った。

 そのとき俺は初めて翔に兄がいると言うことを知った。翔も葵と同じく家族については話したがらない。

「俺はどうすればよかったんだろうな」独り言のように呟いた。翔からの返事はなかった。

「アイツはなんて言うんだろうな」

 少し経ってから俺は再び口を開いた。さっきみたいに独り言のようだったが今度はちゃんと返事が返ってきた。

「アイツって?」

 翔は二匹の猫がじゃれ合っているのを目で追いながらそう聞いた。

「二枚目」

 俺は当然のようにその名を口にする。

「二枚目がなんか関係あるのか?」

 翔は横にいる俺の顔を見て、釈然としない顔を向けた。

「きっかけは二枚目の紹介してくれたバイトだったからさ」

「三日月葵と付き合うことになったきっかけ?」

 翔はまだすっきりしない顔を浮かべている。

「そんな感じ」

 翔はそれ以上仕事については聞いてこず、「ふうん」とまたもや気の抜けた相槌を打つと「で、それがどうした?」と言った。

「見舞いに行った時に二枚目は俺に言ったんだ」

 何を、とは聞いてこなかった。俺が続けるのをわかっているのだろう。

「葵を大切にしてやれって」

「出来たのか?」

 大切に、と言うことなのだろう。別段皮肉には聞こえない。ただの疑問形だ。俺は頭を横に振った。

「だから別れたんだよ」

 別れてしまった、の方が適切な言い方だと思ったが特に訂正はしなかった。

「きっとアイツは笑うだろうな。笑ってお前を慰める」

 そう言った翔を俺は少し意外な顔をして見た。俺もそう思ったからだ。

アイツは笑うに違いない。必要なら優しい言葉や、気のきいた台詞の一つや二つなんともなしに言ってくるだろう。そう言う奴だ。そして一瞬悲しい表情を見せるのだけど、不敵な笑みのまま、ようこそ僕達の世界へと俺を歓迎してくれるのだろう。俺はそう思った。

「翔はアイツのこと嫌いだよな」

 そんな言葉が口を吐いて出た。

「そこを曲がればシーディーショップだ」

 翔は俺の質問に答える代りに、そう言って誤魔化した。

 まだ午前中だからだろうか、店内はがらんとしていた。その証拠に、カウンターへと腰をかけていた店員は、俺たちを見ると、すかさず付いていた手を下ろし「いらっしゃい」と言った。

店内を見渡す。少しレトロな雰囲気に包まれていたが、かと言って廃れている風でもなく、どこか趣のある内装だった。こういうのは嫌いではなかった。隣を見ると翔もこの店が気に入ったらしいのか「悪くない」と呟いた。

俺と翔はらせん状に続く階段を上がった。どうやら二階はまるまるクラシックで占められているらしく、天井や壁にはクラシックコンサートの広告や、作曲家のポスターなどが隙間なく貼られていた。

翔の目はまるで楽しい玩具を見つけた子供のように輝いていた。そして語調も少し興奮気味に「俺、少し単独で聞き歩くから」と言うと早々と歩みを進め、陳列棚へと姿を消した。

近くにあったヘッドホンへと手を伸ばす。棚の一番上を見ると、教科書でおなじみなベートーベンのあの自画像が貼られていた。俺は再生ボタンを押して流れてくる音に耳を澄ます。

 まるで朝の目覚めのようなそんなテンポの速い曲調が、ボタンを押した瞬間、耳いっぱいに湧き上がった。それはどこか汽車の出発に似ていて、これから来る期待と緊張に胸を踊らす、そんな爽やかな感じがした。

ああいいなと俺は耳を傾けながらそう思った。

彼の曲に好感を覚えたのは少なからず葵の影響があったと今になって思う。つい前までは彼の豪快さが少々耳につくと遠ざけていたのだが、ピアノソナタや協奏曲を聴くたびに彼の苦悩や曲に対しての真摯な思いが伝わってくるようになったのだ。それは百の交響曲を生み出したハイドンや、音楽の神髄を極めたモーツアルトのような、才能を十分に発揮した天才たちとはまた違った、苦悩に満ちた人生を全て注ぎ込んで大成したタイプの天才を見たような気がしたからだ。

いわば作曲家以前に、彼はとても人間らしかった。

 俺は夢中になって曲を聴きあさった。だから翔が何度も俺のことを呼んでいるのに、全くもって気付かなかった。しゃがんで聴いている俺はポンポンと肩を叩かれて思わず体をこわばらせる。振り向いてそれがすぐに翔だということを確認すると、俺はヘッドホンを外した。

「さっきから呼んでるのに全然気付かないのな」

 翔は呆れているのか感心しているのか目を細めた。

「とてもいい曲だったから」

 俺は言い訳になりそうもないような言い訳を吐く。

「行こうぜ」

 そう言って振り向く翔の手に握られている袋を見て俺は「あ、翔それ」と指摘した。

「お前が聴き入っている間に買っちまった。帰ったら聴こうぜ」

 そう言って階段を下りる翔の後に続いた。

「そういえば、お前らデートとかしたのか?」

 散歩を再開したところで翔は唐突にそう聞いた。お前らと言うのが俺と葵のことだというのはすぐに分かった。

「それなりに」

 俺は特に嫌だという顔はしなかった。最初から翔には全て言おうと決めていたし―それで全て済まされるとは思わないが、聞いてほしかったのも事実だ。ただそこで話が途切れるのは不本意だったため「例えば音楽を聴いたり」と付け加えた。

「音楽?」

 翔は怪訝な顔でこちらを見た。

「そう、葵を家に呼んで曲をかけた」

「ノクターンで?」

 俺は小さく頷く。すると翔は「なんかまた小学生みたいだな」と言って笑った。

「幼稚だったか」

 翔の反応があまりにも露骨だったため、不安になった俺はそう尋ねる。

「うーん、幼稚っていうわけじゃないけど、純粋過ぎて笑える。なんか初恋の小説を読んでるみたいな。ほほえましいっていうの?」

 そこで翔はまた笑う。しかし今度の笑いは冷やかすようなそんな笑いではなかった。

「まあ、お前らしいからいいんじゃない。三日月なんか言ってたか?」

「なんかって?」

 俺は何のことかわからず首をひねる。

「だから、あれだよ。感想とか…」

 翔の言葉を濁すような言い方に、俺はああそう言うことかと合点がいった。

「同じ曲でも、上手い指揮者と演奏者の曲を選んでるって。持っていたシーディーの数よりもそこらへんのセンスを褒めていたぜ」

 葵の言っていた言葉を思い出し、そのまま翔に伝えた。翔は褒められたのが余程嬉しかったのか「へへ、まあな」と照れるように鼻の下を指でこすった。

「楽しかったか?」

 葵と一緒にクラシックを聴くというのが?

 俺はああと頷く。「幸福な時間だった」

 葵は言っていた。「幸福を得るにはそれと同じぐらい不幸を背負わなければならない。不幸は幸福に伴ってその比重を増していく」と。そしてその後に、悲しげな表情を浮かべると「皮肉よね」と言って嘆いていた。

「どうして幸福なんてものを神様は与えるんだろうな」

 俺はほとんど無意識のうちにそう呟いていた。まるで葵の言葉を追うようにそんな疑問を投げかけた。

「うん?」

 翔は突然何だと聞き返す。

「こんな結末になるなら幸せなんて始めからいらなかった」

 言ってはいけない言葉だというのは分かっている。だけど俺は抑えられなかった。

「お前が望んだ結末だろう」

 翔の口調は、さながら罪人に刑罰を与える審判のように重かった。

「違う」

 思いのほか大きな声を出してしまったことに自分でも驚く。それに気付き、ややトーンを下げて「こんなの俺の望んだ結末じゃない」と言った。

 傾斜の激しい坂道を登っていく。翔の言っていたとおり、ここから先は勾配が大きく、ちょうど山のように盛り上がっている。だからこそ、この上から見る景色は一見するほどの価値がある。翔はそう言っていた。

数分歩くともう汗がにじんでくる。運動不足がここで祟った。どうやら翔もそれは同じらしく「はあはあ」と息使いが荒い。部活をやっていない俺たちにとっては酷な肉体労働を強いられている気分だ。そんな情けない事を思った。

ようやく頂上と呼べるところまで上り詰めた時、心地よい風が吹き荒れた。汗でぬれた服が、一気に乾いていくと錯覚するほどの涼しい風だった。翔は近くに設置されたベンチに崩れるように座り込むと、首をうなだれたまま真っすぐに指をさした。俺もやや大きく呼吸をして息を整えると、翔の指す方向へと向かった。

 実に美しい景色だった。ガードレールに捕まって下を見下ろした時、俺は思わず息をのんだ。それはさながら、昔見た映画のワンシーンのようで、しばらくその景色にのめり込んだ。確か、その映画のラストは丘の上でサックスを吹くというものだったはずだ。ミニチュア模型のようなこの街を見下ろしながらそんなことを思い出していた。

「どうだ?案外悪くないだろ」

 ようやく回復した翔は自慢するようにそう聞いた。

「ああ、悪くない」

「大きいだろ?」

「ああ、大きいな」

 翔はこの景色を大きいと表現した。「高い」ではなく「大きい」と。その通りだと思う。この街は、俺や俺の悩みを優しく包み込んでしまうかのように大きい。それこそ、こんな矮小なものでいっぱいにすることなど不可能だと言わんばかりに。

「しかし、体力ねえな俺。煙草やめようかな」

 自虐的に笑う翔に釣られて、俺もついつい笑った。

「光は全然平気なんだな。やっぱ、運動やってた奴は違うな」

「よせよ、もう二年も前の話だ」

 そう言って再び前の景色を堪能する。

 陸上をやめたのは高校に入ってからだった。中学三年の夏まではしっかりとやりぬき、受験もそこそこに控えていたころ、最後の大会が終ると同時に引退した。

特に感慨はなかった。他の運動部の人たちも同じように夏に引退していたし、俺自身そういうものだと思っていた。だから寂しいとかそういった感情はなかった。

やがて受験シーズンも終わり、この学校に入学すると決まって、準備などに追われている頃、陸上部の顧問と話をする機会があった。先生は俺の肩に手を置くと「高校でも陸上続けるんだろう。がんばれよ」と励ましの言葉を投げかけた。俺が曖昧に「ええ、どうも」とだけ答えたのは、この時点で俺はもう陸上を続けないだろうと確信していたからだった。

「なんで陸上辞めちまったんだ?」

 木陰のベンチに深く腰を落ち着けている翔は聞いた。

「どうしてだろうな」

「真面目に聞いてんだけど」

 はっきりとしない応答に翔は満足しなかった。だが再び言及されて困るのは俺も同じだ。なぜなら今になっても陸上をやめるに至った明確な理由が、俺自身曖昧なままなのだ。

「始めた理由すら、もう覚えていないんだよなー」

 大きな雲が傘のように太陽を隠す。ゆっくりと流れる空を見上げた。

「で、辞めた理由は?」

 そんなことはどうでもいいとすぐに話を雑ぜ返す。翔は飽く迄、そこにこだわるらしい。

「無いな、特には。まあ強いて言うなら続ける理由が無かったから、かな?引退と同時にああ終わったんだって悟った」

「続けようとは?」

「思わなかった」

 俺はそこで横に首を振る。

「楽しくなかったのか?」

「いや。そんなことはなかった」

 またしてもそこで首を振る。

「走るのは、気持ちよかった。特に最後の一歩。あれを踏み切る瞬間がなんとも言えないほどに心地いいんだ。あれだけのために全力疾走出来るんだって。どんなに疲れていても厭わなかった」

「でも辞めた」

 翔は抑揚のない声を投げかける。

「そう。もしかしたら俺は満足してしまったのかもしれない。もう十分だって」

 そこで翔は少し間を開ける。

「全クリしたゲームをもう二度と遊ばないのと一緒か?」

 微妙な例えに俺は「うーん」と唸った後、「ちょっと違うかも」と言った。

「全クリするかどうかは別として、ゲームの一番おいしいところを何度も味わった気分」

「だから、もういいと?」

「ああ」と俺は頷く。

 ゲームを進めて行く途中で、極上のクライマックスに出会ってしまった感じと言えば納得出来るだろうか。その快感に味を占めてしまえば、もう他のことはどうでもよくなるぐらいに上質な食材。それを数え切れないほど味わって、俺は満足してしまった。

「親からはさんざん怒られたよ」

「陸上をやめたことに?」

 町を再び見下ろす。本当に大きい。

「それもあるな」


「部活も続けず、勉強に身を入れるわけでもない。だったら一体何だって、一人暮らしをさせてまで都会の学校に行かなきゃいかん」

 母が最期まで貫いた言い分だ。実にもっともだと思う。しかし俺が全く意志を曲げる気が無いと半年間にも及ぶ説得でようやく理解すると、母はそれ以上何も言ってはこなかった。また、父は父で昔からそういう事に口を挟まない。全て母に一任しているという宣言までもした。だから母と言う難攻不落の城を落してしまえば、後はもう楽だった。

母と父が、時々夜遅くにリビングで向かい合って話をしていたのを聞いたことがある。二人は「難しい年頃だ」とか、「きっと生きがいを見つけたんだ」などと言って、まるでお互いを慰めるように話しあっていた。

俺がそうまでして親元を離れたかった理由。

そんな大それたものであるはずがない。

 考えるより先に走り出す、と言うのはまさしくこう言うことなのだろうなと思ったりする。こうやって過去の自分を思い返してみると、行動は実に単純で不可解だった。だけどその理由は今になっても分からない。

「血迷っていたんだな、きっと」

 俺がそう呟くと、翔は呆れたように「そんなのばっかりだ」と皮肉った。


 しっかりとこの景色を目に焼き付けた俺たちは、来た道とは反対の道を下っていった。傾斜はなだらかで、比較的楽な迂回ルートだったせいか降りるのはわけなかった。しかもその道は自然に囲まれた散策コースとなっているため、行きでは見られなかった風景を眺めながら歩いたりした。既にお昼近くになっていて、太陽の日差しも強かったが、鬱蒼と生える木々たちがいい具合に日光を遮断してくれたおかげで穏やかに散歩することが出来た。

 それにしても、と俺は思う。

「よくこんな場所知ってたなあ。都会じゃもう、こんな景色消滅したかと思ってたよ」

 風が吹く度に、青く茂った葉っぱがカサカサと共鳴しながら揺れているのを見上げながら俺は言った。

「春になるとさあ」

 翔も同じように上を向く。

「桜がこう、一面にわあっと、狂ったように咲いてさ、すげえ綺麗なんだよな」

 俺は上を向いたまま頷いた。

 沢山の桜が咲き乱れ、空がピンク一色に変わる。人生で最も盛りの時期であると言わんばかりに、どの桜も盛大に咲き誇り、盛大に散っていく。熟年の夫婦や、若いカップルが手をつないで桜を見上げ、会社ぐるみで上司やその部下たちがこの景色を肴に杯を交わす。

 そんな楽しげな光景が容易に頭に浮かんでくる。

「翠とよく来るの?」

 俺は聞いた。

「まあな。つっても桜を見に来たのはまだ一回だけだけど。来るとなーんか無性にホッとするんだよな。ああ、桜は毎年咲くんだって、当たり前なんだけどしみじみと思う。たとえ人類が絶滅しても桜だけはずっと咲き続けるんだろうな、きっと」

「わかる気がする」

 大袈裟な物言いの翔に賛同したのは、俺も同じことを考えていたからだった。桜は毎年咲く。春になれば、決められた―まるでルールや法則のように、淀みなく、絶え間なく、その姿を惜し気なくさらすことだろう。たとえ人類が滅びようとも、俺と葵がわかれようとも。それこそ何事も無かったかのように知らんぷりを決め込んで。

「そう言えば初デートが確かここだったよ」

 ぽつんと言った翔に俺は「はん」と鼻を鳴らす。

「嫌味かよ。どうせ俺は小学生並ですけど」

「まあそう僻むなって。別にお前らしくていいじゃねえか」

 翔にデートが完全に音楽鑑賞だけだと思われているのが癪になって俺は慌てて「でも」と言った。

「デートらしいデートもしたんだぜ」

「ほう、それは?」

 あまり信じていなさそうな返答に俺はやや不貞腐れた。

「葵と遊園地に行った」

「まあ、それはデートだな」

 普通すぎてつまらないと言いたそうに翔の声はしぼんだ。

「葵が昔よく家族と行ってたところでさ、行きたかったんだとさ」

「どうして?」

 目の前の曲がりくねった道程は、どこか印象的で自然と引き込まれるようにずっと続いている。

「アイツは思い出巡りだって言ってた。昔通っていたピアノ教室に行ったのも同じ理由だと思う」

「思い出巡り、ねえ…」

 翔はぽつりとつぶやく。

「なんか死ぬ間際みたいだな、それ。死ぬ前に故郷の景色を目に焼き付けてから逝きたい、みたいな」

「あっ…」

 俺は翔のその言葉に「ドラマの見過ぎだ」などと悠長につっこむことができなかった。

 俺もあの時そう感じた。バスの中で葵が「思い出巡り」だと語った時、一瞬ではあるが俺も感じたのだ。だがその思いは、直後バスに予期せぬ悪魔たちが入り込んできてしまったせいで、今の今まですっかり忘れていたことだったのだが。

遺言でも最期の言葉でもない、ただの科白であるにも関わらずその言葉の断片からは、まるで葵がいなくなってしまう、そんなことを予感させる雰囲気というものが静かに漂っていた。

「葵の奴、このまま俺との関係が終ったら、死んじまうなんてこと、ないよな?」

 俺は力なくそう言おうとしたが、そこで首を横に振って「いや」と言った。

「そんなはずはない。だって葵は言ったんだ。メリーゴーランドに乗っている時、ここが一番幸せな思い出だって」

 がむしゃらにそうは言ってみるものの、頭はずっと冷静だった。

 俺の頭は「違う」と否定していた。

違う。葵はその時でさえも涙を浮かべていたじゃないか。そしてその涙を見た俺は、まるで悲しみを刻み込むためにここに来たみたいだと思っただろう。

そう言えばあのときもそうだ。葵が茜さんのいるピアノ教室へ行こうと言いだしたときだって、もしかしたらあれは悲しみを刻み込むためだったのかもしれない。

葵はもうすでにわかっていたのだ。親子の問題にもう誰も救済の手を差し伸べることなどできないということを。そんなことはお節介もいいところで、有難迷惑にもほどがある。それに葵自身が動かなければ解消できない問題でもあるんだ。外野がとやかく言える資格なんて始めからなかったんだ。

でも、だったら。

と、そこで俺は、自分の頭の中の螺子が緩やかに、だけど確実に外れていっているのを感じた。

だったらなんであの時、俺に――。

 そこで俺の思考は弾けた。

先ほどまでの冷静さは嘘のように灼熱の業火へと変わった。まるでそれは、初めて葵と聴いたラフマニノフの曲に感じた海底火山のイメージと同じだった。

 頭の中で繋がらなかったパズルの切れ端が、突如しかも、思いのほか近いところからその断片となりうるものが出てきたことを、俺はそれが「弾けた」のだと思った。

「翔、俺やっぱり葵のところへ行く。行かなきゃ駄目だ」

 謝らなくちゃいけないことだっていっぱいあるし、それ以外にも確認したいこともある。そして何より俺がどうしたら葵を大切にしてやれるかがやっと分かったんだ!

 その言葉を言ったかどうかは覚えていない。それほど瞬間の出来事だった。そしてなによりもその思いは無意識だった。ただ気付いた時には一八〇度向きをかえすでに走り出していた。

「ストオーップ!」

 そんな考えなしの俺に手綱をかけたのは、翔のその一言だった。高い声ではあるのだが強くそして大きかった。

 振り向いたとき翔の顔は怒ってなどいなかった。いつもと変わらない俺の大好きな幼い笑顔だ。

「まだ午前中だ。今から走って行ったってどう頑張ってもお昼前には着いちまう」

 そう言って翔は手に持っていた袋を掲げる。

「お昼を過ぎる前に女性の家へと赴く、そんな失礼なことをするなんて男として情けない事だとは思わないか、光?感心しないな。それならば、一回家に戻って一曲ベートーベンの曲でも聞いて、心を落ち着かせようではないか。丁度ここにシーディーもあることだし」

 そんな事よりも――

 と言う考えはどこかへ飛んでいた。大人しく翔の言うことを聞くべきだ。

 俺の全細胞がそう同意した。

 上がっていた脈拍や心肺を静かに、だがいつでも再沸できるギリギリのところまで下げる。荒れた呼吸は深呼吸を二回行うことでどうにか収まった。

「そうだな、流石にそれは失礼すぎる。それにさっき約束したもんな。家に帰ったら聴かせてくれるって」

 翔は本当に嬉しそうにニッと笑うと、方向転換して曲がりくねった道程を静かに歩き始めた。そんな翔を追いかけながら、ああこれは絵になるな、と俺は思った。


 曲を聞き終ったあとで俺の先ほどの決意は鈍るどころか、静かな確信に変わるように大きく揺らぎ難いものになっていた。聴いたのはベートーベンピアノソナタ『月光』。実にその曲は人間的ですばらしかった。演奏者はフランスの貴公子と呼ばれた男で、繊細かつ流動的な曲調は、ベートーベンの内なる響きをはるかに凌駕するかのように、ピアニストとしての誇りと、心の中で暴れる野蛮な思いが見事に調和していた。

 俺は知らず知らずのうちに涙が出ていた。音楽でここまで感動したのは初めてのことかもしれない。

「なあ光、『月光』が作られた経緯を知ってるか?」

 翔がそう言ったのは、曲が終わって、とめどなくあふれる涙を俺がごしごしと拭っている時だった。

「じらねえよ、ぞんだの」

 俺は既に鼻声になっており、ぐしょぐしょになった鼻水をすする。

「この曲実はな、ベートーベンが愛しの恋人に送った曲だったんだ。で、ベートーベンからラブレターを送られたその令嬢は、実はベートーベンと年が恐ろしく離れていてな。幾つだったと思う?一六歳だぞ、一六。その時ベートーベン三〇歳な。まさかの一四歳差。今じゃロリコンだ何だと騒がれるのにそんな娘っ子に恋しちまったんだよ、奴は。でもベートーベン自体は年の差とかあんまり気にしなかったみたいだな。むしろその令嬢、あ、令嬢っていうくらいだからすごい身分が高かったみたいなんだよ。そういった『位』の違いに苦悩していたらしいんだな。結局上手くいかなかったみたいだけど……。その令嬢、一説によれば『不滅の恋人』なんて呼ばれているらしいんだ」

「月、関係無いじゃん」

 翔が勢いよく話していてくれたおかげでようやく通常の声に戻り始めた俺はそう言った。

「そうなんだよ」

 翔は何がおかしいのかげらげらと笑っている。

「なんで『月光』っていうタイトルが定着したのかって言うとな、どこかのえらい評論家さんが『ルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう』ってコメントしたせいらしいんだ。ベートーベンもとんだ迷惑だよな。恋愛で捧げた歌がまさかこんな題名をつけられちゃうなんてよ」

 俺は、翔が必死に元気づけてくれるのだということがわかった。それは最初からわかっていたし、その屈託のない―どこか翠と似た笑顔を見せられる度にそう感じていた。だが俺はあえてそれについては触れなかった。

「まあ俺はそのタイトル嫌いじゃないぜ。すごく合ってる気がするし」

 俺はそう言って少しの沈黙の後、決心するように口を開いた。

「翔、行ってくるよ」

 最後にそんな言葉を言い残す。

「なあ光」

 翔はいつものペースで俺を呼びとめた。

「どうして俺が翠と付き合っているか知ってるか?」

 唐突にそんなことを言う翔に普段ならば訳がわからないと軽くあしらう俺だが、このときだけは違った。

「いや分からない」

 俺は素直にそう聞き返す。

「アイツ優しいんだ」

「優しい?」

 たそがれるようにそう呟く翔に俺は先を促す。

「そう、アイツの馬鹿みたいにお節介で、目の前に傷ついている人がいたら全力で助けようとするっていうオープンな優しさ。その優しさが好きで付き合っているんだと思う。それは光の気遣う優しさとは違うけどさ、俺にはそのどっちの優しさも必要なんだな」

 その言葉には嫌味や自分勝手な思いなどはこもってはおらず、だから俺も別に何とも思わなかった。

「で?どうして今それを俺に?」

「まあでもそれは、最近になってようやく見つけた翠の最高の長所。きっかけはもっと別なもんだった」

「それってなに?」

「なんてことはないさ」

「もったいぶらないで教えてくれよ」

「手だよ」

 俺は目をぱちくりさせる。

「手?」

「そう、手だ。アイツの手はすごく綺麗なんだ。バレーやってるとさ、爪割れたり、突き指したり、すりむいたりしたりして、デリケートな手にとっちゃ極寒地獄もいいとこだろ。だけどアイツの手はそんな極寒にいるにもかかわらず、それこそ温室育ちの手と比べても見劣りするどころか、むしろ素敵なんだ」

「それがどうした」

「そんなもんだぜ」

 人が人を好きになる理由なんざ。

その言葉を翔は口に出しはしなかったが、奴の目はそう語っていた。もうこれは直感と言うしかなく、恐らくそう伝えたかったのだろうと思う反面、絶対にそう言ったのだという確信もあった。

俺は翔が手を振るのを尻目に、少し笑うとそのまま家を後にした。


葵の家へと着いて俺は迷うことなく、呼び鈴を押した。出てくれないかもしれないという懸念はあったが三コール目を過ぎたところで葵は出た。「はい、どちら様ですか?」

「俺だ。葵、俺だ!」

 俺は葵の声を聞いて安堵した。葵の声がした直前まで俺は背筋の凍りつくような不安をぬぐい切れなかったのだ。だが葵がまだいるということがわかり、必死になって叫んだ。

「ヒカル君……。来ないでとは言わなかったけど、もう二度と来ないと思っていたわ」

 葵は特に含んだ様子もなくそう言った。

「ああ、葵にしたこと、すげー後悔してる。謝っても許されることだとは思ってない。むしろ許さないでくれ。許しちゃだめだ。自分で言うのもあれだけど。とにかく上に挙げてくれないか?謝罪だけじゃないんだ。それだけだったらこんなに必死になったりしない。頼む少しでいい。少しでいいから俺の話を聞いてくれ」

 まくしたてるように俺はそう言った。最後の方はほぼ、悲痛の叫びに聞こえたに違いない。

 しばらくの無言の後葵は観念したのか、ウィーンと言う音がして、鍵が空いた。

 葵の部屋へと入ると俺は真っ先に頭を下げた。

「本当にゴメン。自分が一体どれほど愚かだったか痛感したよ。葵の気持ちを裏切って勝手に終わらせて。しかもこんなふうにのこのこと帰ってきてこうして頭を下げてる。実にプライドもくそ無い男だよ」

 俺は、ほぼ直角に腰を折り、丁寧にお辞儀した。

「でも、あなたは戻ってきた。そのプライドとやらを手放してまでここに来た」

 葵は静かに言う。ただ、頭を下げているせいで葵の顔が見えないため、無表情かどうかは分からなかった。

「ああそうだ。こんな俺でもやっぱり諦めつかなくて。だって俺は――」

 好きだから。その言葉を必死でかみ殺す。

ここで「好き」という言葉を遣っていいのかはとても悩んだ。軽薄で頭の悪い男だと思われるのは仕方がないが、ただその言葉だけは偽りだと思われたくはなかった。

しばらくの静寂が俺と葵を包む。俺はそれがオーケーのサインだと気付き、床に膝を付け、葵を見上げると言った。

「確認したいことが二つある。いいか」

 一つ間を置き葵は言った。

「ええ、いいわ」

 俺はすうっと息を吸う。

「葵はこれが―俺との関係が終ったら、どうするつもりだった?もしかしたら死ぬつもりだったんじゃないのか?」

 俺は飽く迄も葵の顔を直視する。もう目は逸らさない。

「ええ、そうしようと思っていたわ」

 葵は俺の指摘に驚くわけでもなく、ただ強くそう言った。

「わかった。二つ目だ。葵は音楽が好きか?例えばピアノでベートーベンを弾いている時、いろんな作曲家の曲に触れている時、そんなときに喜びを感じるか?」

 俺は内心「はい」と行ってくれと切実に願っていた。またしばらくの間を開け、葵は言った。

「ええ好きよ、大好き。音楽の全てが大好き。両親とならんで大切にしてきたもう一つの宝物だもの」

 葵の目からは涙がこぼれていた。今の今までつけていた頑強な鉄仮面を剥ぎ取ってしまったかのようにその顔は表情で溢れていた。だが俺はその涙を拭こうとはせず、葵の手を取った。

「え?」

 驚きを隠せない葵に俺は言った。

「葵の家へ行こう。両親のいる家だ」

 俺は葵の手を強く握った。


 俺は自転車を必死に漕ぎ、線路沿いを猛スピードで駆けて行く。「ガタンゴトン」という機械の揺れるようなお馴染の音を引きつれて、電車が俺のすぐわきを通過して行った。それこそ俺の速さなど嘲笑うかのようにぐんぐんと追い抜いて行った。俺は離れて行く電車を見送りながら、ああ今ごろ葵はあの電車に乗っているのだろうか、と思いを巡らせていた。

 俺が発作的に葵の手を取ったのは、確固たる意志がそこにあったからだった。

 葵に両親と会ってもらいたい。

 そんな感情が爆発したのは、翔の言葉が原因だった。

 急な坂道が俺の前に現れ、車輪を漕ぐ脚が重くなる。だがそういう逆境に至っても、俺の脚はもっと早く、もっと早く、と悲鳴に似た唸り声を上げ、その回転速度を上げるのだ。

 数分前、俺と葵はある駅の前で待ち合わせをすることを約束した。その駅とは、茜さんのピアノ教室がある最寄り駅の更に一個隣の駅で、そこに葵の両親の家はある。一緒に行けなかったのはこちらが自転車だということもあるのだが、それ以前になりより葵は電車では一人で行く、ときっぱり断ったからだった。俺はその時頷いた。だからこうしてその葵がいるであろう、いや確実にいるに違いないその駅を目指しているのだ。

 俺は葵を信じるしかない。信じて自転車のギアが引き千切れるほど脚を漕ぐしかないのだ。だが葵は来る。あの時葵の目は決意を固めていた。

 汗が噴水のように噴き出し、背中を滝のように勢いよく流れて行く。息も上がるし、なによりももとふくらはぎが岩のように重かった。はち切れるほど空気を入れていくタイヤのように俺の脚全体がパンパンに張っていて、とても痛い。

 俺は葵を両親に会わせる。

ただそれだけを念頭に置き、それが使命だと言わんばかりに自転車を漕ぎつづけた。

 どうしてそこまで躍起になるのか。

 過去には干渉はしない。最初にそう言い、葵と付き合い始めたこの俺が。

 相手のことを思うからこそ、余計なお節介はしない。そう思って翠と対立していたこの俺が。

 一体どうしてこんなに汗をかいてまで駆け続けなければいけないのか。

 俺は首を横に振った。黙れ。

 初めて大切な人の力になりたいと思った。

初めて大切な人のために動きたいと思った。

 遊園地から戻り、葵と別れる直前に感じたこの思いは、まだ消えてはいなかった。そうだ今がこの時だ。

 俺は葵を救ってやることはできない。例えば、葵とその両親の仲を取り持ち、和解させるような救済は絶対にできない。断言できる。

戦争の引き金を一人の人間によって引くことが出来ても、その終止符を一人で打つことが出来ないのと一緒だ。なぜならば戦争では人が死ぬ。その犠牲を無視して一人で終わらせたと言い張ることなど誰もできないのだから。

 葵も当然拒絶した。

「ふざけないで。私と両親を和解させようと思っているなら無駄よ。というかはっきり言って迷惑。だってヒカル君は赤の他人なのだから」

 葵の口調はやけに冷たくそしてフラットだった。

「ああわかってる。それを救済だと思い込むほど傲慢じゃない」

 俺は頭を横に振った。

 葵は、だったらなんで、と言って握られた方の手を見下ろした。

「気付いたんだ。やっと気付いたんだ」

 俺は自分の動悸が激しくなっているのを感じた。

「真の救いなんてないことに?」

 葵はシニカルに微笑した。

 俺は頭を横に振る。

「気付いたんだ。やっと」

 もう一度俺は繰り返す。

「神はいないんだって?」

 葵の笑顔はもう消えていた。俺の頭の中で、気付いたんだ、気付いたんだ、という言葉が反芻している。実際声にも出して、気付いたんだ、と繰り返していた。

「俺はお前が必要だ」

 葵の目を見てそう言った。その言葉を聞いた直後、葵の目から曇っていた何かが取れたのを見た。そして俺は目を閉じた。もうどんな結末でも耐えられるような気がした。次に目を開けた時が葵の答えだ。そう、最初で最後の答え。俺はそう思って目を閉じた。

数分後、まるで永遠とも思われたその時間は、葵が俺の手を強く、そして堅く握りしめ返したことによって終焉を迎えた。目を開ける。それと同時に葵はこう言った。

「私もあなたが、ヒカル君が必要」

 それだけで十分だった。葵の目いっぱいに涙が溢れ、次から次へと頬を伝って流れ出した。その泣き顔はとても美しかった。


もし君の愛が愛として相手の愛を生みださなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。


 俺は葵を必要として、葵に必要とされようとした。

 葵は俺を必要として、俺に必要とされようとした。

 ならば俺たちの愛は色を帯びて、力を取り戻し、幸福である。俺はそう確信した。

 誰かを大切にすること、それは相手の愛を知り、自分の愛を知ってもらうことにあると俺は思う。相手の針を恐れてなお、その針に傷つきながら相手のぬくもりを感じなければいけないのだ。

 俺は履き違えていた。

 大切にすることとは、誰かを死地から救い出し、その全霊をもって慈悲を与えるという事などでは決してない。人間は神でもなんでもない。この世に真の救いなどありはしない。

 ただ俺は必要としてあげればよかったのだ。葵が必要としている時に立ち上がるための支えとなってあげればよかったのだ。それだけでよかった。

葵は初め俺に「聞かないのね」と言った。その言葉は裏を返せば葵が俺を必要としている何よりの証拠だった。だけど俺は拒絶した。

翔の言葉で俺はやっと間違いに気がついた。

なんてことはない。答えはスタート地点にあったのだ。


 俺は十分後、疲労困憊の状態で駅前へとたどり着いた。疲れてはいるし、喉も乾き切ってはいたが、発熱する体とは裏腹に、心の中はとても澄みきっており、潤っていた。

 葵が改札を出たすぐそこに立っていた。その目は先ほどと変わらない決意に満ちた目だった。葵は静かにこちらへと歩みより言った。「行きましょう」

 俺は自転車をベンチの近くへと立てかけ、鍵をかけると頷いた。「ああ行こう」

 葵の家は駅からかなり離れたところにあった。俺と葵は着くまでの間ずっとお互いの手を握って歩いていた。それはまるで、もう二度と見失わないと誓うほど固い固い、結びだった。もっと早くこうしてあげればよかったんだ。俺は繋がれた手を見下ろしながらそんなことを思う。もっと早くお互いのことを必要としていれば、例えば漆黒の夜空にとっての月であるように、例えばうららかな春にとっての桜のように、ありのまま、自然のままでいられる絆に気付くのにこうも時間はかからなかったはずだ。

 ――だけど

 そこで俺は首を振る。

 後悔するのは全てが終ったあと。葵の覚悟を見届けたその後だ。

「ここよ」

 葵の声は少し震えているようにも聞こえたが、目だけはしかと前を見据えており、握りしめる手も一層強くなった。

 目の前には明らかに裕福だとわかるほどの高級住宅が建っており、まるで立ちはだかる壁の如く大きかった。

 しばらく家の前で立ちつくす葵だったが、やがて決心がついたのか、ゆっくりとインターホンに手を伸ばす。

 その時だった。

「あー、葵お姉ちゃんだあ」

 幼い声が、今来た道とは反対の方向から聞こえ、俺も葵もそのまま横を見た。そこには三人の家族が立っていた。買い物帰りと思われるその家族は、小さな娘を間に挟むようにしてその両脇に父親と母親が仲良く横一列に手をつないでいた。父親の手にしているビニール袋が、風ですれるようにかさかさという音を立てる。俺は目の前に立つこの家族が葵の家族だということにすぐにわかった。

「葵」

 そう呼んだのは母親の方でそれに呼応するように二秒後、葵も「お母さん」と呟いた。

 しばらくの沈黙が流れたが、母親の方があっ、と気付いたように声にならないような声を上げて、葵の目線を外すように娘の方を見た。

「胡桃、さあ中に入りましょう。お父さんも貸して荷物。中に置いて来るから」

 そう言って半ば強引に父親からビニール袋を取り上げると、娘の背中をせっつく。自分の名前を呼ばれた娘の方は「えーなんで?せっかくお姉ちゃんが戻ってきたのにー」と不平を漏らして頬を膨らましている。しかし母親は「まだ、学校の宿題が終ってないでしょうが」と話を反らすように言うとそのまま中へと入って行った。

「久しぶりだな」

 母親と娘が中へと入って行くのを確認した直後、父親が口を開いた。最初こそ驚いたような表情を浮かべていたが、真顔のまま低音の声でそう言った。

「ええ、二年ぶりぐらいかしらねお父さん」

 眉間に寄るしわはやや深く、体格もそこそこで、どこか威厳のあるその男はコクリと頷く。堂々たる風格がその姿から表れているのだが、かと言って高圧的な感じもなく、恐らく穏やかな人ではあるのだろうという印象を持った。しかし一般的な「お父さん」と言われればそう言うわけでもなく、生活の環境に伴う余裕と誇りがそこにはあった。

「もうそんなに経つのだな」

 どこか遠くを眺めるような口調は少しさびしそうだった。

「二年か。見違えたよ。大人びたというのかな、うん少し綺麗になった」

 もう一度二年と言う歳月を味わうかのようにそんな感想を漏らすと、次に横にいる俺へと視線を移し、「そちらの方は?」と聞いた。

「今、お付き合いしている方よ」

 葵は静かに言う。

 紹介された俺は間髪いれずに「こんにちは」と言った。流石に「お父さん」と呼ぶわけにもいかず、「一ノ瀬光と言います」とこっちの自己紹介だけ済ましお辞儀をした。

「そうか」

 平坦な調子で父親は受け答える。何も聞いてこないのが逆に不気味で俺は目線を下に向けた。

「ところで、どうして今日は?」

 困ったようにと言うか、聞き辛いように、だけど聞かなければ話は進まないと思い、そう言った父親の言葉に、葵は少し真面目な顔をする。

「用が無ければ自分の家へ戻ってきてはいけないのかしら?」

「あ、いや、それは…」

 ばつが悪そうな顔を向けた父親に葵は小さく笑って「冗談よ」と言った。

 参ったな、と頭をかく父親の後ろでドアが開いた。中からはさっきの母親が俯いたように出てきて、いそいそと父親の横へとついた。

 それを見計らって葵は口を開く。

「今日は、お願いがあってここに来たの」

「お願い?」

 そう言った母親の方は縮こまった体を更に小さくした。

「それは、横にいる彼と何か関係のある話なのかな?」

 その母親とは正反対に、飽く迄穏やかな真顔でいる父親は握られた俺たちの手を見ながらそう聞いた。俺は下に向けていた視線を前へと戻す。

「関係があるかどうかは、今はまだわからない。だけど私がここに来るのに必要だったから一緒に来てもらったの。それだけよ」

 葵の答えに父親は「そうか」と言っただけだった。

 二人とも葵が話し始めるのを静かに待っている。葵も催促されないのを知っていて、なかなか沈黙を破ろうとはしない。

 一台の自転車がわきを通り過ぎていった。

「私、フランスへ留学をしたい」

 葵の突然の告白に母親は目を丸くした。

「留学?」

「ええ」葵は頷く。

「もちろんピアノよ。辞めておいてこんな事言える義理じゃないけど、私はピアノが、音楽が大好きだから。たくさん音楽に触れてたくさん勉強したい」

「だから、留学?」

 怪訝な顔をする母親の返事に葵は正面から頷いた。

「でも、どうして今さらになっ……」

 まだ納得できていない母親の質問を制したのは横にいた父親だった。左手で母親の口元を押さえている。そしておもむろに口を開く。

「それは、葵が自分で決めたことなのかい?」

 まるで海のような優しい声だった。

「ええ。私が考えて、私が導きだした、私のための答えよ」

 葵のその言葉を聞いた時、俺の頭の中には「脱却」の一言が思い描かれていた。「自立」でも「独立」でもなく「脱却」。親のために生きてきた過去の自分への脱却。あるいは壊れかけた虚ろな世界からの脱却。いずれにしても葵のその言葉には重い決意が込められていたように俺は感じた。

必死になってもがき続け、やっと手にした答え。その答えは過去を清算し救済するものではなく、未来に一歩踏み出すための小さな願いだった。それ故にその願いは流れ星のように切実で、どんな価値のある宝石よりも重かった。

きっと父親も同じ結論に至ったに違いない。だからああして母親の言葉を遮ったのだ。

「そうか」

 父親はもう一度そう言った。

「だから、今日はその許しをもらいに来たの」

 葵は少し躊躇うようにそう言った。

「許しも何もそれは葵が決めたことなのだろう。だったら私たちの言うことは何もないよ」

 釈然としていないのは母親の方だけで、その母親も父親がこうもはっきりとそう言ったので、俯いたままもう何も言ってはこなかった。

「フランスか、あそこはいいところだ。食べ物もおいしいし、景色もきれいだ。そしてなにより貴婦人が多い。私も若い頃はよく行ったし、住んでいた」

 父親は先ほどの真剣な表情を一遍に崩し、なんともフランクで穏やかな顔へと戻してそんな事を言った。そして二回うんうん、と頷く。

「わかった手続きは済ましておこう。向こうには知人も多いから、手紙で事情を伝えれば喜んで協力してくれるはずだ。住むところだって昔私が使っていたアパートを使えばいい。そこの大家とも仲がいいからきっとよく世話をしてくれる。心配することはない」

 そんな父親の言葉に葵はただありがとう、とそう呟いた。その目に光る涙に俺はわざと気付いていない振りをした。

 父親の「また詳しくは電話をする」の言葉を最後になんとなく別れの雰囲気が立ちこめた。葵も「はい」と返事をすると来た道へと体を向ける。しかしそこであっ、と思い出したように声を出すと、再び振り返り「お父さん」と名前を呼んだ。

「この前、あの遊園地に行ったわ」

「どうだった?」

 唐突な葵の言葉に特に驚くような様子もなくそう返した。

「変わっているところもあったけど、変わってないところもあったわ」

 その言葉を噛みしめるように十分な間を開けると、父親は静かに言った。「そうか」


「不思議な人だったでしょ?」

 葵がそう聞いてきたのは駅までの帰り道の途中だった。

「父親のこと?まあ確かに言われてみれば。別に悪い印象は持たなかったけど」

「冷徹な人だとは?それこそ機械のように」

「最初は少し。でもそうじゃないってわかった」

 葵のことをちゃんと考えている。そう思ったが、口にはしない。

「あの人はあれで私に対する負い目を感じているのかもしれない。でもそれを必死で取り繕うと、目に映らないようにしようとするから、余計にこじれるのよね」

 葵はそう言ったきり黙る。

「留学のこと、いつから考えていたんだ?」

「結構前から。ピアノを辞めるまでは、ずっと漠然としたイメージはあったの」

「イメージ、ねえ」

 西に大分傾いた太陽を眺めながら、ぽつりと呟いた。

「ピアニストはみんな留学するんだろうな、っていう勝手なイメージ。だから私も同じように留学しなくちゃいけないんだって意味不明に盲信してた」

 意味不明に――。葵のその言葉がどこか面白くて、笑った。葵もそれに釣られたようにふっ、と笑う。そんな笑顔を見て、俺はあっ、と気がつく。「葵」と「笑」は少し似ている。それを葵に言おうとしたが、くだらなくて止めた。

「でも、なんで……。いや今のナシ」

 葵が留学を決めた理由を聞こうとしたが思わず口をつぐんだ。聞いてもいい事だとは思ったが、聞かなくてもいいことだと思った。

「決別、かしら」

 数秒後葵は小さくそう言って、どこか遠くを眺める。

まるで、俺が聞かんとすることを先読みしたかのような返答で、俺は驚いて目を丸くした。そして同時に、その言葉がぴったりと収まっているということにどこか安らぎを覚えた。「決別」、それは「脱却」という客観的に作り上げられたものとは違って、いやそれをはるかに凌ぐほど、ずっとずっと、重い言葉だった。

「今どんな気分だ?」

 葵の横顔に視線を移した。

「背負っていた荷物を一旦全部下ろした気分。とても軽いわ」

 その顔は解放感に満ちていた。

「私も、一つヒカル君に聞きたいことがあるのだけど」

「何?」

「どうして最初にあの二つを確認したのかしら?」

「…」

 葵の部屋へと入った時、二つの事柄を俺は聞いた。それをわかったうえで、なお閉口した。考え直す時間がほしかった。

「例えば、あの確認をする以前に、ヒカル君がただ一言必要だ、となりふり構わず真剣にそう言ってくれさえすればそれでよかったのではないかしら」

 葵は慎重に言葉を選ぶようだった。聞くのは少し反則のような、だけどどうしても聞いておきたい。今だから、こういう結果になったのだから、聞いてもいいはずだ。そんな後ろめたい不安と、微かな希望と、抑えられない期待とが、火の通っていない鍋の中で、混ざりきらないままかき回されているような、そんな思いがその言葉の後ろに隠れているような気がした。きっとそれは葵が俺を慮ったからこそ、そう聞こえたのだと思う。俺はしばらくの間をおいて、やがて観念したように渋々口を開いた。

「そうだな。本当は素直にそう言えるのが一番だ。わだかまり、いや計らいと言っても言い訳できない、そんな思いを抱えたまま言うべき言葉ではなかったのかもしれない」

「計らい?どういうこと?」

 葵の返答を無視し、俺はでも、と続けた。

「でも、それだけだと弱いと思ったんだ」

 俺がそう言うと、またしても葵はその真偽を問うように「弱い?」と聞き返してきた。

「弱い、と思ったのはあの時伝えた意志とか思いじゃなくて…。うーん、なんというか、もっと先のこと。例えば葵が留学することとか、俺と別れた後のこととか」

 最後の方はわざと声を潜め聞こえ辛いように言った。

「そういった、堅い言い方をすると将来性がまだ何も見えてなくて、だからそれが弱いと思った」

「弱いとどうして確認するの?」

「言い訳になるから本当は言いたくないんだけど」

そこまで言って、いや、と首を振る。「これも言い訳か」

「言葉でお互いの絆を確かめ合っただけだと弱く脆いんだ。俺と葵があと五日かそこらで別れなくてはいけなくて、例えば別れた後で繋がっていたはずの思いが、どこかで破綻してしまったら、葵はまた全てを失ってしまうんじゃないかって思ったんだ。こんなこと本当に聞きたくないんだけど、俺という拠り所を失ったら葵は今度こそ負けてしまうんじゃないか」

 聞いたにもかかわらず、葵の答えを待たずに俺は続ける。今のは疑問ではなく反語だったのかもしれない。

「そう思ったら急に怖くなって。俺が言った言葉や、伝えたはずの思いまで全部嘘になってしまいそうで。でも別れることが初めから決まっている俺は、人生のたった千分の一しか君と関われない運命の俺は、一体何を残してあげればいいのだろう。そう思った時、好きとか大切にしたいとかいう純粋な思いとは別に、どこかひどく冷めている部分で葵にしてあげる最大のことを、それこそゲームで最も利益を上げるにはどうしたらいいのかという具合にずる賢く考えている自分がいたんだ」

 一方的にまくしたてるように言った俺は、葵に上手く伝えられているかとても怖くなった。これだから言葉にするのは嫌だ。心の中で言葉に対するいら立ちを漏らすものの、自分が少し疲れているという事に気がついた。

「つまり生きがいを見つけることによって初めて私に生きる道を啓示しようとしたのね?」

 葵の言葉に俺は黙ったままだった。たとえそんな考えが百のうちの一にあたる部分だとしても否定しきれないのは確かだったからだ。そんな無粋な思考なしに生きられない人間はとても悲しい生き物だと俺は思った。

「ヒカル君、あなたはもしかしてここまでの状況をすでに想定したというの?」

 不安そうに聞く葵に対し、俺はすぐに否定した。「まさかそんなわけないだろう」

「そうよね。それじゃあまるで神様の仕業だわ」

「いや、どちらかと言うと悪魔の悪戯かも」

「え?」と聞き返す葵に、俺は、いやなんでもない、と遮った。

 呼吸困難のような窮屈な間が空いた後、俺は口を開いた。

「ただ、やっぱりこのことは葵に知ってほしくはなかったな。葵も今のことを聞いて、きっと幻滅しただろう?」

 そこで葵はきっぱりと口を挟む。

「幻滅はしないわ。だけど今のことは許せない。たとえ私のことを考えた上でのことだとしても、それは私に対する侮蔑や裏切りには違いないのだから。でもヒカル君はそれでも私に本当のことを話してくれた。だから一言謝ってくれれば、それで許す」

 葵の力強いその言葉に、俺は救われたような気がした。

「ごめんなさい」

 素直に謝る、それがどれだけ清々しいか初めて知った。

「いいよ、許す。今度はすぐに謝ってくれたから」

 痛い冗談を言われ、俺は頭をかいた。今日は謝ってばかりだ。そんなことを考えたら自然に笑みがこぼれた。

「あれでよかったのかな」

 笑ってからなんだか急に切なくなって、今までのことを思い返すようにそう言った。葵は俺を見る。また怒られるかな、と思ったが葵は微笑していた。

「さっきも言ったけど、少なくとも私は後悔していないわ」

葵は少し俯くと「自分で決めたことだから」とぼそっと言う。

「正しかったのかな」

 葵は今度顔を上げ、そのまま空を見上げた。葵の目は上を見つめたまま、ゆっくりと流れる遥かかなたの雲を目で追っている。そうね、と息を吐く調子で呟いた。

「それはまだわからないわ。何が正義か、何が悪か、そんなこと私たちに決められることだとは思わない。いいえ、誰一人として決めることなんてできやしないわ」

 そこで俺もうん、と頷く。

「でも、いつかきっとそんな想いとも決着をつけられると思うの。ちゃんとしたけじめじゃなくても、うまい具合に折り合いをつけて納得できる日が来るはずよ」

 怒りと喜びが同居してしまうことだってあるのだから。葵は最後にそんな不思議なことを付け加えた。怒りと喜びの同居。だけどその言葉の響きはとてもよかった。

「でも」

 俺が煮え切らない気持ちを口に出すと、葵はそれを遮った。

「結果それがどう転んでも私はそれで構わない。だからヒカル君がそのことに対して気に掛ける必要はないの。それはお節介とかそういう意味じゃなくて、もう大丈夫ってこと」

「私はもう迷わない」

 結局その一言がピリオドとなった。この話はもう終わり、そう聞こえて俺は口をつぐんだ。残り一割の疼く気持ちを押しこめて、葵本人が大丈夫と言っているのだからもういいじゃないかと頷く。それを見た葵は半ば強引に話題を変えるように、あっそうだ、と言った。

「ところでさっきの悪魔がなんたら、あれどういう意味なの?」

「うん?」と困ったように顔をしかめ、先ほどまでのやりとりを思い出す。それからすぐに「ああ」と頷いた。

「あれは、ラプラスの悪魔のことだよ」

 それを思い出すと同時にさっきまで抑えていた気持ちはどこかへ消えていった。月と入れ違いに沈む夕日のように。

「ラプラス…。それは人の名前かしら?」

「そう科学者のラプラス。まあそれはべつにどうでもいいけど。とにかくそう呼ばれている悪魔がいるんだ。いや悪魔と言うのは比喩で本当は知性と言った方が正確かもしれない」

「知性」

 葵は追うようにぽつりとそう呟いた。

「そう、知性だ。でもそこらの安物じゃなくてとびきり上等の。世界の全てを把握しているぐらい」

 葵は、へえ、と分かったような、分からないような相槌を打った。

「まあ簡単に言うとすごい物知りってこと」

 今度は分かったようにうんうん、と首を二回縦に振る。

「例えばフランスからイタリアに向けてユーロ鉄道が時速何キロで出発しただとか、今関東地方は晴だとか。そういった情報、というか状況、それらを全て掌握している知性にとっては不確実なことなんか一つもなくなるから、これから起こることを全て予測できるってことらしい」

 これもどこかの本に書いてあった事をそのまま言ったにすぎないただの受け売りだ。そこにはもう少し詳しく書いてあって、宇宙の元始、初期状態を知ることが出来れば今こうしてある多くの星の過程を知ることが出来る。そしてさらにはこれから先の状態までもが容易に予測できるのだ。

 ただそんなことを知れる知性があったとして一体その知性に何が出来るというのだ。指をくわえて赤ん坊のように眺めている他にどうしようもないのではないか。そう考えると少し虚しくなって、同時にばかばかしいと思えて仕方が無かった。

「そんなの可笑しいわ」

 俺が昔の記憶を手繰っている最中、そんなはっきりとした声が脳内に響いた。

 えっ、と横を向くと、葵が顎に手を当てて、考えるようにしている。

「だってそうでしょう。いくらその知性と言っても、左右のわかれ道で迷っている人が結果どちらの道に行くかなんて予想できるはずがないじゃない」

 確かに、と俺も同意する。

「だけどそれは困難なだけで、不可能じゃない。迷うってことは考えるってことでそして考えはここにある」

 俺はこめかみの部分をコツコツと叩く。

「脳だって突き詰めればただの物質にすぎないし、物質である以上投げたボールがどこに落ちるかわかるのと同じで予知できる」

 葵は考えるように間を十分に置いてから「でもやっぱり、信じられないわ」と言った。

「仮にそんな悪魔がいたとして、一体誰が幸福になるのかしら。不愉快なだけでしょう。だって全てを知っているなんて、支配されているみたいじゃない。今朝コーヒーか紅茶のどちらを飲もうか迷っていて、最終的に紅茶に決めて、カップに注いだことも全てその悪魔にとっては予定調和の枠の中の出来事なのでしょう。今までの全てを否定された気分になるわ」

 そう言ったきり葵は不平を言うのをやめて小さな溜息をついた。

 しかし俺は話そっちのけで葵の顔を見ていた。もう話などどうでもいいと思った。視線を向けたその顔には表情という色で溢れていて、一喜一憂するその顔がとても新鮮なものに思えた。笑うと優しい甘さのマシュマロのようで、怒ると険しい氷山の一角のようで、そして悲しむ顔は秋の夕暮れのようだった。そのどれもが愛おしくて俺はずっと眺めていたい思いに駆られるのだ。

葵は一体どれほどの間、その表情たちを押し殺し、厚い仮面で覆ってしまったのだろうか。そんな考えが一瞬よぎる。だけど俺はどちらの葵も美しいと思った。初めて見た冷徹な無表情は一見近寄りがたく、そして傷のない完璧な珠だと思った。だけどそれはビー玉のようなガラス細工で出来ていて、触れただけで壊れてしまうぐらいの危うさと儚さを兼ね備えていた。次にやっと取り戻した喜怒哀楽の浮かぶ表情は、モノクロな画面に色をつけたみたいだった。完璧な珠ではないが、その不完全さが、いや人間らしさが俺は好きだった。まあいずれにせよどちらの葵も葵であり、俺の好きな葵だ。対極の二つの顔があるからこそ葵はさらに美しく見えた。

 駅前についてから、葵はここでいいわ、と言った。

「このまま茜さんのところに行くわ。今日のことを話に行ってちゃんと挨拶してくる。今まで迷惑かけっぱなしだったし一番心配してくれたのは他でもない茜さんだったから」

 そう言ってから葵は「じゃあ、またね」と言った。

 俺も「またね」と返す。

 またね。またね。その言葉を繰り返し口にする。不思議な力のある言葉だった。別れ際に言う「またね」は次に会うことを暗示している。また会いたいと思って、また会えることを祈ってそう言うのだ。俺にはとてももったいない言葉だと思った。別れてしまう運命にある俺はその言葉だけで救われた気がするのだ。葵とまた会える。そう願って俺も「またね」と返した。口に出すと自然と気持ちも安らいだ。何回も言うたびにその願いは確かな希望に変わって行く。またね。またね。


 そしてとうとうタイムリミットまで残すところあと一日となった。明日になれば葵と共に彼氏屋へと足を運ぶ。そこにはきっと肉まんみたいな体系をしたキムがいて、挨拶もそこそこに契約履行のサインをさせられるだろう。そして悲しみを分かつこともなく契約が切れ、俺と葵はばらばらになる。まるで始めから何も無い蜃気楼を見ていたかのように。泡沫の夢がやがて消えるとき俺はどんな気分で目覚めるのだろうか。起きた瞬間にはまだその夢を見ていたいと思うのだけど、そんな思いは少し経てば、無意識の渦にのまれて沈んでいく。そんなものだ。もう二度と同じ夢は見ない。葵と俺が二度と会うことが無いのと同じで。

窓際の席で外を眺める。この日は実にいい天気で、グラウンドでは体育のサッカーをしていた。靴が地面をけるたびに砂塵が起こり、やがて風に巻き上げられるようにして無くなる。ボールの動きが実に奇抜で、あちこちに行ったり、逆に数人で取り合っているにもかかわらず、その場に留まっていたりと、まことに予測不能である。その光景がどこかチープで、だけどアリの行列みたいにずっと見ていたくなった。

校庭を眺める視覚とは対称に、耳には五百蔵の念仏みたいな声が鼓膜を緩やかに響かせる。その声は葬式で木魚を叩きながら御経を唱える坊主さながらで、一定のリズムとガムを噛んでいるような声が耳についた。どこの葬式だったかなと考えて数秒後、親戚のおじさんのだったと思いだした。五百蔵が古文を読むときはいつもそんな感じで、ほのかに眠気を誘う呈がある。校庭から視線を外し、クラスを見渡すがもうすでに何人かは机に突っ伏して、落ちていた。その中に翔がいたことは言うまでもない。

俺は再び校庭へと視線を戻すと、欠伸をかいた。

あと一日で葵と永遠に別れることになる。そう考えてみてもなかなか実感がわかないのはなぜだろうか。もっと詳しく言えば、この時点では「さみしい」や「悲しい」と言った感情が不思議と起こらないのだ。どこかで覚悟のようなものが出来ていたからか、それとも葵の心に近付けて、それでもう充分だと満足してしまったからか、いずれにしても今ならきっと笑って葵と別れることが出来る。これはただの自己満足だろうか。

授業の終わりのチャイムが鳴った。授業のほとんどを思案とサッカーを見ることに向けていた俺はそそくさと真っ白なノートをカバンの中へとしまった。立ち上がって行こうとした時に声が掛った。

「今日も三日月葵のところか。ご苦労なこった」

 その声の主は授業のほとんどを睡眠に費やしていた翔であった。

「ああ、今日は大切な日だから。悪いな」

 カバンを肩に掛け、翔の方に顔を向ける。一重まぶたの素直な目が、寝ていたせいで二重瞼になっていて少し笑った。しかもそれが片方だけだと気付いてさらに笑った。

 翔にはすでに、葵との仲が元通りになったことを伝えていた。それだけでなく、葵の留学のこと、両親のことを話していた。翔はその間静かに聞いていてくれた。「傾聴」という言葉が最もそぐわない翔にしては随分と大人しく聞いていてくれたと今になって驚く。

「大切な日?」

 笑われたことに若干の戸惑いを見せるものの、翔は思いを巡らすように首をひねる。

「そう、多分彼女と初めて過ごす記念日。何か分かる?」

「誕生日?」

 そう聞いてすぐに「いや、それはもっと先か」と呟く。

 あれでもない、これでもない、と苦心している翔にじれったさを感じて俺はさっさと答えてしまった。

「俺と葵が付き合い始めてから一カ月の記念日」

 そして最初で最後のメモリアル。

 俺がそう言うと翔は「お前らばかだろ」と呆れた顔で溜息をついた。その言葉をそっくりそのまま返してやりたい、と言う衝動を堪え、「まあそう言うわけだから」と言うと、翔に別れを告げて生徒が溢れる廊下をかけていった。

 駐輪場には葵が既にいて、待っていた。初めの時そうであったように、葵は上を見上げている。すっかり青葉が付いた桜を眺め誇らしそうに、そして切なそうに笑っていた。そうかもうこんなに経ったのか。青々しく色づく桜の葉と、葵の笑った横顔を交互に眺めながら俺はそんなことをふっと思った。

「葵」

 名前を呼ぶと、葵は自然とこちらを振り向き、待っていたわと言わんばかりの笑顔を向けた。

 自転車を起動させて葵を後ろへと乗っける。慣れた風にスムーズに腰をかける葵はとても綺麗だった。葵が俺の腰に腕を回したところで自転車を発進させる。慣れたもので抵抗はほぼ無かった。

「目的地は?」

 サイドミラーで葵を確認すると、またもや同じようなことを口にする。葵が俺の背中へと体を傾ける。その感触が妙にリアルで、だけど不思議と自然だった。葵ってこんなに温かかったんだ。そう言おうとして口をつぐむ。葵もきっと、俺のことを温かいと思っているに違いない。

 触れると言う行為はどこか高尚でワンランク上のもののような気がする。相手のことを想い続けるのとも違う。直接「好き」と口に出すのとはもっと違う。どこか危うげで、それ故にひどく極上に感じることがあるのだ。触れることでお互いを確認するのではなく、触れることでお互いを除外する。他人という枠から離れて、一つの集合体のように重なり合わさるのだ。体温を奪い、体温を与え―そうすることで初めて意識が繋がる。バラバラだった呼吸を相手に合わせ、さもそれが自分の呼吸なのだと錯覚する。その一つ一つがとても痛快で、噛み合った歯車が動き出すのとも、コーヒーに入れたミルクが徐々に溶けて混ざっていくのとも違った、快感、いや安心感を得ることが出来た。誰かと繋がる、それがささくれみたいに傷ついた心を優しく撫で、浄化していった。

 ここにとげのあるヤマアラシはもういない。もうあのとげはいらない。自分を守ることも相手を傷つけることもしたくない。全てを捨てたヤマアラシに残されたものは何か。誰かを懸命に愛する権利だ。

「明日へ」

葵は小さくそう言った。


 自転車をあの丘へと走らせた。坂道を二人乗りで上がっていくのはやはりきつく、途中で葵に降りて押してもらったのが、不甲斐なかった。でもそんな小さなことなど水の中のあぶくのように消し去ってしまうほど、相も変わらずこの景色は大きかった。葵はしばらく絶句した後この前の俺と同じように「大きい」と呟いた。


 ほらあそこが葵の家であそこが俺と翔の家だ。

 こうして見ると意外と近いものね。

 あそこの交差点にシーディーショップが見えるだろう?この前翔と行ったんだ。

 あそこなら私も行ったことがあるわ。店員さんは大概暇そうにしてるけど。

 茜さんの家はもっと奥の方だよな。

 そうね、そこの線路沿いをずっと行ったところ。

 あ、あの屋根すごい雀がとまってる。

 集まって世間話でもしているんじゃない。

 空が青いな。

 きっと明日も晴れよ。


 そんな他愛もない話をしていると、もうすでに夕日が沈みかかっている時間になっていた。結構経つはずなのに不思議と俺も葵も行こうとは言わなかった。丁度真西に当たるこの場所はちょっと眩しいが、まあこういうのも悪くない。橙の光が俺たちを優しく包み込む。葵が「明日へ」と言った時真っ先にこの場所が思い浮かんだのはなぜだろう。明日は自然とやってくる。地球が一回転すれば、時計の針が両方とも上を向けば、きっと明日になるだろう。だけどそれではいけない気がした。明日を迎えるために、明日に向かって行けるように、俺たちは今日を見送らなければいけない。沈む夕日に手を振ってありがとうまた明日、と呟いてみる。どこか和やかな気持ちになってもう一度「またね」と言った。

きっと明日は晴れるだろう。隣で鼻歌を刻む葵がいた。珍しいなと思いつつもその歌を聞きとろうとする。優しいような甘いような、そして柔らかくて穏やかだった。曲とも呼べないようなひどくさっぱりしたリズム。だけどその旋律は消えていく今日に捧げるためのレクイエムだった。

 帰りにスーパーでカレーの食材を買った。葵に拒絶された日に作りそこなったカレーだ。葵は確か思い出のカレーと言っていた。母親の作るこの世で一番好きな料理だと。どんなスパイスを使いどんな具を入れるのかと思いきや、なんてことはない普通のカレーとほぼ同じであった。少なくともこれと言って不思議なものや興味を引くものはなく、ルーもバーモンド甘口といった一般的なものだった。どこがどう違うのかと葵に聞いても、食べてからのお楽しみよ、の一点張りで教えてはくれなかった。

 会計の時にどんな縁か、またあのおばさんのところに当たってしまった。そう、初めて葵と会った日に、ここのスーパーで俺と葵のことを兄妹だと勘違いしたおばさんだ。驚いたのはおばさんも一緒だったが、しかし下で指をかみ合わせるように繋がれた手を見るや否や、バツが悪そうに下を向いてしまうと、何も言わずそそくさと会計を済ませてしまった。そんな姿を見て少し悪い気もしたが、俺と葵は舌を出し合って笑った。


 そのカレーは誰が何と言おうとも、惑う事なきカレーの味がした。具材だってありきたりな、と言うかオーソドックスなものばかりだったし、肉に牛肉を使用したのを除けば至って普通のカレーだった。それだって特別高い牛肉なわけではないし、たまたま葵の家ではビーフカレーが主流であったためだろう。日本人が想像する日本人のためのカレーであることに何一つ相違なかった。

「葵、聞いてもいい?」

「ええどうぞ」

 葵はスプーンを置いてそう言った。前も思ったことだが、食事という行為を葵はいつでもどこでもどんな時でも、優雅に行う。スプーンの運び方一つをとってみても、実に無駄が無く、掬いあげた水が指の股からするりと落ちていくようにとても滑らかだった。

思わず見とれてしまった視線を上へと戻す。

「このカレー、お母さんが作ってくれた特別な料理なんだよな?」

「ええそうよ。おいしくないかしら?」

「いやそう言う意味じゃない」

 慌てて首を横に振る。

「おいしいよ。普通においしい。ただ特別っていうほどじゃない」

「ヒカル君」

「はい」

「私、こう見えても昔はひどく好き嫌いがあったのよ」

「はあ」

 曖昧に受け答える。

「しかも嫌いなものが大半で、人参なんか特に食べられなかったわ」

「…」

 ついに黙ってしまった俺に葵は言った。

「そのカレーにはね、愛が入っているのよ」

「愛」

 疑問形ではなくその言葉を口にしてみる。普段なら背中がかゆくなるようなラブストーリー定番の言葉。二枚目なら分からないが、決して誰かに向けては言えない歯の浮くような台詞。でもなぜか葵の口から出たその言葉は素直に認められた。

「もう一度ルーだけを食べてみて」

 葵に言われた通りスプーンでルーだけを掬い、そっと口に近付ける。今度は意識して舌でなめた。ほんのり優しい味がした。

「少し甘い気がする」

「甘口だから」

 わざとだろうか。どこか試すような、含みのある言い方をした葵に俺は素直に答えた。

「いや、そういう甘さじゃない。何と言うか、甘いと言うよりは旨い。旨さと甘さが俺の中で混同している感じ」

 中途半端にひねり出した言葉に葵は静かに微笑んだ。

「面白い見解ね。旨いと甘いが一緒だなんて。でもあながち間違ってはいないのかも。そのカレーはね、そのカレーにはみじん切りにしたニンジンが溶けているのよ」

 ああだからか。俺は心の中で頷く。そしてすぐに繋がった。

「なるほど、葵のために細かく切った人参。それが愛の正体か」

「当たり。まあホームドラマにも使われないようなありふれた話よ。幼少時代の微かな思い出。それにそのカレー、失敗だったし」

「失敗?」

 このカレーが、と器に盛られた白と茶色のコントラストを眺めながらそう言った。

「私、そもそも人参の味が好きじゃなかったから。いくら溶けているとは言ってもその味自体は消えないものね。だから一口食べて止めようと思ったの。でも両親の、特にお母さんの目線がすごく気になって。直接どう?とは聞いてこなかったけどその目がずっと真剣で切実だったから」

「だから?」

「だから食べるのを止めることを止めたわ。結局全て綺麗に平らげてしまったの。それで食べ終わって気付いたのだけど、いつの間にか人参が取るに足らないものに思えたのよ。一体何が嫌いなのだったかさえ思い出せないぐらい――まあそれは大袈裟だとしても、抵抗なく食べられるくらいには克服したわ」

「パワー・オブ・ラブだな」

 

 葵の自室に招かれたのはこれが初めてのことだった。そしてこれが最後だろう。リビングと同じように清潔感が漂う白さというよりも、飾り気のない白さで統一されていて、やはり最初に感じた「二秒で飽きる部屋」という印象は拭えなかった。ただ一つの白眉を除いては。窓際に置かれたグランドピアノが目に入り、思わず息をのんだ。美しい。黒光りするボディーがこの部屋と見事に対照的で、その存在感と言ったら、すさんだ荒野に砂金を撒くようなものだった。もはやこの部屋はあのピアノのために存在すると言っても過言ではない。鳥肌が立ち、身震いをした。

 葵が静かに歩みより、椅子を引いてピアノの前へと座った。今まさに一つの「芸術」がここに成る。疑いのない調和をそこに見た。

 幾ばくかの間を空けることもなく自然にそれは始まった。

 全ての流れを今ここで繋げるように葵の指が鍵盤を縁る。

過去を繰り、現在を織り、明日を継ぐ。今までの全てが、誰に決められたわけでもないなく海へと下る川のように繋がっている気がした。まるで生まれた時からそうであったように、漫ろに心は向いていたのだ。

 鳥って実はすごいんですよー。

 翠のどこかひょうきんな声が甦る。

 どこにいても自分の生まれた故郷が分かるっていうか、帰ろうとする性質があって、キソウホンノウとか言うらしいですけど、でもそれってすごくないですか。帰り道が分からなくてもちゃんと帰るべき場所はわかるんです。

 翔から初めて紹介を受けた時から、翠は臆することなく自分の好きな話題を口にした。

 ここにこうしてあるべき姿が初めてのように感じられないのは、不和やゆがみを抱くことなくここにこうしていることが出来るのは、きっとわかっていたからだろう。帰り道が分からなくとも帰るべき場所がわかる渡り鳥のように。

 たどりつくためのルートを知らなくてもたどりつくことは初めから分かっていた――勝手な幻想とも、結果論からの演繹とも言えるご都合な言い分だけど、それでも今こうしてある現在をただの偶然であるとはどうしても思えなかった。

 全ては流れのままに。

 そう思っていっそこの曲に意識の全てを委ねてみた。そうすることで初めて分かる音の産物。言葉で言い表せないと言うのはやはり言い訳であろうか。否、そんなことはない。言葉を排除することで、枠組みを全て外してしまうからこそ、わかるのだ。葵もそれはわかっている。俺が分かっていると言う事をわかっている。言葉にすることで消えてしまう意志の共有ならば、もう何も言わない。ありがたい教訓も、役に立つ薀蓄も、気取った台詞も、ここでは全てが亜流に見えた。羊頭狗肉の安物と何ら変わりない。それほどまでに葵の演奏は唯一無二であった。

 余韻を残しつつ、葵の指がその躍動を静かに止めた。

 止まった瞬間にどうしようもない郷愁に襲われた。決壊した思いは勢いよく溢れだし、とどまることを知らずに胸の奥が一杯になる。すすり泣きをかき消すかのように轟音が響く。水だろうか。咄嗟にこぼれそうになり、寸前で何とか持ちこたえる。きつく唇を噛みしめた。葵を今すぐに抱きしめたい。訳が分からなくなるほど愛で続けたい。それが無理ならいっそこのまま消えてしまいたい。小さく縮むようにして自分の存在を無くしたかった。

 ああ、無理しているな俺。そう思った時だった。

「来て」

 握りしめた拳が結び目をほどいたようにふっと緩んだ。葵はピアノの方を向いたままである。それが精いっぱいの願いであるとすぐに分かった。不器用で下手な二人。一人は感情を上手く相手に伝えられず、一人は相手に伝えようとしない。世界一素直になれない不幸な二人。だけどもしそれが世界でたったひと組のペアなのだとしたら、まあそれも悪くはないのかも。

 葵の後方で立ち止り、壁にもたれるように床に腰を下ろした。そして下ろすと同時に涙が出た。音もなく温かい。ここ最近やたら水漏れが多い。困ったことにたいてい無意識だ。もし葵の隣になんか座ってしまっていたら、シャレでなく脱水症状を引き起こしてしまうだろう。葵は察してくれたのかおもむろに演奏を再開した。

 葵はピアノを弾き続けた。弾き続けていないとそこできっと終ってしまう。手を止めたときが自分たちの最後。そんな葵の気持ちをわかったうえで、それでも手を止めてほしくないという俺の願いは罪であろうか。葵にずっと弾き続けていてほしい。いくら疲れて指が動かせなくなっても、それでも止めないでほしいと思ってしまう俺は非情だろうか。それが葵の意志ではなく、俺に委ねられた使命とも呼べる判断であることはどこかうすうす気づいてはいたが、だからこそ俺は動けなかった。随分と重い役目だ。心の中で呟いて自嘲気味に微笑む。

 誰かに一方的に引き離された方がよほど踏ん切りがつく。そんな情けないことを考えてしまうことに自分でも嫌気がさす。他人に甘えてはいけない。大事な決断だからこそ自分でやることに意味があるのだ。けれどそれでもやっぱり二刻ほどは動けなかった。


 葵は演奏をやめた。やめさせられた。俺の背後からの抱擁によって。

 もういいよ、とは言わなかった。このままだと多分葵は一生弾き続けるだろう。

誰かを自分から抱きしめると言うのは、初めてのことだった。温かくて、柔らかくて、だけど布団を抱いているのとは全く違った感触。触れて初めて分かることもある。葵は意外と痩せている。ほっそりとしていて腕なんか華奢で俺なんかよりも全然細かった。でも髪はとてもよかった。優しくて少しいい匂いがした。最初に通り過ぎた時と同じ匂い。カステラを抱くよう。こんなイメージだった。

突然抱きしめたのにもかかわらず、葵はあまり動じていなかった風に思う。もちろん余裕があったというわけでもないが、どこか安心しているように感じた。触れて分かることもある。葵は拒絶しなかった。

二人は背を壁に向けもたれるようにお互いを必要とした。肩越しの葵と、肩越しの俺。膝の上で組まれた手と手が二人をつなぐ。

俺は部屋の隅に置いてある段ボールに気付いて顎をしゃくって「あれ」と言った。

「ええ。もう荷造りは済ませたの。まあもともと家具は備え付けだったし、持っていくものは別のアタッシュケースにいれたから、入っているのは使わなくなった衣類や教科書類ぐらいだけど」

 教科書はもういらない。わかってはいたがその言葉が微妙に引っ掛かる。

「どのくらい留学するつもりなんだ」

 葵は少し悩むように、悩むふりをして間を空けると言った。

「お父さんの知り合いにね、ピアノの教師がいるんだけど、娘を留学させたいと言ったら喜んで協力してくれるみたいで向こうのカレッジスクールに編入させてくれらしいわ」

「カレッジって大学のこと」

「そう」

 そう。つまりはそういうことなのだ。それが葵の決意。戻らないと決めた決意。

「自分から言い出したことだし、もう迷いたくないし、だから一人前になるまで戻らない」

「そっか」

 自分の返答が必要以上にそっけなくて自分でも驚いた。葵が自分の進路を見つけそれに向かって今進もうとしている。それなのに。そんな喜ばしい出来事のはずなのに、なぜか淡白な反応しか返せなかった。

「そのことを昨日五百蔵先生に言ったら何も言わずに休学届の用紙を渡してくれたわ」

 そうか五百蔵は何も言わなかったのか。まあアイツらしいと言えばアイツらしい。ついでに、渡したのが退学届ではなく休学届というところもアイツらしいな。俺は休学届を渡す五百蔵の顔を一瞬想像して止めた。娘を嫁がせる親の顔か、あるいは危篤の母親を看取る息子の顔。どちらも男の弱い部分で、そう思うと歯がゆくなってすぐに消した。

「向こうにも桜はあるのかな」

 唐突にそんなことを聞く俺を葵は笑った。

「どうかしら。でも見たくなったらまた戻ってくるわ」

 冗談のような本気のような、葵のそんな幻想めいた口調に俺の口元が緩んだ。

「桜はどうして散るのだろう」

 思わずそんなことを呟いていた。二枚目が聞いたことをそのまま俺が言ったのは無意識のうちだった。

「なぜかしらね」

 葵の答えは簡単だった。

「生き物と一緒で決めつけるほどの理由なんてないのよ。生まれたものは死んでいき、咲いた花は散っていく。そんなものよ。でもそんなこと分からなくても桜が私たちに残すものは知っているわ。寂しさと愛おしさ、そして次もまた咲いてくれるだろうと言う期待。その期待こそが次の花を咲かす種なのよ」

 随分と詩的な表現だと思った。そして二枚目程とはいかないまでも、少しルネサンス的で思わず笑った。

「いつ出発するんだ」

 聞こうか聞くまいか一番迷っていた問いだ。そんなことを聞いたところでどうにもならないのは知っていたし、だからこそ最後の最後になってやっと口に出せたのだ。

「恐らく、明後日の早朝よ。そうすればきっと夜中に向こうに着くことになると思う。あ、でも時差を考えると向こうはまだお昼ごろか。チケットはもう取ってあるわ」

 明後日の早朝。

「それは随分と……」

「確かに急だったわ。少し無理してもらったところもある。だけど出来る限り早く出発したいと思ったの。ここにいるとやっぱり怖いから」

 葵は何が怖いのか。俺と別れることによってまた決心が揺らいでしまうことだろうか。それとも俺を諦めきれない心の弱さだろうが。もしそうだとしたら俺はどうすればいいのだろう。葵に必要とされたい。出来るならいつまでも。諦めたはずの思いがまだこうして燻っているのは嫌になるが、自分の心に嘘はつけない。だけどそれと同じくらい葵の道を疎外したくないのも確かだった。

 だから。

 だから俺のかける言葉は決まっていた。

「心配すんな」

 葵の目を見てそう言った。その距離わずか三センチ。吸い込まれるくらい大らかで黒い瞳。その目が見据えるのは過去ではない。現在だ。そして少し先の未来。何も心配はいらない。心配もしないし掛けない。それが残されたものにできる唯一のことに違いないのだから。

「光」

 コウ。葵は今確かに俺のことをそう呼んだ。一ノ瀬光それが俺の名前だ。

「抱きしめられた時…」

 葵が微笑んでそう言い濁す。

「少し痛かった」

 いたいけな少女の笑み。大切な女性から一番の笑顔をもらう確率。それはきっと宝くじの一等を連続で当てるよりも難しい。なんせ七十億分の一だ。そして大抵突然だ。

 カステラを抱くように、とはいかなかったな。そんな笑みに釣られて、自嘲気味な笑顔で答える。

「ごめん」

 俺の返答に葵は照れたように下を見る。

「でも嬉しかった」

 葵はもたれる体を一層深く沈ませた。

「光」

 そして耳元でそっと囁く。

「私の願い聞いてくれる」

「ああ」

 どんな願いでも。心の中でそう付け足して俺も体を傾ける。そっと耳と唇が触れる。キスしているみたいで少し照れた。

 俺は頷く。

 葵は「お願いね」と言って静かに目を閉じた。まるでそれは息を引き取るようだった。静かに、そして緩やかに。

 

草木も眠る丑三つ時だ。

 葵はもう眠ったのかな。

 閉じかけていた目を開ける。

 落ちかけていた意識を戻す。

 グランドピアノに視線が移った。

 窓際から月光が差し込んでいる。

 今日は綺麗な三日月だろう。

 雲一つない星降る夜に輝く。

 思考による深夜の徘徊。

 ふとあの月を思い出す。

 

 俺は横を向いて葵の顔を静かに眺めた。ずっと眺めていたい綺麗な横顔だ。充分に時間をかけて葵の隅々まで、見落としのないようにじっと見つめる。忘れないように。いつでもどこでも思い出せるくらいに。ほくろの位置さえ正確に思い浮かぶように。

俺は葵の右側が好きだ。最後に見たのが右側だと言う恐ろしく単純な理由で。

 気付かれないように、そっと握られた手をほどく。一本一本ひも解くようにほどくのがすごくつらかった。それに呼応するように、思い出もまた一つ一つ鮮やかな色付きで描かれては消えていく。

そして壁を頼りに静かに立ち上がった。葵にそうしてほしいと言われたように、俺はその場を立ち去る。

「私が眠った後…」

何も言わずに立ち去って。最後に葵はそう言った。

眠ってなんかいないくせに。右目に溜められた、まだ乾いていない雫を見つけて、だけど見て見ぬふりをした。葵が起きているとわかっていてそれに気付かない振りをした。明日の朝には全てが終り、明後日の朝には全てが消える。あった痕跡すら残さない朝焼けに淡く光る虚像の月のように。

自転車に乗ってあの月を追い掛けよう。

やがて朝になり、太陽が東から昇る頃。

徐々にお前は存在を薄める。

だけど。


俺は見届ける。

姿が見えなくなるその瞬間まで、ずっと。ずっと。  FIN


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

虚像の月 @saki-yutaro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ