第三章
「虚像の月」
咲 雄太郎
第三章 非日常の続き 弐
葵から連絡があったのはそれから三日後のことだった。
連絡のあった日の翌日は高校の開校記念日であっため、丸一日休みとなった。休みの日など余程のことが無い限りは、何もしない。午前中はだらだらと惰眠をむさぼり、午後になってもせいぜい起きぬけにクラシックを聴いたり、テレビを見たりするだけだ。たまにバイトのシフトを入れることもあるのだが、無論今の仕事はこれだ。つまるところ暇なのだ。だからというわけではないが、葵から連絡があって「遊園地に付き合ってほしい」と言われた時は、その場で首を縦に振った。繰り返しになるが、別に仕事や暇のことを考えてそうしたわけではない。確かに仕事だから付き合うというのも、暇だから付き合うというのも、どちらも正当な理由になるし、それらを引き合いに出されてしまっては立場上言い訳のしようがない。だが、本心は違う。正確に言うならば、最近そういった余計とも呼べる考えは後になってから付いて来るようになったのだ。その日葵から誘われた時、俺は素直に行きたいとそう感じた。だから俺は頷いた。
そしてとうとうデートの日、駅前の広場で待つこと十分。待ち合わせ時間ぴったり五分前に葵は姿を現した。
「待った…かしら?」
返事をするよりも早く葵の姿を見たとたん、俺は思わず息をのんでいた。葵の服装はおおよそ自分の中で確立しつつあった葵のイメージとは似て非なるもので、あまりにもかけ離れているものだったからだ。と言うのはいささか雑で大げさな感想であるとしても、実際葵の恰好はやはり予想の範囲外だった。
黒系統で固めたブラウスが葵の存在感を意外にも際立たせ、胸元で綺麗に結ばれたリボンの蝶が目に入ってくる。また、下は平凡なデニムのジーンズなのだが、それが逆に葵の細い輪郭をはっきりと表し、普段よりも一層細く感じさせるのであった。
「どうしたの?」
葵の言葉が耳へと聞こえてくる。そこでようやく自分が葵の姿に見とれて恍惚としていたのだと気付いた。
「いや…別に。この前見たときは大人しそうな私服だったからさ」
慌てて弁解を図ろうとした。そして同時に特にそうする必要もなかったなとも感じた。それならいっそのことその服装について褒め言葉の一つでも言っておけばよかったのかもしれない。自分の未熟さを恥じる気持ちのせいか、それとも葵に見つめられているせいなのか体の芯が急に熱を持っている気がした。
「大人しそう?そうかもしれないわね。…でも、あれは部屋着だったから」
葵はそう言うと、自分の身なりを気にするように全体を見下ろした。もしかしたらアピールの仕方が解らないのはお互いさまなのかもしれない。そんなことを思う。
「でも、せっかくのデートだから、ね」
葵は最後にそう付け足してゆっくりと視線を上げた。そして丁度目線が合わさる。そうだ。今日はデートなのだ。
贅沢にも「記念日」と言う休みを享受でき、贅沢にも「デート」と言う未知なる経験を味わうことになると、内心感謝の気持ちでいっぱいだった。ただ唯一の心配と言えば、俺が一度もデート言うものをしたことが無いということだけだった。自分でそう自覚する度に不甲斐なくなるのだが、本当のことだから認めざるを得ない。今の俺はこうした歓喜と困惑に両方から押しつぶされる板挟み状態であった。
しかしそんな泣き言も言ってはいられない。俺は大急ぎでこれからの予定について思考を巡らす。
「バス、もう少ししたら来ると思うから」
そう言うと葵は軽く頷いてこちらへ近づき、横に並列した。その距離若干一〇センチ。少し物足りない距離だと思ってしまったのは俺のただの自惚れだろうか。それとも葵の気遣いか。いずれにしてもまだまだだということなのだろう。そんな微妙な距離感を気にしていると、葵は口を開いた。
「この前はごめんなさい。せっかくパーティーに誘ってくれたのに行かなくて」
「いや、全然気にしてないから大丈夫だよ」
すぐに否定をしたものの、全然気にしていないというのは逆に失礼なのではないのかと反語のようにそう思い直し、すぐに「でも」と付け加えた。
「翠が残念がっていたよ。ああ七々海のことね。アイツとしては大切な記念日をみんなで祝いたかったんだってさ」
「大切な記念日?」葵はこちらを向いて聞いてきた。
「二人が付き合って一年目の記念日。この前言わなかったのは、まあそれで気を遣わせるのもどうかなって思ったから。決して隠していたわけじゃなくて」
まあ結局来なかったのでそんな気遣いは徒労に終わったのだが。
「そう、七々海さんと四戸宮君が…」
葵は珍しく深刻そうな顔をして少し何か考えるように手を唇にあてた。その目は長年の疑問―例えば俺で言うなら、朝方に見かけるあの奇妙な月のことを考えている時と同じような、どこか不思議なものを見たという目つきだった。まさか何か失言をしてしまったのではないかと前の台詞を急いで思い出す。しかし原因が解らず不安になった。また葵の沈黙もさらに不安を煽り立てる。
やがて葵は十分に間を開けると、「何というかそれは…」と口を開いた。
「とてももったいない気がするわね」
「ほえ?」
思わず人生最大規模の間抜けな声を出してしまっていた。そしてそのまま呆気にとられたような顔をしていると、今度は葵が心配そうな顔になり「何かまずいことでも言ったかしら」と逆に問うてきた。しかしそのことを「いや」と否定するよりも早く、抑えきれない無性に純粋な可笑しみが込み上げてきた。
そして笑った。心の底からの笑いだった。理由は分からない。でも皮肉でも虚構でも無いのは確かだった。そして未だに笑っている。葵は困ったような顔をしている。当然だ。目の前の彼氏が理由も分からないまま笑っているのだから。でもそれはお互いさま。分からないのはこちらも同じだった。
「ごめん。俺、葵のそういう率直な感想って聞いたことが無かったから。いや、別にだから笑っていいっていう理由にはならないんだけど。可笑しかったから。いや違うな。うれしかったのかも。なんでかよく分からないけど。まあでもやっぱり笑っていいっていう理由にはならないな。ごめん忘れて」
やっと笑いが収まったところでそう言った。言葉としては支離滅裂で、文脈も何もあったもんじゃなかった。しかもこんな長々と言っておいて分かった事は何一つもなく、理由すら明確に開示出来なかった。猿でも自分の行動理由は分かると言うのに。もう一度、今度は自嘲気味に微笑んだ。
「楽しかったの?」葵は真面目な顔をして聞いた。原因が解らないものをそのままにしておくのは嫌なのかもしれない。まあこの場合なら誰でも聞くだろうが。
「そうかもしれない。ただ意外だったから」
「私変だった?」
「違うよ。違う」
大きく首を振って否定した。
「そうじゃない。むしろ普通の感想を普通に言うのは普通のこと。葵は全然変じゃない。変なのは俺の方。だから本当に気にしないで」
「ヒカル君がそう言うなら」
葵はまだ煮え切らないように眉をひそめる。そこへ運よく目的地へ向かうバスが到着した。
「お、来た」我ながらわざとらしくそう言った。話を続けたくなかったわけではないのだが、これ以上聞かれても気の利くような言葉が出るとも一向に思わなかったのでそこで話を終わらせようと葵を誘導するようにそう言った。
バスの中にはほとんど人が座ってはいなかった。と言うのもここが出発点であるので当たり前と言えば当たり前なのだが。当然の如く最後座席へと腰を下ろした。こうして改めて見てみるとなかなかいい眺めだということに気付く。まるでバスの所有権を独占してしまったようだった。
そんなことを考えつつ、葵にさっきの事を蒸し返されても困るだけだったので、今度はこちらから話を振った。
「最初から最後までだから行き帰りも楽だな」
バスの電光掲示板に映し出される目的地のデジタル文字を見ながらそう言った。
「そうね。私が行くときもよくここから乗って同じ所へ座ったものだったわ」
「家族と?」
「ええ」葵は頷いた。「とっても昔の思い出。でもそれこそあの頃はよく頻繁に訪れたものよ」
「へえ馴染みの場所なんだな。でもなんで急に?」
少し躊躇いつつも、俺は聞いた。
「思い出巡りって言ったら収拾がつくかしら?遊園地なんてこういう機会が無いとなかなか来られない場所のような気がするから」
葵はそう言うと何かを憂いているようなそんな切ない目を向けた。その瞬間胸が針で突かれたようにチクリと痛んだ。いや鋭さで言えばそれは刃のような寂寞の思いに近かった。
葵、お前。
お前それじゃあまるで――。
「プシュー」
風船の中の空気が勢いよく吹き出したような音がした。そしてその刹那、ドアの外からみんな一様に黄色い帽子をかぶった子供たちが先生に手を引かれてなだれ込むようにして入ってきた。車内が途端に騒がしくなる。それはまるでいたずら好きの小悪魔たちが跳んだり駆けたりしているようであった。
「なんか騒がしくなっちゃったな」
興を削がれたわけではないのだが、さっきまで獲得していたはずのバスの所有権が一瞬にしてあの小悪魔たちに奪われてしまったということを自覚すると、どこかやるせないような気持ちになった。
「しょうがないわ。子供だもの」
そんな俺の気持ちに気付いたのかどうかは分からないが、葵はそう言って少し微笑んだ。
「葵、お前って子供好きなのか?」
「どうかしら。あんまり接したことが無いから。でもねヒカル君、時々だけど心の底からうらやましいなと思うときはあるわ」
「子供が?」
「ええ。こんな言い方したら少し大げさかもしれないけど、子供って生きることに対して何の疑いも持っていないのだもの」
「生きることって…。そんな…」
俺はそれを笑って受け流すようなことができなかった。なぜなら葵は洒落でもなんでもなくそう言っているのだということが分かってしまったから。
「大袈裟かしら?でも、そんな深刻に考えないで。つまりは程度の問題よ。自分たちが信じている者を信じて、他の余計な事は考えなくてもいいってことよ。私はあまりにもいろんなことを考えてしまうから…」
葵はそこまで言ってもう一度子供らを見つめる。そうしてしばらく見つめていると何か思い出したように俺を見た。
「そういうヒカル君はどうなの?あの口ぶりからするとあまり子供が好きではないように見受けられるのだけど」
「まあ、ね」
実際その通りだった。苦笑いを葵に返す。
「子供って無邪気で素直だろ。自分の思ったことやしたいことを言葉や態度にして表すけど、俺にはそういうことは苦手だから」
「つまり自分にとって苦手なことをする子供は苦手ってことなのかしら?」
「子供だけじゃないけど、まあそんな感じかな」
「例えば七々海さんとか?」
そこでハハと思わず笑ってしまった。
「この前アイツと口論しちゃってさ、その時切実にそう感じたよ」
そう言うと葵も若干口元をほころばせた。やっと自然な会話らしくなってきたなと思うのと同時に、少なからず違和感を覚えたのは確かだった。
今日はよく話す。
これはバスに乗る前からも感じていたことで、俺がこの二週間で感じていた葵の印象は感受性がどこか欠落しており、表情としても言葉としても控えめで自分の心を表に出せないという一種の自閉的な性格なのだと思っていた。しかし実際は違った。そうではなかった。葵も俺も結局は同じだったのだ。自分の心の内を上手く相手に伝えることができなくて、また知られるのを、知られてしまうのを少なからず恐れてしまうところがあり、自ら心をさらけ出すのを極度に制限した人間だったのだ。だが前者とは明らかに違うのは、それが「出来ない」か「しない」かの差だった。
もう少し葵の性格を早く知っておくべきだった。いや、それは単なる言い訳にすぎないのかもしれない。葵と一緒にピアノ教室へと赴いたあの日あの時、確かに葵が笑っていたのを俺は見ていたしその兆候は幾度となくあった。しかし俺はそれを「葵は音楽には正直になれる」という勝手な解釈をして勝手に納得してしまっただけにすぎないのだ。今から思えばやはりあの時葵のピアノを弾く姿を見ておけばよかったと後悔した。
女の子わかってない。脳内にこの前翠に言われた言葉が戒めるように甦って来た。
バスを降りると、そこには世紀末とも呼べるような荒廃した土地―ではなく、どこにでもありそうな平凡な遊園地がひっそりと佇んでいた。入場門を通過して辺りを見渡す。デザインやセンスはやや子供じみていて本来ならば先ほど降りて行った園児の遊び場といった感じだが、決して大人がいないわけではなく、むしろこんな平日にも関わらず若い男女の姿がちらほらと見て取れた。
「すっかり変わってしまったわね」葵は昔を懐かしむように、そして少し悲しげな口調でそう呟いた。
「来る前までは入口の模様すら思い出せなかったけど、いざ中へ入って見ると徐々に昔の記憶がめぐって来るの。だけど当の遊園地はすっかりと変わってしまっている。さびしいわね。建物と共に思い出も風化していくなんて」
諸行無常。葵が発した台詞は俺の中でそんな言葉に変換されていた。葵の昔の思い出が、すっかりと姿を変えてしまってセンチメンタルな気分になるのも無理はない。だがそれはきっと仕方のないことなのだと思う。なぜならそれは誰にも抗えないものだから。
世の中に普遍的な物などありはしない。行く川の「流れ」が元の「水」でないのと同じで、例え目に見えようと見えまいと常に変化は付きまとう。それが穏やかか劇的かどうかは分からないが、いつの時代でもどこの世界でも存在するのだ。だけど、いやだからこそ忘れてはいけないものもある。忘れてはいけないからこそ葵はこうしてこの場所へと赴いたのだ。俺はそう思いたかった。
「重要なのは受け入れることじゃない気がする。それは二の次で良い。葵は最初に思い出巡りと言ったけど、それはつまり忘れたくない思い出がここにあるから来たんじゃない?ならそれを見つけないか?言い方はくさいけど」
実際思っていることを口に出すのはとても不安だった。相手に自分の意図を伝えられるか分からないのだ。だって自分が思っていることは自分の中にしか有り得ないものだから。
だが葵は少し微笑むと「ありがとう」と言った。俺はそれが少し照れくさくなって「まあ楽しみながらな」と付け足した。
俺と葵はどこへ行くわけでもなく、風の吹くまま気の向くままに歩みを進めた。遊園地にあるのはアトラクションだけではない。幅広い年齢層を獲得するためだろうか散歩道やハイキングコースなども設けてあるみたいだ。またここのアトラクションに乗るにはあまりにも幼稚な物が多く、それに喜んで乗れるほど俺も葵も子供では無かったこともあるだろう。だが聞けば、幼少のころ葵が来た時もそれほど積極的に遊んでいたわけではなかったらしい。むしろ家族で林道を散歩し、話すことの方が多かったと聞く。沢山のアトラクションへ乗るよりも、そういった素朴な家族との関わりの方が葵にとっては充実していたのだ。葵がこんな話を俺にしてくれたのもきっとそんな安らかな気持ちが徐々に思い出されていったからであろう。そしてそうした葵の態度は俺にも少なからず影響を与えていた。
葵とこうして散歩をし、会話を交え、疲れたらベンチへ腰かけ春の心地よい風を感じていると、次第に俺の中でも変化が起きていることに気付いた。率直に言うと葵のことをより多く、そしてより深く知りたくなっていたのだ。
それこそ始めはそういうことに首を突っ込みたくなかったし、できる資格も持ち合わせていないと思っていた。しかしこうやって葵を知り、近くに感じることで、その揺るがぬ決心はやがて曖昧な境界へと変わっていった。別に葵に対しての遠慮がなくなったというのではない。むしろ知りたくなったからこそ言葉は今まで以上に選んでいるつもりだ。
言葉はいつも人を裏切る。誤解を招くようなこともあれば、今の気持ちを表現できない時もある。そうやって言葉はいつも人を欺いて存在してきた。
だがしかし、言葉は奇妙な物でもある。誰かが言った。「もしもこの世に言葉なるものが存在しなければ今我々に起こっているこの感情を理解することが出来ない」と。誰が言ったかはどうでもいい。この際、この言葉の真偽も後回しだ。それよりもこれを言い換えると、つまりは言葉でなら人の感情を表し、伝えることができると言うことにはならないか。
言葉は時に残酷だ。しかし自分の心を相手に伝えるのもやはり言葉なのである。だから俺は葵を知りたかった。葵の口から発せられる「声」を通した言葉による「葵自身」を。それが如何に無意味で無駄なことだと心の奥底で分かっていたとしても。
お昼を過ぎたころ、葵は唐突に口を開いた。
「ヒカル君、私メリーゴーランドに乗りたいわ」
「え?」
丁度ホットドッグを食べ終えたところで、葵の方に顔を向ける。昼食は近くにあった売店で適当に買うとベンチに座って済ませたのだ。そしてそれらを食べ終わったタイミングで葵はそう言ってきた。
「今丁度思い出したの。どうして今まで忘れていたのかっていうぐらい名残深い思い出。確かこの散歩道を抜けた先にあったはずよ」
葵は僅かながらに声を弾ませる。それが不思議で思わず聞いた。
「うんいいよ。乗ろう。でもその名残深い思い出って?」
「後で教えるわ。それより早く行きましょう」
葵はすでに立っていた。
「そんな、無くなるわけじゃないんだから…」
「!」
その時、俺の注意は一気に右手へと集められた。そして体が引っ張られたかと思うと、無意識にその場に立っていた。
握られた。
そのことを実感するまでに俺はこのぐらいの時間を要していた。そう、葵が俺の手を握ったのだ。やがてまだほとんど呆気にとられている俺を強引に連れるように葵は進んだ。そんな葵の後ろ姿を眺めていると、俺の心にはぼんやりとした靄が掛っていた。
やっと意識が正常に機能して引っ張る葵の歩調へと合わせる。横を見ると葵は今日一番の笑顔でこちらを見て笑い返してきた。だけど俺はその笑顔が逆に奇妙で、必死で作った笑顔を向けることしかできなかった。
冷静になってきた頭脳は考える。葵が俺の手を握った時、俺の中には二つの感情が芽生えていた。それは歓喜と恐怖だ。恐怖とは少し露骨すぎるかもしれないので、あえて言い換えるとしたらきっと困惑がそれに近いのかもしれない。自分の境遇から生まれる困惑。葵にどんな顔を向ければいいのかという困惑。
せっかく一つの進歩だと言うのに、こんなふうにしか考えられない自分の心の矮小さにほとほと嫌気がさしていた。しかしそれを分かっていても拭える感情ではなかった。だから子供のように無邪気な笑顔を向ける葵を前に、すぐにばれてしまわないような分厚い仮面で作った笑顔を返すことしかできなかったのだ。
やがて目的地まで到着した。息を切らした葵と俺の前には、幼いころ母親に読んでもらったブラッドベリの本に出てきたような幻想的で優雅なメリーゴーランドがあった。それにはどこか奇妙な雰囲気が醸し出されており、不思議と誘われるような魅力があった。
「よかった」葵は静かに呟く。
その言葉には明らかな安心感がこめられていた。都会から故郷へと戻った時のような安らぎに似た嬉しさが葵の言葉から伝わってきたのだ。
そして俺はわかった。ここがきっと葵が探していた忘れたくない場所なのだろう。
回る馬や馬車たちを恍惚と眺めている葵に俺は言った。
「乗ろう」
葵は頷き握っていた右手を少し強く握った。
メリーゴーランドは回る。同じところを空きもせずに。ぐるぐる、ぐるぐると決して逃れられることのないメビウスの輪を循環するように過不足なしに回り続ける。そんな陳腐な乗り物を俺は昔からあまり好んで乗ったことがなかったような気がする。だがもっと陳腐なのは止まってからだった。終了の合図とともに動かない鉄の塊へと変わる。乗っている時のような躍動した感情が一気に氷点下まで下がって行くような、ある種の幻滅した気持ちに駆られる。やはり物は物と幼心にして体感してしまったのだ。
そんな思い出の中の自分とは裏腹に葵は嬉しそうに騎乗していた。それがなぜか歯がゆくて申し訳ない気持になるのと同時に、来てよかったのだろうという断定しがたい安心感が心に沁み渡ったのも事実だった。
こちらの視線に気付いたのか、葵は笑顔で口を開いた。
「家族で初めて来て、初めて乗ったのがこのメリーゴーランドだったの」
葵はそう言って、乗っている白馬の毛並みを優しくさするように撫でた。
「隣にはお父さんがいて、ようし競争だって言って笑っていた。お母さんは入口の近くで少し心配そうな顔で見ていて、一周するごとに全力で手を振ってくれていたわ」
葵はなおも白馬を撫でて続ける。
「その時が一番の安心に包まれていたような気がしたの。近くからも遠くからも見守られるという安らぎ。それが私のちょっとした大切な幸せ」
葵はほんの少しだけ涙を浮かべていた。俺にはその涙がどこから来たものなのか分からなかった。だが俺はその時、名状し難い切なさのような感情が込み上げてきた。
カチャ。
何かが外れる音がした。心の中か。あるいは脳内の中か。俺は思ったことを素直に聞いていた。
「どうして泣くんだ?なんで涙を流すんだ?おかしいよ。葵は笑うべきだ。だって大切なことを思い出すためにここに来て、これに乗ったんだろう。だったら泣くのは変だ。もしかして嬉しくて泣いているのか?」
葵はかぶりを横に振った。涙が水晶のように瞳からこぼれ落ち、葵の手の甲へと着地する。葵はグスンと鼻をすすると、詰まった物を押し出すような声で答えた。
「確かに私、変ね。こうやって改めて来てみてもまだ心の整理がつかないの。色々な感情が渦巻いているっていうか。何年の前のことなのに未だ纏わりついて離れない」
俺は眉を潜めた。そして一つの違和感に気付く。それは話がかみ合っているようでかみ合っていない、疎外されかのたような違和感。
「この思い出が大切であればある程、幸福であればある程、その反動が重く圧し掛かって来るの。幸福を得るにはそれと同じぐらい不幸を背負わなければならない、なんてひどいと思わない?不幸は幸福に伴ってその比重を増していく。皮肉よね。だったら何で幸福なんてものを与えるのかしら」
俺は葵に何も言ってやれなかった。それどころか何も知らないのだ。何も知らないし、何も聞けない。こうやって葵の本音を前にしても黙っているしかないのだ。
弱虫な奴め。不条理が俺に暴言を投げかける。だが俺は何もできないまま、割り切れない思いを身勝手に吐き出した。
「それじゃあ…。それじゃあまるで悲しみを刻み込むためにここに来たみたいじゃないか」
俺はここにいる誰かに助けを請うようにそう言っていた。葵に俺、そして跨った鉄のブリキ。救済なんてものはどこにも、いや少なくともここには存在しない。だから俺のそんな嗚咽に似た心の叫びに意味はなく、そして葵は何も言わなかった。
回る回る。メリーゴーランドは回る。噛み合わさった歯車か。それともレコードの溝を走る針のように逃れられない運命に従属して回り続ける。
廻る廻る。思いは廻る。葵は囚われた過去を徘徊するように迷走の渦中へと記憶を落とす。俺は答えのない自問自答を繰り返し、思慮を巡礼の輪へと縛り付ける。
人は皆、運命の奴隷なのかもしれない。
変わらない世界に生き続け、変えられない宿命を呪い続ける。この世はただ一言「無意味だ」と言ってやればそれで終わりだ。だから記憶はいつか風化して、思考はやがて否定される。
そして鉄の玩具はゆっくりと終わりを告げた。
「今日はありがとう。とても楽しかったわ」
葵のマンションの前で葵はそう言った。
メリーゴーランドから降りた後、俺と葵は再び園内を散歩した。メリーゴーランドに乗る前と何も変わらない、葵の涙を見る前と何も変わらない波紋も支障もない平凡な会話を交えながら。葵はその間ずっと笑顔を浮かべていた。それが心地よくもあり、切なくもあった。
葵はよく笑った。葵に笑顔の方がずっとよく似合うよと言ってやったら、葵は長い間忘れてた気がするわと言ってまた笑った。
「こういうこと、初めてだったから上手く出来たかどうかわからないけど、私は楽しかったわ」
葵はなおも笑っている。
「まあ大概の初デートは上手くいかないものだよな」
俺はそういうものの、葵と同じ気持ちなのは確かだった。楽しいし嬉しい。
「今度は私が何かお礼をするわ。私の我儘にばかり付き合わせちゃ悪いもの」
そんなことないよと首を横に振った。
「デートに付き合うぐらい当然だよ。だって―」
―仕事だから。
その言葉を出しかけて喉の奥へと飲み込んだ。今ならきっと嘘偽りなく言えるはずだ。決して言えないであろう言葉を。
「だって葵のためだから」
葵は本当にうれしそうに笑った。
誰かのために何かをしたいと本気で思ったのはこれが初めてだったかもしれない。忘れているだけかもしれないが、今までの俺だったら違っていた。誰かのために何かをするのではなく、誰かのために何もしない。俺が何かを我慢して、何もしないことで誰かのためになるならば、俺はそれを受け入れる。人に尽くすのではなく、人のために尽くす。だから俺は何もしない。これが俺の今までの基本方針だった。
葵は笑っている。
その笑顔が消えないように俺は何でもしたいと思った。その時はそう思っていた。
会話が途切れ、それとなく終わりの雰囲気が漂う。
嫌だな。
ふっと心の中に初めての感情が沸き起こった気がした。
葵に言ってやりたかった。
葵。俺はお前と別れるのが初めて嫌なことだと思ったよ。初めて別れるのが辛いものだと分かった。そして初めて明日が待ち遠しくなったよ。
数日後。その日は朝から静かな雨が降っていた。その音はまるで今にも消え入りそうなぐらい小さく、ぽつぽつとも、しとしととも似つかない優しさを含んだ雨だった。そんな中を俺と葵は傘も差さずに、自転車に跨って学校へと向かった。頬を伝わる雨水は、時折ひんやりとしていて、未だに慣れない(と言うか絶対慣れそうにない)腰にそっと触れるように巻かれている葵の腕の仄かな温かさと照れによって熱を帯びた体を、僅かながらに冷ましてくれた。上には薄くも厚くもない平凡な雨雲が、濁色を所々に散りばめながら、遥かかなたの何かを目指すがごとく、ゆっくりと本当にゆっくりと進んでいた。今日もあの月をお目に掛けることは期待できそうにない。
蒼白の月。存在すらも儚く危うげで、気がつくとそこにあったのかと疑うぐらい綺麗に消えている。輪郭すら曖昧なまま、だけど確かにそれはあった。
あの月はどこか葵に酷似している。それはまさしく直感で、根拠も何もあったものではないが、ふと切実にそう思った。いやそう思っていた。葵と出会う前、憂欝な空で見つけた偶然の光。あれを見たときと同じ心情に駆られるのだ。見ようとしても見えず、見えまいとして決して見えない、自己主張の全くない僅かな輝きをあの日の葵の中に見つけた。今思えば、きっとそれが始まりだったのかもしれない。
昼休みは当然というか無論、葵と一緒に例の展望室でお昼を取った。葵がおいしいと言って笑うたびに俺はむちゃくちゃ嬉しくなった。腕によりをかけて作ったからと言うわけではない。実際のところ好みが合わず、葵に拒絶されないかと言う恐怖すらあった。しかしそんな平凡な弁当でも葵はおいしそうに、そして嬉しそうに食べていた。それが見られただけでも充分すぎるほど充分だ。
その後はいつも通り当たり障りのないような会話をした。先日のデートのことがあったからこそこんな当たり前で普通の会話を楽しめたのだろうか。
否。そうではない。と言うのも、話している最中は特に気を遣っていたわけではないのだ。ただ無意識にそうなっていた。お互いが傷つかず上手く付き合っていける距離を見つけたとでも言うのだろうか。葵について何も知らないし何も聞かない。それなのに、心の奥からじんわりと暖まるような安息とも言える居心地の良さがそこにはあった。さらにそれを幸せだと感じている、感じてしまっている俺がいた。
そして事件が起こったのは皮肉にもこの後のことだった。
午後の授業は体育から始まる。葵と別れ、更衣室に行き、着替えをしようとしたところで最も聞きたくない声が最も聞きたくない言葉を発した。
葵。俺は一瞬動きを止めた。
噂話ほど信用できないものはない。いや信憑性に欠けると言ったほうが正しいかもしれない。なぜならその多くが噂ではなく推定にすぎないからだ。どこかの会話で誰かが言った、たまたま話題に上がった人物に対しての推定が噂なのだ。あるいは事実から都合のいい部分だけをつなぎ合わせて、恰も話題性のあるような装飾を施したものが噂なのである。そんな不確定なものに振り回されたりはしない。この三週間、幾度となく味わった他人からの視線や、根も葉もない噂が聞こえてこようが気にしはしないのだ。大体噂なんてものは大概が悪評なのであって、良い噂ほど退屈なものはない。
だから更衣室で聞こえた二人の会話なんて耳にすら入らなかった。そう、第三者によってその真実の断片が聞こえてくるまでは。
硬直した体を残したまま、それでも頭は急速に回転し始めていた。
―「三日月財閥ってあるだろ?あれってB組にいる三日月のところらしいぜ」
―「うっそ、マジかよ。うちの親父そこの系列の会社なんだけど」
―「今のうちに媚び売っておけば?うちの親父の給料上げてくれって。そしたらお前の家もブルジョワだぜ」
―「ああ、それ賛成。ゲームの新作買い放題だな。そんでゆくゆくは逆玉の輿になったりして」
―「うわー、最低。つーか気色悪い。ところで九頭見はどう思うよ?大体これ知ってたか?」
―「三日月って三日月葵さんの事?それなら当然知っているけどさ…。でも多分その逆玉狙いは恐らく無駄だと思うよ」
全く聞いてなかったはずの会話が一言一句思い出されるぐらい明瞭に頭の中でフラッシュバックしてくる。そこで俺は、人間の記憶領域の広さを痛感したのではなく、ある一点の言葉に反応した。
九頭見。この名前が頭蓋に響いてくるみたいに何回も何回も反芻する。出来ればもう二度と聞きたくなかった名前。この期間の始まりの権化。
しかしこうして俺が耳をそばだてて(と言うかそうするしかなくて)いる間にも会話は進んでいった。
「なんで無駄なの?」
「鳶は鷹にはなれないから」
「何それ。ことわざ?鳶が鷹を産むってことを言いたいの?」
「いやむしろ逆だね。鷹が鳶を産んでしまったら、生まれた鳶は一体どうなってしまうのだろうね。捨てられるのかな?それとも…」
「相変わらずよく解らねえな、お前の言葉は…」
「いいんだよ、僕だけに分かっていれば…。ってえええ?一ノ瀬?」
その時俺はなりふり構わず目の前の男の肩を捉えていた。九頭見真。通称「インフォボックス」。最悪にして最凶の情報屋。
「まさか授業をサボらされる羽目になるとは思わなかったよ」
九頭見真はそう言いながら笑っていた。
俺はこいつの笑顔がこの世で一番嫌いなのだ。安っぽく感情のない笑顔。いや感情を隠していると言った方がいいかもしれない。ポーカーフェイスのように眉一つ動かさないその顔はまるで笑顔と言う仮面を被った悪魔のようだった。
「お前が悪いんだ」
俺はそう言ってやや小さい目の前の男を見下ろす。
「理不尽な物言いだなあ。訳を聞きたいんだけど」
言葉と顔が全く合っていない。突然体育館裏へと呼び出したにもかかわらず、目の前の男は困ったそぶりも見せず、ひどく冷静な声でそう言った。
「黙れ。お前に話す訳なんて何一つ無い。いいから聞かれたことだけを答えろ」
そう言った瞬間男の纏う空気が変わった。やけに冷たく、そしてピリピリとした緊張が辺りを包んでいる。
「それはまあ、別にいいけどさ。周知の通りもちろん無料じゃないぜ」
そんなことは分かっている。俺はその言葉を聞くや否や、ポケットに入れていた封筒を取り出して男の胸へと勢いよく叩きつけた。
「十万入っている。三日月葵について知りたい。足りるだろう?」
「うん。まあギリギリだけどね」
男は封筒から中身を取り出しその枚数をやけに慣れた手つきで数え始めた。
「ギリギリ?」
「三日月さんは高いんだよ。なんせ情報がうんと少ないから」
男は封筒を確認すると、嬉しそうに前歯を見せた。そしてすっと息を吸うと、残酷な笑顔でこう言った。
「さあ君は何が聞きたいんだい?好きな子の性癖かい?それとも憎むべき相手の弱点かい?どんな事でも教えよう。魔女の鏡に知らないことはないんだよ」
本当に悪魔だ。その時俺はそう思った。
九頭見真。魔女の鏡と呼ばれた男。主に情報屋として知られている。情報屋。響きはいいがそれは裏の顔を隠すためのものでしかない。まるで本性を見せまいとしている九頭見に張り付いた笑顔のように。
九頭見の情報は恐ろしく正確だ。その理由は取引の方法に由来する。実は本来ならばこれは金で買うようなものではないのだ。と言うか金でも買えるがそれをしようとする者はほとんどいない。もっとインスタントな方法があるからだ。
情報交換、いやそんな生易しいものじゃないな。
痛み分け。誰かの情報が知りたければ、自分と他の第三者の情報をリークすること。それが取引の条件なのだ。
情報が知りたければ本人に聞くことが一番、それが正確さの所以である。とは言っても、嘘の情報を言えばいいのではないか。実際そう思って嘘をつく輩が後を絶たないが、九頭見には通じない。嘘は見抜かれる。それは自分の顔が嘘で塗り固められているからこそ、他人の表情の機微に鋭く反応することができるからなのであろう。目には目を歯には歯を、情報には情報をと言うやつだ。相手の傷口を知りたければ、自分の傷口もさらけ出さなければならない。だがそれにも関らず、九頭見から情報を得ようとする者は少なくない。
そしてさらに悪質なことに、他人の情報をもとにその本人にも揺さぶりをかける。そうすることで一つの情報からネズミ算のように果てしなく増えて行くのだ。まさに悪魔の手口そのものである。
だが、そんな性根の腐ったやつと知りながら、俺は情報を買った。
「…」
「意外だったかい?」
九頭見は俺の表情から読み取ったようなことを口にした。その目は嘲笑のような、侮蔑のような、本来ならば堪え難いはずの眼差しであるにも拘らず不思議と俺の中に怒りは無かった。
「最後に一つ聞いてもいいか?」
「構わないけど」
じめじめとした空気がうなじのあたりに纏わりつく不快感は、まるで肌を舐められているような居心地で、鬱陶しいことこの上なかった。
喉が渇いているせいなのか、生唾をごくりと飲み込む。
「この情報の出所は?誰かから聞いたとも思えないんだが。つーか思いたくねえ」
九頭見は珍しく困った、と言うより考えているような顔をしたが、すぐに首を振った。
「うーんと、確かに聞いても構わないと言ったけど、それは金額外かな。なんてね。そう言って誤魔化すつもりじゃないんだけど、僕的にはニュースソースは言わないのを信条にしているんだよね」
九頭見は少し申し訳なさそうにそう言った。しかしそれが、教えることが出来ないという事に対しての謝罪なのか、自分の情報網の矜持を少なからず傷つけられたことに対してのものであるのかは俺には解らなかった。
「わかった。言いたくないなら別にいい。ありがとう。呼び出して悪かったな」
俺は出来るだけ含みのない露骨な物言いで言うと、九頭見から一歩身を引いた。
「そんなこと全然思ってないくせに。意地悪だなあ、一ノ瀬は」
減らず口を叩く九頭見に僅かな苛立ちを覚えるもののそこは黙殺した。九頭見も丁度引き際だと判断したのか俺に背を向け立ち去って行く。
「あ、そうだ」
進みかけた歩みを止めると唐突に九頭見は言った。
「これさ、情報を聞かれた全員に聞いている質問、というかアンケートみたいなものなんだけどさ。あ、別に答えたくなかったらそうやって無視していていいよ」
空気がピンと張り詰める。
「この情報を知り得たことで何か意味があったかい?君にできることが少しでも増えたかい?」
「…」俺は痛くなるほど拳を握りしめて、九頭見の言葉を聞いているしかなかった。
「応答なし、か」最後にそう言い残すと悪魔はゆっくりと、煩わしいぐらいゆっくりと姿を消していった。
最もつらく切ないことは無力であることではなく、無力であると気付くことではないだろうか。
俺は知っていた。
俺は始めから知っていた。自分に如何ほどの力もないことを。
俺は葵を救えない。そんなことは始めから決まっていた。いつからと聞かれれば、葵が彼氏屋へとやってきた時。それとも、葵のさらりとした髪の匂いに鼻をくすぐられた時。または食堂で葵に目を奪われた時か。いやもう少し後かもしれない。遊園地で遠くを眺めるような物憂げな眼を向けたとき。
いずれにしても気付く機会はどこにでもあったのだ。ただ失うのが怖い俺は、失う怖さを知っている俺はいつまでも事実から目を背けようとしていたにすぎない。
ではなぜ九頭見から情報を買った?それでは自ら事実を直視するようなものではないか。
自分が三日月葵を救ってやれるとでも思ったのか。この愚か者が。
違う。
確かに最初はそう思ったし、それが全てだと思い込もうともしていた。たとえ事実を受け止めてしまおうとも自分になら救えるのではないかと、驕って期待した。
だがそれすらも自分を正当化する理由でしかなかった。本当の理由は至極単純なものであった。
俺はただ許せなかったのだ。腹立たしかっただけなのだ。俺の知らない三日月葵を俺以外の誰かに知られているという事実が。無意識のうちに生まれた葵の相手としての、小さな小さな自尊心を傷つけられたくなかったのだ。
綺麗事で収拾をつけた方がまだましだったかもしれない。俺は自己満足のために葵を裏切った。しかも理性のかけらもない怒りという下劣な本能のままに。
俺は狡い。
「決して拒まず傷つけず」などという仏のような慈愛の言葉を並べておきながら、いざ自分が拒み傷つけてしまうと、その事実を見たくないと言う衝動に駆られるのだ。そうやって目を背け、都合のいい解釈を見つけてはそこへ逃げ込む。なんと狡猾で愚かだろう。自分を正当化する術しかしらず一体誰を救えるというのだ。
とどのつまり俺の考える「失う怖さ」というのは、自分自身に起きている問題の責任を取りたくないという一心の表れだったのだ。その狡さが結果的に俺自身を苦しめ、葵を裏切った。
無力の忘却。それこそが俺をここまで迷わせた原因だった。
葵と出会った日。確かに俺は自分が無力であることを自覚していた。しかし、それは葵といることで次第に薄れて行き、そして忘れて行った。
そういった無意識の慣れが俺を甘やかし、堕落させ、高慢にしたのではないだろうか。やがて空虚な希望に縋るしかなくなった俺は自らを破滅に追いやった。
なんてことはない。ただの自作自演だったのだ。
俺は勝手に葵のことを好きになり、
俺は勝手に過信して、
俺は勝手に葵を裏切って、
俺はやっと夢から覚めた。
なんてことはない。そんな勝手気ままで傲慢な物語が一つ完結しただけなのだ。
いっそのこと逃げ出してしまおうかと思った。次に葵と会った時、一体どんな顔をすればいいのかもう俺には分からなくなっていた。それならばプライドも何も殴り捨てて(最初からそんなものはないが)逃げ出してしまおうと思ったのだ。しかし俺はそれをしなかった。諦めにも似た、この関係にけりをつけてしまおうという九九パーセントの絶望と、それでもなお幕切れを嫌がる、女々しいばかりの一パーセントの希望を胸に。
案の定、不覚というかほぼ当然のように疲れ果てた笑顔を作った俺は葵の前に立っていた。
「どうかしたの?少し顔色が悪そうに見えるけど」
葵はそう言って心配そうな顔を向けるが、今の俺にはむしろその優しさが痛かった。
「いや、何でもないよ」そう言って首を振る。
「ところで今日はどうする?」
卑怯な奴だ。臆面も無くよくそんなことが言えるな。
俺は葵に見透かされまいと下を向いているしかなかった。
「そうね…」
葵は手を顎に当てるように考える仕草をした。
「なら、私の家来てくれないかしら?」
「家に?」
もういいじゃないか。これ以上どうするんだっていうんだよ。葵といたって傷口を広げるだけだろう。
卑屈な悪魔が耳元で囁いてくる。
「あ、全然変な意味じゃないの。この前は私の都合に付き合わせてしまったでしょ?だから、その…」
珍しく口どもっている葵に俺は少なからず驚いた。
「だからお礼というか、何というか。この前の料理のことだってあるし……」
少し戸惑ったように前髪をいじる、そんな葵の仕草を見ていると俺の胸の痛みはますます大きくなっていった。
「もし、その、嫌じゃなかったら、でいいのだけど…。今度は私にご馳走させてくれないかしら?」
俺は一気に自分を責め立ててしまいたい衝動に駆られた。
俺はこんなに優しい人を裏切ってしまったのか。
俺はこんなに大切な人を傷つけようとしているのか。
俺は自分の軽率さに激怒した。そして自分の愚かさを恥じた。
だが、それでも俺は、決めるしかなかった。決めかねざることが出来なかった。
もう葵の優しさに甘えたくない。たとえ、それが結果的に、葵を傷つけることになってしまおうとも。
「ありがとう。それに、丁度よかったよ」
「えっ?何が」
葵は怪訝そうな顔で聞いた。
「俺も実は言わなきゃいけないことがあったんだ」
「言わなきゃいけないこと?」
俺は一度頷く。
「とりあえず、行こうか」
そう言うと葵も頷き、いつものように自転車の後ろへと腰を下ろした。
少し重みが増したような気がする。俺は咄嗟にそう思った。物理的にという意味ではない。今まで霧のように曖昧な存在だったはずのものが、急にその輪郭を現してくる、そんな感覚にとらわれた。
「ヒカル君、覚えているかしら?」
「ん?」
もう葵の腕が触れても体が火照るようなことはなくなっていた。
「先週、一緒に音楽を聴いたわよね」
「ああ」
俺はバックミラーに映っているであろう葵の顔を見ることが出来なかった。
「私ね、ああいうちょっと言い方悪いかもしれないけど素朴なひと時に幸せを感じていたのよ」
やめてくれ。
「それに、そんな素敵な時間の過ごし方を知っているヒカル君もすごいと思ったわ」
やめてくれ。
「優しいし、気遣ってくれるし」
やめてくれ。俺はそんな男じゃない。好きな人の秘密を平気で買ってしまうような男なんだ。
「本当にありがとう。そして、今まで言えなくてごめんなさい」
やめてくれ。礼なんて言わなくていい。俺なんかに謝らないでくれ。
俺はもうこれ以上聞いていられなかった。
俺を混乱させないでくれ。葵が俺に素直に接してくれればくれるほど、葵に言うはずの言葉が重くのしかかって来る。
俺は葵を裏切ったんだ。でもこのまま黙っているわけにはいかない。だから頼む。頼むからこれ以上俺を裏切り者でいさせないでくれ。
いつもの通り道がやけに長く感じた。それは千里の道にも思えたほどだった。風を追い越す坂道を下り、にぎわう駅前を通り過ぎ、通りに面したスーパーマーケットを横切った。
スーパーマーケット。葵は特に寄ろうとは言ってこなかった。もしかしたらすでに材料を買ってあるのかもしれない。そんな事を考える余裕すらあった。
やがて葵のマンションへと到着した。エントランスを抜けエレベーターへと搭乗する。二一階、約一〇〇メートルの距離をおおよそ一〇秒で鉄の箱は上がって行くのに対し、時間はひどく断絶的だった。そう表現するのに値した。
一瞬。刹那的ともいえる極最小な時間の流れの間に、宇宙の歴史の全てを垣間見てしまったような、と言うのはやはり大袈裟だとしても人間一個分の人生を集約してしまうほどの感覚、そしてそれに伴う疲労を感じたまま俺は―否、俺たちは絶望への終着点へと今まさに着いたのだった。
オートロック式のドアがゆっくりと閉められチープな電子音と共に鍵がかけられた。もはや後には引けない。そして玄関で靴を履きそろえる葵を見て、俺は前へ進むこともできないのだと悟った。
「どうしたの?上がらないの?」
葵は縦横一メートル四方のゾーンに立ちつくす俺を見て首を捻った。
「いいや、ここでいい」俺は言った。
「どうして?」
「上がる資格がないからさ」
「どうして?」
葵はもう一度問うた。その顔には先ほどの綻んだ笑顔は消えていた。
「それを言う前に教えてほしいことがある」
俺は考えていた。俺は葵に謝らなければいけないということを。葵の口から全ての事を聞いた後で。
「…何を?」
その口元は何かを恐れるように僅かに震えていたように見えた。離別だろうか。それとも真実だろうか。いずれにしても葵はもうすでに解っているのかもしれない。そんな気がした。
「葵が彼氏屋に来た理由」
それを言うのに一五秒、それを言った後に四〇秒の静寂が、まるで風も波も無い海のようにただ広がっていた。言い換えるならば月を持たない地球、回らない地球に俺と葵二人きりが取り残された状況がまさにそうであった。
「確か、聞かないと言っていなかったかしら?」
葵の表情は何も語っていなかった。怒りも悲しみもないただの無表情に戻っていた。
「ああ言った」
俺は勤めて冷静に言う。
「それでも聞くのね」
俺は頷いた。
「勝手な人」
葵はそう言ってリビングの方へと向き直った。
「やっぱり上がって。多分、長くてつまらない話になると思うから」
葵は歩き始める。もう後ろを向くことはなかった。
そうね、何から話した方が賢明かしら?
どうしたら解ってもらえるかしら?
いいえ、たとえ全てを話したところで理解してもらうことなんてできはしないのよね、きっと。他人だもの。解り合えるはずがないわ。
でも解ってほしかった。そうやって期待して裏切られて、裏切った。
私の今の両親とは―別居中の両親とは、一滴の血のつながりもないのよ。こんなこと唐突に言うのも変かもしれないけど、やっぱりここから始めさせて。あなたが聞きたいことを話すには今まであまりに多くの事がありすぎた。だからまずはここから始めます。
私は今まで本当の両親の顔を一度も見たことがない、と言ったらあなたは驚くかしら?
でも本当よ。両親の顔を私は知らない。記憶にないの。だって二人とも、私が生まれた時に死んでしまったから。二人ともよ。母親は私を産んで力尽きた。難産だったらしいわ。病院の先生が言っていたの。出産には向かない虚弱体質だったって。それでも子供がほしくて出産を望んだ結果が、これよ。せっかく産んだって死んでしまったら意味無いのに。
父親は父親でその数時間前に亡くなっているわ。フグの毒に中って。信じられないでしょう?でも本当よ。
先生はこうも言っていたわ。きっと父親の死が精神的にも苦痛になったんだろうって。私は母の身を犠牲として父の顔を知らずにこの世に産まれおちたのよ。ただ一つ、葵という名前だけを授かって。
だからそういうわけで、私は生まれながらに孤独になった。寂しかったかって?そんな感情あるわけないじゃない。物心つく前よ。それに―。
それに私には本当の両親の記憶はないけど、今の両親が全てだったから。
身寄りのない私は当然施設に預けられ、養子縁組の仲間入りをしたけれど、引き取られたのはその一週間後だった。これほど早い引き取りは奇跡としか言いようがない確率よ。
こうしてありたいていに事実を見返してみると、もしかしたら私は、今の里親から生まれるはずの運命だったのではないかって時々疑うわ。間違えて生まれてきてしまったために、神様がその事実を捻じ曲げようとした結果なのではないかって。
もしそれだったら―そんな運命だったならどれほど楽だっただろうか。こんな苦痛にも苛まれることは無かったのではないかってね。
そして私は三日月葵として育てられることになった。
本当に幸せな生活だったわ。満ち足りていて生きていることに疑問を持たなかった。今の私にしたら驚くべきことだけど、当たり前よね。子供だもの。遊園地に行く前、バスに乗って子供たちを見たあの時。あの時言った言葉は心からの本音だったのよ。叶うならばもう一度だけあの無垢で純粋な少しの穢れもない原始へと戻りたい。それだけが唯一にして最大の願い。
こうして私はおおよそ十年間を両親の愛情だけをひたむきに受けて育ってきた。それ以外は何もいらなかった。確かに人形や洋服を欲しがることはあったけれど、そのどれもが愛情に対しては敵うはずもない小さな欲望だった。
愛さえあれば私は生きていけた。ピアノを始めたのも、きっとそれに準ずるところがあったからだと思う。小さい頃は母親が付き添ってピアノを教えてくれたけど、私が上手に弾くと、優しい笑顔で私を褒めてくれた。それだけで私は幸福な気持ちになった。何にも代えがたい極上のご褒美を得た気分になったのよ。
毎日ピアノを弾くことだけが私の生きがいになった。その度に母親は私を褒めて、その度に私は嬉しくなった。どんどん難しい曲が弾けるようになる度に、コンサートでいい成績を残す度に、母親はまるで自分のことのように喜んで私を抱きしめた。母親に褒めてもらうために私はますますピアノにのめり込んでいったわ。
こうした私の中の愛情への渇望は―今から思うと、生まれてから一週間注がれることのなかった愛を取り戻すかのように、頑なで純粋だった。それ故に、その大きすぎる欲望のために私は私自身を陥れた。
そして小学校四年生の夏、事件は起きた。いえ、事件と呼ぶにはあまりにも幸福で、あまりにも安寧で、そしてあまりにも責め難い事実だった。
三日月家に次女、つまり私の妹が生まれたの。
名前は胡桃。確か、今年小学校へ入学したはずよ。
あの頃は私も妹が生まれると知って喜んだわ。日々確かになって行く生命の誕生に胸をときめかせたものだった。
でも、そうした幸福の中で―出産が近付くにつれて、確かになって行く要素がもう一つあった。それは私への関心度よ。
愛情のベクトルとでも言うのかしら。それが日に日に私からお腹の中の子供へと傾いていった。本来ならば、平等に分けられるはずの愛情が妹一人に注がれていったのよ。
出産と同時にそれは明らかとなった。病室のドアの隙間から見えた、あの二人の本当に幸せそうな笑顔。産声を上げたばかりの新生児にささげる希望の光。
だけどそれは喜ばしい微笑みと同時に、覗いているこちらを全く意識の中に入れないという残酷な笑顔でもあった。それを見た時、見てしまった時、私は幼いながらに気付いてしまったのよ。私への愛は無くなったんだって。
後になって調べてみて分かったことだけど、この時の私の直感、いえ本能とでも言うのかしら―それは、おおよそ間違ってはいなかったみたい。と言うのも、両親が私を引き取ったのにはある理由があったから。
二人は一度子供を失っているのよ。
私を養女にする少し前、母親は流産で子供を堕胎させてしまった。原因は妊娠中に過って階段から落ちてしまったことらしいわ。そんなに高い距離ではなかったらしいけど何分お腹を打ちつけてしまったため、赤ん坊は外の光を拝む前に死んでしまったそうよ。しかもそれが後に災いして、母親の体はもはや妊娠に適さなくなっていた。子供を作りにくくなってしまったのよ。
そういうわけがあってか、だから生まれたばかりの私は二人に引き取られることとなったのよ。そして精いっぱいの愛を受け育った。
しかし幸か不幸か胡桃が生まれ、両親の私への興味は次第に薄れて行った。
結局私は単なる代用品でしかなかったのよね。過去に流産させてしまった子の生命の、あるいは新たに授かった胡桃の生命の。
まるで壊れたピアノの代わりにオルガンで弾くようなものよね。オルガンはピアノより音域が狭くても代わりにはなる。だけど本物には到底かなわないの。直ったピアノが戻ってくれば、あるいは新しくピアノが届けば、そっちに心は引きつけられる。そしてオルガンは「もういいよ、お前の役目は終わったんだ」と言わんばかりに興味が尽き、やがて薄暗い押し入れの中に仕舞われて、忘れられる…。
マザーテレサは言ったわ。「愛情の反対は憎しみじゃない、無関心だ」って。私は憎まれこそしなかったものの、もう二度と愛情を注がれることはなかったのよ。
最初はただ、寂しかった。今まで大きすぎるほどに愛情を享受していたはずが、突然それが冷めて消えていった時、まるで一生懸命積み上げてきた物が崩されたような喪失感に襲われたわ。どうして私を見てくれないの?どうして私を愛してくれないのって疑問に思い、切なくなった。
そして次に起こった感情は怒りだった。両親に対して?いいえ胡桃に対してよ。その時私は、愛は消えたのではなく、奪われたものだと勘違いしていた。私にとっては両親が全てだったから。それを疑うことはできなかったのよ。
全てを奪ったのは胡桃だと思った。だから私は胡桃を恨み憎んだ。可笑しいわよね。まだ一歳にも満たない赤ん坊を本気で憎んでいた私がいた。
それでも私はそうした。そうすることしかできなかった。どうしようもない疎外感を無意識にぶつけていた。やるせない感情のはけ口を勝手にそこに決めていた。だってそうすることで、少しでも希望を持つことが出来たから。
でもそんな偽りの希望も長くは続かなかった。
一五歳の夏、私は全てを知った。
きっかけは、母親の部屋にあった母子手帳を見た時だった。引き出しの奥にしまってあったそれを見つけて、何となく見ていたの。勝手に見るのはよくないかと思ったけど、自分のことが書いてあるわけだから、気になって読み進めたわ。そしたら違和感に気付いたの。母子手帳って普通、妊娠したその期間から書き始めるでしょう。だけど私の母子手帳は違った。私が生まれた日の一週間後から書かれていたの。いえ、少し違うわね。正確には、その日以前のページが全て人為的に無くなっていたの。切り取られたようにも見えたわ。だから私は気になって自分が生まれた病院に確かめに行った。手帳に書かれていた病院名と担当医の名前を手掛かりに。
そしてそこで真実を知った。病院には私を取り上げてくれた先生がまだ働いていて、名前を言ったら懐かしそうな顔をして会ってくれたわ。私が生まれた時の事を聞いたら、一瞬渋い顔をしたけれど、「もう時効だよね」って言って全てを話してくれた。
本当の家族の事。そしてその最期。
私が孤児院に預けられ、今の両親に引き取られたこと。
今の両親が昔子供を流産させてしまったこと。
どんな運命のめぐり合わせか、両親の元担当医もこの先生だったらしいわ。
全てを聞いた時私は納得していた。そう、怒りが心を支配していたわけでも、悲しさがこみあげて来るわけでもなかった。ただ純粋に、今までどうしてかと疑問に思っていた問題が解決して釈然としていた。「ああ、だからか」って。
多分私はその時に、こうした怒りと一緒に喜びや幸福と言った感情も置き捨てていってしまったんだと思うわ。
そして最後に残ったのは恐怖とやり切れなさだった。
私はその頃、私立の中学校に通っていたわ。当然高校もその系列に行くはずだった。だけど私はこの時期に、この時期だからこそ公立の高校への進学を決意した。もうこれ以上親元にいるのが堪えられなかった。怖くて怖くて逃げ出したかった。
やがて高校に入学すると同時に家を出て、このマンションへと移り住むことになったのよ。両親は何も言わなかったわ。私から先の事実の真意を問いただすことこそしなかったものの、私が事実を知ってしまったことにきっと気付いていたのだと思う。そうでなければ何か言っていたはずよ。それとも知ってようが知ってまいが、もはやどうでもよくなっていたか…。結局逃げ出した私にはもう解らないけど。
ピアノもすぐにやめたわ。綺麗な思い出を綺麗なまま保存しておきたかったというのもあるかもしれないけど、でもきっとそれは半分で、もう半分は単にピアノをやる理由を失ってしまったからだと思うわ。自分で言うのも変だけれども、あれだけ熱を入れていたピアノでも恐ろしいほど簡単にやめてしまうことが出来た。もう意味を見いだせなかったのよ。もともと母親に褒めてもらうためだけに始めたものだったから。
悲しんでいたのは茜さんだけね。でもその茜さんも訳を話すともう何も言わなかった。
あの人はあの人なりに気を遣ってくれたのよ。だから私たちがあの家に訪れた時もあの人は、まるで昔ながらの友人と会うかのように接してくれたんだわ。本当に優しい人ね。
そうして私の時間は止まった。失った世界に関係する要素を全て排除することで、失う以前のまま残しておくことが出来る。綺麗な思い出のままそこで生きることが出来るのよ。時間の解体(スクラップ)とでも言うのかしら。白紙のノートを新聞の切り抜きで埋めていくように、自分にとって大切なものだけを搾取していく。そのためには過去を生きるしかないのよ。時間が進み、やがて忘れてしまわないように。
だから私は誰にも干渉されないように努めた。誰にも心を開かないことで記憶の保護をしようとした。
友達はいらない。そうやって自分の中に枷をはめて守ろうとした。誰が話しかけてきても拒絶して私の領域への侵入を阻んだ。無愛想な奴だと思われ、一カ月後には誰も私のそばへは来なくなった。
それでも良かった。それがわたしの望んだ結末だったから。
実際、誰の干渉も許さない私だけの世界に浸るのはとても心地がよかった。まるで真っ白な世界にただ浮いているだけのような、そんな錯覚にとらわれた。
でもね、やっぱりそんな不確定な世界は長続きするものではなかった。もしかしたら私はどこかでコミュニティを求めていたのかもしれない。無駄だと知っていても、誰かに自分の苦痛を解ってもらいたかったのかもしれない。
時々心の奥底が締めつけられたように小さくなるのを感じるのよ。そして満たされているはずの世界に寂しさが蔓延って込み上げるように涙が目からあふれ出す。やがて体が小刻みに震えだすのよ。まるで何かを怖がるように。そんな時はいつも決まって自分を抱きしめるの。小さなベッドに横たわったまま、大丈夫だよって慰めるのよ。
一日経つともうそんな思いはどこかへ消えてしまって、再び仮初の世界に浸るのだけど、いつまた訪れるかわからないそんな思いに怯えたままにしたくはなかった。
そんな風に思い始めたころよ。私は彼氏屋の噂を耳にした。何かの期待をしたわけでも、必死になってそれにすがったわけでもない。だけど何となくそこへ行った方がいいような気がした。疲れていたのかもしれないわ。もうどうでもよかったからこそ流れ着いたのかもしれない。彼氏屋は、私が行きついた最後のターミナル。行き着くべくして行き着いたのよ。
だからあなたには悪いかもしれないけど正直に言うわ。あの時あそこで契約する相手が誰であろうと私は別に構わなかった。それならなぜ悩んだりしたのかと思うかもしれないけど、それはただこの質問を早急にぶつけられるのが鬱陶しかっただけよ。たとえ話したことがなくても顔見知りだったらこう思うのは当然だわ。しかも毎日学校で顔を合わせることになるなら尚更よね。そういう関わりが全て私にとっては面倒だった。赤の他人だったらどれだけ楽だったことか。
余計な気遣いなんていらない。欲しかったのは適度なコミュニケーション。それに普通の女の子が普通にするようなデートや遊び。寂しさを誤魔化すための蜃気楼で十分だった。
なんて、最初はそう思っていたのよ。
でもね、あなたという人物と接していく度、あなたという人物を知っていく度、私の中であなたに対する気持ちが変化していった。もちろん今日という日を除いたうえで変化していった心情には違いはないのだけど。それでも私はあなたに心を許していた。まあ悪く言うなら油断していただけなのかもしれないわね。あなたの巧みな話術に騙されたと言ったところかしら。
でも良く言うなら、私は好きになっていた。あなたの事もそうだけど、それだけじゃなくて、あなたと一緒にいた時間や、話した場所とか空間。それら全てが愛しかった。まるで大昔からそこにあったような当たり前のこととして受け入れられた。本来ならば私だけの世界。それは偽りの世界で不確定な世界。でも不安定じゃない。そんな私の心に気付いたらあなたがいた。何食わぬ顔で座りながら笑っていた。それが当然に思えた。居心地がいいと言った方が正確なのかもしれないわ。よく例えられるけど、歯車の歯と歯がぴったりと噛み合うように、マッチしていた。
やっぱり人間欲張るとダメね。せっかく適切な心の距離を見つけたのに、もっと近寄りたいと思ってしまう。こうしてあなたが私のことを知りたがったように、私もあなたのことを知りたかった。でも近づきすぎてはいけない。裏切られた時、お互いが傷つく大きさも比例して大きくなるから。
昨日までは、もっと早く―彼氏屋なんて機会ではなく、あなたと知り合ってこうして付き合っていられたらどれだけ幸せだっただろうか、なんて思っていたわ。七々海さんたちのような普通の恋愛関係が本当に羨ましいと思った。
でも今は後悔の念で心が締めつけられそう。あなたを好きになって、それなのに別れることになるなら、最初から出会わなければよかった。それぐらいあなたとの出会いは私にとって大きなものだったから。
葵は息を吐くとテーブルに置いてあるお茶の入ったコップへと手を伸ばした。葵が長時間話していたせいだろうか、ガラス製のコップの周りにはたくさんの水滴がひっきりなしに付いていた。葵がコップを持ち上げると、その水滴たちは最も自然と思われる方向へと滑らかに流れていった。
「これが私の生い立ちよ。納得してもらえたかしら?」
麦茶をそっと口に含んで、それからコップを元の場所へ戻した葵はそう聞いてきた。
「…」しかし俺は何も言えなかった。放心状態にも似た、意識が宙に浮いているようなそんな虚脱感に襲われながら俺は長い間沈黙を続けていた。
やがて俺は「葵…」と力なく言葉を発した。その声はとても弱々しかったことだろう。首根っこを掴まれた野ウサギが死の瞬間を悟り、悲しげな声を上げるように俺は言った。
「葵、俺はどうすればいいんだ?」
「自分で聞いておいたのに、どうしたいかもわからないのね」
そう言った葵の顔は無表情で、でもそれは怒った顔をしたときの葵よりも残酷で、怖かった。
「聞く前は、ちゃんと考えていたんだ。俺が何をすればいいのか。でも聞き終った時にはもう空っぽになっていて、それで今は何をしなくちゃいけないのかがもう解らないんだ」
「ヒカル君、多分それはきっと…」
言わないでくれ。俺は咄嗟にそう思った。それを言われてしまったら俺は本当にもう自分を失ってしまう。そんな錯覚に陥った。
「俺は、俺はどうしたら…」
「ヒカル君…」
わかっている。俺は認めてしまいたくないのだ。自分がいかになんの力も持ち合わせていないただの人間だということを。俺は神でもなければ聖者でもない。こんな無力感に苛まれることは分かっていたじゃないか。
うろたえている俺を見て葵は冷たい吐息を漏らした。それは俺を軽蔑しているようにも、また今から言わんとすることを決心したようにも聞こえる溜息だった。
「ヒカル君、今あなたにできることは何もない。本当に何もないの。救ってもらおうなんてそんなおこがましい事を言うつもりも無ければ、寂しさを誤魔化すために慰めてもらおうなんて気も、もうないの。あなたには、黙ってあの扉から出て行ってもらう他ないのよ」
葵はきっぱりとそう言った。その時俺と葵の間では、見えない糸のようなものが「プツン」と音を立てて切れてしまったように感じた。そしてその糸は俺の前でだらしなく頭を下げるようにだらりと垂れていた。
部屋の玄関で靴をはき、あの重い扉を力なく開け、エントランスをとぼとぼ歩き、エレベーターに乗って下まで着いた。その工程がとてもあほらしく感じ、とても陳腐で救いようのないものだと思った。葵はもう振り返らなかった。
二枚目純。
なぜここで二枚目純が出てきたのかはわからない。きっとそれは同情に似た哀れみから来るものだったのだろう。それとも、あいつの言ったことを信じてやれなかった責務からか。恐らくあの二枚目も俺と同じで、きっと振り向いてもらえはしなかったのだろう。密かにそんなことを思った。
俺は外に出ると唇を噛みしめた。血がにじむほど噛みしめた。だが、そうでもしないと俺は堪えられなかったのだ。今更ながら後悔と懺悔の気持ちがわき上がり押しつぶされそうになった。
俺は走った。わき目も振らずただ一直線に。
目頭が熱くなるのを感じたが無視した。こんな時、どうしてこうも夕焼けが綺麗なのだろうか。赤く、深く紅く染まった空を見て、なんだかそれが恐ろしいほど不気味で俺は下を見ながら走り続けた。
To be continued...
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