第二章

「虚像の月」

咲 雄太郎



第二章 非日常の続き 壱



 そして俺たちの、俺と葵の奇妙な関係が始まった。

正直最初は戸惑うことばかりだった。と言うのも、今までの俺の人生を振り返って見ると、こうした異性との付き合いというものはまるで皆無に等しかったからだ。

人を好きになったことは何度かある。しかしその恋が成就したことはまずなかった。一方ではそういう付き合いを期待するにはしたのだが、どこか心の奥では関係を煩わしいと思ったり、はたまた怖いと感じたりしている自分がいるのも確かだったからだ。そんな慎重な、悪く言えば臆病なことをしていたのだから当然恋が実るはずもなかったのだ。また俺は、他人にその恋心を気付かれるのも嫌で、そう言うわけか親しい友人も少なかったかのようにも思う。

まあだがそういった不幸自慢や枯れた話に花を咲かそうという魂胆はなく、別にそれを言い訳にするつもりもない。ただ初めての異性との交際が、まるで冒頭から主人公が死んでしまう小説のようなとても奇抜な出会いだったり、機械のような冷酷無比と言うか情緒欠落と言うか、そんな(言い方は悪いが)普通ではない相手だったりと、例え数々の恋愛をこなしてきた猛者であっても一歩退いてしまうような、そんな関係を素人の俺が扱うには余りにも無謀と言えた。

だから結果的に葵と知り合ってからの三日間は、俺はほとんど何もしなかった。少しそれでは言葉が雑かもしれないが、しかしあえて言わせてもらうと確かにその通りだった。出会った初日こそ葵の家へと呼ばれ、そこでパスタを作ったりもしたのだが、それ以降はお互い特にどこかへ行こうと誘うわけでもなく、登下校を挨拶程度に一緒に行き帰りするだけで終わってしまう今日この頃であった。本来ならば恐らくそういったプランは俺自身が立て、キム風に言わせてもらえば「お客様を満足させる」べきなのだろうが―いや仕事上絶対にしなくてはいけないはずだが、どうしても今の俺にはそれが出来なかった。当然その間はもちろんバイトをしているわけで、葵のことよりも今日の夕食やバイトのことを主体的に考えてしまうのだが、それでもどこか心の奥底で「彼氏屋」に対しての職務怠慢という事実が後ろめたくてたまらなかった。

 そんな考えが積もった四日目の朝、いつものように葵を迎えにマンションへと自転車を走らせたのだが、葵は後ろへと乗る前に少し困った笑みを浮かべながらこう言ってきたのだ。今日の放課後付き合ってほしいところがある、と。もちろん俺はその場で頷いた。だが同時に思った。本当にこんなことでいいのだろうか。相手がしてほしいことを従順にする。デートをしてほしいと言われたらデートをし、キスをしてほしいと言われたらキスをする。まあもちろん三日月がこんな露骨なことを言うはずがないということは俺も重々承知なのだが、極端ではあっても俺の言わんとすることと相違はない。つまりそんな関係が恋愛と呼べるのだろうかというわけだ。そんなことを考えても無駄であることは分かっているが、それでも、いやそれならどうして俺が必要だろうかと頭を悩まさずにはいられなかった。そんな憂鬱を俺は授業中ずっと抱えていた。

 授業が終わり、翔に軽く声をかけると、なるべく急いで小走りに、駐輪場まで駆けて行った。もう所々では部活動が始まっているらしく、駐輪場の横の校庭では、野球部が今朝の雨で湿ったグラウンドにトンボを掛けている最中であった。

駐輪場には三日月が待っていた。花が散り、若干葉のついた桜を見上げるようにして立っていた。

「よし、じゃあ行こうか」

 三日月がこちらに気付いたところでそう声を掛けると、三日月は深々と頭を下げ「今日はよろしくお願いします」と丁寧に挨拶をした。

 自転車の鍵を外し、三日月を後ろへと乗せると、ゆっくりとペダルをこぎ出した。

 校舎を出る間際に聞いた。「目的地は?」

「昔通っていたピアノ教室」三日月は静かにそう言った。

「…どうして、また?」

 俺は少しお節介かと思ったが、その言葉が思わず口を吐いて出てしまった。

「久々に顔を出そうかと思って」

 俺は、それ以上は聞けなかった。ミラーに映る三日月の横顔はそれを拒否しているように見えたからだ。だから俺は代わりに「ふーん」と相槌を打ち、「道順は?」と聞いた。

「行きとは逆の路線に沿って進んでほしいの。地元まで来たら、後はフィーリングで分かると思うから」三日月は答えた。

「地元?」校門を抜け、三日月に指示された通り、通学路とは反対方向へハンドルを切ると言った。

「ええ、そこの近くには私の実家があるの」三日月は抑揚のない口調でそう言った。

少し驚く。「ちなみに場所は?」

三日月が家の住所であろう地区の名を口にした。

 すごい。高級住宅街だ。大きく目を瞠った。しかし三日月に悟られないように前を向いたままだった。

ペダルを踏むごとに乾いたような、滑るような、チェーンか車輪かも分からない「シャアアア」という音が一定の間隔で刻まれる。しばらく無言のままその音に注意を引きつけていた。

「そこには、そのピアノ教室には、四歳の時から通っていたわ」

 おもむろに、三日月は独り言を呟くように静かに話し始めた。その声は、聞いてほしいというよりは自然と口からこぼれた、という感じだった。一度後ろを振り向くが、三日月から何かを話すというのは珍しいことだったので、黙って聞き耳を立てる。

「最初は親に連れられて行ったのがきっかけよ。でも次第にピアノが好きになって、自分の意思で毎日のように通ったわ」

 サイドミラーに映るその顔は―やはり無表情なのだが、かと言っていつものような張りつめた鋭さは感じられない。どこか昔を思い出しているかのようだった。

「先生と両親に褒められるのがうれしくて気付いたら十年以上も続けていたの。でも…」

 三日月はその先は言わなかった。代わりに仮面を被るように再び表情から色を消す。

 どうして辞めてしまったの?

 決して聞けない質問を心の中で復唱した。しかし届かぬ思いは虚しいだけで、復唱というよりは当てもなく、ただ空の箱の中で反響しているようであった。湿ったような空気が、ハンドルを握る手と腕のあたりにまとわりつく。この嫌な鬱陶しさが心まで浸透していた。

 学校からほどよく離れた駅の近く、商店街を抜けた閑静な住宅地の一角に目的地であるピアノ教室があった。

家の塀には『大八木ピアノ教室』と書かれた看板が貼られていた。家を見ると、周りに感化されることのない、独特な雰囲気を持った建物であった。お金持ちだと誇示しているような気取った家が多い中、この建物だけは自分を保っていると言った感じである。しかし、大きさで言えば周囲に溶け込んでおり、見劣りすることはない。また、なによりも赤い屋根に白い家といったところがまるでお伽話の中に出てくるような可愛らしい家を連想させた。きっと通う子供たちのための工夫なのだろう。

ワイシャツの袖を半分くらいまでめくる。この距離を自転車で漕いだら、流石に汗をかいた。三日月はもうすでに降りていて、その家を見上げながら「変わってないわね」と呟いた。

箱庭のような石段でできた階段を上がって、赤い色のドアの前に立った三日月は少しの躊躇いもなくテレビモニター付きのインターホンを鳴らした。二回ほど間延びした音が鳴っている間、ふと横の庭に目をやる。庭には、小さな滑り台のような遊具や、可愛らしい花の咲いた植木鉢などが飾ってあった。今や、ピアノ教室といってもこういう子供が遊ぶための環境も必要なのだろうかと思いを巡らす。

そんな考えをよそにテレビモニターに明りが点いて声が聞こえてきた。

「あら、お久しぶりじゃない。今開けるわね」

三日月は静かに「はい」と言う。モニターが切れた後、パタパタというスリッパの進む音が聞こえてくる。やがて扉が開いた。

中からは、三〇歳前後と思われる女性が一人「いらっしゃい」と声を弾ませながら出てきた。花柄のエプロンを着けているせいか、ピアノの先生と言うよりは、幼稚園の先生と言う印象を持った。とっさに三〇歳前後だろうと判断したのは、化粧一つしていないスッピンであったためで、顔はむしろ整えられており化粧さえしていれば二〇歳と言われても納得してしまいそうだった。人懐っこそうな少し垂れた目じりが特徴的で優しそうな笑顔でこちらを見ていた。

「お久しぶりです」三日月は一礼する。

 目の前の女性はやめてよ、もうといったように手を招いた。

「お久しぶりじゃない葵ちゃん。見ない間にまた綺麗になっちゃって。髪も少し伸びた?姿勢なんかもうモデルさんみたいよ」

 女性は目の前の三日月にうれしそうに話しかけると、今度はこちらに気付いたのか目をしばたかせた。

「えっと、お友達さん?それとも彼氏さんかしら?」

 軽くお辞儀をする。「一ノ瀬光です」

「大八木茜です。こんにちは」

 茜はまるでここに通っている子供たちに挨拶する時と同じような調子で言った。

「でも葵ちゃんが自分以外の誰かと一緒に来るなんて珍しいわね」少し素に戻ったような声で言う。こちらを見る目つきはやや真剣みを帯びていた。

「まあとりあえず中に入って。お茶でも御馳走するわ」そう言って茜は扉を全開にした。

 リビングへと案内する茜の後に付いていく。変わった設計をしている家で、一階は完全なるピアノ教室と化しているらしく、入ってすぐの階段を上がって行く。暮らしているのは二階になるらしい。廊下の壁には子供たちが描いた絵や、コンクールで取ったと思われる賞状などが所狭しと貼ってあって、三日月の家とは正反対の和気あいあいとした明るさが伝わってきた。やはり部屋は個人を反映しているな、とその時思った。

 リビングに招かれて椅子へと腰を下ろした。茜は「今、紅茶でも淹れるから待っていて」と言ってキッチンへと入って行く。三日月を見るとなぜか立っており椅子に座ろうとしない。不思議に思って首を傾げていると「ごめんなさい」と言い残して、茜のいるキッチンへと歩みを進めた。そして茜に声をかける。

「茜さん、ピアノ弾いてもいい?」

 茜は紅茶を入れる作業をしながら淡々と答える。

「いいけど、お茶は?」

「……いらない」

 三日月はそっけなく言い放つと、若干速足で階段を下りて行った。去り際に見えた三日月の顔は今までで一番素直な笑顔を浮かべていたような、そんな気がした。

 突然の出来事に少し戸惑っていたものの、特に何かをするわけでもなく静かに椅子に座っていると、聞き覚えのあるような曲が下の階から聞こえてきた。

 ゆったりとした前奏。

 移ろう波長と変わらないペース。

 そして悲哀をのせた美しきリズム。

 夢うつつというか、浮遊している感じがいいよな。なんか自由になったみたいで。

友人の言葉が脳裏をよぎる。それは今まで感じてきた三日月そのもの、ベートーベンピアノソナタ第十四番『月光』であった。

 なぜ三日月がこれを?

 そんな疑問が一瞬頭の水面を掠めて行く。しかしすぐにそれはかき消された。

 ピアノの音に全神経が引きこまれた。

 流れるような音が無性に焦燥を駆り立てる。

 切なさが、儚さが、ピアノの音色に乗って、心へとしみ込んでくる。

 しばらくの間、揺れるような音程に陶酔しきっていた。

後半を過ぎたところではっと気がつく。

これは昨日音楽室から流れてきた曲とまったく同じであったのだ。テンポや曲調などの部分では素人には到底比較できないが、この曲に込められているパトスの根底が一致していると直感で感じた。

昨日あそこで弾いていたのはもしかしたら三日月だったのではないだろうか?

しかし、たとえもしそれが三日月だったとしてもどうでもよかった。今はただこの悲哀にも似た、込み上げてくる気持ちに浸っていたかった。

 コトッ。

 静かに置かれたティーカップに思わず体をびくつかせる。上を見上げるとお盆を抱えた茜が笑顔で椅子の横に立っていた。

「あ、どうも」

 急な出来事にぎこちなくも会釈をする。それを見てゆっくりと茜は口を開いた。

「今、葵ちゃんの演奏に聴き惚れてたでしょ?」

 先刻の笑顔がまた別の、少し意地悪そうな笑顔に変わった。

「ええ、まあ」

 紅茶に手を伸ばしながら勤めて平然と答える。しかし熱い紅茶を無理にでもすすった仕草が少し子供っぽかったのか、茜はフフフと笑ってから「正直ね」と言った。

 茜は自分の紅茶をテーブルに置くと同時に真向かいへと腰を下ろした。身長的にはこちらの方が高いはずなのに、茜はしゃんとした姿勢で座っているせいか目線が丁度合う。余裕があるその表情と、優雅な佇まいは、大人の女性という面では三日月よりも綺麗に見えた。こちらを食い入るような目線が少し気になり斜め下へと視線を移した。

「葵ちゃんとはいつから付き合っているの?」

 わずかにショートボブが右へと傾く。しかし茜の目はただ一点を見つめるようにこちらを凝視したままだった。

「わりと最近です」カップを手に取り、一口啜った。無意識のうちの行為で味は分からなかったが、ほのかな香りが漂う。アールグレイだろうか、それともタージリン。まあ別段どうでもよかった。気付くと三日月の演奏はすでに第二楽章へと突入していた。

 再び目を閉じて、考える。

 最初に感じたのと同じだ。

 儚くて、不安定で、消え入りそうな存在。

 伝わってくる。

 三日月の負の部分が。

憔悴や孤独や悲愴。決して表に現すことのない、そして悟られることもない三日月の抱えている何か。一言で言うならばそれは楔だった。三日月と過去とを永久に結びつける楔が音を弾くことで初めて伝わってきたのだ。

いい曲だと思った。

いい曲なのに……。

どうしてこんなにも冷たく重いのだ……。

恍惚と幻想に身を委ねていると、突然声が聞こえてきた。

「昔はね、よく笑う子だったの」

 現実へと戻されたように目を開ける。茜の目線はカップに注がれた紅茶へと移動しており、昔を懐かしむような目を向けている。

 どう反応してよいのか分からず黙ったままでいると再び茜は口を開く。

「家に来ると、それこそ今みたいにすぐに一階のグランドピアノのところまで走って行って時間を忘れるほど没頭していたのよ」

 茜はカップを手にとって一口啜った。

 ピアノの音色が、また少し変わったような気がした。第三楽章へと続く導入の部分だ。悲しみが、痛みが、色濃く浮かび上がってくる。

「あの子、必ず最初に『月光』を弾くの。と言っても『月光』自体は十歳の時に覚えた曲なんだけどね」

 沈黙を続ける。相槌は不要だと思った。

 曲はとうとう第三楽章へと入り、流れるような冒頭部分が心の芯にまで響いてくる。ここが一番想い入れの深い場所だと感じた。

失望。

 何に対してかは分からない。ただあえて不完全な言葉として表わすならばこの一語ほど的確な物はなかった。口下手なだけかもしれないが、これ以上の言葉を俺は知らない。

 そして想像した。ピアノを弾いている三日月の後ろ姿。長く黒い髪に、それと対称なすらっとした色白い細い腕。軽やかに踊る両手の指。

それは皮肉にも今までで一番美しい姿だった。 

「この曲、葵ちゃんにすごく合っているって言うか、そのまんまって気がするのよね」

 茜はぼそっと独り言のように呟いた。それは同意を求めると言うよりは今まで幾度も感じてきたことを口に出して認識を深めた、と言った感じであった。

 だが、ここであえて口を開く。言うならば今しかないと思った。

「……それは、解る気がします」本心だった。

 三日月の揺れるような音は変わらずに響いてくる。

 茜は少し驚いたような顔をしていたが、すぐに笑顔を見せると先ほどの台詞をもう一度繰り返した。「正直ね」

 少し照れくさくなって目を細めた。耳を澄ませば聞こえてくる音はなんとも心地よかった。

「ねえ葵ちゃんのことどう思う?」

 しかし茜は曲に浸らせてはくれなかった。まだ話は終わってないのよとでも言うように、尋ねてきた。

「どうって言われても……」

 返答に困り、口どもってしまう。

「ほら、葵ちゃんの外見とかよ」

 衝動的に首を斜めに傾けた。質問の意味が分からなかったのではない。茜の言おうとすることが分からないのだ。

 眉目秀麗と言えばいいのか?容姿端麗と言えば満足するのか?

 茜の魂胆が見えないと置き換えてもいい。なにかを誘導しているような、それでいて黒いもの抱えているような、そんな気がした。

 だがこのまま黙っているのも気まずかったのでゆっくりと口を開く。

「葵さんの容姿は確かに綺麗だと思います。でもそれは、葵さんが葵さんだったから綺麗だと思ったのではなく、例えば葵さんの姿が茜さんであったとしても俺…僕は綺麗だと思っていたと思います、多分。…ややこしいけど」

 最後の方は自信なく小さい声になっていた。自分の気持ちが整理できずに言葉に置き換えるのはとても歯がゆい。不完全なものを不完全なもので表現するのだから当然なことなのだろう。だがそれでも、今の時点ではこれが精いっぱいだった。

 茜はいつの間にか真剣な顔つきでこちらを見ていた。まるでそれは、よい骨董品を目利きする鑑定家のような目つきであった。

「ふーん。それが、光君が葵ちゃんに惹かれた理由かぁ」

「惹かれたって言うか、存在が儚げだと思いました」

 茜はぐいっと身を乗り出すと意地悪そうな笑顔でこう言った。

「なんで葵ちゃんが儚げなのか教えてあげようか?」

 少し背筋に冷たいものが走った。

 茜の声はまるで魔女の囁きだった。いや悪魔と言ってもいいかもしれない。それともアダムとイブをそそのかした蛇か。なんでもよかった。

 とにかく、その目前に置かれた禁断の果実を食べてはいけないことだけは分かった。

「結構です。聞こうなんて思いませんし、聞きたくもありません。もし葵の口から直接聞くのであれば別ですけど」

 最後の一言は蛇足かなとも思ったが、勢いに任せて口からこぼれていた。呼び捨てに言ってしまったのもなぜか自然に、だった。

 言いきってしまったせいか、重い沈黙が流れる。しかし目線だけは茜の目を捉えたまま離さなかった。

クスッ。

空気と空気がすれるような僅かな音が聞こえた。茜の口元が緩んでいるのでそれが笑いだと容易に分かった。

そしてそれがトリガーとなり、茜は普段の優しい顔で笑っていた。

「ごめんなさいね」

 澄んだような笑い声が収まり、息を整えた茜は言った。

 しかし笑っていた理由さえ分からないまま突然言われた謝罪に訝しげな表情を浮かべているしかなかった。俺が困惑していると、再び茜が口を開いた。

「最近付き合ったって言うからどんな子かと思ったけど」

 そこで茜は一呼吸入れる。

「しっかり葵ちゃんのこと見ているのね」茜の目は穏やかだった。

 そうか。やっと分かった。

「ああ」と思わず声をあげる。茜が言いたかった意図がやっと見えたのだ。

 先ほどからときどき見せる真剣な目つきと誘導させているような挑戦的な発言。そうか。全てはそういうことだったのか。

「試したんですね」声のトーンを一つ下げてそう言った。

「ええ」と茜はストレートに言う。否定する気も隠し立てするつもりもないらしい。

「もし光君が葵ちゃんの体が目当てだったら、忠告しようと思って。いいえ、ここは素直に言うわ。手を引かせていたわ」

 茜は強い口調で言った。その言葉は過信でも誇張でもなく、本当に手を引かせていたというようだった。茜は続ける。

「私、葵ちゃんには幸せになってほしいの。小さい頃から見ていたっていうのもあるけど、それだけじゃない。それだけじゃない事情も知っているから。

 だからもし葵ちゃんの重みを、思いを一緒に背負っていける人でなかったら私は許さない。軽い関わりで葵ちゃんを傷つけたくない。他人が口を挟むところじゃないと言われようが、絶対に」

 茜は最後に鋭い目線を浴びせて、もとの笑顔に戻った。

「でも光君なら大丈夫よね、きっと」

 寂寞の思いに唇を噛みしめた。

 やめてくれとは言えなかったがそうじゃないと訂正したかった。

 確かに葵を傷つけるようなことを言ったつもりも詮索したつもりもない。だがそれは仕事という便宜上のことだった。もし葵と普通に付き合っていたとして、本当に聞くのをやめただろうか。いや、わからない。

 好きな相手のことを知りたいと思うのは至極当然のことだと思うし、困っているならばなおさらだ。力になってやりたいと思うはずだ。たとえそれを拒まれようとも。

 でも、それ以前に―

 茜の期待と安心のこもった言葉が胸を締めつける。

 そうじゃない。

 心の隅で小さくなった自分が叫んだ。

 俺はそんな人間じゃない。

 ピアノの音が止んだ。気付くともうすでに演奏は終局していた。余韻に浸る間もなく音は完全に消えていた。静けさが急に怖いものに思えた。

 階段を上る音が聞こえてくる。扉の前には葵がいた。

「腕は落ちてないみたいね」

 茜は淹れなおした紅茶のカップをお盆で運んでくると言った。

 葵は少し照れたように下を俯いた。その顔は若干微笑んでいるようにも見えたが、もしかしたら思いすごしかもしれない。

 どうだったというような目線が激しい郷愁を駆り立てた。切ないと言ってもいい。心がしぼんでいくのを感じた。

 いくら葵に優しい声をかけても。

 いくら葵と深く関わっても。

 結局、あと四週間後には切れる縁。

 何かしても何もしてないことと同じなのだ。

 後に残るのは虚しさだけ。ならば何もしない方がいい。葵のことを考えなければ傷つくことも傷つけることもない。

 頭では解っている。だけど。だけどなぜか、言い知れぬわだかまりがいつまでもいつまでも脱ぎとれなかった。


 荘厳とした朝、アスファルトで固められた道を自転車で颯爽と駆けていく。車輪が地面とのこすれによって磨滅する音が、あるいは感覚が、ハンドルを握った掌の裏から押し上げるように伝わってくる。見上げると、春の陽気とは対照的な灰色の雲が、しかめ面をして空を覆っていた。まるでそれは吸い上げられた一種の泥のようだった。雲を泥と表現するのはあまりにも傲慢かと思ったが逆に言い得て妙。むしろぴったりとおさまるのが痛快だった。

 知らないうちにまたあの月を探していた。だが朝日さえ通さぬ雲が、幽かな月明かりを許すはずもなく、その期待は無残にも散った。

 あきらめて再び前を向いた。目の前にある建物は段々と近づいて行き、やがて眼の端に捉えた瞬間にはとてつもない早さで、過ぎ去っていく。その繰り返しだった。

 朝の気だるさは一日の中で最も大きな絶望なのかもしれない。少なくとも俺はこの時そう思った。平日の朝のように通学路で汗をかきながら歩いていくサラリーマンの人々や、学び舎へと向かう生徒と同じように課せられた使命、というか義務感みたいなものを背負い、通学するならばまだ納得出来るというものだろう。ところが休日の午前に、しかもただただ文句を言うためだけにあの憎き二枚目純と言う男のいる病院へと向かうのは、例え奴を痛めつけることが出来るという期待を差し引いても余りあるほどに、面倒くさいという倦怠感は消えなかった。

 だがしかし。それでも俺は、奴の元へと向かわなければいけないのだ。行って謝罪の一つでもさせなければ気が済まなかった。太宰治の「走れメロス」のメロスが、あのディオニス王に制裁を下そうと激怒した瞬間とほぼ同じ感情が、俺の中に湧き上がっていた。まあ、このまま展開するとメロスは返り討ちにあって捉えられてしまうのだが。

 二枚目純の討伐、もといお見舞いへ行こうと決めたのは二日前、つまり葵の通っていたピアノ教室へと赴いた日の翌日だった。丁度その日は、前もって知らされていた、下宿をしている者だけのミーティングがあり、担任である五百蔵に二枚目の入院している病院の場所を聞き出したのだ。結局そのミーティングはと言うと、予想通りと言うべきか休みの二枚目を抜いた俺と翔だけで行ったため、事実上三者面談とほぼ何も変わらなかった。俺はどうせ翔のことが中心となるだろうと予想していたため、いきなり五百蔵に「少し三日月について聞きたいことがあるのだが、いいか一ノ瀬」と言われた時には流石に寝耳に水をかけられたような気分になった。

 五百蔵にはまず「なぜ三日月が突然学校に来るようになったのか」ということと「それが、最近お前と彼女が親しい理由と何か関係があるのか」ということを聞かれた。俺は少し考えた後、両方とも解りませんと首を横に振った。理由を知らない俺は葵が彼氏屋へ来たことと、五百蔵の言ったことに関連性があるのかどうか、わからなかったからだ。そう答えたきり五百蔵は一つ「うーん」と唸ったがそれ以上問いただそうとせず、次の質問に移った。

次に五百蔵は「三日月のことをどのくらい知っているのだ」と問いただした。しかし俺はその問いには答えなかった。その言葉はまるで、何も知らないはずのお前が葵と付き合うなんて間違っている、と仄めかしているようであったからだ。だから俺は答える代わりに、見据えたように見る五百蔵の目線に対し、またそれかといううんざりした顔を向けてやった。

どうして大人は素性や過去にとらわれるのだろうか。いやこだわると言った方がいいのかもしれない。そしてそれを知らない者たちを全力で排除しようとする。別に葵の過去についてどうこう言おうとは思わない。それは最初に決めたことだったし、茜の言うとおり知っても何かできるだなんて思っていない。それなのに五百蔵はまるで―いや本当に、葵にかかわるなと遠回しに言っているようで、俺はそれが気に食わなかった。五百蔵は恐らく、俺に釘を刺そうとそのように聞いたつもりだろうが、見当違いにもほどがある。俺にとっての正義は飽く迄「葵と一カ月彼氏ごっこをすること」であって、助けることではない。そんなのは時代遅れの戦隊ヒーローにでも任しておけばいい。

砂時計の落ちる砂を掬えないように、俺は葵を救えない。決して自暴自棄なって自分の無力さを痛感しているわけでは、ない。ただ事実としてそうなのだ。雨に憂欝を感じる人はいるが、その雨をどうにかしようとする人はまずいない。それは無意味な行為だと分かっているからだ。ただ人はその雨に濡れないように傘を差すだけだ。

結局黙ったままだったのが功を奏したのか、業を煮やした五百蔵は仕方なく翔の方へと話を移した。

 そう言うわけで後味の悪い三者面談となってしまったが、とりあえず二枚目純の居所は突き止めた。そして休みである今日、行くこととなったのだ。

 そんなことを考えていると、もうすでに病院の近くへとさしかかっていた。大学の付属であるこの病院に二枚目は入院しているはずだ。自転車を駐輪場へと並べ、受け付けへと向かった。三〇五号室が二枚目の部屋だと教えられ、エレベーターに乗った俺は内心奴をどう精神的に追い込もうかということだけを思案していた。しかしそんな思惑は病室に入った途端に綺麗さっぱりどこかへ吹き飛んでしまった。

 俺は三〇五と書かれた病室の前に立って、文字通り唖然としていた。二枚目は一番奥のベッドにいるらしいということが分かった。「らしい」と思ったのは二枚目本人を直接見たわけではないからだ。しかし二枚目がいるという事実だけは分かった。確認していないのに、なぜわかったのか。入口に貼ってあるステッカーに二枚目の名前が書いてあったからというわけではない。それ以前にひどく決定的な周りとの相違が、二枚目のベッドには顕著に表れていたからだ。

 そう女性だ。二枚目の見舞いに来たであろう人たち―主に女性が二枚目の周りを取り囲み、それだけでなく、あまり広くはない病室の中にひっきりなしに押し合いへしあいを繰り返していたのだ。半分は見たことがある―つまり同じ高校の女子の顔ぶれなのだが、中には二十歳すぎの女性の姿もあることに俺はさらに愕然とした。そんな光景をまるでハブがマングースを捕食するという有り得ない場面に出くわしたように、ただ呆然と眺めていると、どこからか、黄色い声援と打って変わった野太い声が聞こえてきた。

「おい、持てるにーちゃん、今度は男の友達が来たみたいだぜ」

 その声が二枚目の反対側のベッドから発せられたものだということに気付くと同時に、その台詞の「持てるにーちゃん」と「男の友達」がそれぞれ二枚目と俺のことを指しているのだということを理解した。そしてその声が聞こえた数秒後、今まであれほどいた見舞客はまるで蜘蛛の子を散らすがごとく、病室の外へと退散していった。

 嵐が去った後のように静まり返った病室の前に立ちすくんでいた俺は、ようやく二枚目のベッドへと歩を進めて行った。

 二枚目はベッドに横たわっていた。その顔はまるで何事も無かったかのように笑っており、この殺伐とした空気とはそぐわない笑顔だった。しかもその笑顔は俺を見ると同時に一層明るく輝いた。

「待っていたよ、ノセちゃん」

 二枚目は最初そんなことを言った。

「別に行くって連絡したわけじゃないけどな。それより容体は?」

 一分前まで会っていきなり文句を吐き捨て、適度に殴ろうかと考えていたはずなのに、そんな考えはもうすでに消えていた。むしろ相手を気にかける言葉が口ついて出たことに俺は内心で苦笑していた。

「容体って、そんな大袈裟なことじゃないよ。見ての通りぴんぴんしているよ」

 二枚目はそう言うと、ぐるぐる巻きにされ、ギプスで固定してある右足を問題なさそうにさすっていた。

「そうか、まあ今回は自業自得だしな」

「厳しいね、ノセちゃんは」

 二枚目はなおも笑ってそう言った。

「ところで、さっきの大混雑は何だったんだ?」俺はどうしても忘れられないあの光景を再び思い出していた。

「ああ、あれね。みんな僕の友達なんだけど、ここを教えたわけじゃないのになぜかばれちゃってね。わざわざ見舞いに来てくれたんだ。騒がしくてごめんね。でももう追い返したから」

「あ、あとシゲさんもごめんなさい」

 二枚目は大きな声で俺の頭上を飛び越えるようにそう言った。俺が後ろを向くと、反対側のベッドには顎鬚をたくわえた中年の男性が横になって寝ていた。

「おう、気にすんな。と言いたいところだが、少し昼寝するからあんまり騒がんでくれ」

 シゲさんと呼ばれた男性はそう言ったきりカーテンを閉め切ってしまった。二枚目は再度謝ると俺の方に顔を向けた。

「ノセちゃん、仕事の調子はどう?」

 二枚目は不躾にそう言った。

「最悪の中じゃ、本当に最悪な方かな」

「そりゃよかった」二枚目はふうと安堵する。

「いや、よくはねえよ。本当にとんでもない仕事押しつけてくれたな」

 のんきそうに笑う二枚目にやっと怒りが戻ってきたようだった。

「お金に釣られたノセちゃんが悪い。まあそれはともかく、もうお客さんの相手はしているの?」

「ああ。行ったその日に仕事が入った」

 俺はそう言うと今までのいきさつを二枚目に話してやった。二枚目は客が葵だということを聞くと、流石に驚いた顔をしていたが、その後は特に表情を変えずに聞いていた。

「うん、そうか。それはとても大変なことになったね。でもねノセちゃん、多分キムさんから言われていると思うけど…」

「『深くは関わるな』だろ。あのおっさんの言葉だけは頭に染みついて離れないんだよ」

「そう、それならいいんだけど…。ノセちゃんは優しいから」

 二枚目はなぜか切なそうにそう言った。

「さっきは厳しいって言ってたけどな」

「厳しさも愛のうちだよ」

 詭弁だな。俺は咄嗟にそう思ったが、口には出さなかった。

「あ、そうだ。外を見てごらん、ノセちゃん」

 二枚目にそう言われ俺は横を向いて窓に映る桜の木を眺めた。

「もうすっかり葉桜だな。まあ五月だから当たり前と言えば当たり前か。それがどうかしたか?」

「ねえノセちゃん」

「何だよ」

 俺は桜の木から二枚目の横顔へと視線を移した。

「どうして桜の花が散るのか知ってる?」二枚目はまた切なそうな顔をして、葉桜を見ていた。

「別に桜の花に限ったことじゃないだろ」

「いや、桜の花限定だよ」

 少しの沈黙の後、俺はこう答えた。

「わざわざ咲かせる意味が無いからなんじゃねえの。ずっと咲かせているためには養分がいるし、桜だって疲れるだろ」

 そう言うと二枚目は目を細くして笑っていた。

「実にノセちゃんらしい答えだね。合理的で、自然摂理に則っている」

「それはどうも」

 褒められている気はしなかったが俺はそう言った。

「そういう…」

「うん?」

「そういうお前はどうなんだよ。どうして桜の花は散ると思うんだ?」

 二枚目は、俺が空けた間と同じぐらいの沈黙の後、静かに口を開いた。

「僕はこう思うよ。もし桜が散らなかったら、桜が一年中咲いていたら、僕たちは知らなかったと思うんだ。春に咲く桜が、こんなにも綺麗だったってことを。常に咲いている桜なんて面白くもなんともないでしょ。だから桜は散るんだよ」

 二枚目はそう言い切ると俺の方に顔を向けた。

「自分勝手な考えだな。桜にはそんな気さらさらないだろ」

「…だけど、あれだな」

 俺は「ふう」と溜息を一つ洩らした。

「なるほど。お前が数多の女性を落としてきたその実力を垣間見た気がしたよ。そんな恥ずかしい台詞を真顔で言えるところが持てる理由なんだな」

「いや、僕は持てていないよ、そんなに」

 謙遜する二枚目に若干腹立たしくなってきた俺だった。

「うるさい。お前は女からは持てはやされて、男からは嫌悪されるんだよ。そろそろ自覚しやがれ。どうせ女と海を見ながら『この波をさらうのは遠くのあの月なんだよね。だから離れた僕を引きつけてくれた月は君に違いないんだ』とか身の毛もよだつようなこと言ってきたんだろ」

「そんなこと…」

 二枚目は困った表情を浮かべたが、その後照れたように「まあ一回だけ」と小さな声で呟いた。

「あるのかよ」

 俺は苦笑いを浮かべて、もう一度溜息をついた。

 その後、俺と二枚目は適度に雑談をした。思えば二枚目純という男と、こうして正面向かい合って話したことは初めてのことだった。クラスは去年から一緒だったし、男子から嫌われているものの、決して話さないという仲ではなかった。だがお互いがお互いのことを深く話し合うというのは初めてで、少し気に触ることや面倒だと思うこともあるにはあるが、しかし建前を抜きで話すのはなぜか心地いいというか、すごく楽だった。

 時間が経ち、そろそろ帰ろうと腰を上げると二枚目が口を開いた。「ねえ、ノセちゃん」

「僕、さっきは偉そうに警告とかしたけど前言撤回するね。やっぱりお客さんを、三日月さんを大切にしてあげて」

「…えらい変わりようだな。恋愛経験豊富のお前らしくない。確か一人には固執しないんじゃなかったのか」

 俺は口ではそう言ったが、俺に警告しようとしたあの時、なぜ二枚目があんな切なそうな表情を浮かべたのかが少しわかったような気がした。

「うん、僕もそれがこの仕事をやっていくうえで必要なことだと思っていた。だけどノセちゃん、必要なことかもしれないけど、正解じゃないんだよ」

 二枚目は悲哀のこもった顔でさらに続けた。

「だいぶ前、僕は初めて人を好きになったんだ。この感情が、恋なのかどうかは分からない。なんせ初めての感情だったから。しかも好きになったのはこの仕事で付き合うことになった女性だった。そのひとはね、生きることをひどく楽しんでいた。大体彼氏屋に来る人間はどこか憂欝そうで、一癖も二癖もあるような人が多いんだ。だけどそんな中、あのひとは輝いていた。そして気さくで優しかった。少なくとも僕はその時そう感じたんだ。だからそのひとと付き合うことになって、次第に僕もそのひとの元気に当てられたっていうか、兎に角すごく楽しかった。そしてずっとそのひとと一緒にいられたらいいのになって思うようになっていたんだ」

「それで?」息を吐いた二枚目に続きを促した。

「それで僕はそのひとに告白したんだ。これからも一緒にいたいって。段々と近づいて来る別れに僕は堪えられなかった。たとえ、彼氏屋を追放されることになったとしても僕はよかった。そのくらいの覚悟があったんだ。でもね、そのひとの返事はノーだった。

去り際に見た彼女の後ろ姿は泣いていると一目でわかったよ。両肩が小刻みに揺れていたからね。だけど僕はその震えた肩を抱きしめてあげることが、もうできなかった。それから彼女と別れる日が来るまでもう二度と会うことも無かった。

そこで初めて後悔したよ。こんなことになるんだったら思いなんか伝えなければ良かったって。それで残った大切な時間を彼女と大切に過ごせばよかったんだって。一期一会って言葉の通り、僕は彼女との出会いをもっと大切にしてあげればよかったんだ。そしたらあんな軽率な行動にはでなかったはずだよ。そういう意味で僕はまだまだ青臭い子供だった。

だからね、ノセちゃん。さっきも言ったけど、三日月さんとの出会いを大切にしてあげて。何もしない方がいいなんてそんな悲しい事言わないでよね。もう始めからやり直すことなんてできない出会いだけど、それでもあの時の僕と違って、これからを変えていける出会いなんだから」

二枚目はそう言ったきり下を向いてしまった。

「二枚目、ありがとうな」

俺がそう言うと二枚目は下を向いたまま「え?」と聞いた。

「今のことを俺に話してくれたのは俺のことを信用してくれているからだろ?だからありがとう。俺もお前の言葉を信じるよ」

 俺はそれだけ言って後ろ振り向いた。それ以上は不要だと思った。そして俺が立ち去ろうとする寸前、二枚目は小さな声で呟いた。微かに泣き声で「やっぱりノセちゃんは優しいね」とそう言ったのが聞こえた。


 二枚目と会った翌日からだろうか、この一週間消えることのなかった言い知れぬわだかまりが、まるで湯水の如くするりと落ちて行った。そう感じると、俺は自然と笑みがこぼれた。なんだ、励まされたのは俺の方だったのか。二枚目と会ってあの話をしたことで、俺は知らず知らずのうちに二枚目に救われていたのだ。俺はこの一週間、自らを身動きの取れない状況に置いていた。重すぎる責務を自分に課して、過度な自意識で自分を縛っていた。それをきっと奴は見抜いていたに違いない。だから俺なんかにあの話をしてくれたのだ。少なくとも俺はそう思った。そう思えたからこそ、今ようやくこうして心の圧力から解き放たれた。

月曜日にやってくる朝の悪魔はもうどこにもいない。ポケットサイズに収まるそいつは、体中を走り回って俺をいつも憂鬱にさせた。だけどそいつはもういない。まるで始めからいなかったのではと思うくらいあっという間に消えていた。

葵をお昼に誘ったのは昼休みのチャイムが鳴った直後だった。弁当箱を二つ持ったまま、葵のいる教室へと向かうというのはやはり周りが気になったが、幸い葵は一番後ろの席で本を読んでいた。「葵」と声をかけると、その声に反応して葵は静かにこちらを振り向いた。そして儚げで、まるでそよ風のように「ヒカル君」と呟いた。俺は照れながらもお弁当を上に掲げて聞いた。「お昼食べてないって言っていたからさ。これから、どう?」照れ隠しからか下唇を噛んで横を向くが、内心断られたらどうしようかと心配だった。しかし葵は驚いたように目を丸くしていただけで、やがて頬を少し赤らめると「うん」と小さく頷いた。そんな葵の反応がとても新鮮で、一瞬可愛いなと思うほどだった。葵は本を閉じて、立ち上がると「どこにする?」と聞いた。その意味がすぐに分かった俺は、空いた方の手で上を指しながら「展望室ならきっと静かで過ごしやすいよ」と即答した。同じ轍は踏まない。一週間前のあの恥ずかしい事件を思い出しながら俺はそう思った。

展望室には予想通り数えられるほどの人数しかいなかった。いるのは女子の数人グループと仲のよさそうな男女のペアだけである。どちらも楽しく食事をしているようだ。みんな一度はこちらを振り向くのだが、特に気にとめたようでもなくすぐに各々会話を再開した。俺と葵は近くのベンチに腰をかけた。

「サンドイッチなら食べられるかなーと思ったんだけど、どうかな?」

 俺はそう言いながら横に座る葵の膝もとに、ピンクの風呂敷で包まれた弁当箱をゆっくりと置いた。

「ありがとう」三日月はいつもと変わらない様子でそう言ったのだが、僅かに綻んだ口元を見てしまった俺は、まるでガラクタの中から美しい宝石を探し当てた時のようなそんなぱっと晴れた気分になった。あんまりにそのことが嬉しくて、ついつい調子に乗って「右からハム、レタス、卵、チーズだよ」などと具の説明を始めた俺だが、すぐその後に葵がチーズを苦手だったということがわかり、どこか空回りした昼食となってしまった。

 俺たちは空になった弁当箱を抱えたまま、ガラス張りの天井に映るゆっくりと流れている大きな雲を眺めていた。

「葵、今日の放課後とか予定入ってたりする?」意を決したわけではないのだが、一つ深呼吸した後に俺は葵にそう聞いた。

「いえ、特に何もないけど」

「本当?じゃあさ、今日うちに遊びに来ない?実は翔の趣味で、家にクラシックのシーディーとかいっぱいあるんだ。葵も音楽好きでしょ?だから一緒にどうかなーって」

「つまり、ヒカル君の家で音楽鑑賞…」葵はそこまで言って首を傾げた。

「まあ堅い言い方すると、そゆこと。嫌かな?」

葵は首を横に振った。

「よし、決まり」

 俺は多少強引にではあったが約束を取り付けた。こういった誘いはひどく不慣れで、今回もやっぱりどこかぎこちない。それでも葵が首を縦に振ってくれたことが何よりもうれしかった。

放課後、約束通り俺は葵を自転車に乗せたままいつもの道を通って家へと着いた。自転車に乗っている間、家までの道のりがとても長く感じられ普段何気なく通っているはずの道が初めて来るところのように新鮮だった。葵と一緒にいることで世界の全てが変わってしまったようなのだ。空を流れる雲の形を意識したり、猫や小鳥ののどかな鳴き声が自然と耳へと入ってきたり。いつもなら素通りしてしまうようなそんな光景が、確かに存在しているということに気付かされた。そしてそうした光景と出会うことで俺は少なからず喜びや楽しさをそこに見出していた。

アパートの鍵を開け部屋へと入ると、俺は葵を奥へと通した。女性の家へと入った時と同様、自分の家へ女性を招き入れるということも初めての経験だった。

「部屋、散らかっているけど勘弁な」流石に客人を万年ゴタツの中へと足を通させるわけにもいかなかったので、押し入れから取り出してきた若干埃のかぶった座布団を、数回手で払って葵の元へと置いた。

 葵は「気にしないわ」と言ってそこに静かに座る。綺麗な脚線美に少し目線を奪われたが、すかさず本棚の方へと駆け寄った。

部屋の本棚にはたくさんのクラッシックシーディーが置いてある。全て翔が購入したものだ。量で言えば図書館に匹敵するほど多く、ちょっとした展示会が開けるほどである。また翔は自分のこだわりというものがない。クラッシックならば何でもいいという主義なため種類も多い。だからショパンのような繊細なピアノを流す時もあれば、ベートーベンのような豪快なオーケストラを流す時もある。

センスは滅茶苦茶なくせに、よく音を聴いている。耳がいいと言うのか感性が鋭いと言うのか、翔の感想は的を射ていてときどき感心したりもする。

実は音楽に対してすごく真っすぐなのかもしれない。素直と言い換えてもいい。

そこで思う。

ピアノを弾いている時の葵にもその面影を見た気がした。もちろん直接見たことがないので飽く迄想像上のことなのだが、あの日ピアノを弾きに行く葵の顔は珍しく抑揚があったようだった。音に感情を乗せていたのも意外なことだった。

 部屋の本棚に所狭しと並べられたシーディーの中からピアノ協奏曲を探した。

 翔はここにある曲と作曲者の名は全て知っており、場所まで正確に覚えている。なんの法則で並べられているのかは分からないが、配置にはうるさい。少しいじっただけでも、激怒する。英単語の一つもまともに覚えられないくせに、そういう記憶力は誰よりもいいから驚く。

 右端に置いてあるケースの一つに手を伸ばした。

「葵、ラフマニノフって知ってる?」

 ケースに書かれた文字を見ながら葵に聞いた。

「ええ、もちろん。好きな作曲家の一人よ」葵はこちらを見るとそう言った。

「じゃあ、これにするか」ケースの表と裏を何度も見る。そして軽く頷くと、ケースからディスクを取り出した。何度も開けられているせいか、ケースの留め具はバカになっており簡単に開く。シーディーの穴に指を通して『ノクターン』の電源をオンにした。『ノクターン』とはこの部屋に不釣り合いなほど大きいオーディオコンポの異名だ。

 ボタンを押してシーディーを挿入した。サアァァというディスクの滑るような音が聞こえてくる。

 このオーディオは、翔がアルバイトでもらった二カ月分の給料を全額つぎ込んで買ったものだ。近くの電気屋の一番高い代物だった。左右に一つずつ背の高いスピーカーが付いており、音質はかなりのものである。だが、このせいで二カ月間、辛い貧乏生活を強いられたのは言うまでもない。

 カチャっという音がして、ピアノの第一指が厳かに鍵盤を打った。聞こえてくるなり俺は静かに万年ゴタツの中へと足をうずめた。

低い音階がテンポよく刻まれ、やがて一つの流れとなって耳へと聞こえてくる。

ふとケースの裏側へと視線を落とした。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番ハ短調。

翔のお気に入りの曲の一つで三日に一回の割合で聞いている。この曲を選んでしまったのも実は半分無意識のうちだった。

最初のアクションが収まり、少し悲しげでゆっくりとした曲調へと変わる。誰もいないゴーストタウンのような静けさと切なさがこの部屋の空気を包む。横にいる葵を見ると、曲に聴き入るように目をつむっていた。

―葵。

聞こうとしてやめた。この曲に聴き入る葵の邪魔をしたくなかった。だが、次の瞬間には口を開いて聞いていた。

「葵はどこの部分が好き?」

 葵は答える代りに手でこちらを静止した。葵が怒っているというわけではないことは分かったが、不要だったかなと喉の奥をクッと鳴らした。

 やがて、緩やかな傾斜を駆け下るように、徐々に曲が盛り上がり始める。ゆっくりだが加速をつけた勢いのまま後半部分へと流れ込む。

「ここよ」

 葵は曲の息継ぎに静かに呟いた。そしてその刹那、激情の噴射が始まった。

 一つ一つが感情の起伏を上ったり下ったりしているように揺れていた。全体としては悲劇的な曲調でありながら、情熱的な力強い音程が入り混じる。それは例えるならば海底火山のようだった。暗く冷たい海の底から湧き上がり沸騰する感情は、熱くも冷たかった。

 ―ああ、一緒だ。

ふとそんなことを思った。そしてじんわりとカイロでも貼ったように温かくて心地よい気分になった。懐かしいような、だけど思い出せない。他人と同じことを考え、他人と同じことに共感することがうれしいと感じるのなんて一体いつ以来だろうか。長い間忘れていたような気がする。

翔といたってそれは得られなかったのに。それが葵と聴くと、葵と聴くからこそ、言葉という柵から逃れることができる。いや言葉だけではない。仕事も、性差も、時間も。日常という大きな括りの中でごった返しにある全てのものが不要に感じた。きっとそれは勝手な願望、いや幻想なのかもしれないけど、それでもいい。混沌とした現実よりは、ただ純粋な幻想に浸っていたい。このままでいい。この余韻を忘れたくない。

その後も様々な作曲家の曲を聞いた。ショパン、シューベルト、ハイドン。挙げればきりがない。そして稀に葵からのリクエストもあった。曲と曲の間には葵と音楽に関するいろんな話をした。それが楽しくて時間なんてあっという間に過ぎていった。今思うとこのひと時が俺にとって最も充実した時間だったのかもしれない。だから葵が帰る前に「また来てもいいかしら」と言ってくれた時は心の底から喜びがにじみ出た。

そしてしばらくはそんな日が続いた。学校で昼休みには屋上の展望室で食事をとり、放課後になったら俺の家へと来てクラシックを聞き浸る。

やがて数日が過ぎた頃だった。俺たちはいつものようにクラシックを聞いていた。そして曲が終って次の曲を選ぶ前、曲の合間に飲みきってしまったお茶を淹れなおしたときだった。その時に雑談とも呼べないような会話をしたのだ。会話というよりは提案に近いかもしれない。葵に、今日うちですき焼きパーティーをやるから参加しないかと招待したのだ。

まあパーティーというのは名目上で実際は翔と七々海翠が付き合って一周年の記念日みたいなものだ。それこそ二人で祝えばいいのではないかと、当初一カ月の記念日の段階で俺は断りを入れたのだが、本人達の強い要望で渋々出させられた。そしてそれは毎月行われているのだからどうしようもない。結局それは気合を入れて臨む記念日では無くなり、ただ習慣化した食事会のようなものになっていた。そして更にドライに考えるならば、付き合い始めてから一カ月経とうが、一年経とうが関係無いのだ。そう言う機会を大事にすることで普段日常に埋もれてしまって忘れがちになっている関係を再確認したいだけなのだろうというのが専ら俺の持論だ。

まあだが、そのことを葵に説明するのはとても面倒なことでもあったし、それほど積極的に誘ったわけでもない。葵が嫌と言えば何も聞かない。それでいいのだ。

結局葵が行かないと言った時点でそれ以上の説得は無意味だというのは分かっていたし、事実葵は来なかった。だから誘ったのも言ってみれば気まぐれのようなものかもしれないし、挨拶のような無意味な物だったとも言える。いや、いっそ単なる弾みに近いかもしれない。突き詰めれば最後に聴いたモーツァルトの曲が葵に似合わない(実際にはイメージだが)明るい曲で少し心が浮ついてその弾みが原因だったのかもしれない。だが、遅かれ早かれそれは口にしてもおかしくないようなことだったし、恐らく葵が断るだろうということは分かっていた。

どちらにしろ、ここまで神経質になって考えることのほどでもない。当たり障りのないようなことにここまで思慮をめぐらせているのは、もしかしたらきっかけを作ってしまったことに少し気負いしているからなのかもしれない。

「そうなんじゃねぇの?」

 翔はどうでもよさそうに呆けた面で相槌を打った。そして隣にいるもう一人に「なぁ?」という同意を求めた。

「光君ってぇ、結構難しいこと考えてるよね?」

少し粘着質のある声で言ったのは、翔にべったりと寄り添うように座っている七々海翠だった。翠は本当に感心するように大きく目を開いて頷きながらこちらを見ていた。

「そうそう、お前は色々考えすぎなんだよ。禿げんぞ」

翔は横の翠をちっとも気にする様子も無く、意地悪そうに笑っている。

「でも、光君と三日月さんが付き合っていたなんて私、少し驚いちゃったな。三日月さんクラスでも大人しいからそういうのは興味ないと思ったのに」

 目の前にはすき焼きがぐつぐつと音を立てて煮たぎっており、綺麗に場所分けされた具材はまるで食べられるのを今か今かと待っているかのようである。

「どうして付き合うようになったの?」翠がいきなりそんなことを口にしたので思わず俺は黙殺してしまったが、それをフォローするように翔が口を開いた。

「あーそれ聞いても無駄だぜ、翠。光の奴ちっともしゃべらねえの」

「なんでー?私たちの仲で秘密はナシにしようってあの時言ったじゃん」

 怒ったように頬を膨らます翠を見て俺は溜息をついた。

「あの時っていつだよ。そんな約束をした覚えはない。それに秘密の一つや二つあって当然だろ。本音だけで話すなんてそれこそ疲れるだけだ」

 俺はそう言ったが翠はまだ納得できないのか、「気取っちゃってさ」などと文句を垂れている。そして今度はおもむろに翔の顔を覗く形で見上げると「翔ちゃんも私に秘密とかあるの?」と聞いた。

 翔はすぐさま「あるわけねえだろ」と答え、翠は「だよねー」と屈託なく笑いながら絡めている腕を一層強く抱きしめた。

 ―ああ、バカップルが。

 翔を溺愛し心の奥から信じている翠と、そんな翠に言い寄られ実際まんざらでもないような顔をしている翔を見て俺は首をうなだれた。「惚気なら他所でやってくれ」

俺は正直この七々海翠と言う女が、とてつもなく苦手である。だが、嫌いかと言うとそう言うわけではない。断じて違う。ただ自分が口下手で行動下手なせいでもあるからなのか、翠との間にある温度差というものをどう埋めればいいのかが解らず、困惑してしまうことが度々あるのだ。今だって翠の言動を一部始終見ていると、どうしてこのような過度なリアクションがとれるのかと不思議でならない。しかも素面で。

それともう一つ分からないと言えば、なぜ翔が翠と付き合っているのかということだ。十人十色で人の好き嫌いに口を挟める権利など無いが、それでも翔との付き合いは翠よりわずかに長い。翔のことをある程度は理解しているという自負はある。だからこそ翔がこうして翠と一年以上付き合っていられる理由が解らないのだ。確かに翠は主観的に見ても可愛い部類に属するが、顔だけの女子なら他にもたくさんいる。それ以外で翔が翠に固執する理由を知りたかった。

 しかしそんな俺の疑問をよそに、翔と翠は「お腹すいたー」、「まだなの」などと呑気にじゃれ合っていた。

「空腹は最大の調味料つってな、お腹すかせておいしいもん食べたほうが、一層おいしく感じるんだ。ま、だけどもう数分でいけると思うよ」

「流石我が家の鍋奉行。言うことが違うねえ」翔は「ひゅう」と口笛を吹いて、翠は「貫禄が出てきたよね」と相槌を打った。そんな二人のやり取りを無視して俺は器を取りいった。

「はい、適当に野菜よそったから。白滝はよく汁を吸ってて食べごろだ。肉はもう少したってからの方がいいな」

 俺が二人に器を渡すと、翠が嬉しそうに「やったー。私、白滝大好きなんだ」と声を上げた。そんな仕草が子供みたいで俺は少し呆れた。

「何がいいんだよそんな触感だけの食べ物。肉の方がおいしいに決まってるだろ」

「ねえ、なんでそういうデリカシーに欠けたこと言うかな?そんなことだと光君、女の子分かってないって三日月さんに思われちゃうよ」翠はふてくされたような顔を向けてそう言った。

「葵は今関係無いだろ。それに…」

「それに、なによ?」翠は高圧的に首を傾げる。

「葵はそういうこと思わない気がする」

 確信はなかった。しかし今までの葵を見ていると、何に対しても淡白で無頓着なところが多いため、そんなことを逐一気にするような性格とは思えなかった。まあそんなのは俺の勝手な思い込みかもしれないが。

「そういうところがずぼらって言ってるのよ。光君がどうして葵ちゃんのことを解ってると言えるのかしら。無責任に女の子を語っちゃだめよ」

 それはお前も一緒だろうがと俺は思ったが口には出さず、ついでに「三日月さん」だった呼び名が「葵ちゃん」に変わっていることにも触れないでおいた。

「大体、このパーティーに招待してないところがもう駄目ね、男として」

「いや、誘ったことは誘ったぞ」俺は即効で否定したが、それが逆に翠の癇に障ったのか、「来てないなら一緒よ」と更に語調を激しくさせた。

「そもそもこのパーティーのメインはお前らだろ。下手に葵を呼んで気まずくさせたりしたらどうする」理不尽な猛追に対して俺も段々腹が立ってきたのでそう言い返した。すると翠はとうとう切れて「だから、たくさん呼んでもいいって前から言ってんじゃない!葵ちゃんの一人や二人構いやしないわよ」

言っている意味がもはや滅茶苦茶で、さらに呂律まで回らなくなってきている翠に、俺はその場でたじろいだ。

「いやそうは言っても、やっぱりまだ…」

「距離だ時間だの、そんなのどうでもいいでしょ!大切なのは光君にその気があるかどうかよ。そんなんだからいつまでたっても―」

翠はそこで言うはずの言葉を噛みしめた。翔が丁度翠の口の前に手をかざし、静止させたからだ。

「肉でも食って少しクールダウンしろよ。お前も光も」

翔はだいぶ前から掬っていたと思われる肉を食べながら、そう言いなだめた。俺は翔の器に大量に盛られた肉を見て思わず目を瞠った。そしてそのまま鍋の方に視線を移す。鍋の中央にはぽっかりと穴が空いており、まるでそこだけが重点的に爆撃でもされたかのようだった。もはや一片の肉も残されてはいない。まさに漁夫の利。俺と翠が言い合いをしている間、混乱に乗じて全て奪い去ってしまったようだ。そして、やっと冷静になった翠もそれに気付き「お肉、一つも残ってないじゃん」と静かに呟いた。

俺は翔に「ありがとう助かった」というアイコンタクトを送ると、キッチンへお茶を取りに席を立った。

「さっきは熱くなって悪かったわ。ごめんさない」

 俺が戻ってくるなり翠はぺこりと頭を下げた。

「いや、俺もいちいち突っかかって悪かったよ。それより最後に言い掛けたの、あれ何だったの?」

「…」翠は下を向いたまま黙っている。

「まあ言いたくないなら別に言わなくていいけどさ」実際、聞きたくも無い。

「光君、一つだけ教えてくれないかしら?」

翠は顔を上げるとそう言った。先ほどのやり取りがあったため俺はわずかに体を反らせた。「突然怒ったりしない?」

「うん、もうさっきみたいには怒鳴らないよ」翠は最後に「多分」と付け加え、大きく頷いた。

「ならいいよ」

「光君は今、恋をしてるの?三日月さんに対して恋焦がれる気持ちが少しでもあるの?」

「そりゃあ…」

 俺は「あるよ」と言おうとして言えなかった。言葉なんてその場で繕える。だからその言葉を言おうとすれば出来たに違いない。だが、俺はできなかった。

 翠の言葉が素直で純粋な気持ちから表れているということが翠の声から読み取れた。その声は川のせせらぎのように儚弱なのだ。だからこそ俺も今の翠に対して嘘偽りなく答えたかった。俺の心の奥底で「ここで偽ってしまったら何かに負ける」と無意識に感じてしまったのだ。

「…わからない…」これが俺の本心だった。

「葵を大切にしたいという気持ちはあるよ。でも好きか嫌いか、恋をしているかしていないかと明確に問われてもそんなの俺は答えられない。ただ…」

「ただ?」最後の希望に縋りつくかのようにそう言った翠の顔は、今にもバラバラに壊れてしまいそうで儚かった。

「ただ、葵と一緒にいると心があったかくなる。葵と一緒にこの部屋でノクターンから流れるクラシックに耳を傾けているだけで、幸せって言うのかな、そんな嬉しい気持ちでいっぱいになるんだ」

「それが恋なんじゃないの?」

「わからない」俺はもう一度そう答えた。

 俺はこの一週間ずっと、どうして俺と葵は普通に付き合えなかったのだろうかと悩まされていた。でもそんなことを考えたところで無意味なことぐらいは分かっていた。そんな虚しいとも思える関係を肯定し続けながら生きていく自信が俺にはなかった。だから葵を好きになる―なってしまうことを恐れ、必死に心を抑圧してきたのだ。

だけど。だけどもし、葵のことを少しでも好きになれたなら、何か変わるものがあるのだろうか。決して無意味なものではないと言えるのだろうか。

とは問うものの、答えはどこからも返ってはこなかった。ただ目前にぐつぐつと煮えた具材があるばかりだった。



To be continued...

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