第一章
「虚像の月」
咲 雄太郎
第一章 非日常の始まり
月曜日。
憂鬱な週の始まり。
ゴールデンウィークも終わって、今日から学校が始まる。長い休みを挟むとどうしても気が緩んでしまう。自転車を漕ぐ足がどこかおぼつかなく、通常の二分の一のペースだ。口の中に今朝のトーストとスクランブルエッグの味が残っていてどこか居心地が悪い。
ふと空を見上げた。
まだ空には名残月が薄く淡く輝いている。綺麗とは言い難いがどこか儚げで神秘的だ。ときどきこの月が姿を現すがその度に疑問に思うことがある。
この月はどのようにして姿を消すのか。
見たことは何度もある。ただそれを観察したことはないので、消える瞬間というのを見たことがない。日が昇るのに比例して、徐々にその姿を空の色と同化させてしまうのだろうか。それとも手品のように気付いた時にはもういなくなっているのだろうか。
いずれにしても。
今日もこの疑問を解決することはできないのだろうな。
空に輝く白い月を横目で見送りながら、そんなことを思った。
「くあぁ」
隣で並走している翔がだらしない声をあげて欠伸をした。
四戸宮翔。同じクラス且つアパートの同居人。入学早々に声をかけ、ルームシェアを持ちかけてきた。いわゆる礼儀知らずの変人だ。今思えば血迷っていたのかもしれない。入学した時のテンションに身をゆだね、その場二つ返事でオーケーしてしまったのだ。驚いていたのは翔のほうだった。もう少し考えたらとまで言われたほどだ。だが、断る理由がないと言って一蹴した。実は俺も都外から下宿するつもりでいたため好都合だったのだ。
二年に上がってもクラスが同じなのはラッキーだった。三年生はクラス替えがないため、自動的に一緒になるだろう。腐れ縁にもほどがある。
どうやら昨日は中学の時の友達と夜遅くまで飲んでいたらしい。眼の下のクマと頭を押さえている仕草がそれを物語っている。
「なあ翔、昨日は何時まで飲んでたんだ?」
翔はこめかみのところを押さえながら不機嫌な顔つきでこちらを睨んだ。
「二時まで飲んで、家に着いたのは確か二時半だった気がする」
声にいつもの元気がない。翔は大きな欠伸をすると再度こちらを見上げた。
「そういう光は何してたんだよ?まさか一日中寝てたわけじゃないだろ?」
少し顔が引きつる。
「そのつもりだったんだけど、邪魔が入った」
「邪魔って?」
翔は逆立てた髪をいじりながら聞き返してきた。
「うちのクラスの二枚目純。知ってるだろ?」
「ああ、あの名前に恥じないイケ面か…。で、そいつがどうした?」
「電話がきた」
「愛の告白?」
にへらと笑ったその顔は、髪を染色しピアスをつけているにも関わらず、中学生とでもいうようなあどけなさを残している。
「違うって。バイトの代理頼まれたんだよ。ほら、あいつ事故ったろ?」
事故の直後とは思えないぐらい生き生きしていた二枚目の口調を思い出して若干腹が立ってくる。
「ああ、女とラブラブランデブーしているところを軽トラでな」
翔はけっと吐き捨てるように言った。
そうなのだ。二枚目純という男は驚くほど男には好かれない。そのかわり、それを補うほどに女子には人気があった。「偏っているな」と以前二枚目に言ったことがあったが、二枚目はいつもの笑顔のまま「人類の半分に好かれているなんてむしろ光栄だね」と言っていた。そこには自然に人を腹立たしくさせる雰囲気があった。気障じゃないところが逆に気に障る。きっとそんなところだ。
「まあそういうことで今日は直でバイト行くから先に帰ってて」
翔は「りょうかーい」と軽く反応を示すと、「チリンチリン」と意味もなくベルを二回鳴らした。仕草や言動が本当に子供っぽい。悪い言い方をすれば幼稚と言えるだろう。だがそんな翔を俺は決して嫌いではなかった。あまり人に対して素直になれない――というよりは感情や悩みを自分自身の心の中に押しとどめようとする傾向にある俺は誰に対しても第一印象はあまり良くなかった。しかし翔に対してだけは不思議とそんな抵抗を感じなかったのだ。それは最初から一貫しており、今もそうだった。
駅の近くまで来たところで、ぽつぽつと同じ高校の生徒の制服が目に入ってきた。男子は黒い学ランで地味なのに、女子のピンクのスカートがやけに目立つ。可愛いことは否めないのだが、どこかエロティックな感じがする。都心のど真ん中にあるこの高校は少し偏差値が低いながらも都会の学び舎とスカートのセンスで毎年高い倍率を維持している。
歩道を堂々と自転車で漕いでいると数メートル先に一人の女性が目に入ってきた。その後姿を目にした瞬間はっと思い出す。
三日月葵。
しかし自転車の速度を落とすことなく俺たちは彼女の横を通り過ぎていった。通り過ぎる瞬間、高級そうなシャンプーのにおいが鼻をくすぐった。三日月の細く透き通った長い髪は、まるでその一本一本が天使の織物を作るためのシルクのようだった。
「今のって三日月葵だよな」
少し間を開けてから横の翔に向ってそれとなく聞いてみた。
「あ?」
翔はいきなりなんだというような声を上げる。そして一度後ろを振り返ると疑問の表情のままこちらを見た。
「アイツって確か不登校じゃなかったっけ?」
俺は軽く頷いた。
「一年の後半から来なくなったって聞いた。でもよく知ってるな。まあクラスは一緒だったけど」
「まあな。可愛い子の情報は全て頭の中にインプットされてあるから」
「そんな浮気性だとすぐ彼女に愛想尽かされるぞ」
なぜか自慢気な表情を浮かべている翔にくぎを刺した。
「それはない」翔は即答する。
その自信は一体どこからでてくるんだ。
「でもよぉ」翔が思い出したように言葉を挟む。
「アイツって実際綺麗だよな?」
神妙な顔つきになる。
「確かに」
先ほどは翔に対して素直になれると言ったが、それは翔がきっと誰に対しても素直だからなのだろう。いや自分の感情に対して素直だというべきか。まあともかく、だから俺は邪推や遠慮なく翔と付き合えるのだ。
「少し他人とは違う気がする」
「なんつーかぁ、椿の花のような儚さと、ワイングラスのような脆さを兼ね備えた的な?」
「そうかも」
表現は意味不明だったが、人の感性は否定できないし、しようとも思わないので適当に受け流す。
「一言で言うならベートーベン第十四番の『月光』ってところか?」
「そうかも?」
首をかしげる。いまいちわかりにくい例えだ。
まあ音楽に対してはずぶの素人なので言えた義理ではないのだが。
「ま、オレのジョカノ程じゃないけどね」
「……」
陶酔しきっている翔に冷めた視線を送った。自分に素直だということが決していいことではないことを翔に教えてやりたかった。
そんなことを話しているうちにすでに校門の前に着いてしまっていた。自転車から降り、駐輪場へと向かう。すると背後からどすの利いた聞き覚えのある声がかかった。
「おう、問題児二人。ゴールデンウィーク中の課題はちゃんとやってきたか?」
振り向くとそこには見上げるほど大きな背格好の男性が立っていた。
「おざっす、オクラせんせーい」
翔が明るい声を弾ませる。
彼は自分たちの担任でもあり保護者代わりでもある五百蔵元先生だ。「オクラ先生」というあだ名は、「いおくら」の苗字が言いづらく簡略化したのと、緑色のジャージを愛用していることから由来しており、生徒からは親しみをこめてそう呼ばれている。
背は相当高く、翔の二倍はありそうな雰囲気をかもしだしている。まあ翔の背が低すぎるだけなのかもしれないが。
「ゴールデンウィークはずっと遊んでましたぁ」
何の屈託もなく話す翔に五百蔵は「はぁ」と大きなため息をついた。
「全く四戸宮、お前と言う奴は。テストではいつも赤点ぎりぎりなのだから、こういう休みの日ぐらいは勉強しなきゃだめだろ」
朝から説教を垂れる五百蔵に翔はすぐに言い返す。
「休みの日ぐらい遊ばなくて、いつ遊ぶんですか!」
もっともらしい意見を豪語する翔だが、普段から遊んでいるお前が言える言葉ではないと内心つっこむ。その証拠に、五百蔵は「説得力に欠けるな」とたしなめた。
翔はそんな五百蔵の言葉を無視するとこっちを向いて「行こうぜ」と耳打ちした。
「先生こそ、あんまり説教ばかりだとまたしわが増えますよー」
最後にそんな嫌味を言い残して駆けていく翔の後を追っかけた。
昼休みになり俺たちは食堂へと向かった。一年生のころからの常連客である俺や翔は食堂のおばちゃんに「光君」、「翔君」と呼ばれているほどの仲だ。ほぼ毎日のように利用しているせいか、顔も名前も覚えられてしまっている。
「そういえばよぁ、朝の続き話してくれや」
翔が唐突にそんなことを口にする。昼の食堂はいつも混んでいるなぁなどと思いをはせていた俺は一瞬言葉に詰まった。そしてそのせいか、とんだ見当違いの言葉を口にしてしまった。
「今日はまだ早退とかはしてないみたいだよな」
翔はもらった番号札を指の股で器用に転がしている。
「あ?早退?何のこと?」
手を止めこちらを訝しげそうに見た。
「そっちこそ何の話?」
やべっ、妙なこと口走ったか。内心どきりとした。
「普通にバイトしかなくね?他に朝話したっけ?」
「ああそっちね」
三日月の事を思い出させないようにわざとらしく大きな声で言った。
「そっち?」
翔が尋ねる。やばい墓穴を掘ったかもしれない。一瞬焦る。誤魔化しの言葉を考えていると、丁度その時翔のもっている札の番号が呼ばれた。
「お、来た」
翔がころりと表情を変える。飯、女、遊び。翔の優先順位がわかりやすくて本当に助かった。ホッと胸をなでおろしてその場で息をついた。まあ別に隠すほどのことでもないのだが、それよりもなぜ翔に聞かれた時に三日月葵の方が先に思い浮かんだのかが自分でも不思議だった。
翔が戻ってくるのと入れ替わりに自分の番号札が呼ばれた。立ち上がり際、翔に軽くアイコンタクトを送ると、人の列をかきわけカウンターまで進んでいく。毎度ながらどうしてこんなにも月曜日に人が多いのだろうかと疑問に思う。
以前そのことについておばちゃんに聞いてみたことがあった。するとおばちゃんは「多いって言うのは大変だけど嬉しいことじゃない。みんなが私の料理を楽しみにしてくれているってことでしょ?まさにみんなの胃袋をゲッツしたんだねぇ」と言っていた。少し照れた表情でそんなことを口にするおばちゃんは先生に褒められた小さな子供みたいで少し可愛かった。
カウンターへ着いた時おばちゃんがにっこり笑ってお盆を渡した。
「今日は実家からラッキョウが届いたのよ。だからサービスしといたわ」
軽く会釈をしてそれを受け取った。おばちゃんは毎回、何かしらのサービスをしてくれる。それが時に地鶏だったり豚肉だったり。そして毎度決まって「実家から」をつけるのだ。そしてその度に俺と翔は密かにおばちゃんの故郷を推理している。今日のサービスはラッキョウと言ったがこのヒントはかなり有力だと思った。ラッキョウの名産と言えば確か鹿児島あたりのはずだ。
席に戻ると翔はすでにチャーハンの三分の一を食べきっていた。ラーメンのどんぶりに盛られたその量から考えると相当ペースが速い。やがてこちらを見上げ手を止めた。
「やっぱチャーハン最高」
それだけ言うと傍らの水を一気に飲み干した。
「えっと、なんて言うんだっけソレ?」
翔が抱えるようにして持つどんぶりを指さす。
「超盛り!」
翔は翔のためだけに作られた裏メニューの名を口にすると、蓮華を片手に再びチャーハンにがっつき始めた。
食事が終ったのは戻ってきてから一〇分が経った頃だった。翔はワイシャツをまくり膨れたお腹を優しくさすっている。
「なんかガキみたいだな」
つい本音が言葉となって出てしまった。
「あ?ガキ?どこが?」
自覚ないのか、と頭では思うが口にはしない。
「それよりさ、どんな仕事なの?」
先ほどおばちゃんが持ってきてくれた熱いお茶をすすりながら翔は聞いた。
「ああ、二枚目が言うにはレンタル屋のバイトらしい」
よかった。三日月のことは綺麗さっぱり忘れてくれたみたいだ。内心でほっと胸をなでおろす。
「レンタル屋じゃたいした金になんないだろ」
「いや、二枚目いわく金のはけはいいんだって。ただ、どんな仕事かの説明は受けてない」
嘘は言っていない。ただ五十万円のことは伏せておいた。なぜか話してはいけない事のように思えた。
「もしかしたらあっち系の仕事かもよ?」
そらせた手を口に当てて茶化す翔。冗談のつもりだろうが正直その懸念も少なからずはある。だから翔のそんなおちゃめな洒落に苦笑いを浮かべた。
「アイツがそんな仕事を人に押し付けるとは思わないけどな」俺は自分を納得させるようにそう言い聞かした。
翔はすでに興味をなくしているのか「ふうん」と曖昧に答えた。その目線はやや下にありどんぶりの底を凝視している。
「葉緑体さえなければおばちゃんのチャーハンは絶品なのに」
翔はそんなことをぼそっと呟いた。大量のチャーハンが盛られていたどんぶりには先ほどとは対照的に、こじんまりとしたグリンピースが肩を寄せ合って窮屈に残されていた。
翔には嫌いな物を妙な例えで形容する癖がある。特に豆類が苦手で、グリンピースは「葉緑体」、豆腐は「プリンもどき」といった具合だ。名前を変えることでそれらから受ける衝撃を少しでも緩和するのが目的だとうそぶいていたが、正直胡散臭い。
「あ、そう言えば葉緑体で思い出したんだけどさ……」
その時だった。ふと頭に稲妻のような衝撃が走る。まだグリンピースに睨みを利かせている友人のさらに奥。壁際の席に一人座って本を読む女性が目に映った。
女性が三日月葵であるということはすぐにわかった。
だが、今の今まで気付かなかった。
いや、気付けなかった。
影が薄いという意味ではない。影よりもむしろ、存在そのものが危うげで、儚かった。
体が硬直していて動かない。しかし眼球は三日月を捉えて離さなかった。
思えば三日月葵を意識の中に入れたのはこれが初めてかもしれない。二年に上がってからはもちろん、クラスが同じだった一年前でもこんな風に考えたことはなかった。それどころか話した記憶すら曖昧だった。
必死で三日月がどんな人間だったかを思い出す。しかし出てくるのは今のように本を読んでいる姿と、ときどきとても悲しく見えた横顔だけだった。
クラスに一人は近寄りがたい人間がいるだろう。前のクラスでは三日月がその一人だった。他の女子が話しかけても決まっていつも「ごめんなさい、一人にして」と言って周りを拒絶する。噂では親が離婚しただとか兄弟のために体を売るバイトをしているとか言われているがどれも根拠のかけらもない。どうしてこのような噂が広まるのか毎度不思議に思う。そうして入学してから二カ月後には三日月は一人になっていた。
しかしそんな三日月を見てもその当時であれば、恐ろしいほど何も感じなかったはずだった。
なのに。
それなのにどうして今頃になって意識しちまうんだ?
自分でもわからない。
思春期特有の気の迷いか?
違う!
つい最近似たような恋愛小説を読んだからか?
違う!
消去法で自分の心に探りを入れるがわからない。そもそも自分にわからないものが考えてわかるわけがない。わからないものをそのままにしておくのは少し嫌だったが、タイミング良く親友の声が思考を停止させ意識を反らした。
「どうしたんだよー?」
目の前で手が振られている。はっと我に帰り、手を振っている翔を見た。そしてそれと同時に全身の筋肉が弛緩して行くのを感じた。
「大丈夫か?急にフリーズしたぞ」
見慣れないものを見ていたかのように翔の顔は戸惑っている様子だった。
「あ、ああ悪い。なんか考え事してた。で、何話だっけ?」
翔の目は怪しげにこちらを窺っている。
「何の話って…。お前が葉緑体のくだりでなんか思い出したって言ったんだろ。本当に大丈夫か?」
拳を手のひらに「ポン」と押し付ける。
「ああそうだ。緑色でオクラを思い出したんだけどさ……」
急いで意識を引き戻す。それでも目線が泳いでしまうことに多少の違和感を覚えた。
「オクラがどうした?」
首をかしげる翔。
「週末、なんか下宿している人たちだけのミーティングというかレクリエーションみたいなのをやるらしいよ。さっき手紙来た」
翔は「ふーん」と頷きながらあごに手を当てた。
「毎年やっているやつか」
「そう。去年は途中から俺とお前の三者面談になったよな」
「大きなお世話だっつーの。大体オクラが親代わりって…。ああ、考えただけで最悪」
そう言って翔は舌を出すと頭を横に振った。
「まあ、決して悪い先生じゃないんだけどな」
「真面目すぎるんだよ。二年生に進級してから俺が何枚反省文書かされたと思う?」
「いやそれは自業自得だろ」
「違うね。アイツは俺の困っている顔が見たいだけなんだ」
翔はもうすでに冷えかけているお茶を一気に飲み干した。そしてうなだれるように溜息をつくと、そのままテーブルに突っ伏した。
「意気消沈しているところにさらに追い打ちをかけたくはないんだが、今日もその反省文とやらを書かされる羽目になるかもしれないぞ」
「え、何で?」翔は目を大きく開けた。
「次の授業は古典で五百蔵。課題やったか?」
しばらくの間翔は呆然としていた。口をだらしなく開けて憔悴しきっているように見えた。しかし「ふう」と息を吐くと若干諦めに似た笑顔でこう言った。
「捕まる前に、逃げるか…」
その後翔がとぼとぼと教室へ戻っていくのを見送りながら俺は再び三日月の方へ眼をやった。しかしもうすでにその場所に三日月は居らず、まるで始めからいなかったような、そんな静かで寂しい椅子とテーブルがぽつんと食堂に取り残されているだけだった。
六時間目終了のチャイムが鳴った。
先ほどまでの静かで重々しい雰囲気は一瞬にして消え、教室内がざわつき始める。やがて蜘蛛の子を散らすように教室から人が出ていく。そのまま帰宅するもの、部活動に参加するものなど目的は様々だが、どれも単調で機械的なただ一日という同じ盤上を回り続ける歯車のような印象を受けた。気付くと既に教室には数えられるほどの人数しかおらず、辺りには閑散とした空気が漂っていた。
「終わんねーよ、光ぅ」
ふと友人の声が耳に入る。翔はシャーペンを口にくわえて机に伏していた。結局逃げ出さなかった翔は今こうして教室に残らされていた。
「そうか、オレはあと二ページだけど」
翔との会話に反応しながらも黙々とペンを動かし続ける。昨日、二枚目に予定を壊されたため、午後に宿題をやったことが皮肉にも幸いした。そんなことを考えていると丁度その時扉の開く音が聞こえてきた。
「ちゃんとやってるかー?」
五百蔵の大きな顔が扉越しから覗いていた。一回教室内をじろりと見渡すと、そのまま教室内へと入って来る。先ほどまでいた残り少ない生徒も今はもう退散していて、残っているのは俺と翔の二人だけだった。
「お、一ノ瀬はちゃんとやっているみたいだな」
そう言ってこちらの方へ歩み寄って来る。怪獣みたいなその体は歩くごとに「ドシンドシン」という音を響かせ、床から揺れている感触が伝わってくるのだ。
「まあオレは翔とは違うんで」
目の前に仁王立ちしている五百蔵に一瞥をくれると、そのまま横の翔を見下ろした。
「あん?オレもなぁ、こんなもん本気出せばすぐ終わるのよ、あん?」
最初と最後を「あん?」で終わらせる翔の言葉を聞いて五百蔵は深いため息をこぼす。
「四戸宮、それなら最初からやってこい。それと一ノ瀬、宿題をやってきていない時点で、どっちも五十歩百歩だ」
またもや、ため息をつく五百蔵。そんな五百蔵に翔が追い打ちをかける。
「せんせー、五十歩百歩ってどういう意味っすか?」
五百蔵は怒りよりも呆れた表情で翔を見ている。口をあんぐり開けて放心状態だ。それを見かねた俺は五百蔵の代わりに口を開く。
「五十歩も百歩も大して変わらないってことだよ」
翔は訝しげな表情を浮かべている。
「いやだいぶ違うだろ。あ、もしかして歩幅の問題か?」
五百蔵の手が震えている。次何か言ったらゲンコツが飛んで来るに違いない。だが五百蔵は握りしめた拳を静かに開くと、やや声のトーンを下げて言った。
「お前は、オレの授業中、何を聞いていたんだ?」
「えっとモーツアル…」
バカ!何普通に言おうとしてるんだ。
俺は急いで翔の口を押さえた。もごもご言っている翔に「お前死ぬぞ」と警告する。いくらクラッシック好きとはいえ、九割の授業を音楽鑑賞に充てているということを言えるはずもない。そんなやり取りを見ていた五百蔵は言った。
「一ノ瀬、たいへんだと思うがこのバカを頼むな」
えっオレ?
まさか自分に厄介払いを押し付けられるとは思わなかったが、了承したように首を軽く縦に振った。
「あれれぇ、先生が教育放棄っすかぁ?教育委員会にチクっちゃいますよ」
なんの屈託もなく言う翔。そんな翔の笑顔を見て五百蔵の顔はまたもや引きつった。
「お前、少しは他人に対する畏敬の念を抱け。じゃなきゃ宿題倍にするぞ」
「はい先生。今日から真人間になります」
最後の言葉を聞いたとたん、いきなり敬語に変わった翔を見て五百蔵とほぼ同時に「現金だなぁ」と呟いてしまった。
十分ぐらいたったところでペンを置く。
「じゃあ先生のところに持っていくから」
先ほど教室を後にした五百蔵。最後に「できたら職員室に見せに来い」と言い残して出ていった。
「なぁ光、写させてくれよぉ」
席を立ち、バッグを持って職員室へ向かおうとすると翔の沈んだ声がかかる。
「オクラはオレに『翔には宿題見せるなよ』って言ったんだけどな」
「そこをなんとか」
翔は両手の掌を合わせて雨乞いでもするかのように頭の方へ持っていき、こちらに向かって懇願した。しかし、それを振り切るかのようにドアのほうまで足を進める。
「わりぃ。今日バイトあるって言っただろ。今度奢るから勘弁な」
翔には悪いが、一日目から遅刻するわけにもいかない。二枚目は最低四時半までには行ってほしいと言っていた。片手を上げ軽く振るとそのまま教室を後にした。
職員室はここのフロアにある。教室からは一番遠いが、それで何度か遅刻を免れたことがあるから否めない。四つ目の教室を過ぎたところで、耳にふと音楽が聞こえてきた。
上の階は確か音楽室・・・だったか?
音を聞き取ろうと耳を澄ました。
一定のリズム。
単調な音の繰り返し。
悲しげで美しい。
音楽が夕方の閑散とした校内を巡回する。
これは間違いなくベートーベンピアノソナタ一四番「月光」だった。ちょうど第一楽章の後半辺りと言ったところか。
別にクラッシックを特別知っていたわけではない。ただ以前にも、翔にこの曲を聞かせてもらった事があったので確信を持てた。翔曰く「夢うつつというか、浮遊している感じがいいよな。なんか自由になったみたいで」と言っていた。なるほど。言われてみれば確かにその通りかもしれない。
ゆったりとした前奏から始まっていき、同じような音の繰り返し。しかし、その内情は不安定で、何色にも染まる。
高くなったり低くなったり。
大きくなったり小さくなったり。
一定ではない、むしろ不安定ではあるがそこに確かに存在する。水で作ったドミノのように少しでも触れば崩れて初めから何もなかったかのように崩れていく。
そういえば今朝翔が三日月のことを「月光」みたいだと表現していたな。そんなことを思い出す。
気づくと職員室のドアの前に立っていた。体が自分の意識の外へ出て行ってしまっていたことに痛感した。そして「月光」を一旦心から追いやると、息を一回吸って職員室のドアを開けた。
自転車に跨ったとき頬に心地よい風がなでた。校舎を見上げる。西日が窓に反射して少し眩しい。正面の時計は綺麗な一二〇度を作っていた。
四時か。大きく息を吸う。ペダルに足をかけ、ゆっくりと踏み込む。重心を前に出し、静かに加速していった。
駅を抜けるとそこには商店街などが軒を連ねていた。人通りも多く、夕方になると沢山の学生でにぎわっている。ところどころにうちの高校の生徒の姿も目に入る。やはりあのピンクのスカートはやけに目立つ。
ここまで自転車で約一五分か。
腕時計の四時一五分を指す指針を見て頷く。
この辺りのはずなんだけどなぁ。
携帯に映し出された地図を携帯ごと横にしたり縦にしたりしながら見つめる。ジーピーエス機能も試してみたが「カレシヤ」というお店は引っかからなかった。一度携帯上のウェブを閉じると、今度はデータの中の写真を開いた。そこには昨日二枚目から送られてきた手書きの地図の写真が載っていた。なんとも雑な地図だ。よく見ると、どうやらこの通りの二本隣の通りらしい。勝手に商店街だと思い込んでしまっていた。地図はアバウトで適当すぎるがフィーリングで何とかなるだろう。もし駄目でも交番で聞けばそれでいい。
しばらくするとやっとその店があるという通りへさしかかった。しかし、そこの通りを今一度改めて見渡して愕然とする。
そこの通りは商店街に負けず劣らずといったほどの風俗店やキャバクラ、スナックといったいわゆる裏社会が建ち並んでいた。
こんなところで二枚目はオレに何をさせようとするつもりなんだ?
頭に一抹の不安がよぎる。しかしその時、ふとももの辺り、つまりポケットの中で小刻みに震えているものを感じた。急いで携帯を取り出して画面を見る。そこには自分がここにいなくてはいけない原因である二枚目純という文字が映し出されていた。恐る恐るそれを開く。
『頑張れ (*^_^*)』
そこにはただ一言そう書かれていた。まるで今訪れたばかりの絶望にさらに追い打ちをかけるかのような一言だった。
ご丁寧に顔文字までつけやがってぇ。つーか何でアドレス知っているんだよ。
二枚目への憤りを隠せない。勢いよく携帯を折りたたむとそのまま強く握った。大破しそうな勢いのまま携帯をポケットの中へと滑り落とす。しかしこのままでいてもしかたがないのも確かだ。呼吸を整えて自転車に勢いよくまたがると、わき目も振らずに通りを駆け抜けた。
「彼氏屋」
来る時までに感じた背中に突き刺さるような目線と、まだ夕方だというのに元気よく接客する看板持ちを払いのけて、行きついた先の店の看板にはそう書かれていた。体が火照っていて汗が噴き出す。ワイシャツが体に張り付く感じがやけに気持ち悪かった。息も絶え絶えの状態のまま上を見上げていた。黄色にピンク字で書かれたその文字は、明るい色系統のはずなのになぜか陰鬱なイメージしか与えなかった。そして汗でぬれた右手に掴んでいる携帯の地図をまじまじと見た。
ここだよな……?
確かに場所は間違えてはいないようだ。一本道なので道程としてはわかりやすい。
しかし何かが違う。
もう一度頭の中を整理する。今日は二枚目の代理としてバイトをしに来た。場所は「カレシヤ」というお店……。
「!」
そこで何かが決壊する。鈍い光を放つ太陽が低温をまき散らし、崩れた。「カレシヤ」って「彼氏屋」のことか?噴出していた汗が冷や汗へと変わる。今までに感じたことのないような悪寒が全身を駆け巡った。
二枚目は言っていた。レンタル屋の延長線上だと。
延長線上って何だ?何をレンタルするんだ?
その時にはもうすでに答えは分かっていた。だが認めたくない意地でその考えをすぐに排除する。二枚目がそんな仕事をしていたはずがない。この世に自分が想像するような仕事はない。必死で自分の中の常識に当てはめようとしていた。
しばらくは混乱と憔悴で体が動かなかった。金縛りにでもあったようだった。いや、金縛りならまだいい。感覚が、頭から指の先までの感覚がまるでハサミでちょん切ったように途切れていた。崩れ落ちたい。だが崩れることもできない。
軽トラックがわきを通った。はっと体がびくつく。喉が異常に渇いていた。やがて自転車を壁際へと立てかける。周りを見渡した。ほとんど無意識だった。よし、誰もいない。扉の取手に手をつける。金属の冷たさがそこにはあった。そして静かにドアを引いた。
階段をずんずん上がっていく。否定だ。今から否定しに行く。自分の考えを間違いだと否定するために今この階段を上っているのだ。一段飛ばしで駆け上がる。二階は閉鎖されている。ということは三階か。手すりに捕まって二段飛ばし。流石につらい。やっと三階だ。呼吸を整える。
「スーハー」
携帯を開いた。四時二九分三〇秒を回ったところだ。時間ぴったり。ゆっくりと手を伸ばし、ドアの取手を掴むと静かに引いた。鉄格子は重く、まるで開けてはいけないと言っているようであった。
思いドアを必死になって開けると、正面の窓から西日が差し込んできた。ブラインドカーテンのおかげでそれほど強い日差しではないが、反射的に目を細める。夕日が丁度部屋一つ分低い隣のビルの屋上から顔を出していた。目の前には接客用の白いソファがガラステーブルをはさんで対になっている。奥には個人用の机とパソコンが一台。
その時突然椅子がきしむような音が聞こえた。その瞬間、デスクパソコンの上から黒い何かが現れた。人間だということは当然分かり切っているが、それは丁度窓の向こうから見える沈みかけた太陽のようだった。もちろん色は正反対なのだが。逆光でほぼ一色となったその影法師から声が聞こえてきた。
「いらっしゃイ」
目の前の影法師に呼ばれ、中に入ってドアを閉めようとしたとき思わず体が強張った。扉の左右には、上から下までこれまた全て黒色の男たちが、ただまっすぐなにかを待つようにして立っていたからだ。その瞬間それがガードマンの類であることを察した。しかし頭では解っていても体は思わず彼らに会釈してしまう。もちろんそんなことをしても彼らからの応答はない。頭の中が不安一色になる。
やばい。明らかにカタギじゃない。頭とは裏腹に、ゆっくりと思い鉄格子を閉める。ぎこちない足取りで目線のさきの男の方へと近づいて行く。また、男も立ち上がって窓のそばにより、ブラインドカーテンのフックを引いた。モンタージュのように太陽と街並みは消えて、ただのつまらない背景になった。そしてそのまま机の前へと移動した。お互いが見合う。やがて二枚目のことを話そうかと思っていると男の方が先に口を開いた。
「もしかして仕事カ?」
男は拳と手のひらを合わせて軽くお辞儀をするとそう言った。慌ててこちらも軽くお辞儀をする。男の背は意外と低く、ちょっと太っているため、ハンバーグのような体系であった。また白いチャイナ服を身にまとい、鼻の頭にちょこんと乗っているサングラスが黒光りしていて対照的である。
「は、はい。二枚目純さんからの紹介をもらってやってきた一ノ瀬光です」
早口で自己紹介を終えた。
「日本、名乗るの基本ネ。君合格。私キム。よろしク」
単語をぶつ切りにした片言の日本語をしゃべる目の前の男は自分の名刺を渡しながら「キム」と名乗った。男の声は高く、そのひょうきんな話し方と見事にマッチしていた。
六本木金。ふざけた名前だ。だいたいキムって苗字じゃないか。しかも韓国とかの。
名刺を受取り、愛想笑いを浮かべたが、目前の怪しい男に一目散で逃げ出したい気分だった。しかしキムのサングラス越しから覗く眼はそれを許さないと告げているようである。
「純からさっきメール来タ。事情把握してル。新人さんネ?」キムはひょうきんな話し方でスムーズに言葉を発する。
「は、はい。よろしくお願いします」もう一度、三〇度に頭を下げた。確か初めて会う人にはこのお辞儀だったはずだ。
キムは二回頷くと「素直よろしイ。ちょっと待テ」と言って右側の扉の中へ入って行った。
しばらくして先ほどのキムが、ファイルを一つ抱えながら戻ってきた。そしてそれを接客用のテーブルに置くと、こちらに座りなさいという合図を送った。おとなしくそれに従う。キムの反対側のソファへと腰かける。高級感あふれるそのソファはまるで巨大なマシュマロに座ったかのような感触だった。
キムはガラス製のテーブルの上に乗ったファイルを開き、リング状の留め具を外して中から紙を二枚取り出した。ホッチキスで留められた方の紙をこちらへ渡し、もう一枚は自分の目の前に置く。
「これ読めば仕事解ル。一ページ目よく見るネ」
そう言ってキムは葉巻に火をつけた。とたんに葉巻は煙を吐き出し、辺りを充満していく。普段翔の煙草にあてられているせいかそこまで気になるほどではなかった。
そしてキムに言われた通り、もらった資料の最初のページに目を通す。そこには経歴やら概要やらが載っていた。それを素早く速読していく。
『当社の成立は二〇〇三年の某本社が最初である』
丁度経歴を読み終わったところで、葉巻をふかしていたキムから声がかかる。
「純元気カ?」
「はい。でも復帰するまでにはあと一カ月ほどかかるみたいですけど」
顔を上げたがすぐさま資料に目を落とすと読み進めながらそう言った。
「商品に怪我、大変ネ」
キムのその一言が気になったが平然と先を読み進めていく。やがて概要をもうすぐで読み終わるというところでまたもやキムの声がかかった。
「さテ、そろそろ説明始めるカ…」
急いで最後の行を読むと、キムの顔を覗いた。
「彼氏屋、聞いたことあるカ?」
「いえ」首を横に振る。こんな店有名でどうする、と内心で呟いた。
「仕事簡単。ホステス以上キャバクラ以下」キムは平然と言った。
最悪の予想が当たってしまったとキムに気づかれないように頭をうなだれた。二枚目から聞いた時からそういう仕事の気配を感じていたのだが、キムの上げた比較対象でどういう仕事かをおぼろげながら理解した。
「彼氏屋、レンタルすル。ただし商品は特別ネ。……君たち、男ヨ」
とんでもないことに巻き込まれてしまったということを自覚した。しかし、時すでに遅く、逃げ出す勇気も時間も与えてはくれなかった。
何が「そう言う仕事じゃない」だよ。思いっきり接待じゃねえか。しかも一カ月という長丁場!キャバクラの「お持ち帰り」より性質悪いぞ。こんな店が七、八年も続いているなんて世も末だな。
二枚目の最初の質問も、電話した理由も、ありえないほどの莫大な給料のわけも全て合点がいった。そしてキムを見つめる顔とは裏腹に二枚目とキムに対する暴言を吐き捨てた。
どうする、逃げるか?いや無理だ。
じゃあ目の前のキムを人質にとって脱出するか?いや無理だ。
それとも―いや無理だ。
強硬策に出ようともした。しかしそれを理性が強引に押しとどめる。いくら案を出しても自分の中の弱い部分が即座に否定する。そんな巡回が十回以上続いたところでようやく自分がいかに危ないことに身を投じているのかを、改めて思い知った。後悔と悲哀の念がこみ上げてくる。一カ月で五十万円という報酬を差し引いても二枚目に対する怒りの炎は消えそうにないだろう。
頭を抱えて困惑していると、不意にキムの明るい声が聞こえた。
「でも安心する良いヨ。身体使う仕事、ただし肉体は使わなイ」
「?」
同じ「カラダ」という発音で、俺は意味を理解できなくて首を横にかしげた。それを見てキムは白い歯をむき出しにして微笑んだ。そして手にしている資料を指さしながら言った。
「次のページ開くよろしイ」
言われた通りにページをめくる。
そこには『禁止事項』という文字がのっていた。
「一つ目見ロ」
キムの指したところには『其の壱、同意なくしての男女間の不純異性交遊の禁止』と確かにそう書かれていた。
身体は使うが肉体は使わないか。…なるほどね。
「私、商品大切にすル。いっぱいマネーを運ぶネ」
ふふんと鼻を鳴らしたキムは、灰皿にさほど吸っていない葉巻を押し付けると、そのままもう一本を取り出し、火をつける。換気のない部屋でのヘビースモークは流石に嫌だった。露骨に顔を歪めるがキムは気付いていないようだ。
「禁止、他にも四つあル。読むよろシ」
再び資料に目を落とした。
『 其の弐、駆け落ちの禁止 』
『 其の参、心中の禁止 』
『 其の肆、途中放棄の禁止 』
と、まあここまでは納得のできる内容が続いたが、最後の項目に思わず顔に疑問符が浮かんだ。
『 其の伍 契約終了後の交流の禁止 』
どういうことだろうとしばらく考え込んでいたのだが、理由が思い浮かばないので直接聞いてみることにした。
「あの、最後の項目なんですけど、どういう意味ですか?」
キムは灰皿に葉巻の灰を落とすと、なんともなし答えた。
「読んで字の如くヨ」
「あ、いや意味じゃなくて理由……」
キムは怪訝そうな顔でこちらを見上げた。
「たまにいル。女から離れられなくなる男ガ」
キムはそう言うと再び葉巻を吸いはじめた。そして口から葉巻を離すと付け加えるようにこう言った。
「この仕事のコツ、あまり深く関わらなイ。それがベスト」
駒に情がうつるってことか?
何となく分かったような、分からないような。ただ、最後の言葉はなぜか心の底まで染みついた。黙ったまま葉巻をふかしているキムの言葉を待つ。
「注意事項はそれぐらイ。後は自由にするよろシ。でもこの五つ破ったらダメ」静かに強く言い切った。
「破ったらどうなるんですか?」
ゴクリと生つばを飲み込み、恐る恐るキムに聞いた。キムは先ほど見せた笑顔ではなく冷たい頬笑みを浮かべると、二本目の葉巻を灰皿に沈めてこう言った。
「どれ破ってもさよなラ。東京湾の地盤になるネ」
相も変わらないキムの高い声とひょうきんな話し方に、逆に俺は戦慄した。今日の気候は決して寒くもなく暑くもなく、乾燥しているわけでも湿気が多いわけでもない、のどかな小春日和だ。しかしそのはずなのに、背中や脇を濡らす汗が止まらなかった。
アイツこんな危ない仕事していたのかよ。
二枚目に対する尊敬の念が込み上げてきたが、その反面、自分に押し付けたという怒りも幾分か前から湧き起こっているため、なんとも複雑な心情のままキムの顔を見た。それに気づいたキムは一気に晴れやかな顔に戻るとこう言った。
「心配しなイ。破らなきゃ生存ネ」
おかしな日本語を使うキムに、内心安心してなどいられなかった。
一通り説明をした後、キムは一呼吸入れて「最後二」と付け加えた。
「これだけは忘れなイ。お客様はかみ様ネ。札束運ぶ紙様ね。笑顔と感謝、これ大事。よく肝に銘じておク」
紙だけに、か。
キムの洒落に若干の苦笑いを浮かべた。片言で聞き取りにくくはあるものの、実はよく日本語を知っているのではないかと思う。しかしそれと同時に、新入りには毎度同じことを言っているのだろうなと考えたりもした。
キムはそれを言い残した後、もう一度あの部屋の中へと姿を消した。あたりを見渡す。扉の前に立っている黒い服の二人は相変わらずただ真っ直ぐのみを見つめ続けている。やはり逃げられそうにない。来るところまで来てしまったなと落胆と諦めの中間あたりのような気分で、目線を下へ下す。灰皿を見るともう五本もの葉巻が煙を立てず、横たわっていた。なんだか無性にその葉巻たちに哀惜の情がこみ上げてくる。
同情だな。
感傷的な気分で、皮肉交じりに笑ったとき、キムがドアから姿を現した。手には携帯電話らしきものを持っている。そしてソファに座るなりキムは言った。
「携帯はコレと交換。仕事終わるまで預かるヨ」
ポケットから自分の携帯を取り出し、中からメモリーチップを抜くとキムに渡した。また、キムはそれを大事そうに箱の中に入れると、代わりにオレンジ色をした卵型状の携帯を渡してきた。少し古い型式のものだったが、別に気にすることでもない。それを受け取ってチップを中に入れて電源をつけた。軽いバイブの振動とともに画面が着く。それを確認してキムは言った。
「少し古臭イ。でも中身異常なイ。純、戻ってきたらまた返すヨ」
そう言って今度は自分の目の前にある紙を、こちらに見えるように反転させてペンを手渡した。
「コレ契約書ネ。さっさと名前書ク」
少し言い方が気になったが、言われるままにペンを握る。
「カチッ」
一回ノックして芯を出すがすぐさま引っ込める。
一か月女と付き合えば五十万。
確かに割にはあっている。若干ブラックに近いグレーゾーンではあるが、違法と言うわけではないのだろう。一か月恋人気分を味わいたい寂しい女と付き合えばいい。たったそれだけの仕事だ。せいぜいデートしたりご飯食べたりするのが関の山。その先は断ればいい。
不思議と覚悟のようなものができていた。決して甘く見ているわけではないが、なぜか最初のような不安感は消えていた。いや、もしかしたら常識の感覚がマヒしてきているのかもしれない。その場で自嘲気味に微笑んだ。
そしてゆっくりとペンを紙へと近づけていく。その時だった。一点の疑問が頭の奥底から湧き上がる。
あれ?来なかった場合お金はどうなるんだ?
確かに一カ月付き合えば五十万とは言われた。だが仮にもしこの一カ月でお客が一人も来なかったら給料はどうなるんだ?確かに一か月もあれば来ないことはないのかもしれないけど、他のバイトもいるなら、俺が指名されるとは限らない。まさかただ働き?
「あの、もし一カ月のうちに俺を指名するお客が来なかったらどうなるんですか?」
ペンの先を掌に隠してそう言った。
「五十万は無理、だけど十万は約束。でも心配いらなイ。来ない可能性ほとんど無いネ」
首を横に振るキムを見てわずかに口元が綻ぶ。もし来なくても十万は確実。その間ほかのバイトもできるし損はないな。その一言を機に名前の欄に流れるようにサインした。もう後には引けない。後はひたすら客が来ないことを祈るのみ。静かに目をつぶった。しばらくの沈黙。やがて目を開けて自分のカバンからハンコを取り出すと、力強く㊞のマークへと押しつけた。濃いしるしではっきりと「一ノ瀬」と映し出されていた。
はあと溜息交じりに息をつく。
と、その時だった。
「コンコン」
鉄のドアを二回ノックした音が聞こえ、静かに扉が開かれた。そして一人の女性が入って来る。その姿を見てまるでテレビの停止ボタンを押したかのように体が、細胞が、闇に落ちた。
「お客さんネ」
キムのキーの高い声が頭の中に突如響く。その瞬間体がびくつく。そして急いでキムのほうを見た。しかしもうすでにキムは契約書をそそくさと封筒の中へとしまっていたところだった。駄目だ。もう遅い。
やがて壊れかけのブリキ人形のようにぎこちない動きで再び扉のほうを見た。
「三日月……」無意識にその名を呼んでいた。
目の前には三日月葵が立っていた。高校一年生の途中から来なくなり、今日久しぶりに学校で姿を見せたあの三日月葵だ。あまりの出来事に何をしていいのかわからなくなりひたすら口をパクパクさせていた。
本当に。本当に。ただの客であればどれほどよかったことか。内心の嘆きをひたすらに訴える。
三日月と目線が合った。向こうもこちらを見て血の気が引いたような顔つきになっていた。当然だ。気まずいどころの話ではない。だが。なぜ三日月がここに?
「よくいらしたネ。ソファに腰掛ける、どうカ?」
キムが三日月を案内する。三日月は目線を外すと、やや下を向いてそれに従った。
綺麗だ。
なぜこの感情が沸き起こったのかは分からない。けれど三日月への疑問は洗い流されたかのようにどこかに消えていた。
自然と頭の中に「月光」が流れてくる。
少しでも触ればいとも簡単に壊れてしまうガラスの花。
そこにあるようでどこにもない、希薄で儚げな存在。
自分なりの解釈だが、月光とは水面に映る月の幻影のことを言ったのではないかと思う。水を揺らせば、いとも簡単に消えてしまう月の影。それが本当に三日月にぴったりで、しばらくの間酔いしれていた。
しかし現実は待ってくれない。まあ置いてきぼりにすることもしないのだが。
三日月はキムに誘導されちょうど反対側のソファへと腰かけた。まだ目線を下げていてときどきこちらを遠慮がちに見つめた。そしてキムは三日月を座らせると回り込んで隣へと腰を下ろした。
「仕事の依頼ネ?」
キムの快活で陽気な声が陰鬱とした空気を醸し出している部屋中に響いた。三日月は静かに頷く。
「彼氏屋は気に入った男を一週間レンタルすル。その値段は一律百万円。おねえチャンもおばチャンもおばあチャンも変わらなイ。もちろん現金ヨ。カードは駄目」
饒舌に話すキムは最後に「よろしいカ」と聞いた。三日月は二回頷いて「事前に調べましたので」と言った。その声はほとんど消えそうでそれでいて綺麗で透き通っていた。
「なら話は早いネ。あとは男選ぶよろシ」
そう言うとキムは机に置いてあった電子パッドを起動させた。画面にここの社員である様々な男性の顔写真が載った資料が浮かび上がった。それを三日月に渡す。三日月は受け取ると静かに吟味し始めた。その間もずっと三日月を見つめる。目線を外すと消えてしまいそうだと思ったからだ。やがて困った表情を浮かべてキムを見つめた。
「あの、全員出払っているみたいなんですけど」
三日月は電子パッドを机に置いた。二〇個ばかりあるアイコンにはみんなバツ印が付いていた。
「そウ、みんな仕事中。終わってもその先の予約いっぱイ」
キムは申し訳なさそうな表情を浮かべた。そしてこちらを指さすと言った。
「でも安心するよろシ。ここに丁度新人さんいるネ。経験浅いが顔は確かヨ」
いきなり自分のことを言われぎょっとなる。もしかしたら三日月と付き合うことになるかも。というかそれ以前に展開の早さについていけない。それは三日月も同じらしく戸惑ったような表情を浮かべていた。当然だ。付き合う相手が知り合いだなんてたまったものじゃないはずだ。三日月の薄い反応を見てキムは続けた。
「源氏名はライト。うち一番の人気商品ヨ」
嘘つけ。内心キムに向かってつっこんだ。新人なのに人気なわけがないだろ。しかも向こう顔知っているから源氏名はいらない。逆に恥ずかしい。
心の声を溜息として吐き出す。そして三日月は口を開いた。
「あの、交代とかってできないんですか?」
当然と言えば当然の問いなのだが、なぜか少し切ない気持にもなった。そんな三日月にキムは追い打ちをかける。
「それ無理ネ。さっきも言ったヨ。誰もいなイ」
いよいよ三日月も困り果てたのかついに下を向いてしまった。なにかを考えている様子だ。そしてキムは悪魔のように囁く。
「どうすル。やめるカ?」
三日月は黙ったままだった。数分間の沈黙。そして再び前を向いた時には先ほどまでの混乱した表情はなく、あの時とそして今まで見てきた時と寸分も違わない、ただの無表情になっていた。だがその目にはどこか決意を固めた確固とした輝きが宿っていた。そしてゆっくりと口を開いた。
「私、この人で契約します」
それを聞いてキムはニッとはにかんだ。
後ろには先ほどまでいた彼氏屋のビルがそびえ立っている。重々しい空気をまとっていて人のいる気配が感じられない。
重々しいのはこっちか。
遠くをぼんやりと眺めている三日月を見てそんな事を思った。
三日月がキムとの契約を承諾した直後、キムは目にもとまらぬ速さで手続きを済ました。だがそんなキムの手際よりも三日月の服から一センチ程度の厚みのある黄土色をした封筒が出てきたことのほうがよっぽど驚愕だった。キムはそれをなんともなしに受け取って中から札束を取り出すと、一枚一枚丁寧に数え始めた。テレビでしか見たことのないような取引現場をただ呆然と眺めているしかなかった。
そしてキムは支払いを確認すると、「さっ後は若い者同士ネ。契約書もマネーも済んだし一件落着ヨ」と言って俺たちをさっさと外へと追い出した。決意も覚悟もゆるゆるのまま沈みかけた太陽をしばらく眺めていた。
不意に三日月がこちらを振り向く。思わずポケットの中の封筒を握りしめた。中身はさっきキムから渡された二五万が入っている。そしてキムが最後に言い残した「前金は半分ネ。仕事終わったらもう半分渡ス」という言葉が甦ってきた。
三日月はこちらを直視している。無表情で無感情。本当に打ち消しの言葉がよく似合う女だ。だが黙ったままでも気まずくなる一方だ。とりあえず挨拶程度の笑みを浮かべた。
「えっと、初めまして、じゃないよね。三日月葵さん」
緊張のためか自然とフルネーム、さん付けで呼んでいた。三日月も無表情のまま口を開いた。
「葵でいいわ。それとよろしくねライト君」
三日月の透き通った声が脳髄へと響く。だがやはりライトという呼び名は普通に恥ずかしい。「本名でいいよ。源氏名じゃ面倒だろうし」そう言って訂正する。
「わかったわヒカル君。……これからどうする?」
やばい。何も考えてなかった。普通に考えたら飯、だよな?て言うかまだ間違ってるし。変に間を開けすぎたため訂正のタイミングを完全に失ってしまっていた。
「えっと、ちょっと早いけど飯にしようか。三日月さん歩き?」
時計をのぞくと既に五時半を回っていた。一時間以上もあそこにいたことに少し驚く。三日月はまた「葵でいいわ」と言うと静かに頷いた。
「オレここらへんよく知らないんだけど美味い飯屋とか知ってる?」
三日月は首を横に振る。そして何かを考えるように口元を手で押さえると静かに口を開いた。
「家の近くなら知っているわ」
「あ、じゃあそこ行こうか。三日月さんの家ってどこ?」
三日月は消えそうな声で駅名を呟いた。近い。うちから一駅じゃないか。
「よし、じゃあ後ろ乗って」
ビルの端に寄せておいた自転車のレバーを上げる。サドルに跨って顎で合図した。拒絶されるかと思ったが、特に抵抗することなく後ろのキャリアに横を向いて腰かけた。座布団が敷いてなくて本当にすまないと思う。三日月が乗ったのを確認して静かにペダルを漕ぎ始める。その瞬間三日月が腰のあたりに手をまわしてくる。当然のことなのに三日月のすらっと長い腕を見てなぜだか胸がドキドキした。バックミラーに映る三日月の髪は風にそよいでいて綺麗だった。今朝のシャンプーの匂いがまだ残っていて鼻をくすぐる。それと同時に汗臭さが残っている自分の境遇になぜだかがっかりせずにはいられなかった。
風俗商店街(命名)を抜けるまではお互い何も話さなかった。というより話せなかったのだろう。実際運転していても目が様々な方向に泳いでいたし、三日月も斜め下三〇度を見つめている姿がバックミラー越しから見て取れた。
駅前まで来たところで自然と口が開いた。
「三日月ってカバン持ってきてないの?」
直接顔を見て話してないからだろうか、特に抵抗なく話せていた。
「葵でいいわ。ええ、教科書はロッカーの中だし、お弁当も持ってきてはいないわ」
少し意外だった。上から下まで真人間で優等生だと思っていた三日月の口から発せられた言葉だとは、にわかには信じ難かった。さっきも二人乗りを抵抗もなく受け入れていたし。よく見るとスカートもやや短いようにもみえる。
「でも三日月が昼休みに食堂にいるのを見かけたけど」
「葵でいいわ。食堂では本を読んでいるだけよ。私お昼はいつも抜いているから」三日月は冷静に言った。
「あ、そうなんだ」間の抜けたような声を上げる。三日月の言い方が少し拒絶的で尻込みした。相手を威圧するような言い方ではないのだが、なぜか少し聞きづらかった。再び気まずい空気が流れる。なんとか話題を作ろうと思考を凝らすが何も思い浮かばない。何より不自然すぎる。結局新宿を通過した後もお互い一言も発することはなかった。
葵の最寄り駅を過ぎてそろそろ何か言おうかとしているところで、三日月が不意に右肩を叩いた。思わず横を向く。
「次の角を右に曲がって二〇メートルぐらい進んだところにあるわ」
ナビゲーションシステムのように冷静沈着な声で三日月は言った。前を見るとスーパーがあって丁度十字路に面している。スーパーを横目で見ながらハンドルを切った。ここを曲がって数十メートル先。わきには様々な料理店が間隔を開けながら並んでいる。中華料理屋に高級レストラン、そして居酒屋。それらを横目で流しながら通過していく。その時またもや右肩が叩かれた。
「過ぎたわ」三日月の単調な声がかかる。緩やかにブレーキをかけた。
そうかあそこの中華料理屋だったか。
勝手に解釈する。方向を反転すると再び自転車を漕ぎ始めた。そして中華料理屋の一歩手前でまたもや右肩が叩かれた。
「また過ぎたわ」相も変わらないトーンで三日月は言った。今度は急ブレーキをかける。三日月の体が前へ倒れてくる。なにか柔らかい感触が背中から伝わった。
え?思わず三日月を見てしまう。三日月もこちらを見上げているが人形のように澄まし顔だ。
「あれ。ここじゃないの?」三日月は小さく頷く。
ここじゃないとしたら……。自転車を反転させて前を見た。「メルシー・ボク」目の前のフランス料理の店にはそう書かれている。気付くとすでに三日月は自転車から降りていた。
「あ、ちょっと待って」思わず三日月を呼びとめる。三日月は静止してこちらを振り向いた。首を傾げている。
誰かが三日月はお金持ちだと言っていた。頭にその一言が甦る。
「もしかしてそこ?」
「ええ」三日月は言った。
「でも高級そうだし、オレあんまりお金持ってないよ」言ってから懐の二五万を思い出した。三日月は無表情のまま静かに口を開く。
「心配しないで。代金は私が持つから」
その瞬間胸の内から何か熱いものが込み上げてきた。怒りに似たようなそれでいて似つかない何か。
気付いた時には振り向いて進もうとする三日月の腕を掴んでいた。細く白い綺麗な腕。なぜか冷たく感じた。三日月は動きを止めてこちらを見た。驚いているというよりは困惑しているようだった。そんな三日月を見ていると先ほどの感情は次第に冷めていった。だがやることは決まってしまった。
「乗って!」多少力強く言う。別に怒っているわけではないが思わず語調が激しくなった。
「え?」三日月は流石に困ったような表情を浮かべている。
「いいから乗って」一刻でも早くこの場から立ち去りたかった。なぜだかここにいてはいけないような気がした。三日月は黙ったまま従う。そして三日月が乗ったのを確認しないまま多少荒く自転車を発進させた。
十字路に面したスーパーに自転車を止める。他の店を探そうとも思ったが、この辺は飲食店より住宅地が多い。だが、かと言って三日月に聞いて、またあのような場所に案内されても困るだけだ。だったら作ろう。そんな考えでこの場所に足を運んだ。
自転車から降りて入口へと向かう。三日月は黙ってついてくる。あの状況で文句を言われても仕方がないと思っていたが何も言ってこないのが逆に不気味で不安だ。自動ドアが開く。一瞬ガラス越しに映った三日月の顔は無表情極まりなかった。かごを取ると、振り向いて言った。
「三日月さん何食べたい?」
料理は一通りできる自負はある。入学当初からインスタント食品を買い込んでいた翔のために日々料理を作ってきたからだ。もし翔を一人で放っておいたら、きっと三日で死ぬ。たとえレトルト食品で済ませていたとしても今頃は栄養失調によって病院のベッドの上で点滴地獄であっただろう。そんなこと想像して少し鳥肌が立った。
「葵でいいわ。……お任せするわ」三日月はやや目じりを下げて言った。
そう言うだろうと大体予想ができていたため、さほどショックは受けなかった。むしろ少し考えてくれたことになぜか胸がしっとりした。軽く頷くと前を向いて歩きだした。
野菜コーナーに入ったところで少し考える。
さて何を作ろう。三日月は遠慮してあんなことを言ったのかもしれないが、作る側としてはリクエストしてくれたほうがありがたかった。好き嫌いがはっきりしたほうが作りやすい。
三日月が好きそうなものを勝手に想像しながら、かごに食材を埋めていく。スーパーを一周したところでレジへと向かった。
「一七八〇円です」
レジのおばさんが軽やかな声を上げて言った。財布を出そうとしている三日月を静止して、先ほど封筒から抜き取った諭吉を一枚コーナーに置いた。お釣りを渡す間際におばちゃんは口を開いた。
「お姉さんと買い物かい?」
一瞬とまどった。どうやら兄妹に見えたらしい。その言い方は「あんたとあのこが付き合っているはずがない」と言われているようで少なからず傷ついた。弁明しようかどうしようか迷ったが面倒なので軽く愛想笑いを浮かべてお釣りを強引に受け取ると、かごを持ってレジから一番離れたところに移動した。
三日月はどう思ったのだろうか。
袋に食材を詰めながらそんなことを思った。
やはりあそこは、しっかりと否定しておくべきだったのだろうか。いくら無感情の三日月とはいえ、同じく傷ついたに違いない。
「はぁ」自分の情けなさに思わずため息が出た。それを知ってか知らずか、突然三日月から声がかかった。「ヒカル君」
突然の呼びかけに、掴んでいた鶏肉が手からこぼれ落ちた。「な、何?」急いで落ちた鶏肉を拾う。
「どこで作るの?」
再び鶏肉が手から落ちた。
忘れていた。というか考えていなかった。早くあの場所から逃げ出すのに必死でそこまで考えをまわすことができなかった。自分の思慮の浅さが露呈してしまったことに深く痛感する。
「考えていませんでした」
深く謝罪をする。流石の三日月も怒ったのかもしれない。誠意を無駄にして勝手に連れてきておきながらノープランで情けない体たらくをさらしてしまったのだから。
だが、三日月の反応は予想だにするものだった。
「うちに来る?ここからなら近いし……」
唖然とした。その言い方はまるで機械のようだった。今置かれている状況を合理的に解決するだけ。普通なら考えるはずだ。よく知らない男を家に招くという行為について。不安や恐怖、そして少しの期待。三日月の言葉には一切の感情がなく、良い意味での邪心が欠落していた。
いいんですか、葵さん?
そんな考えとは裏腹に心の中で聞き返す。しかし無理やり本能を抑えると、首を振って答えた。
「いや、急に家なんて行ったら親御さんに誤解されるだろうし、心配掛けたくないし…」
後半から声が細々と小さくなっていることに気付き少し視線を下へ向けた。
「どういうこと?」三日月は首を傾げてこちらを見ている。本当に理解できないという顔だ。初めて表情から気持ちが判断できた。
「だから……」
何と説明していいのか分からず言葉が消える。黙って言葉を探していると、今度は三日月が口を開いた。
「私の家には誤解も心配もする親はいないわ」
「えっ?」思わず目をしばたかせる。
「だって私、一人暮らしだもの」
スーパーを出て三日月に連れてこられた場所は、都心の近くにある高層マンション。何の間違いかと思ったが三日月の「着いたわ」の一言で理解した。マンションとの距離が近いせいだろうか、てっぺんが見えない。雲すらも突き破りそうなほどの高さだった。
ぼんやりと上を見上げていると、いつ自転車から降りたのか、三日月がこちらを見て手持ちぶさたに待っている。それに気付き、自転車を降りてそのまま押して行った。
「ここって葵さんの家?」
三日月の後ろをついて行きながら俺は聞いた。
「ええそうよ。それと葵でいいわ」
三日月は振り向かずに言った。こんなところに一人暮らしなんて信じられない。もしかしたら一部屋は実家より大きいかもしれない。そんな漠然とした感想を抱く。
「家賃とか、どうしているの?」
バイトで稼いでいる…わけないよな。
「お父さんの知り合いがここの所有者で、一部屋貸してくれたのよ」
三日月は平然と答える。地主と知り合いなんてどんな父親だ。つっこみそうになる口を噤む。家族については何となく聞かないほうがいいような気がした。そのかわり「へぇ」という曖昧な相槌を打った。
エントランスには数多くのエレベーターが設けられており、地下の駐輪場へ行くにもエレベーターを使用する。駐輪場には自転車が綺麗に列を成して並べられており、それはめまいがするほどの量だった。三日月に指示され、ゲスト用の置場に自転車を置いた。そして籠の荷物を持つと、再びエレベーターへと向かった。
「ここって何階建てなの?」
丁度扉が開く。順に乗りこんだ。
「五〇階建てよ。四一階からは芸能人やお金持ちの人が住んでいるわ」
三日月は二一階のボタンを押すと言った。
「確かこういう所ってコンビニとかあるんだよね?」
以前テレビでそのような特集を見たときのことを思い出した。
「ええ、一〇階、二〇階にそれぞれあるわ。ちなみに四〇階にはバーもあるの」
淡々と答える三日月の横で「へえコンビニの上なんだ」と呟いた。
エレベーターはおよそ一〇秒もかからないでついた。速い。二一階だから距離で言うと約一〇〇メートルくらいだろう。それを一〇秒以内。ボルトと同じくらいだ。そんな計算をしているよそに、三日月はもうすでに降りていた。急いでそれに続く。
直線的なフロアを進んだ先、二一〇七号室の前で三日月は静止した。
いよいよだ。心臓の鼓動が速くなる。女の子の部屋なんて何年振りだろう。妙な緊張と変な期待とが混ざり合った気分だ。心なしか少し胸が高ぶっているような、それでいて若干の恐怖もある。そして一つの予感も。
三日月がカギを差し込む。ガチャという鈍い音が聞こえ、ドアノブを回した。
玄関には靴が一足もなく、模様の無い無地のタイルが敷いてある。三日月は靴を脱いだ。そして右端にちょこんと寄せる。つられてその横に自分の靴を並べた。玄関には綺麗なローファーと、不釣り合いな小汚いランニングシューズが肩を寄せ合って並べられた。
廊下を行く三日月の後を追う。電気が点いていないため少し薄暗い。床からは板の滑るような感触が伝わってくる。綺麗にされていて周りには何もない。
それはリビングも一緒だった。家具はテレビ、テーブル、本棚、ソファといった、元からの備え付けてあったようなものしかなく、広い部屋をより一層広く感じさせた。
三日月は「部屋で着替えてくるからソファにでも座っていて」と言って、隣の部屋へと姿を消した。ソファの前にバッグと買い物袋を置くと浅く腰掛けた。辺りを見渡す。壁は清潔感のある白で統一されており、ポスターなどのものも一切貼っていない。他に珍しそうなものも特にない。まさに二秒で飽きる部屋だった。
普通、部屋にはその他人の個性や趣味が投影されているものだ。しかし、三日月葵には自分の色というものがない。透明を色の類だと定義できるとするならば、まさしくそれだった。きっと隣の部屋もそれは変わらないのだろう。
「はぁ」予感が当たってしまったと小さな溜息を吐いて下を向いた。期待外れというか、予想通りというか。ビニール袋に目がいってはっと気がつく。先に料理を作っておくか。
キッチンに入って真っ先に驚いたことは部屋同様に綺麗だったことである。油がとんだ形跡もなく、換気扇を回してついたフィルターの汚れも全く無かった。調理場には味噌もなく、塩とコショウ、それと砂糖が申し訳なさそうに置いてあるだけだった。
「つまり、これは…」思わず口に出していた。
つまり三日月はキッチンを使っていない。料理をしていないということだ。
それは肉を冷やしておこうと、冷蔵庫の中を見て明らかとなった。中には上から下までミネラルウォーターしか入っていなく、目薬すら無かった。よかった。一応材料は一通り揃えといて。安堵と同時に夕方のことを思い出す。
三日月はなぜフランス料理の店になど案内したのだろうか。自分を歓迎するため?それとも冗談のつもりでわざと?否。三日月は機械のような女だ。だからもし歓迎の気持ちがあっても、普段行かないようなところには案内しないし、ジョークも言わない、はずだ。だとしたら。本当に三日月は、よく行く馴染みの店がメルシー・ボクだったのではないだろうか。毎日外食とは考えにくいがキッチンの綺麗さは異常だし、それに父親は相当な金持ちらしいし……。
そこで一旦思考が停止した。軽いノブの音と共にドアが開いて三日月が出てきたからだ。その姿に目線どころか、全神経が奪われた。
純白のワンピースに天衣無縫の長い髪。たったそれだけなのに、いやそれだけだからこそ見蕩れてしまっていた。見慣れた制服とのギャップのせいか、私服姿がとても新鮮に感じる。しかし清純なイメージは壊れるどころかはるかに磨きがかかっている。いつの間にか先ほどの考察は心の片隅に追いやられていた。
三日月がこちらを見上げている。しまった見つめすぎたか。
「今丁度作ろうと思って……。葵さんはソファに座っていてよ」
これじゃあどちらが客かわからない。ただこれ以上三日月の顔を直視できず、下を向いて話していた。
「葵でいいわ。…ここで見ていてはダメかしら?」
三日月が静かに言う。薄い願望をのせたいつもの無表情で。
「別にいいけど、面白くないよ」
辺りをうろうろする。話に集中しているせいか何から始めればいいのか戸惑う。
「それでもいいから…」
消え入りそうな声だった。別に拒む理由も無かったので二、三度頷くと、冷蔵庫から先ほど入れたばかりの生ぬるい鶏肉を取り出した。
実際は三日月がいてくれてよかったかもしれない。初めて使う台所は迷宮のようなもので、どこに何があるのかまるでわからない。調味料に関しては言うことは無かったのだが、道具の名前を口にするたびに三日月が無言で指を差してくれるのがありがたかった。まあそれと同時に、使ってもいないのによく覚えているなと感心したりもしたのだが。おかげで作業は滞ることなくスムーズに進んだ。
「よし、後は麺が茹で上がるのを待つだけ」鍋を見つめてそんな独り言を口にする。
隣のフライパンには先ほど作った肉のそぼろと茄子が淡い湯気をあげている。同じように体が火照っていて熱い。ワイシャツを掴んで軽くパタパタと風を起こす。三日月だからだろうか、目線はさほど気にならなかったのだが、人がいるとどうもやりづらい。壁に寄りかかると大きく息を吐いた。
「葵さんってスパゲッティは好き?」鍋の中でゆらゆらと踊っているパスタを見ながら俺は言った。パスタが茹で上がるまで五分弱。黙ったままでは気まずいので三日月に言葉を投げかけた。
「嫌いじゃないわ」三日月はいつものように「葵でいいわ」と付け加えるとそう言った。きっとおそらく無表情なのだろうな。そんなことを思って苦笑する。
「じゃあ好きな料理とかってある?」どうせ「特にないわ」などと言われるだろうと思ったが、一応挨拶程度に聞いてみる。
「……カレー」三日月はぼそっと言った。
「え?」少し驚いて横にいる三日月の顔をのぞく。三日月は聞こえなかったと勘違いしたのか、今度ははっきりとした口調で「お母さんのカレー」と言った。その顔は少し照れたようなそれでいて何かを懐かしがんでいるようなそんな顔だった。
こんな顔もするのだな。咄嗟にそんなことを思った。
「食べたいものを聞いたときに言ってくれれば作ったよ。カレーならオレも得意だし」
決して自慢するわけではなく、ただ自然にそう言った。
「いいえ」三日月がそこで否定する。「えっ」と思い、向きかけた顔を再び三日月の方へと向ける。
「好きな料理と食べたいものは少し違う気がする…」三日月は少し自信なさそうに言った。そんなものかなと顔をしかめていたが、「それに」と三日月が口を開いたので急いで注意を引き戻す。
「それに今度は…私が作るから…」三日月は若干下を見ながら言った。どういう意図でそう言ったのかは分からなかったが、聞き返すこともできなかったので無言のまま前を向いた。
三日月はどうして一人暮らしをしているのだろうか。
先ほどの表情を見たからというわけではないが、以前から湧き上がっていた疑問を蒸し返してみる。普通ならば親元を離れる理由がない。まあ学校の立地の条件でどうしても下宿しなければ通えないという場合も無くはないが、(通っている張本人が言うのもあれだが)そうまでする理由がこの学校にはない。偏差値うんぬんの問題で言うならこのレベルの学校はいくらでもあるので、わざわざここを選んだことがどうしても解せなかった。
ならば原因は何か。
先ほどよりもなめらかになったパスタを見下ろす。
もしかしたら家族のほうに問題があるのかもしれない。ふとそんな考えが頭をよぎる。マンションまで借りて下宿(と言えるのかわからないが)する理由。その根本は三日月自身と言うよりも、むしろ家庭にあるのではないだろうか。
「あまり深く関わらなイ」
染みついたキムの言葉を思い出す。
そうだ。考えたところで答えはでない。たとえ仮に知ったところで何もできやしない。
決して自暴自棄になったわけではなく、真実としてそう思った。
この一カ月、三日月と彼氏ごっこをすればいい。
たったそれだけだ。
丁度アラームの音が台所に響き渡る。急に現実に引き戻された俺は鍋の火を止めると、麺を流しに置いたザルに移す。湯気が立ち上り、視界を覆う。素早く水気を切り、まな板の上へと置いた。
あとはパスタをオリーブオイルと絡めて具を乗せるだけ。
ちらりと三日月のほうを見る。先ほどと変わらない姿勢の三日月に言った。
「もうできるから、座って」
三日月は一度だけこちらと目を合わせると無表情のまま移動していった。
「お待たせ」そんな言葉を口にしながら、椅子に座っている三日月の前に料理を置く。三日月は静かに「ありがとう」と言うと、そのままスパゲッティを見つめた。三日月と顔を合わせて食事する勇気は無かったので九〇度ずれた椅子へと腰を下ろす。
少しぎこちない空気が流れた後、「頂きます」と両手を合わせて言った。三日月もそれに続いて「頂きます」と静かに続いた。
味について言えばなかなかのものだった。自分で言うのも少し変だが(三日月は何も言ってこないので)今まで作った中ではとびぬけておいしかった。三日月が見ていて適度な緊張感があったせいか、手順を間違えることもなく仕上がったからだ。特にそぼろと茄子の出来がよく、自分でも唸るほどだった。まあもちろん三日月は無表情のまま食事を進めていくのだが。
和洋折衷という言葉があるように、味噌とパスタがよく絡んでいておいしい。鶉の卵を乗せてカルボナーラ風にしたのも正解だったかもしれない。
三日月のことをちらりと見る。相変わらずの無表情だったが、ペースが一定ということは決してまずくはないということなのだろう。
三日月は食べ方一つをとってみても上品というか優雅で可憐だった。スプーンとフォークを使って器用にパスタを巻く姿は、中世の貴族のような印象を与えた。フォークはもともとスパゲッティを食べるために作られたものらしいが、たとえフォークが無い時代であっても三日月は美しく食べることが出来るのだろうなと勝手に想像していた。
食べ終わると俺は、少し椅子にもたれかかるように座りなおした。多めに作りすぎてしまい、三日月の二倍ぐらいの量を食べたのだがいくら成長期とは言えど、流石に満腹になった。ふうと息をつく。三日月は綺麗な姿勢のまま前を向いていた。
何か話でもしようかと内容を考えていると、三日月が唐突に、しかも割と大きな声で口を開いた。
「とてもおいしかったわ」
驚いて目を大きく見開いていた。正直少し嬉しい。無表情のままなのだが、その言葉はなぜか優しく感じた。
その後も少しずつではあったが三日月と会話を交えた。学校のことや休みの過ごし方など他愛も無い話だ。まあ会話と言ってもこっちから一方的に話して三日月が相槌を打ったり、質問したことに返答をするというだけなのだが。
意外なことに翔の話が盛りあがった。翔の存在自体がすでにギャグであることや、普段の言動などを話した。三日月もやや積極的に質問をしてきたりもした。立場上少し悔しい気もしたが、そこは仕事なのだと割り切った。
そうだ仕事だ。お客の彼氏になり一カ月いい思いをさせてあげること。それ以上もそれ以下もない。同様に、三日月自身の話もなるべく控えた。深く関わったってろくなことはない。
自分には何もできない。
腕時計を見るとすでに九時を回っていた。三日月の意向であれば何時までいても構わなかったのだが、一日目ということもあってか、そろそろ帰ろうかと思った。
その時、見計らったように突然三日月が口を開いた。
「聞かないのね」
「え?」思わず三日月の顔を見る。無表情だが真剣そのものだった。
なんのことかと思い、先ほどまで話していた内容を思い出す。確か翔が文化祭でやらかしたいたずらの話じゃあ……。
そこでまたもや三日月が口を開く。
「ヒカル君は、なぜ私が彼氏屋に来たのか聞かないのね?」
言葉を失う。まさか三日月から言ってくるとは思わなかったからだ。頭の中で決心の揺らぐ音がした。聞くなら今しかない。どうする?
聞きたいと思った。しかし同時に聞きたくないとも思った。聞いてしまったら三日月がさらに遠くに行ってしまうような、そんな気がしたからだ。
しばらく沈黙していた。三日月も特に焦っている気配はない。
やがて大きく息を吸うと「ああ、聞かない」と一言そう言った。
これでいいのだ。心の中で小さく頷く。今聞いたとして出来ることは何もない。
三日月がどれほどの問題や悩みを抱えているかは分からないが、少なくともそれらを解決することも和らげてやることもできやしない。「話すだけでも楽になるもの」だと言う奴もいるがそんなのは身勝手な言い訳にすぎない。
無責任な大義名分を掲げて傷つくのは自分じゃない。三日月だ。それをわかっていてやるほど愚かではない。
そう、あまりにも時間が無さ過ぎた。一か月だけの仮初めの恋人。それが前提条件。つまり始まる前から終わっていたのだ。まあ、それでも下手な恋愛小説よりは現実的かもしれない。終わりが来るという点に置いては普通の恋と変わらない。ただそれがちょっと早いだけ。
そこで微かに溜息をつく。
もう少し。もう少し違う出会い方をしていれば何かが変わったのだろうか。
目線を下げて首を横に振った。いやありえない。
それが合図になったのか、三日月は静かに「そう」と言った。そして少し名残惜しそうに(そう見えた)「最初で最後の彼氏になるヒカル君には話そうかと思ったけど……わかったわ」と付け加えた。
三日月もわかっているのかもしれない。話したところでどうにもならないこと。この仕事上深く関わるべきではないということ。
「そろそろ帰ろうかな」腕時計を見てそう言った。三日月は引き止めることもなくもう一度「わかったわ」と呟いた。
身支度を整えて玄関先までやってくる。靴につま先だけを通すと後ろを振り向いた。
「明日は八時に迎えに来るけど、いいよね?」靴でトントンと地面を軽く蹴る。
三日月は本当に、本当に僅かに微笑んで頷いた。振り向いてドアを開けた。
通路は吹き抜けにはなっておらず、外の様子は解らない。しかし、電気がところどころしか点いていないせいで、いくらか暗く感じた。右手でドアを押さえて振り返る。三日月は無表情のままこちらを見ている。軽く手を上げて「じゃあ」と言った。
三日月は何か言いたいことがあるのか下の方に目を泳がせている。それに気付き、首を横にひねる。
「行きに来た道を戻れば外に出られるから。エレベーターは右ね」三日月は静かに言った。
「ああわかった」俺は小刻みに頷く。
三日月は先ほど自分やったのと同じように手を上げがら「じゃあ」と言った。それに呼応するかのように俺も真似をする。「じゃあ」
ぎこちないやりとりではあったがゆっくりと扉を閉めた。
アパートの玄関前まで来て部屋の電気が点いていないことに気付き、あれおかしいなと感じた。もう翔は寝てしまっているのだろうか。念のためゆっくりとドアを引く。すると開けた瞬間に居間の方から「わぁ!」という歓声が響いてきた。何事かと思い急いで靴を脱ぎ、廊下を走る。居間には、万年ゴタツでぬくぬくとしながらテレビを見ている翔の姿があった。
「おかえり」気配を察知したのかそれともドアの音が聞こえていたのか、翔は振り向かずにそう言った。
「おう、ただいま」肩からぶら下がったスクールバックをその場に落とす。そしてワイシャツを脱ごうかとボタンを外したところでまたもや声がかかる。
「遅かったな。バイト?」
「ああ、それもある」
「も?」
翔はようやく振り向いた。ワイシャツを床へ脱ぎ棄てると言った。
「彼女のところで飯食べてきたって言ったら驚くか?」
椅子に掛けてあった部屋着に首を通した時、翔の瞠目した顔が見えた。驚愕を通り越して青天の霹靂と言ったようだった。
「彼女できたの?いつ?誰?」
翔のくりっとした目が興味津々そうに覗いていた。翔には黙っている必要も、誤魔化す自信も無かったため話そうと決めていた。もちろん仕事の話を抜きにして。
「あの今朝見かけた三日月葵ってやつ」
翔は意外そうな、むしろなぜという顔を浮かべている。
「好きだったんだ。どっちから告白したの?」
頭の中に疑問が浮かぶ。
あの場合はどちらがきっかけと言えるのだろうか。選んだという結果だけ見れば三日月ということにもなりそうだが。
「ええっと、向こうから?」
翔はまた意外そうな顔をする。
「なぜ疑問形?というか向こうも好きだったんだ」
「いやそう言うわけじゃないけど…何というか成り行き?」
仕事のことを抜きにしているため話がうまくまとまらなかった。
「成り行きで付き合うか普通?」
翔は聞いたが、こちらが黙っていたので釈然としないまま前に向き直った。テレビではサッカーの試合がやっており、ときどき歓声が上がった。確かアジア大会の優勝決定戦だったはずだ。
一旦台所へ行き、冷蔵庫を開けた。中から牛乳を取り出し、そのまま口をつけて飲んだ。自分の喉がひどく渇いていたことに気付いた。三分の一ほどあった中身を一気に飲み干す。
「ふう」一回息を吐くと、服の袖で口元を拭いた。そして空のパックをゴミ箱に投げ入れた。
台所から出てテレビに見入っている翔の隣へと潜り込む。やや暖かい熱気が足を包み込んだ。
「にしてもあの光に彼女がねぇ」
翔はテレビを見ながら呟いた。どう反応していいかわからずフンと鼻を鳴らす。
「てっきり生涯独身でいるかと思ったよ。お前、女に対するバリア堅いからな」
「そうか?」俺は仰向けになって言った。そして同時に大きな欠伸が出た。流石にバイトの疲れが出たらしい。
「三日月の家で何してたんだよ?」
つぶりかけた目を空ける。
「だから飯食っていたんだって」
「他には?」
翔はおつまみピーナッツを一粒口の中へ放り込むと再び聞いた。
「他?まあずっと話してたな。学校のこととか、好きな物のこととか」
翔の口元が緩んでいるのに気付く。
「本当にそれだけ?」
「あ、あと翔のことも」
「本当にそれだけ?」
翔は明らかに笑いを堪えている様子だった。なんのことか分からず浅く頷く。
「ぷっ」それと同時に翔は吹き出した。お腹を抱えてクツクツと笑っている。怪訝な顔をして翔を見た。
「何がそんなに可笑しいんだよ?」
翔は右手の掌をこちらに向けて、もう一方で目元を伏せている。
「だって好きな物って…。お前ら小学生かよ」
まだ笑いを抑えられないのか、サッカーに見向きもせず天井を見上げ豪快に笑った。部屋中に翔の笑い声だけが響く。馬鹿にされている気がして(事実そうなのだが)だんだん腹が立ってきた。丁度怒ろうかと思ったところでタイミングよく翔が口を開く。
「わりぃわりぃ。光があまりにも純情だからよ。ついからかっちまった。でもよ、六時くらいから一緒にいたんだろ?」翔は目元に溜まった涙を拭きながら言った。
翔に背中を向けて「ああ」という生返事を返した。
「三時間の間本当に何もなし?」
「何のことだ?」
翔が何を言いたいのか本当に分からなかった。
「だからよぉ、男女が二人きりで、しかも同じ屋根の下に三時間もいて何も起こらないのはおかしいだろうが」
翔は懐からマイルドセブンと書かれた煙草を一本取り出すと、金色のライターで火を点けた。翔は一回息を吐く。口からは大量の煙が吐き出された。そして煙草からは一筋の細い煙が立ちこめていた。
翔の癖だ。咄嗟にそんなことを思った。翔は言いたくないこと、言いづらいことがあると煙草をふかす癖がある。文字通り言葉を煙に巻くのだ。
「何かって何?」
はぐらかされると分かっていたがそれでもあえて聞いた。
「何ってそりゃ、昼ドラ的な展開だよ」
「昼ドラ見ねえから分からねえ。というかお前も見てないだろ」
「いやオレは毎日録画してるから。そんで光がいないときに見てますから」
「意外だ」目を瞠る。そんな趣味があったなんて全然知らなかった。そんな考えをよそに翔は言葉を続けた。
「つーかそんなこと言ってるとすぐ逃げられるぞ。相手の期待や気持ちを理解できないで傷つけるようなことはすんなよ」翔の目は少し真剣だった。
「何それ」
気付かない振りをして適当にあしらう。説教じみた言葉に少しムッとした。
またも大きく欠伸をする。今日一日があまりにも濃かったせいか、精神まで疲労困憊
していた。瞼が重くなる。かすれた視界の中で翔は再びサッカーへと注意を戻した。
「今どっちが勝ってるの?」
八時から始まったとして今は十時ぐらい。きっともうすぐ終わるだろう。
「一点差で日本。後三分逃げ切れば優勝」
翔はテレビを凝視したまま早口で答える。その手は祈るように組まれていた。
このまま寝てしまおうかと思ったが、翔の先ほどの言葉が気になり、再度聞いた。
「でさ、結局何が言いたかったの?」
「あ?」
翔はまだその話かと邪険な顔をする。そして少し考えてから「つまりな、手ぇ出しとけってことだよ」と言った。
『ピイイイィ!』
その言葉の意味を理解するのより一瞬早く、テレビの中でホイッスルの音がけたたましく鳴った。それと同時に観客の悲痛と絶望の声も聞こえてくる。翔は何事かと振り返った。それに続いて、寝ていた体を置きあげる。
「おい、嘘だろ……」翔はそれだけ言うと絶句した。
あまりサッカーのルールについては詳しくはなかったが、アナウンサーと解説者の話を聞いて理解した。日本側の選手がペナルティエリアで相手のシュートを防ごうと、ハンドをしてしまいピーケーを取られた。どうもそういうことらしい。
呆然としている翔をよそにすぐにピーケーは始まった。相手選手は見事キーパーの逆を突き、華麗なゴールを決めた。同時に翔の口からも煙草が落ちる。そして今のシュートのように、上手く灰皿の中へと沈んでいった。
脱力状態で前を向いている翔にただ一言こう言った。
「説得力ねえな」
To be continued...
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