虚像の月

@saki-yutaro

プロローグ

「虚像の月」

咲 雄太郎


プロローグ



 静かな水面に立っていた。静かというのは、つまり風も波も音もないということだ。そして水面というのは、海なのかも池なのかも、はたまた湖なのかもわからないということだ。そんな曖昧な水面にとりあえず立っていたのだ。周りは真っ暗で何も分からない。下を見ても、水に触れているという感覚や温度すらも感じられない。ではどうして水面だとわかったのか。

 月だ。

 ほんの数メートル離れている場所に月がぽつんと浮かび上がっていた。満月だった。足を揺らして波をたててやると、綺麗な円はその輪郭を淡く残したまま波状にゆらゆらと揺れていた。それは間違いなく水面に映る月影だった。

 しかしふと空を見上げてみると、頭上に月はいなかった。おかしいなと思い再び下を向くがやはり月影はある。どういうわけだろうとしばらく上を見たり下を見たりを繰り返していたが、いよいよ気になって確かめてみようと一歩踏み出した。すると不思議なことに一歩踏み出すと同時にその月も同じ距離だけ離れていくのだ。今度は静かに進んだが、やはり結果は一緒だった。丁度くるぶしの上あたりまで浸っている水位はその後、浅くも深くもならずにいつまでも続いているようだった。それをいいことに何の恐怖も感慨も無いまま、ただ無意識に歩を進めていく。しかし月との距離は一向に縮まらなかった。速度を変えて走ってみても同じ速度で離れていく。その繰り返しだった。

 そうして静かな水面に映る月を追いかけ続けた…。


トゥルルルルル、トゥルルルルル

 

 うるさい。うるさい。

 携帯が雄叫びを上げている。今さらながらマナーモードにしておけばよかったとつくづく思う。

誰だよ、この日曜日の至福の時間に……。

やり過ごそうかと思い、掛け布団を頭からかぶりうずくまった。しかしコールは一向に止む気配はない。

もう我慢できない。布団から手だけを出す。

確か枕もとに置いたはずなんだけど……。


トゥルルルルル、トゥルルルルル


辺り一面を這うように物色するがどこにもない。つーかもう二〇コール目。いい加減にあきらめろよ。

やっと見つけた。

携帯は少し離れたところに転がっていた。布団から顔を出してデフォルメを覗く。

090……。誰?

見覚えのない番号が映し出されている。考えても予想される人物は一向に思いつかない。しかしこのままでもしかたがないのでコール音に急かされるように通話ボタンを押した。

ポチッ。

「やっほー、ノセちゃ~ん?オレオレ、純だおー」

急に大きな声が聞こえてきたので思わず携帯から耳を離した。

まったくうるさいったらありゃしない。誰だよ「ノセ」って。

「番号、間違えてますよ」

 それだけを言って電話を切ろうとした。

 信じらんねぇ。人を起こした揚句、間違い電話かよ。

しかしそこで電話越しから不意に声が聞こえた。

「え?イチノセコウ君じゃないの?」

 思わず切りかけたその手を止める。

呼ばれた。確かに呼ばれた。自分の名前である「一ノ瀬光」と。

知り合い?

急いで携帯を耳へと戻す。と同時に、聞こえてきた声と、純という名前を元に素早く頭の中で検索をかける。そして一〇秒後、一人の人物の顔がぼんやりながらも浮かんできた。

「……二枚目…か?」

 浮かんできてはいたが、自信がなかったため恐る恐る慎重に口を開いた。

「そだよー。ていうかノセちゃん反応遅すぎ!もしかして寝起きだった?」

 すぐさま軽快な声が返ってきた。やけに馴れ馴れしい口調が少し気味悪くもあったが二枚目本人に間違いがないため「ああ」と目をこすりながら頷いた。

「そっか、ごめんね。でももうお昼だから電話しても大丈夫だと思ったんだ」

「それより何で……」

 上手く声が出ない。何かのどの奥に詰まっている感じだ。のどに手を当て軽く揉む。のど仏がごろごろと唸った。

「うん今日はね、ノセちゃんに折り入って頼みたいことがあるんだ」

 言葉を待たずに二枚目は続けた。一つ咳払いしてから二枚目の言葉をさえぎる。

「そっちじゃなくて。何で携帯の番号…。教えたっけ?」

「え?……ああ、インフォ君から買ったよ」二枚目は言った。

 隠し立てもせず、大して興味がなさそうである。

「なんでアイツが番号を知っているんだよ」

 大きなため息が漏れた。

「でもまあ、それはいいや。ところで話って……ん?」

「何?」と二枚目の明るくて元気な声が聞こえてくる。異常のない明るい声だ。

しかしなぜだか違和感を覚えずにはいられなかった。異常がないことが異常に思えてきたのだ。

コイツ……何で元気なんだ?

「!」

 その瞬間、頭の中を二枚目純という人間の情報がまるで決壊したダムの水のように勢いよく駆け廻った。そして先ほどまでの異常な違和感が、姿かたちを変えて確信的な疑問へと変化した。

 コイツ……何で元気なんだ?

 もう一度同じ問いを自分へと投げかける。しかしさっきと違うのは、その疑問の原因を少なからずわかっているということだった。

「お前ゴールデンウィーク中事故ったんじゃ……」

 少しだけ身震いがした。幽霊と話すと、きっと似たような感じになるのだろう。まあ幽霊と話したことも話す機会もないのだが。静かに生唾を飲み込んだ。

「うんそうそう、車に撥ねられたの」

二枚目はまるで他人事のように答えを返す。

「……」

あまりにもあっさりした二枚目の口調に言葉を失う。驚きや恐怖のためではない。何を言っていいのかわからないのだ。

しかし脳では、駆け廻っている情報を紐解くように整理していた。

俺たちが通っている高校の級友でもある二枚目純はゴールデンウィーク中に事故に遭った。女性生徒と自転車で二人乗りしている所を軽トラックに撥ねられたらしい。原因は軽トラック側の不注意運転だったと聞いている。幸い女性生徒に怪我はなかったものの、二枚目は足の骨を折るという重傷を負った。

また、ゴールデンウィーク初日の事だったため今日までの一週間は絶対安静、退院はさらに一週間後になると聞いていた。

そう、少なくとも担任からそう連絡網で伝えられていたはずだった。

その二枚目がなぜ俺に?一体どこから電話を?疑問が次々と浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返している。一回息を吸うとゆっくりと口を開いた。

「お前、今どこ?」

「え?もちろん病院だけど」

 …まあ、そりゃそうだよな。

 当然と言えば当然の答えにもうそれ以上何も聞き返せない。そして納得した気持ちとは反対に、心が足元から冷えて行くのを感じた。

 もういいや。

二枚目純という男への興味が急激に削がれていく。冷めてしまった料理を片付けるのと一緒で、冷えた好奇心に用はない。さっさとゴミ箱へポイ、だ。

「ああそう、じゃあお大事に……」

 適当な別れ言葉を口にして携帯を耳から離す。もはや、なぜ電話を掛けてきたのかすらどうでもよくなっていた。今はただ、この電話を早急に切って昼寝の続きをしたかった。

「ちょ、ちょっと待ってよ!まだ本題にもはいってないんだから」

二枚目純の慌てた声が、耳から離した携帯から聞こえてくる。再び大きなため息をついて、しぶしぶ携帯を耳に押し当てた。

「何?用があんなら素早く手短に話せよ」

 少し語調を強めて言った。

「あ、その前に質問していい?」

「何だよ?」

前を向くと、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。細く切りこまれた光の筋は包丁のように鋭かった。

「ノセちゃん彼女いる?」

「は?」

 光に奪われた意識を慌てて引き戻す。それでも何を言っているのか始めはわからなかった。

 は?彼女?どういうこと?学校で聞けよ。

「……」

 混乱していて何も言えない。意味を意味のまま捉えればいいのかもしれないが、それにしてはあまりにも単純でとりとめのない言葉だった。

しばらくの沈黙が流れる。

「…いねぇよ」

 やっとの思いで口を開いた。嘘は言っていない。

「じゃあ次ね」

 待ってましたと言わんばかりに二枚目の明るい声が聞こえてくる。

「部活とかやってる?」

 二回目ということだからだろうか、今度は特に混乱することはなかった。しかし即答はせず、少しの溜めを入れてから「やってねぇよ」と答えた。

 この調子で百の質問に答えさせられて、プライベートを暴かれていくのだろうか。

そんな懸念と不安が頭をよぎる。しかし二枚目は三問目の問いを発動することはなく、明るい声で「ありがとう」と答えた。

釈然としないまま二枚目の次の言葉を待つ。

「じゃあ本題に入るけど……」

「今のじゃなかったんだ」

「え?あたりまえじゃん。そんな学校でも聞けるようなことをわざわざ電話で聞かないよ」

「……だな」

 もっともな意見に無意識に頭をかいた。

 だがしかし、そうなると今度は「学校でも聞けるようなこと」をわざわざ質問した意図がわからない。

「じゃあ、何で聞いた?」

「軽いテストだよ」

「テスト?」

「そう、両方ともイエスの人には厳しいと思うからね」

「何のことだ?」

「それにノセちゃんぐらいかっこよくなきゃ」

「お前は何が言いたいんだ?」

「僕が言いたいのは、つまりね……」

「つまり?」

「ノセちゃんに仕事の代理を頼みたいんだ」

「え?」

 一瞬聞き間違いかと思った。今までの意味深長な質問と、神妙な話し方から本当にそんなことだったのかという気になる。確かに決して軽い話ではなかったが、それでも普段の二枚目とは少し違った雰囲気だったせいでどこか腑に落ちなかった。

 しかしそんな考察や推理も虚しく、直接本人の話を聞かなければ解るはずもない。

「意味がわからない」

 そう言うと電話越しから二枚目のクツクツと陽気に笑う声が聞こえてきた。

「面白いね、ノセちゃん。でも意味わからなくはないでしょ?ほら僕怪我したからしばらくバイトできなくて。でも、勤め先がこれ以上人員増やせないから……」

「つまり退院までの間バイトを変わってくれってことか?」

 じれったくなって途中で口を挟む。

「まあそういうこと。正確には完治するまでだけど。一か月ぐらいはかかると思うんだ。…ダメ、かな?」

「さっきの質問は?」

「あれは時間が空いているかどうかってこと」

 それだけじゃないようにも思えたけどな……。一瞬そんな事を思った。

「なんで俺に頼んだの?しかも他人から電話番号を聞いたりしてまで」

 一番理解できないことを切りこむ。

「こんなことノセちゃんぐらいにしか頼めなくて」

「理由になってないぞ」

「かっこいいからって言うのは?」

「意味不明だ。それにお前に言われると皮肉にしか聞こえないな」

 電話越しの二枚目の顔を思い出す。

凛とした目に、日本人離れした鼻筋。整った顔にきめ細かい白い肌。天衣無縫という言葉がぴったりと当てはまるような自然な顔立ち。恐らく学校内で、いや日本中で一番美しい男子と言っても過言ではない。そんな二枚目の顔を思い出し、なぜか自然とため息が漏れてしまった。

「皮肉じゃないよ。ノセちゃんの顔だって個性があって魅力的だよ」

「それ褒め言葉か?」

 あまり個性的という言葉が好きではない俺は一瞬ムッとした。目立っている点ということにおいては短所と同意義な感じがするからだ。だが、わざわざ二枚目相手にそれほどむきになって否定する気にはなれなかった。

「まあ、それはいいや。ところでどこで働いているんだ?」

「えっ!引き受けてくれるの?」

 二枚目の嬉しそうな声が聞こえる。

「理由がよくわからないけどな」

「ありがとー。本当に助かるよ。場所はね、学校の最寄り駅の一駅先にある『カレシヤ』っていうお店なんだ。地図はメールで送るよ」

「カレシヤ?イタ飯屋かなんかか?」

 変わった名前だ。

「いや、レンタル店の延長線上みたいなところ」

「ふーん」

 相槌を打ったものの、延長線上と言われてもいまいちピンとこなかった。そして一つ大事なことを思い出した。

「オレ水曜日から土曜日までバイト入れているんだけど」

「あ、それなら大丈夫。月曜日に確実に行ってくれれば問題ないよ。あとは自由にシフトしてくれればいいから」

「えっ自由でいいのか?…まあ、それなら助かるんだけど」

 二枚目の言っていることに違和感を覚える。どうしても代理を立ててほしいと言っておきながら、自由に仕事をしてくれていいと言う。ならば最初から行く必要なんか無いのではないか?

 いや、それとも月曜日に何らかの大切な仕事があるのかもしれない。

 いずれにしても二枚目が何か隠していることだけは確かか……。

「ところで、少し生々しい話になっちまうけど、時給っていくらなんだ?」

「ああ、お金ね。うちははけが良いよ。時給じゃなくて月給制なんだけど……」

「一か月働いて五十万だよ」

 えっ?

「えっ?」

 最低賃金も覚悟していたはずだった。だがあまりにも桁が違いすぎる。

あまりにも大きすぎる。

 歓喜よりも混乱のほうが脳内を占めていた。冗談とわかっていても二枚目の明るい声がなぜか不気味に感じられた。

「嘘だろ?」少し上ずった声で聞き返す。

「えっ?」今度は二枚目が驚きの反応を示した。まるでなぜ自分が嘘をつかなければいけないのかとでも言いたげだった。

「五十万って……あまりにも……だって」

 言葉が支離滅裂になる。背中も冷や汗で濡れている。全身がその事実を拒絶したいと言わんばかりに鳥肌を立てていた。

「いや、嘘じゃないよ。五十万だよ、ご・じゅ・う・ま・ん」

「……危ない仕事じゃないよな?」

 ゴクッ。乾いたのどを生温かい唾が通過した。

「そんな仕事僕は押し付けないよ」

 爽やかな声が心の不安を否定する。やはり給料の話はにわかに信じられないが、これ以上問いただしたところで先はないだろう。天井を見て大きく息を吸う。六十ワットの電球が裸のまま淡い光を放っていた。

「わかった。その仕事引き受けた」

 静かに、だが力を込めて言いきった。

 その後は、二枚目にさんざんお礼と感謝の言葉を浴びせられてから電話を切った。もうすぐ地図が載ったメールが届くはずだ。

 携帯を布団の上に置き、立ち上がる。カーテンを開けると心地よい日光が、青空から降り注いできた。思わず自分の手を目の前にかざす。甲の辺りが、流れる血潮で赤く染まっていた。

「なんかこんな歌あったな……」

 そんな独り言を青空に向かって呟いた。



To be continued...

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