5 死亡保険
「マホロバコヒーレント」
咲 雄太郎
5 死亡保険
「本当にここは宇宙なのね」
ロリータとアンドリューの二人は昇降機(アップダウナ)の中にいた。元いた医療区域から進行方向地球に「落ちる」向きに、一本のケーブルを伝って、静止軌道ステーションへ向かっているところだった。ロリータはその中で初めて、今いる自分の場所が、地上から遠く離れた「安全」の圏外にいることを目視して、少しだけ恐ろしくなってそう聞いた。
「高度で言えば地上から約三万六千キロメートルといったところでしょうか」
そんなロリータの気持ちを知ってか知らずか、実際には途方もないはずの「数字」を淡々と言い放つアンドリューの口調は、あまりにも長く宇宙に滞在しすぎた弊害とも言える習慣病患者のそれに近かった。
「どれだけ高いのか想像もできない」
ロリータはおもむろに首を振ろうとして見せた。しかし医療用ムーブメントは、首周りに固定された左右のプレスクッションによって彼女の動きを制限し、その努力は無駄に終わった。
「そうですね」そこでついにアンドリューはロリータの困惑を感じ取る。二人の間に横たわる時間の乖離を埋めるには、どうしたらいいかと逡巡した。「仮に今、私たちはとても大きな巨人と目を合わせていると想像してみてください。彼は地球に立っていて、目線の高さが私たちと同じなんです。ここで宇宙の始まりである成層圏をこの巨人の身体の部分で例えるとしましょう」
「成層圏が分からないわ」
「まあ一種の空気の膜のようなものですかね。プレゼントの包装だと思ってください」
「プレゼントは好きよ」
サプライズと一緒ならなお最高だと、ロリータはそんな見当違いなことを考える。
「とにかく地球を覆う空気の膜の外は何もない真空の宇宙です。もしも先ほどの巨人で例えるなら、私たちが呼吸できる範囲はせいぜい足の爪ほどの高さしかないのです。どれだけ高いか少しはわかりましたか」
「なんと言うか、サプライズって感じだわ」
「無重力は初めてですか」
間抜けな質問だとロリータは思った。少なくとも五〇年間凍結されたままだった人間に聞くようなことではないだろう。だからアンドリューの質問の意図が、彼女自身の体調を気遣ったそれだと気付くのに少しだけ時間がかかった。
「ええ。慣れないせいか、気分が悪いわ」
もしかしたら柄にもなく気持ちが舞い上がっていたのかもしれないとロリータは頷く。目覚めてから歳月を噛みしめる猶予もなくすぐに病気を治療した。それからわずか一週間も経っていない。
「これは試練です」
どこかおざなりなアンドリューの言い方は、こればかりはどうしようもないという諦めに近かった。
「あとどのくらいでそのステーションに着くのかしら」
ムーブメントの中とはいえ、無重力が与える感覚は、水を張った鍋の中に塩を一粒落とすようなものだった。その鍋をひっくり返してみてももはやその一粒はどこにも見つからない。いっそ火にかけて蒸発してしまったほうがなんと楽なことだろうか。ロリータにとって不自由さとは精神上の苦痛だった。かつて病床に伏したあの頃とさして変わらない。
「ほんのすぐです」
「私はこれから何をしに行くのかも聞かされていない。宇宙遊泳だけが目的じゃないんでしょう」
「ああ」アンドリューはそこで淡白な反応を返す。「もしかしたらショックを受けるかもしれないと思って、伏せていたんですが」
「ショックなら目覚めてた時に味わったわ。嫌というほど」
「なんと言えばいいか」
「何も言わないで」
十何歳も年下の男にムキになってしまったことを少しだけ恥じたように、ムーブメントの中で顔を背ける。実際には首の筋肉は硬直し、閉じた瞼の奥にはアンドリューの困った顔が浮かんでいるであろうことをロリータは知っていた。
「ちょっと法律上の問題が残っていて、その手続きを行います。今はまだそこまでしか言えません」
それが彼の最大限の譲歩だった。
「そうなの」ロリータはつまらなそうにそう言った。
「これ以上機嫌を損ねないうちに言っておくと、あなたのバースデーパーティーってわけでもないんです」
「私がこのポッドに入れられていることと何か関係があることなの?」
ロリータはアンドリューの冗談をまるで意に介さないとでも言うようにムーブメントに目を配るとそう言った。
「まあ、それも後ほど」
「どうもこういうのは慣れないの。便利なのはわかるけど。なんだかおばあちゃんになったみたい」
そう言ってロリータは不服そうな顔をした。その時、口元に寄った皺を見たアンドリューは、そこではじめて彼女の実年齢が自分よりもずっと上だということを意識する。彼女の容姿は、身内の贔屓目というわけでもないが、若々しくむしろどこかあどけない。その白髪は、老婆というよりも、汚れを知らない純白のドレスを連想させた。
「確かに使い勝手はいいですが、利便性は人の成長を奪う。おばあちゃんとあなたは言ったが、これの利用者の平均年齢は思っているよりもずっと低い。歩行障害を煩うほどの肥満者が選ぶのは無重力の宇宙環境か高性能ムーブメントのどちらかです」
「私はそのどちらも当てはまるわ」
「自重を支えるだけなら植物にだってできるでしょうに」
「宇宙に植物はないじゃない。だって空気がないから息苦しいわ」
アンドリューは何も言わない。それは同意を示しているようにも否定しているようにも見える。ロリータはひとりでに頷く。息苦しいのは地球でも一緒。特に私の知っている時代では。彼女は今、眠りについた時よりもずっと地球から遠かった。
「私が死んでいるってどういうこと?」
医療用ムーブメントの中でロリータの声が反響する。その声が思っていたよりもずっと大きかったらしく、パブリックスペースで談笑していた奇妙な格好の若者たちが、ロリータの方に一瞥をくれる。彼女は自分が注目されたことに気がつくと、もう一度、今度は静かに「どういうことなの」と聞いた。
「法律上はそういうことに”なってしまって”いるんです」
申し訳なさそうな笑顔を浮かべてそう答えたのはゲイリー・パスツールだった。
昇降機(アップダウナ)を降りて静止軌道ステーションについた二人が向かった先は、軌道エレベータ「ヴィクトリア」を統治する国連の行政機関だった。ほどよく広いオフィスフロントのようなスペース、それが例えば地球であったのならば、恐らくなんてことはない。しかしここが宇宙(スペース)だということを考えると、限られた空間に占めるこの場所の割合は、ある意味で特権とも言える優位性を体現していた。その中で待ち構えていたのがそう、十分に自信と余裕とを兼ね備えた保険屋、ゲイリー・パスツールだった。はじめに彼は心底同情しますというニュアンスを含んだ微笑を浮かべると、ロリータに現状の死を告げた。
「死といっても法律上の死のことで、実際のあなたの生死は問題ではないということです」
「そんなことってありえるのかしら?」
ロリータは目の前の男が醸し出す人を食ったような態度に、どこか信用ならないと言ったように「ふん」と顎を突き出した。
「順番にご説明します」慣れた様子で話すパスツールはこう続けた。「まずはじめに、ミセス・ケミストリーが眠りにつかれた五〇年前は、コールドスリープが初めて商業化した時期でもありました。そもそもコールドスリープという技術は当時非常に新しいもので、蘇生のリスクも今よりずっと高かった。患者は法律上“死んでいる”という扱いの方が何かと都合が良かったんです」
「どういうこと?」
「まず当時の体制としてコールドスリープ患者とその遺族への対応が今よりも行き届いていないのが現状でした。例えば費用やサービス面に関して、個人が抱える負担は今よりもずっと大きかった。当然、患者の遺族がこのうちの一部を背負うことになる。なぜなら当の本人は眠ってしまうのですから」そこでパスツールはひとりでに笑う。オーディエンスを巻き込む時に使うようなデザインされた笑いである。「あるいはたとえ巨額の資産を投げ打ったとしても、助かるのはずっと未来のことでしたし、もしかしたら二度と蘇生できない可能性だって考えられます。そうなるとビジネスとしては成り立たなくなる。だってわざわざ死ぬためにお金を払う馬鹿はいないでしょう」
「でも助かる見込みはあるわ。既存の治療を続けるよりはずっと」
「ええ。もちろんミセスのお考えは正しい。しかしながら、そう考える遺族は思いの外少なかった。コールドスリープの借金を残して安らかに眠られるよりも、闘病生活の中で一緒に苦しむ方が心の折り合いがついたのです。もちろん患者だって目覚めた未来で無一文だったら、治療を受けることすらできずに死んでしまいますよね。そういった不安があると、なかなかコールドスリープという選択に踏み切れなくなる。おそらくミセスにもそんな経験が少なからずあるのでは?」
「…」
ロリータは何も答えない。その代わりに、長い眠りから覚めた直後、なぜか流れた涙の理由を考えていた。それがもし目の前の男が言うように不安や焦燥が原因なのだとしたら、なんと身勝手で陳腐だろうか、つまらない。
「だから何かしらの保証が必要だったんです。もしもお菓子の家に賞味期限がなければ、誰にも食べられないよう注意すればそれでいい。遺族にとっては患者がコールドスリープで眠ることは、ある意味で死んでいることと変わらない。もしもそこに保険が降りれば、凍えつくほど冷たい棺桶にいれてやることができる」
「確かにそれならお菓子も死体も腐らなくて済む」
そこで初めてアンドリューは口を挟む。対して上手くもない返答は、どうやら表面上の満悦感を保険屋との間にもたらすことはできたらしい。
「よく分からないけど、つまり死亡保険ってこと?」
ロリータの答えはシンプルだった。
「はい、まさしく。本来患者が”死ぬ”ことで降りる保険金の一部が、コールドスリープ直後にその遺族に支払われます。それを眠った患者の命をつなぐための資金とすることでビジネスを成り立たせていたのです。なんとも皮肉な話ですが。我々はそれをデッドバックと呼んでいます。これは目覚めた際にはライフバックと呼称が変わり、治療に応じた残りの保険金が支払われます」
「デッドバック。まさに擬似的な死による払い戻しというわけですね」
アンドリューは、感情的に同意した、というよりも、それがもたらす仕組みの精巧さに感心したように頷いた。
「当時はそれで何億という保険金を手に入れられました。それがコールドスリープの資金や残されたご遺族の生活の工面、あるいは患者が目覚めた際の治療費に充てられたのです」
「私が”死んでいることになっている”理由はその仕組みのせいだって言うの?」
「しかし事はそう単純ではないのです」
ロリータはまだあるのかとため息をつく。
「眠っている間に、随分と多くのものが単純じゃなくなっている気がするわ」
「あなたは、見た目よりもずっと貫禄がおありだ」
「そう?見た目通りじゃなくて?」ロリータは自嘲気味に笑ってみせる。「ごめん、続けて」
「六年と八ヶ月。これは現在コールドスリープによって凍結される”消費者”の平均年月です。しかも年々この数字は減少傾向にある」
「それは医学が進歩したおかげ?」
「決して正確ではない。むしろ人々がこの技術を”サービス”として捉え始めたところにあなたの抱える問題はあるのです」
「ロリータ、答えを言おうか?」
そこで横槍を挟んだのはアンドリューだった。彼はじれったくなったのか、業を煮やしたのか、ロリータが収まる鞘のフロントガラスに指紋をつけて遊んでいた。
「待って、アンドリュー。もしかしたらさっきの数字に”私”は含まれないんじゃない?」
「その根拠は?」
「だって消費者っていうのはお金を払う事に満足する人のことでしょう。だけど患者にとって希望とはただ一つ生きる事だから」
「まさしくその通り。デッドバックとは死亡保険、つまりその重点が、当分蘇生する見込みがないところに置かれているからこそ、商材としての価値がある。数年で目覚める予定の者にいちいち多額の保険金を払っていては、その保険会社は間違いなく破産するでしょう」
「つまり私は死ぬ事で守られていたのね」
「ええ。現行の法律では保証されなくなったデッドバックを、身勝手な保険会社の損益だけで空白に戻してはいけない。少なくとも”なんらかの形”でライフバックを実現できなければ、患者にとっては眠る直前と何も変わりません」
「彼らがわざわざ、自分の時計を進める理由が私には分からない」
「もちろん事情は人それぞれですが、恐らくその辺はそちらのお医者様が詳しいはず」
パスツールに促されるようにアンドリューは口を開く。
「最近だとより進んだ科学技術を求めて眠る人や、若いボーイフレンドとの年齢差が気になって眠りにつく人までいる。これから私二、三年眠ってくるわ、だって今のままだとおばさんになってしまうもの、といった具合です。やれやれ、起きた時に相手が別のパートナーを見つけている可能性だってあるのに」
「まあとにかく、今やコールドスリープは医学的にも技術的にもそれほど手の届かないものじゃなくなった。そういう意味で言えば、あなたは随分優遇されている立場にある存在だ」
「どういうこと?」
「ミセスが眠っていたのは地球上のどんな場所よりも遠く離れた極限の世界。デッドバックに関して言えば、現行の法規制をほとんど受けないで済む特別自治区です。今目覚めたのは実に幸運なことだと言えるでしょう」
パスツールはそう言って肩をすくめる。
「言ったでしょう。まだ解凍の目処の立っていない患者が大勢いると」
アンドリューが補うようにそう言った。しかし当のロリータ本人はそんなことを言われても、どこか釈然としない固形物のような吹き溜まりに、ざらざらと頬ずりをするような居心地の悪さを感じていたのだった。
「十分話は聞いたつもり。今から私は”法律上の死”というやつから蘇生されるってわけなのね」
「そういうことになります」パスツールは狙いすましたように一番の笑顔を浮かべる。「これからミセスにはあなたの生存を保証するいくつかの生体チェックを受けていただきます。簡単なものなのですぐに終わりますよ。ただその前にあなたの保険金つまりデッドバックについて話しておかなければいけません」
「私のデッドバック」
「当時のあなたの保険金はそのご遺族であるパトリック・スピネル氏に支払われました。氏はそれをあなた名義の口座におさめ、一度も引き出すことなく代々受け継ぎました。今は法律上の孫であるアンドリュー・スピネル氏に所有権があり、我々が管理しております」
パスツールはそう言ってID専用のタブレットを取り出し、それをアンドリューに渡した。彼はそれをロリータの目の前に置く。医療用ムーブメントから起き上がろうとした時、ロリータに声がかかる。
「ああ、ミセス。どうかそのポッドから出ないでいただきたい」
パスツールは心底ばつが悪そうに眉をひそめた。
「どうして?このままじゃ見えないわ」
ロリータは怪訝そうな顔を浮かべる。
「ああこんなこと本当は申し上げたくないのですが、あなたは今法律の上では死人扱いだ。つまりあなたの肉体に生者としての権利ははない。いや、死体そのものとして扱われてしまう。そのポッドから少しでも外に出ると別の法律に抵触してしまうのです」
ロリータはそんな話は聞いていないといった顔でアンドリューを見る。しかし彼は全く意に介していないように淡々と言った。
「ポッドの使い方を教えます。対象との距離をイメージしてください。自分と対象との理想的な間合いを、直感的に測るのです。あまり深く考えないで。そうすればあとは全部ポッドがやってくれる」
ロリータは不承不承な顔を浮かべながらも、言われた通りにタブレットとの距離をイメージする。その瞬間、医療用ムーブメントが縦方向に回転し、ロリータの視界をタブレットに近づけた。マシンの動きに驚きながらも目の前の画面を眺める。彼女はそれが、自分名義で作られた口座の通帳だと気づくのに少し時間がかかった。
「この数字の単位は何?ドルはまだあるの?」
「ええ、これは統合通貨で通称UNドルです。レートは当時のドルの約六倍に相当します」
ロリータは目の前の数字に絶句する。ただでさえ日常的に見たこともない桁数だったが、さらに当時のドルの六倍となると、もはや一体どれほどの大金なのかさえわからなかった。
「遺言もあって僕は全く手を出していない。五〇年間システムに運用させた結果がこれか。時間とは全くもって恐ろしい。税金やら治療費やらを差し引いたとしても、人生を五回はやり直せる金額だ」
アンドリューも驚いた様子で、その数字の桁数だけ指を折っている。
「パトリックがこれを」
ロリータはそれ以上言葉が出てこずに口をつぐんだ。
「それではこれから蘇生手続きに移ります。認証完了が済み次第この口座の所有権はスピネル氏からあなたに移譲することになります。私どもといたしましては、今後のミセス・ケミストリーの社会復帰のための諸手続きなどのお手伝いから資産運用を含め、恐縮ですがアドバイスをしていけたらと…」
もはやロリータの耳にパスツールの声は届いていなかった。
彼女が考えるのはただ一人、パトリック・スピネルのことだけだった。
ロリータの蘇生を信じ、資産を残してくれたパトリックの想いに胸が締め付けられる。わざわざブックマークチャイルドという形で子孫を残したことと全く無関係だとは思えず涙がこぼれた。
それと同時に、願うならば、彼にも生きていて欲しかったという想いがこみ上げ、胸の痛みに体が震える。
様々な感情が入り乱れる奔流の中で、明確な意志として新たなる輝きを放つものがあった。それはロリータ・ケミストリーが生前思い描いていたたった一つの夢だった。
To be continued...
マホロバコヒーレント @saki-yutaro
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