4 ドレッシャー彗星

「マホロバコヒーレント」


咲 雄太郎



4 ドレッシャー彗星



 二〇九〇年の初頭、ある彗星の存在が世界中の天文学者の話題を全て持ちきりにしていた。

 ドレッシャー彗星。

 到来の数年前にその存在が予言され、今もすたれることのない従来の方法を踏襲し、それを第一に発見した者の名前が付けられた。アマチュア天文学者であるリヴァーニ・ドレッシャーは単に新たな彗星の発見者というわけでなく、最も特別な「事業」の先駆者の一人として数えられることとなる。彼が見つけた「落し物」は、有史以来全くもって未知数の可能性を秘めた太陽系外来の彗星だった。

 「外来」とはすなわち、例えば自家製のミートパイをイースターに持っていき、参加者にそれを披露する、ということに近い。それが「良く」も「悪く」も、ご近所同士の挨拶には違いなく、大げさに言えば旅の第一歩とも言えるのだ。我々の住む太陽系の外側には球状に広がるオールトの雲という彗星群がある。更に先には天の川銀河が広がり、それよりも遠くなると全く別の銀河が宇宙の「空洞」にひしめき合っている。もしもこの彗星が、我々の「近所」からやってきたのであれば、これほど盛んに取り上げられることもなかったかもしれない。しかしミートパイを知らない遠い島国の人からしたら、彼らの目に映るそれは、さぞかし物珍しいご馳走に違いないだろう。あるいは、我々の方こそ、奇妙な異国の身なりに、深い好奇心を抱くのは当然避けられない事態なのである。たとえそれがミートパイでなく、外来彗星のように「食えない」厄介者であったとしても。

 誰もが知っているかの有名なハレー彗星のような彗星は、一般的に周期彗星と呼ばれる。これらの彗星の運動は太陽を中心に楕円軌道を描き、ある一定の期間を経て回帰する。

 これに対してドレッシャー彗星は非周期彗星であった。非周期彗星の運動は楕円ではなく放物線軌道を描き、一度訪れたら最後二度と回帰しない。つまり言い換えれば、かつて「それ」があった場所、「同系」全域に及ぼす、限りない重力の束縛を突破するために必要不可欠である十分なエネルギーを、このドレッシャー彗星が兼ね備えていた、という証左に他ならない。遥かなる旅の始まりは、想像もつかないほど莫大なエネルギーによるインパクトが原因だった。

 当時この彗星を発見したドレッシャーは、二度と戻らない「息子」の名付け親になることが不服だった。なぜなら彼には夢があったからだ。それはハレーやアイソンやパンスターズのように周期彗星に自身の名前を刻むことであった。そのために彼はAIを用いたPIXYシステムによる測定にこだわった。PIXYシステムとは、例えば間違い探しのようなもので、同じ場所、異なった時間で撮影された宇宙画像を重ね合わせ、移動点を導出する方法である。ドレッシャーはこの方法で、現存する莫大なデータをAIに選定させた。

 しかし移動点の中には、従来の惑星や既知となる彗星も含まれる。それだけでなく、太陽の光を受けた彗星が、微かな存在を示唆するための反射率は極めて低い。このことから新たな小天体の発見は難航を極めるのは言うまでもない。まさにそれは根気との勝負だった。

 ドレッシャーは一晩中屋上に出て、独自に設置した望遠鏡の前で貼り付けになり、できる限り様々なポイントの画像をできる限り多く撮影した。そして夜が明けると撮影した写真を解析し、移動点が何に由来するのかを逐一調べる。それが終わってようやく沈み込むようにベッドへとダイヴするのだ(この時ばかりは彼も重力に抗えないことを実感し地球の住民だということを思い出す)。そんな生活を一〇年近く続けていた。

 時にはアマチュア天文学者のコミュニティサイトにアクセスし、情報を共有することもあった。しかし他のアマチュア達が、いつかサイト上に新規の彗星を発見したという報告をするかもしれないと考えるだけで、不安や焦燥感がドレッシャーの気分を落ち込ませ、次第に彼らと連絡を取ることもなくなっていった。

 ドレッシャーには妻がいたが、既に他界していた。二人いた息子もとっくの昔に外で家庭を築き、年に一回のクリスマスの時にだけ戻ってくるかどうかといった状況だった。たとえ息子達が戻って来たところで、賞賛や共感などあるはずもない。彼に投げかけられる言葉は決まって冷ややかな皮肉や愚痴の数々だった。息子達にとっては育ってきた環境というものがある。彼らが学校の成績を自慢しようとする傍で、空だけを眺めるようになってしまった父親というのは、やはり面白くなかったのであろう。いや、なによりも寂しかったのだ。しかしそれをおいてもなお、己の意志を貫くドレッシャーは当然ただの厄介者にしか映らない。自覚があったかはさておき、彼の方もそんな息子達にかけてやる言葉はなかった。

 多くのしがらみから逃れ、ドレッシャーはたった一つの望みだけを夜空に求めた。

 それは秋も深まる頃だった。ニュージーランドにある自宅で、いつものように画像の解析に追われている時にドレッシャーは小さな異変に気がつく。ある画像の重なりからついに従来の移動点とは異なったものの存在を確認したのだ。それはAIがエラー判定を下すギリギリのラインだった。

 この時既にドレッシャーの年齢は七〇歳を超えており、アマチュアと呼ぶにはあまりにも経験豊富な天文学者の一人になっていた。彼の頭脳には天球上における全ての惑星の位置があり、それは既知の彗星においても同様だった。

 その時の移動点はどこか違和感があった。シンプルに彼の知る天球上のどの物体とも一致しなかったからだ。早速ドレッシャーは解析を始めた。蓄積した全てのデータを照らし合わせ、その移動点の所在を特定し始めた。全てはAIによる自動照合のため、その間彼には待つことしかできない。AIは度重なる再計算の結果「エラー」を表示した。移動点の「不特定」ではなく「エラー」、この事実はドレッシャーにとってとても奇妙なことのように思えた。

 画像を見ると、確かにそこには微弱な光を放つポイントがあった。しかしそれが物体なのか、撮影画像のエラーなのか、判別をつけるのは難しい。二枚目にも同じポイントが確認できたが、レンズ自体の極小の傷ということも考えられる。そこでドレッシャーは二枚の重なった画像を見てさらに表情を歪ませた。ポイントは完全に一致しているとは言えなかったが、しかし移動しているとも言いきれない。部分的に重なっていて、ともすれば平べったく潰れたようにも見えたのだった。

 しかしこの時ドレッシャーにはある予感があった。それは、今までの人生に何か特別な意義を見出してくれるかもしれないという期待が心を突き動かしたのだ。

 その晩からドレッシャーは観測を繰り返し、ポイントの正体を突き止めた。

 それは正に彼が望んでいたものそのものだった。

 軌道計算の結果、その移動点は地球に近づくような位置から太陽の重力に引き寄せられていた。移動点の重ね合わせが楕円のように平べったく見えたのは、地球から見たその彗星の進行方向がほぼ直進に近く、見かけの移動が僅かだったためである。

 ついに彼は念願の出会いを果たした。初めからそれがあると分かっていれば探すのは容易い。過去の映像ログを確認したところ、三ヶ月も前からその物体は天球にあった。しかしAIの検出感度の限界ギリギリだったため今回のように発見が遅れてしまったのだ。

 その後ドレッシャーは半月でエビデンスを揃え、論文を学会に提出した。

 こうして史上最も有名になる彗星の名前にドレッシャーの名がついたのだった。

 さらなる観測の結果、ドレッシャー彗星は非周期彗星だということがわかった。この事実はドレッシャーに多少の落胆を与えたものの、新規の彗星を発見したという偉大なる功績が薄れるわけではなかった。

 ドレッシャー彗星は発見から半年で近日点を通過する軌道を描いていた。地球に衝突する確率は約二五〇万分の一。万が一にも起こり得ないことだった。彼は彗星の行く末を見守ろうと決意した。遥か遠くの宇宙から人類のゆりかごである(墓場でもあるが)太陽系まで、恐ろしいほど長い年月をかけて旅してきたであろう訪問者を、彼は生き別れていた子供のように愛おしく思った。近日点通過後に再び別の銀河系へと旅立ってしまうことを残念に思いながらも、彼の心はどこか穏やかだった。

 こうして彼は念願の夢を叶え、奇跡の遭遇に別れを言うはずだった。

 しかしそれはもちろん、メロドラマチックなほど、甘美で身勝手な幻想であった。宇宙というものの存在理解にバイアスをかけた人間の、大いなる勘違いに過ぎなかったのだ。

 ドレッシャー彗星は一度目の癇癪を起こした。近日点通過の際に彗星本体が内爆したのだ。これによって彗星は二つに分離した。片方は太陽の重力井戸に落ちて行き、完全に蒸発し姿を消した。もう一方は奇跡的に消滅することはなかったものの、本来の軌道から大きく外れたコースを選択した。

 これが正に運命の分岐点と言えた。人々は生き残った彗星の片割れに賞賛を送った。ドレッシャー本人も流石に肝を冷やしたが、新しく選択された軌道を確認すると一転して歓喜へと変わった。

 そう、ドレッシャー彗星は生き残ったどころか、周期彗星の軌道に乗ったのだった。爆発の際の質量変化と速度減少が、本来太陽の重力井戸を振り切って遥かな宇宙へ旅立っていくはずだったパラボラ軌道を楕円軌道に捻じ曲げた。こうして太陽系は遠方からの来訪者を獲得し、その地にとどめておくことに成功したのだった。

 再計算の結果、周期性は4年と4ヶ月と17日それと8時間であった。木星の摂動によって周期は前後するものの、ドレッシャー彗星は再び回帰することを約束した。年老いたドレッシャーにとってそれがどれほど嬉しかったことか、もはや本人にしかわかりえないことだろう。

 さらにドレッシャー彗星は、人類が宇宙へ乗り出す為の指針を決めた。再計算に再計算を重ねた彗星の軌道は、二度目の回帰にて人類が宇宙へ旅立つための往復切符を与えてくれた。

 国連の決定によってそのプロジェクトは発足した。正に神をも恐れぬ大作戦だった。


To be continued...

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