3 ブックマークチャイルド

「マホロバコヒーレント」

咲 雄太郎



3 ブックマークチャイルド



 ロリータ・ケミストリーが「二度目」の眠りから目覚めた時、身体がまるで自分のものでなくなってしまっているような感覚に、初めはまだ夢の中にいるのかと錯覚していた。ひどく意識が鈍っており、全身が重いと感じた。彼女の唯一動かせる「部分」は、せいぜいまぶたと眼球ぐらいで、そういう意味では確かに白昼夢を見ているような、起きているかどうかすらも怪しい状態には違いなかった。


 ロリータはこの時パトリック・スピネルのことを思い出していた。

 彼女にとってみればそれは、最初にして最後の配偶者となった人物。夫であった期間はわずか二年もなかった。


 彼女の人生の三分の一は「とある島」での孤独な生活だった。なぜ生まれたのか、なぜ生きているのかも(あるいはなぜ生かされているのかも)わからない状態の中で、唯一孤独であるということだけが彼女の知り得る最大の「情報」だった。

 彼女の世界が開かれたのは偶発的に島を出た時だった。世界はたった一つの小さな島では決して無いことをそこで初めて実感した。しかし皮肉にも世界を知った後でわかったことはやはり自分が孤独であるということだった。ルーツを求め世界地図を端から端へなぞるような「旅」に出たこともあった。しかし世界を見れば見るほど自分の孤独が浮き彫りになっていくように感じた。

 それならばと、いっそ孤独を浮き彫りにしたまま新たなコミュニティを築こうと決意するが、ロリータのその見た目は、そうあまりにも異質。「旧世代」の人々にとってはただただ疎ましく思われるだけだった。かといって「新人種(ニューレース)」に同情を求められるかといえばそうではない。彼らには種としての役割があり、根底には全ての人間に関わるルーツが存在している。しかしその「ルーツ」がそもそも欠落している彼女は「自らの種」を愛す心理を持ち合わせてはいなかった。

 また三〇を過ぎる頃には愛を求め男に溺れることもあった。しかしいくら夜を共にしても男達の世界と彼女の世界は決して交わらないことを知った。ある意味でそれは彼女にとって「二回目」の幻滅だった。

 かつて自分を一方的に愛した、その「一回目」となる科学者にこんなことを言われたことがある。

「己の種族を愛することができる者は、かつてより受け継がれてきた途方もないルーツと次世代の可能性を兼ね備えた者に限る」

 下流で生まれた川魚は、成長するとやがて上流へと戻っていく。かつて全く同じように生まれた者たちの系譜をたどり、新たなる次世代の子供たちを残すために本能に従って「そう」するのだ。遺伝子の命令はその個体に一種の「愛」をもたらす。それができない個体、ロリータ・ケミストリーを生み出したことに意味があるのだと。

 旧世代にも、ニューレースにも受け入れられない自分はまさしく典型例(プロトタイプ)だとロリータは思った。島での生活の倍の時間を費やして出した答えはそれだった。


 そんな時、パトリック・スピネルと出会った。

 長い時間をかけて出した答えの「清算」をするために、生まれ故郷である「ボウソウ半島」に戻ってきた時だった。かつての美しかった半島は、かの大戦によって消滅しており、そこにはぽっかりと穴の空いた「浦」が広がっていた。「浦」を背にして盛り上がった丘の上には戦争の犠牲者たちの慰霊碑が立ち並んでいる。そこを自分の墓場にしようとロリータは勝手に決めた。

 そんな決意を胸に抱きながら彼女が目指した丘の上にパトリック・スピネルはいたのだ。

 初めに彼を見てロリータはすぐに犠牲者の遺族だとわかった。

 片膝を立て何かに必死に祈りを捧げる初老の男を尻目に、その時ロリータはぼんやりと自分の死に方について考えていた。

 遂に正しい生き方など分からなかったが、死に方になるともっとわからない。近くに首を吊れるちょうどいい木などを探したが、そこで彼女は首を吊るための肝心のロープを持っていないことに気がついて落胆した。

 そんなことを考えているうちに、男は祈りをやめ、その場から立ち上がった。うつむきがちにロリータの方へと歩いて行き、すれ違い様に目があった。その時だった。

「アトリア」

 男がそんな言葉を耳元で発したのをロリータは、聞いた。距離を取り、男を見ると泣いていた。六〇を迎えようとしているであろう老成した男が、自分を見て何も言わずにぼろぼろと涙を流す様はロリータに混乱を与えた。

「主よ…おお、主よ」

 男はそう言うと、唐突に、さっき慰霊碑の前でそうしたように、ロリータの前で片膝をついた。そして深く頭を垂れてそのままうずくまった。

 どうしていいかわからないロリータはただ立ち尽くすしかなかった。

 やがて周囲の物音が、波のさざめきと風が草木を撫でる音だけになるほどの長い時間が経ち、ウィル・スピネルは顔を上げた。

 もはやその目には涙はなかった。ただ老人の顔には何かを決意したような深いシワが刻まれていた。たとえそれが自分の運命を受け入れた「覚悟」の表情だとしても、無関係のロリータにとっては全くただの傍迷惑であることには変わらない。ところが老人の「大いなる勘違い」がもたらした行動は、結果としてロリータを苦しめることになりはしたが、それ以上に彼女にとって最も悲劇的な「三回目」の失望を食い止めたという事実を残したことには重要な意味があると言えた。

 男は遠慮や気兼ねなど一切なく、両手で硬くロリータの手を優しく包むと、愛の言葉をささやいた。

 そして当のロリータ本人と言えば、突然の訳のわからない状況を前にして、全ては首を吊るためのロープを持って来なかったことが悪いのだと嘆いた。

 これが二人の出会いだった。


「身体がまるで自分のものじゃないみたいでしょう。無理もない。異常を示す細胞の遺伝情報を丸ごと入れ替えたのですから」

 アンドリューはベッドで仰向けになったまま全く身動きの取れないロリータに向かってそう言った。

「私は治ったの?」

 ロリータの口に装着された生命維持マスクから電子音が鳴った。

 彼女は今自ら会話をすることができない状態にあった。それどころか自発呼吸すらままならない状態で、絶えずマスクから供給される酸素を吸い込むことで生かされていた。と言うのもアンドリューの言う通り、生前(という言い方が正しいのかはわからないが)彼女の身体を蝕んだ癌細胞の遺伝情報を丸ごと入れ替えたことで、ほとんどの器官について正常な動作を行うには十分な機能が低下していたからだ。細胞レベルで刷新された結果、横隔膜はその上下動の圧力変化によって肺へ酸素を送る機能を一時的に忘れ、喉仏は空気の振動に一切干渉せず、彼女から言葉を奪い去った。

「ええ、確実に回復に向かっています」

 アンドリューは目の前に映し出したカルテを見ながらそう言った。

「この声、何か変。それになんだか、遅い」

「このマスクはあなたの口の動きとわずかに発する空気の振動から、声を電子音に変換してくれているんです。遅く聞こえるのは処理による誤差ですから、まあ、そのうち慣れますよ」

「なんだかダースベイダーみたい」

「ダース?なんです、それは。ところで、もし差し支えなければ、これから精神カウンセリングを受けてもらいたいのですが。言わばコールドスリープによる後遺症がないかの確認ですね」

「何をするの」

 ロリータの声を少しだけ怯えたような「印象」に変えた電子音をアンドリューは見事だと思った。「後遺症」と聞いた時、その言葉が目の前の患者に及ぼす心理的影響を数値化できるのは、どこを探しても「最も身近な奉仕者(モストサイダー)」を置いて他にいない。少なくともアンドリューは一二年間医師を勤めたが、本当の意味で患者の気持ちに寄り添ったことなどないのである。そう、これまでは。

「といっても簡単な記憶のチェックです。もし思い出すのが苦痛でしたら、その時点で終わりにします」

 一呼吸おくと目の前の医師はそう言った。

「でもあなたは知りたいのでしょう。私の記憶を。パトリックのことを」

 アンドリューはそれには答えずに、冷めかけのコーヒーに手を伸ばした。それを一口すすると静かに言った。

「最も新しい記憶を思い出せますか」

 第一の質問だった。

「眠りにつく直前のことね」

 そこで無機質な電子音が鳴り響く。

「続けて」

「眠る直前、パトリックは私に何か言ったわ。けど私は怒っていたし、泣いていたからそれどころじゃなかった」

「どうして怒っていたし、泣いていたんですか」

「あの人が私を生かすと決めたから。私は一緒にいたかったのに」

 そこでようやくロリータは、「最後の手段」としてのコールドスリープを自らが拒んでいたことを思い出していた。一度は病による死を受け入れた身として、パトリック・スピネルという夫に看取られる最期を望んでいたことを。そして老人はその願いを聞き届けなかった。

「祖父はあなたを生かすと決めた」

 アンドリューは知り得た事実を「自分」の言葉で言い直す。彼から見たパトリック・スピネルという人物のことを。

「そう、そのせいで私はパトリックに、ついひどいことを言ってしまったの」

「なんて言ったんですか」

「あなたはいつか、私から独りという自由を奪った。今度は死という自由まで奪うのねって」

「それに対して祖父は?」

「何も。少し悲しそうに、でもいつもの優しい顔のまま笑っていたわ。それを見て私、後悔したの。こんなこと言うつもりじゃなかったのにって。でも結局最後までそのことについて謝れなかった」

「祖父は最後になんて言ったんです」

「記憶にないの」

 ロリータは嘘をついた。

 記憶にないはずがなかった。それでもパトリックが最後に妻に伝えた「もう二度と最愛の人を死なせたくない」という彼の気持ちを、ロリータは最後の妻として、誰にも知られたくないという意地があった。

「祖父を愛していたんですよね」

「もちろんイエスよ。彼といた二年間は、時間にしたらわずかかもしれないけれど、私の人生で一番幸福だった」

「当時パトリック・スピネルには今のあなたの歳と同じくらいの息子がいたはずだ。覚えていますか」

 ロリータは頷く。

「ジョージのことね。確かに彼には前の妻との子供がいて、当時の私の歳と近かったはずだわ」

「あなたの幸せはその息子の犠牲の上にあったのではないですか」

「それは違うわ」

 ロリータはキッパリと否定した。

「なぜ違うと言えるんです?」

「私と出会うずっと前から彼らは不仲だった。その話をするのをパトリックは嫌がったから詳しい理由は知らないけれど、彼らはそもそも上手くいってなかったの。私もジョージに会ったのは一度だけ」そこでマスクの電子音が鳴り止み、シュー、シューという呼吸音だけが静かに響いた。その音は紛れもなく彼女自身の「息遣い」だった。「あなた、パトリックのことを祖父と言うけれど、それはジョージの息子でもあるのよね?」

 不意に訪れた沈黙にロリータはどこか奇妙な既視感に襲われる。まるでそれは自分がまだ幼かった頃、あの島を出た時の感じに似ていた。自分自身のルーツについて疑問を持ったあの時の少女の姿と。

「ジョージは確かに私の祖父であるパトリック・スピネルの息子ですが、私の父ではありません」

 それが「どういうこと」なのかを直感的に理解できるほどロリータの頭はまだ明晰ではなかった。しかしその「答え」を聞く前に、彼女自身が決して持ち合わせることのなかった誰しもが両方持っているうちの「片割れ」を問いただしたのは、単に後天的にその事実を学習したからだった。

「あなたの父親は誰なの」

 まさにそれが全ての答えを手に入れるための最初の「問い」であることに違いなかった。

「マイク・スピネルです」

 アンドリューは殊更に強調する必要もないと静かにその名を告げたのだった。

 全く聞き覚えのない名前にロリータは混乱した。マスクによる酸素供給量が増加したのを、より大袈裟になった息遣いが表していた。

「私はその人を知らない」

「でしょうね」

「ええと、その、マイクだったかしら?彼の母親は誰なの?パトリックにはもう一人妻がいたの?」

 それが二番目の「問い」だった。そしてロリータにとってはこの上なく重要なことであった。

「いいえ」アンドリューはおもむろに首を振る。「パトリックには生涯でアトリアとロリータという二人の妻しかいませんでした。マイクの母親はそのどちらでもない」

 そしてロリータは「問い」を失った。間の抜けた時間がのんびりと時計の針を進めていた。

「とても、不思議なことを言うのね。仮にもしそうだとしたら、マイクとその息子アンドリューは、片親(マザー)のいないパトリックの子孫ということになるわね」

 ろくに深く考えたわけでもない咄嗟の思いつきは、皮肉にもアンドリューが求める彼女の反応として概ね間違っていたわけではなかったようだ。途端に彼は満足そうに頷いた。

「正しくその通りです。ただし、母親(マザー)はいませんがパトリックの遺伝子とついになるパートナーならいます。それがまあ、生物学上の片親(マザー)ということなのでしょうか」

「ちっともわからないわ」

 ついにロリータは根を上げた。

「プレーンという一切の遺伝的欠陥を持たない標準の卵子があります」アンドリューは仰向けになったロリータの目の前に握りこぶしを一つ作った。「これは実によくできた人間の元だと思ってください」さらに続ける。「そこにパトリックの精子を持ってきて、結合させることで受精卵を作ります」今度は反対の手で人差し指を伸ばして拳に指した。「これで出来上がりです」

「それが何なの?」

「それがマイクです」

 まるで料理番組か何かで、シェフが調理手順を説明するかのように、アンドリューは淡々と言った。はいこれで簡単に、本日のメインディッシュ「マイク」を作ることができます、とでも言うように。

「人間なの?」

「そう聞かれるとは、思ってなかった」アンドリューはロリータの素朴とも陳腐とも取れる質問に思わず心からの笑みを浮かべた。「我々はブックマークチャイルドと呼ばれています」

「ブックマーク?」

「本来ならば精子と卵子の両方にプレーンが存在し、そこにオリジナルである両親の個性遺伝情報を後から足していきます。そうして生まれた新しい受精卵が成長すると、肉体的に健康でありながらきちんと一世代目の性質を受け継いだ子供が出来上がります」

「じゃあマイクは、あなたの父親は、パトリックの精子とそのプレーンの卵子から生まれた子供ってこと?」

「ええ」

「だったらあなたは?」

「私も無論ブックマークチャイルドです。ただしオリジナルとなる母親はいますが。今もフィンランドでマイクと一緒に静かな老後を満喫していますよ」

「そう、だったの」

 ロリータはまるで頭が追いついていないといった具合に返答した。

「カウンセリングのつもりが、すっかり私の話になってしまいましたね。今日はこの辺にしておきましょう」

「お願い、聞かせて。あなたはその、どう思っているの、パトリックのこと。こんな方法で、いえごめんなさい、ブックマークチャイルドなんて呼ばれる子供として生まれてきて、彼を恨んでいないの?」

「何も」アンドリューは首を横に振った。「恨むことなんて何もないですよ。まあ父(マイク)は自分の出生について少なからず思い悩んだ時期もあったみたいですが。私には母親もいますし、それに正直に言うと、お祖父ちゃんの顔をプロファイルでしか閲覧したことがなくて、あまりよく知らないんです」

 そこで初めてアンドリューは照れくさそうな笑顔でロリータを見た。

「マイクは彼を恨んでいるかしら」

「どうでしょう。直接聞いたことがありませんから。ただ仮にそうだとしても、それはあなたが気にやむようなことではないと思います」

「もしかしたら私が原因かもしれなかったとしても?」

「言っていることの意味がわかりませんが、何であれ、私は祖父を恨むことは絶対にありませんし、正直気にしてもいないのです。パトリックに関してはね」

 アンドリューはそれだけ言い残すと、静かに部屋を出て行った。

 それからロリータは糸が切れたように眠りについた。



To be continued...

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