第20話 目覚める森の美女

目を覚ますと、真っ白な天井が目に飛び込んできた。頭ははっきりせず、記憶に関しても曖昧あいまいだ。

(何でアタシ、こんなところにいるんだろう?ってかその前にここはどこ?)

口を開くのも億劫なのか、心でつぶやいた。すると足元の方でドアを開くような音が聞こえた。しかし微動だにせず、ただ天井を見つめた。

「さてと会社に行くか。智美さん、また来ま…?」入室した男が顔を覗き込んで声をかけると、天井を見つめていた目と目が合った。

「うわっ、と…智美さん?目を?…先生!相崎さんが、相崎 智美さんが目を覚ましました!」男は部屋の外へ出ると、廊下をよろけながら走って叫んだ。

しばらくして、男は医者や看護師を連れ立って戻ってきた。

「相崎さん。相崎 智美さん。ここが分かりますか?病院ですよ」医者の問いかけに、智美は首も動かさずに視線だけを送った。

「目は覚めているようだが、意識がはっきりしていないのか、記憶が混濁しているのか。杉本君、脳波計を頼む」医師は看護師に指示を出して、手首の脈を取ったり胸に聴診器を当てたりしながら触診した。

看護師が脳波計を持ってきて、頭にコードが繋がれた。

「智美!目を覚ましたのかい?」話しを聞きつけ別の病室にいた母親が入室してきた。

「お母さん、智美さんはどうやら目は覚めましたが、意識がないようなんです」伊織の説明に、母親は期待した分、膝から崩れ落ちた。

「うん、脳波にも異常はないようだ。お母さん、お子さんに話しかけてあげて下さい」医者に言われ、母は智美に呼びかけた。しかし医者の時と同様に、視線のみを投げかけてくる。

「智美さん…まさか!?」伊織は昨夜の夢の内容を思い出し、智美のベッドに近付いた。

「智美さん!ここは2020年です。1993年じゃありません。貴女は1995年生まれの相崎 智美さんです。俺が…俺の事が分かりませんか?伊織です。千脇 伊織です」伊織はベッドに身を乗り出し、真っ直ぐに智美を見つめて呼びかけた。

「い…伊織…さん?ち…千脇…伊織?」やっとの事で言葉を発した智美の目尻から、涙が一筋流れた。

「智美!智美!良かった、本当に良かった」母親は地面に伏せたまま、号泣した。

「とりあえず無理をさせずに時間をかけていきましょう。何分なにぶん、二ヶ月半もの間、昏睡状態だった訳ですから。それではまた何かあれば呼んで下さい」そう言って医師は出ていった。

智美が昏睡状態にあったのが二ヶ月半、そして夢の中で不思議な経験をした期間が五ヶ月、そして彼女の夢の中の経験は、一日を倍の二日かけて過ごした。これはただの偶然なのだろうか。


智美が意識を取り戻してから、更に一ヶ月が経った。その間、伊織は有給休暇中に新規案件として立ち上がった新たな顧客のシステム作成を任され、智美の見舞いに行けずにいた。そして新システムもようやく形になったこの日、久しぶりの見舞いに訪れた。

「智美さん、お加減はいかがですか?」伊織は病室の前でくわした母親に声をかけた。

「あっ、千脇さん、お陰さまで順調に回復しているようです」母親はにっこりと笑いかけて会釈した。

「さぁ、どうぞお入り下さい」伊織からフルーツの盛り合わせを受け取った母親は智美の病室へいざなってくれた。そこにはベッドの背もたれを起こして座って、窓外を見つめる智美の姿があった。その光景は伊織にとって、初春の早朝の澄んだ空気に満ちた森林のように爽やかに感じられた。

「伊織さん、こんにちは」智美は、伊織が感じた部屋の雰囲気と一切違わぬ爽やかな笑顔を向けてきた。

「座っても?」伊織が椅子を指し示すと、智美は微笑を浮かべて頷いた。

「せっかくいただいたので林檎でも剥いてきますね」母親はフルーツの盛り合わせから林檎を二つ取り出し、退出した。

「智美さん、もしかしてですが、俺の母に会いましたか?」伊織は忙しい中も気になっていた事を確認した。

「はい、今となってはあれが夢だったのか、現実だったのかは分かりません。とは言っても、私は昏睡状態だったんだから夢に決まってるんですけどね」智美は肩をすぼめて少女のように笑った。

「あの…母は、母はどんな女性でしたか?」母親の事を全く知らず、全く聞かされずに生きてきた伊織は、母の真実の姿を知りたかったのだ。

「どんなと言われても、夢の中の話しですから、それが現実なのかどうか…」伊織が求めるものは理解出来たのだが、ようやく夢と現実の記憶の整理が出来たばかりの智美は戸惑ってしまった。

「良いんです。実は俺も智美さんが目覚める前に、不思議な夢を見ました。智美さんが起き上がり、俺の名前を呼ぶんです。するとその中身は俺の母でした。母は父との馴れ初めや自分が死んだ理由、そして智美さん、貴女にお礼を言っておいてくれって言い残して消えていきました。上手くは言えないけど、それって俺たちの心の中とか頭の中とか、意識の中で起こった現実だったんじゃないのかって、今はそう思っています」非現実な事を力説する伊織だったが、智美にもそれは理解出来た。理解と言うよりも共感と言った方が適当かも知れない。そうでないと、夢だったと片付けるには、余りにもリアル過ぎる経験だった。

「分かりました。話します。お母様はとても素敵な方でした。私はお母様の人生をトレースしたと言うか、お母様が経験した事を、まるで私がしていたかのような経験をしたんです。それがお父様の薫さんとの出会いや恋です」智美が話す父の名前を聞いて、伊織は夢であって夢ではなかったのだと確信した。

「それに笑わないで聞いてくれます?私、貴男を身ごもったんですよ。おかしいですよね」はにかむ智美を見て、伊織は胸が締め付けられるような気持ちになった。

しばらくして、智美の母が剥いた林檎を持ってきた。三人は林檎を食べながら夢の話しに興じた。話しの内容から、智美も伊織も二人が見た夢は、やはり現実だったとの強い想いを深めた。

二人は智美の事故があるまでは、全くの赤の他人同士であった。伊織は智美の存在すら認知していなかった訳だが、智美にしても、伊織の存在は知っていたものの、名前も年齢も職業も、何一つ知っている事はなかったのだ。それなのに昏睡状態から目覚めてみれば、伊織の事を、恋人のように知っていたのだ。

「でも本当に千脇さんにはなんとお礼を言って良いのか。こんな男性ひとにもらってもらえたらねぇ」母親は智美を横目で見ながら、茶化すように言った。

「そ…そんな、お母さん、千脇さんに失礼…」

「付き合ってます…イヤ、その…つ…付き合います。イヤ…違う…その…智美さん!俺…僕と付き合って下さい」あたふたと狼狽うろたえながら、伊織は一生懸命に告白した。それを目を丸くして聞いていた智美は、ふと我に帰ってクスクスと笑い出した。

「ウフフッ、お母さん。私たち、とっくに恋人同士みたい」今度はキョトンと聞いていた伊織が我に帰って智美の手を握った。

「お義母さん。娘さんは必ず俺が幸せにします」一連の流れを傍観するように聞いていた母親は大声を立てて笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る