第19話 相崎 智美の真実

2020年5月29日の金曜日。相崎 智美はいつもの朝と同じように支度して家を出た。そしていつもと同じ電車の同じ車両に乗り込んだ。するといつもと同じ吊り革を掴む智美の右側扉付近に、いつもの男性は立っていた。

(やっぱイケメン!あぁ、何かの切っ掛けでお近づきになれたり…なーんてね)自宅マンションと勤め先のマンユウコーポレーションを行き来する、何の変化もない生活を続ける智美にとって、唯一の楽しみが、この青年を見ながら、ありもしない夢想に浸る事だった。

少し混雑した車内はやがて勤め先の最寄り駅に到着した。人の乗り降りでごった返すプラットフォームの中、ベビーカーを引いた女性の手から、ベビーカーは引き剥がされ、コントロールを失ったベビーカーは、停車している電車の前の線路上に向けて真っ直ぐに転がっていった。

「あ…危ない!」それを見た智美は、人混みをかき分けてベビーカーを止めようを電車の最前列へ向かった。寸でのところでベビーカーに追いついた智美だったが、勢いを殺し切れず、ホーム上から線路内に転落してしまった。

「すみません、退いて下さい!」智美が見ていた細身で長身の男が、騒ぎに気付き、最前列まで急いで向かった。

「大丈夫ですか?」男はホームから身を乗り出すようにして線路内の智美に声をかけた。しかし倒れている智美の後頭部は、線路を枕にするように横たわり、そこからはドス黒赤い液体が広がっていった。

「いけない!」男は線路内に飛び降り、智美を抱き抱えてホーム上に必死に上げようとした。見ていた他のサラリーマンの協力もあり、意識を失った智美はホーム上に戻された。

「しっかり…しっかりして下さい!」男の呼びかけにも、何の反応もしない智美に、男は背広を脱ぎ、智美の後頭部の下に敷いた。

やがて誰かが呼んだ救急隊員が到着、男は救急車に一緒に乗り込み、病院に同行した。


病院に搬送された智美に、緊急きんきゅう手術オペが行われた。

「良いですか?課長。赤ん坊を助ける為に自分の身を呈してまでして事故に合ったんですよ。関係ないなんて酷いです。とにかく女性の身元が分かるとか、意識が戻るまでは、ここを離れられませんから」同行した男は、会社への連絡電話を、いきどおりをあらわにして切った。

しばらくして警官が到着、男は事情を話し、智美の持ち物から、身元は分かった。しかし医者の話しによると、智美は一命を取り戻したものの、所謂、植物状態と言うやつで、意識を取り戻す可能性は低いとされた。

故郷の石川からは、智美の両親が上京をしてきて、男は事情を説明した。

「そうでしたか。本当にありがとうございました。こんな事になってしまいましたが、命が助かったのが唯一の救いです。本当にありがとうございました、千脇さん」智美の両親は、智美を救った男、千脇 伊織に謝辞を述べた。

父親は仕事の関係上、石川に帰り、週に一度訪れる生活を続けたが、母親は智美のマンションに泊まり込み、介護を続けた。

智美の事が気がかりで仕方がない伊織は、二日に一度はお見舞いに訪れた。

「まぁ、千脇さん。いつもすみませんねぇ。お花ありがとうございます。花瓶のお水を換えてきますね」伊織が持ってきた花束を受け取り、母親は花瓶を持って立ち上がった。すると直ぐに花瓶がけたたましく割れる音がした。

「お母さん!しっかり。おい!誰か!」母親は長期間の介護で、疲労から貧血を起し、倒れてしまった。

医師からの指示で、母親はしばらくの間、別の大部屋の病室に入院する事になった。

いたたまれなくなった伊織は、溜まっていた有給休暇を一週間取り、智美の介護を自らが買って出た。

担当医師から "智美には出来るだけ手足のマッサージをしたり話しかけて、意識を取り戻す為の刺激を与え続けて欲しい" と言われていた為、伊織は何の迷いもなく実行した。そもそもは赤の他人の二人であったので、共通の話題は何一つとしてない。伊織はとにかく自分の仕事の話しや、学生時代のエピソード、生い立ちについてなど、まるで恋人と話すように語りかけ続けた。そしてその内、伊織の中に、自分でも説明のつかない感情が生まれている事に気付いていた。

「ねぇ、智美さん。俺は貴女の事をほとんど知らない。声だって聞いた事がない。なのにさぁ、俺…貴女に恋をしてるのかも知れない。自分の身を犠牲にしてまで赤ん坊を助かった貴女の姿が、俺の脳裏に焼き付いて離れないんだ。早く目を覚ましてくれよ」握った手が、時折反応する事があったが、それは医師の言う事には "電気信号の不具合で起こる事で、自律神経によるものではなく、意識回復のきざしですらない" との事だった。それでも智美の手が、自分の言葉に反応してくれているようで、伊織は嬉しかった。


そして有給休暇の最終日が訪れた。明日になれば、伊織は元の生活に戻らなければいけない。付きっきりでの介護は、この日が最後だった。

しかし、伊織の願いは虚しくも、智美の意識が戻る事はなく、日は暮れていった。そして、伊織は智美のベッドの脇で、いつの間にやら、眠りに就いてしまった。


「伊織…伊織ちゃん…」女性の声に、伊織はピクリと反応して起き上がった。するとそこにはベッドから起き上がっている智美の姿があった。

「と…智美さん?」伊織が呆気あっけに取られていると、智美は伊織に抱きついてきた。

「伊織ちゃん、ごめんね。貴男を一人ぼっちにしてしまって。貴男の成長した顔を良く見せてちょうだい」智美は伊織から身を剥がすと、今度は伊織の顔を両手で優しく包み込み、愛おしそうに見つめた。

「ア…アンタ誰だ?」全くの赤の他人のはずの智美の行動とは思えなかった。伊織は困惑していた。

「貴男のお母さんよ。ごめんね、伊織」自分の母親だと名乗る智美は、静かに伊織の幼少期の話しや、父との馴れ初め、自分が父親の薫と共に亡くなってしまった阪神淡路大震災について話した。黙って話しを聞いていた伊織は、いつの間にか顔中を涙で濡らし、智美に抱きついていた。

「母さん、俺の方こそごめん。俺…何も知らなかったから、心のどこかで母さんを恨んでた。本当にごめん」泣きじゃくる伊織を引き剥がすと、智美は再び伊織を愛おしそうに見つめた。

「伊織…お母さんはもうこの世にはいないの。でもどうしても貴男に謝りたくて、真実を伝えたくて、この女性ひとを利用したの。もう直ぐこの女性は私の呪縛から解き放たれて目を覚ますわ。私にはこの女性とも貴男とも話す事はもう出来ない。貴男からお礼を言っておいてね。さようなら。幸せにね。天国から貴男を見守ってるから」そう言うと、智美は再び深い眠りに就いてしまった。

「母さん!母さん!」叫びながら、伊織は意識が遠のいて、気付けば朝を迎えていた。


「何だったんだろう?夢だったのか?」一人言をつぶやき、ふと伊織は智美に目をやった。相変わらず智美は眠っていた。

「やっぱり夢だったのか?それにしても、凄く現実的リアルな夢だったな」伊織はゆっくり立ち上がり、トイレに顔を洗いに病室を出た。

誰もいなくなった病室の中、智美のまぶたが小刻みに震えていた。

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