第17話 大魔王降臨

千脇 薫、智美夫妻が神戸に移住して来て、間もなく一年が経とうとしていた。夫の薫が依頼されたスポーツジムの経営建て直しは、見事なほどの敏腕を発揮し、残り三ヶ月ほどで負債を帳消しにし、黒字転換出来るほどにまで回復していた。それにより銀行からの貸付けも再開され、それによるアメリカより取り寄せる予定の最新器具を導入すれば、∨字回復と言って過言ではないほどの収益が見込めた。

「あなた、ちょっと伊織ちゃんが泣いてるから見て。多分オムツだと思うんだけど」妻の智美は朝食の用意をしながら、出勤前の薫に声をかけた。

「It’s all light.えーっと、紙オムツはクローゼットの中でしたか?」薫は押入れの中を探りながら返事した。

の左側を開けた下よ。いい加減に覚えてよ」智美はせわしなく焼き上がったハムエッグをお皿に盛り付けた。

「ウヮップ!伊織、おしっこをめなさい。Stop prease.」薫は伊織の可愛らしい蛇口を押さえながら叫んだ。

「ったく…家事、育児は本当に役に立たないんだから」トーストにマーガリンを塗りながら、智美は鼻から空気を抜いた。

「ねぇ、今夜は早く帰れるの?今日は伊織にとっての初めてのイブなんだから」智美は伊織の口に離乳食をスプーンで運びながら言った。

「Of course!じゃなかった、もちろんさ。それよりNew yea…新年の帰省の準備は出来ていますか?」智美から話しの所々でネイティブな英語を入れないよう言われている薫だったが、中々その癖が抜けずにいた。

「まぁね。お父様とお母様には慌ただしい引っ越し準備の中、ろくな挨拶もせずに神戸こっちに来ちゃったんだもの。ゆっくりと行かせていただくわ」そう言いつつ、智美はあきれ顔になっていた。


「それじゃあいってきます。チュッチュッ」薫は智美と伊織に優しく口づけて出ていった。伊織を抱き抱え見送る智美の表情は、幸せに溢れていた。


忙しい年の瀬も、光陰こういんごとく過ぎ去り、12月26日に、薫の実家へ向けた帰省準備に追われた。

「あなた、紙オムツは絶対に忘れないでよ。この前の安売りで買いだめしちゃったから、向こうで買い足すのはもったいないんだから」主婦業もすっかり板についた智美は、薫の貯金残高も当てにせず、しっかりと節約にもはげんでいた。


夫の実家でゆっくりとは言っても、女性からすれば、しゅうとめに気を使い、あれこれと動かなければいけない。それに結婚の仕方も、両親に初めて会った挨拶での所謂いわゆる "できちゃった婚" と言うやつなので、むかし気質かたぎの薫の両親の覚えは悪かった。

「お父様、これお酒のアテにこしらえてみたんですが、お口汚しになりますかどうか?」智美は台所を借りて作った母親直伝のお煮しめを義父に差し出した。独身の頃より外食や中食はほとんどせず、自炊が多かった智美にとっての自信作であった。

「んっ?どうも我家ウチの味にはほど遠いな。ウチはもっと醤油を効かせて甘辛く仕上げるんだよ」義父はわざと苦虫を噛み潰したような表情を作った。

「あら?本当。出汁だしを効かせてだかなんだか知らないけど、これじゃあ全然味がしないわ」義母も追い打ちをかけるように続けた。

「す…すみません」智美は恐縮しつつ頭を下げ、横目で薫を見た。しかし薫はおせち料理の有頭ゆうとう海老えびからくのに必死で、妻と両親のやり取りを見ていなかった。

(何なのよ!少しはかばってくれたって良いじゃない)智美は心の中で不満をつぶやいた。


智美にとって居心地の悪い三が日が過ぎ、神戸へ帰る時がやって来た。しかし間の悪い事に、伊織が高熱を出してしまった。

「伊織がこんな状態じゃ神戸までの長い道のりは帰れんぞ。薫、帰る日にちをずらせんのか?」義父は苦渋の表情で言った。

「それは無理さ。年明け早々に新しい機器が入荷するんだ。その立ち会いは僕じゃないと出来ない」薫は毅然きぜんと言った。

「それじゃあ智美さん。あんたが残りなさい」やはりそう来た。この帰省中、散々両親への愚痴を薫に言っていた智美はウィンクして薫へ合図を送った。それを察して薫が続けた。

「そ…それは困るよ。僕は智美がいなきゃ、何も出来ないんだ。入荷予定日は五日だから、それが終わったら、直ぐに迎えに来るからさぁ。それまで頼むよ」気にいらない嫁が言うのならまだしも、可愛い一人息子が言う事だ。両親は渋々了解した。


こうして夫婦二人だけの帰路となった。そして運命の糸を切り裂く刃は、刻一刻と近付いていた。


「なんだって?出国手続きに戸惑って日にちがずれるって!一体、いつ?二日後?分かったよ。七日だな。本当に頼むよ」薫は憤りを隠さずに受話器を置いた。

「智美、すまないが君が一人で迎えにだけ行ってくれないか?」

「冗談じゃないわ!嫌よ!私一人で行ったら、どんな嫌味を言われるか分かったもんじゃないわ。良いじゃない、二日くらいずれたって」智美のこの頑固さが、伊織に辛い運命を強いてしまった事を智美が知る事はなかった。


そして入荷予定日の早朝、未曾有の大震災が神戸を中心とした関西地方を襲った。地震の少ない関西地方にあって、全くの備えが成されていなかった街は、家屋やビルなどの倒壊を余儀なくし、交通の大動脈である阪神高速道路さえもなぎ倒した。

そして神戸の中心地から西へ数Km離れた薫たちの住まう長田区にあるマンションは、一つの火種から街を焼き尽くす大火のおろちへと変貌して、容赦なく襲いかかった。就寝中であった二人は逃げ遅れ、大蛇の毒牙の恰好かっこう餌食えじきとなってしまった。

その物自体が倒壊し、焼け野原と変わり果ててしまったマンションの瓦礫がれきから、二人の遺体が見つかる事はなく、薫の両親のやり場のない怒りの矛先ほこさきは、亡くなってしまった智美に向けられた。

こうして両親の事をほとんど知らされる事なく、伊織は祖父母の愛情の元、立派な青年へと成長していった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る