第16話 急転直下な現実

7月5日日曜日、千脇 薫と一夜を過ごした相崎 智美は、自宅マンションで目を覚ました。外ではいつもの朝と同じく、雀たちの謳歌する鳴き声が聞こえてくる。その雀たちの歌は、智美にとってバラードのような叙情曲に聞こえた。

ふいに智美は自身の下腹部辺りに手をやった。

「やっぱりヤッちゃったよね?なんでなんだろう。こばめなかった。別に嫌いって訳じゃないけど、抱かれたかった訳じゃないし、何より伊織さんを裏切る行為だもん」一人言を言っている内に、悪寒を感じた智美は、ベッドの上で両腕を抱えた。

「なんでよぅ。まるで自分の身体じゃないみたいに意思とは関係なく受け入れちゃったのよ。アタシの中に、もう一人の別人がいるみたいに」智美にとって昨夜の言い表しようのない感覚が、涙腺のコックが壊れてしまったように、止めどもなく涙を溢れさせた。

気持ちのやり場がなくなってしまった智美は、頭から布団をかぶり、嗚咽おえつを漏らして泣いた。

ようやく気持ちも収まっていき、嗚咽も出なくなった頃、智美を慰めるように携帯電話のバイブレーションが震えた。

「伊織さん?…もしもし」泣き尽くしてすっかり鼻にかかってしまった声で応答した。

「どうした?風邪でも引いたのか?」伊織の低く通る声は、不思議と智美を安らぎの世界へと連れていった。そして無性に会いたくなった。

「伊織さん…会いたい。会いたいよぅ」智美は感情を隠さず、き出しの言葉をかなでた。訳が分からず伊織は困惑してしまった。

「分かったよ。今からそっちに行くよ。近くに着いたらまた電話するから」伊織にとって昨夜の智美の行動の真意がどうしても知りたかった。何故、朝になり何も告げずに消えてしまったのか?智美自身の力ではどうしようも出来ないとは、どう言った意味なのか?自分との未来をどう考えているのか?伊織には分からない事だらけであった。


智美は着いた伊織を部屋へ招き入れた。そして伊織に抱きついた。

「伊織さん、お願い。抱いて。きつく抱き締めて」智美にとっての昨夜の出来事を上書きしたい想いに駆られた智美は、伊織と交わる事を強く望んだ。伊織からすれば真意を問いたい気持ちもあったが、欲望のおもむくまま、智美を抱き締めた。

二人は智美のベッドの上で絡まり合い、お互いを求め続けた。

「伊織さん、良いよ。好きにして…」智美は伊織の願望を受け入れた。

「智美…愛してる…」自分を受け入れてくれた事が全ての答えと悟った伊織は、智美の身体の上で溶け込んでいった。

いよいよ昇天を迎えようとした時、伊織は智美の涙に気付いた。

「智美?どうした?」

「ううん、本当に良いんだよ」智美の涙の意味が分からない伊織は、土壇場で外に吐き出した。

「どうしたの。本当に良かったんだよ?」智美の瞳は潤んでいるものの、ほんのりと浮かべる笑顔は明るかった。

「ごめん。俺…焦り過ぎてた。ゆっくりで良い。今後の二人の事、ゆっくり考えていこう」智美の気持ちは複雑だった。薫との交わりをなかった事にしたい想いから、伊織を受け入れようと考えたのだが、自分を大切に思ってくれる伊織の気持ちが嬉しかった。


それから智美は過去の世界で薫を無視しようと決めた。しかし薫からの着信があると、自分の意思とは反して出てしまう。出れば薫の誘いに乗ってしまい、そして抱かれた。それは智美にとって、苦痛以外のなにものでもないのだが、過去に来ると何故だかそうなってしまうのだった。

そして未来ではそれを掻き消すように伊織に抱かれた。伊織に抱かれている間は、幸せを全身で感じる事が出来た。しかし伊織は決して自分の欲望を中に吐き出すような事はしななかった。


やがて日本のメダルラッシュに涌いたオリンピックを終え、季節は彼岸花が咲く頃を迎えた。

智美は未来の世界の仕事中に堪えようのない吐き気に襲われた。

「ま…まさか?」帰宅後、智美は妊娠検査薬を使用した。それはピンク色のライン、つまりは陽性を表していた。

「ど…どっちなの?どっちの子供なの?」心配と不安に襲われた智美は、伊織に電話した。

「ねぇ、7月の初旬の事なんだけど、あの日、確実に外に出した?」不安感から智美はストレートに言葉を発した。

「あぁ、あの日か。微妙だなぁ?際のところで外に出したんだ。そんな事を言うって、もしかして?…」二人の未来をゆっくり考えようとは言ったものの、伊織としては自分の子供が出来たとなれば嬉しくない訳がない。一気に言葉尻が明るくなった。そんな言葉を聞く智美にとっては、辛くて堪らなかった。まさか "タイムスリップして過去に他の男とも交わっているので、どちらの子供か分からない" などと言えるはずもない。ましてや自分の意思に反しているとは言え、他の男に抱かれているなどとは口が裂けても言えない事なのだ。

「うん、明日、病院に行ってみるよ。検査薬で陽性だったから、多分間違いないと思うけど」そう言っている間も、智美の心は張り裂けそうになっていた。

「もしそうだったら、早い内に式を挙げよう。順番は逆になっちゃったけど、お腹が目立たない内にさぁ」そう言う受話器の向こうの太い声は、いつものクールな印象とは違い、はしゃぐ子供のように踊っていた。


過去に戻った智美は、薫に謝罪し、別れようと決意していた。そしてなにも告げずに子供を堕ろし、未来の伊織には堕胎してしまった事にしようと考えていた。


「そうかい?ちょうど良かったです。僕の古い友人の頼みで、神戸にあるジムの再建を任されたのです。もちろん一緒に行ってくれますよね?」寝耳に水であった。しかし智美の決意は揺らぐ事はしない。

「はい、ついて行きます。末永くよろしくお願いします」(!!!?)

理由は分からない。とにかく智美の意思に背いて、薫の "智美と結婚したい" と言う想いに当たると、智美自身がそれに沿った言動をしてしまうのだ。

「じゃあ、引越しのスケジュールなどはまた連絡します。Good night. I love you!」

受話器の向こうの電子音を聞きながら、智美は悟った。「こ…この子、伊織さんなんだわ…」小さな命が生まれたばかりの自身の下腹部を擦りながら、智美は "禁断の果実" に手を出してしまったイヴのような気分のまま、茫然自失となっていた。

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