第12話 思いがけない好意

「今日は伊織さんがいない世界か…声くらい聞きたかったなぁ。でもガンバロ!」いつも通りの朝、支度を済ませた智美は、家を出た。

梅雨も最期の足掻あがきのようにしっかりと降っていた。白地に薔薇のイラストを全面にあしらった傘を差し、智美は駅までの道程みちのりを急いだ。

電車内はまとまった雨のせいもあり、いつもより混雑していた。

(今日は座れないじゃん。なんか伊織さんと出会った日を思い出すなぁ) そんな事を考えながら人混みの中、電車に揺られる智美の臀部でんぶを違和感が襲った。

(なになに?また痴漢?)智美が危惧する通り、変質男の食指しょくしが巧みに智美の臀部をまさぐった。

「チッチッチッ、オイタはいけませんよ。Ladyの身体をそんな風に粗末に扱ってはGentlemanとは言えませんね」変質男の弄る腕を右手で捻り上げ、左手の人差し指を突き立てて左右に振る体格の良い男が側に立っていた。

「痛てて!スマン、ギブ、ギブ!」変質男は捻られた腕側の肩を自分でタップしながら苦渋の表情を浮かべた。

やがて急行電車は次駅の停車駅に止まり、体格の良い男は変質男を連れ立って下車した。智美は少し戸惑いつつも、男たちについていくように下車した。

「Hey, you!Ladyに対してなんて事をするんだい?」男は痴漢男の両肩をしっかりと掴んで、問い詰めるように言った。

「あら?千脇トレーナー?」アメリカナイズされたその口調に聞き覚えがあると思って見てみれば、それはスポーツトレーナーの千脇 薫であった。

「オー!相崎さんでしたか?」薫は智美の方を向き、驚きの表情を作ると、再び痴漢男に向き直し口を開いた。

「こんな美しい女性だから気持ちが分からないまでもありませんが、スキンシップの仕方を間違えています。男なら男らしく自分の魅力を磨いてアプローチするべきです。Are you all light

?」

「す…すみませんでした!」痴漢男は捨て台詞を吐き捨てるように去ろうとした。

「Jast a moment!」痴漢を追いかけようとした薫の太い腕を智美は掴んだ。

「良いです。良いですから、千脇さん。私は構わないんで止めて下さい」智美の言葉を聞き、薫の表情が優しくなった。

「相崎さんは優しいのですね。それより大丈夫ですか?」薫の初めて見せる陽だまりのような微笑みに、智美は伊織の面影を見て、ボーッとなった。

「…えっ!あぁ、大丈夫です。慣れっこですから」対称に智美の表情は、どこかぎこちない笑顔を作っていた。

「そ…そんな事を慣れてはいけません!あんな卑劣な行為は許せませんから、相崎さんも許してはいけませんよ」そう言う薫から、熱さと真っ直ぐさが伝わってきた。それは智美にとって暑苦しく感じていたイメージを一掃させて智美の身体の中にスーッと入ってきた。

「はい!そうですね。今日はありがとうございました。また今度お礼をさせて下さい」薫が爽やかな笑顔を作って返すと、次の電車が停車した。二人は無言のまま乗り込み、薫は智美を庇うように大きな身体を智美の近くに寄せて立った。


「それじゃあアタシこの駅なんで、また…

今夜またジムに寄りますね」

「そう…Understand!」薫が気障きざっぽくウィンクを投げかけると、電車の扉は二人を分かつように閉まった。

「なんか千脇トレーナーの印象、随分と変わっちゃったなぁ。あっ!いけない。遅刻しちゃう」智美は慌てて駅構内を駆け抜けた。


智美の仕事ぶりはジムへ行く楽しみなのか、はたまた明日行く未来への希望なのか、大いにはかどった。光山課長からもいつになく褒められ、智美は上機嫌で会社を後にした。もちろん目指すは薫が待つスポーツジムである。


ジムに着いた智美であったが、薫の姿が見当たらなかった。智美が薫の姿を探して辺りをキョロキョロしていると、池田と言う前までに智美を担当していたトレーナーが声をかけてきた。

「お疲れ様です、相崎さん。最近は頑張って通われているんですね」池田トレーナーは最近までサボりがちだった智美に、皮肉を込めて言った。

「あぁ、お疲れ様です、池田トレーナー。あの…千脇トレーナーは?」池田は薄笑いを浮かべると、納得したように頷いた。

「少し待って下さいね。受け付けに確認してきます」そう言うと池田はその場を離れた。

「さぁ、今の内にトレーニング、トレーニングっと」智美は30kgのショルダープレスを上げ始めた。

「んーっ、キツい。千脇トレーナー、フォームはこれで良いですか?」智美は無意識に側に立っているはずもない薫に話しかけていた。

「いけない。千脇トレーナーはいないんだっけ」

やがて受け付けに行っていた池田が、険しい顔つきで戻ってきた。

「相崎さん。大変です。千脇なんですが、こちらに向かっている途中で、トラックと衝突して、病院に運ばれたらしいです」池田の言葉が智美の鼓膜をえぐった。しばらく茫然となった智美だが、池田から薫が搬送された病院を聞きつけると、スポーツジムを飛び出していった。


間もなく高田総合病院に辿り着いた智美は、受け付けへと急いだ。

「すみません。先ほど…千脇 いお…じゃなかった。千脇 薫さん…と言う方が救急搬送…されて来ませんでしたか?」粗くなった呼吸を途切れとぎれにさせて智美は一生懸命に喋った。

「千脇さん…千脇さん…あっ!ありました。外科病棟の705号室の大部屋に入られてますね」対称に受付係の女性は淡々と話して教えてくれた。

「分かりました。えーっと…あの外科病棟ってどちらですか?」カウンターから離れようとした智美だったが、方向が判らずに戸惑ってしまった。

「あぁ、すみません。そちらのエレベーターで一旦二階にお上がりになられて、降りて右に行くと突き当り左が渡り廊下になっています。廊下を渡りきった所が外科病棟になっていますので、そこから七階までお上がり下さい」ややこしい説明に苛立ちを覚えた智美はメモを取り出し、受付係にもう一度説明させてエレベーターに乗り込んだ。

「ったく、人の気も知らないで冷静に長々と説明してくれちゃって!それよりも千脇さん、大丈夫かしら。無事だと良いんだけど」一人言をつぶやきつつ、智美は外科病棟の705号室の前に立った。

「えーっと、あった!千脇 薫!」入り口のネームプレートを確認して、智美は入室した。

六人部屋の病室の中、薫のベッドは入り口を入って右手の一番奥にあるようだった。ベッドの周りは目隠しカーテンで仕切られており、中の様子は見えなかった。智美は右手でカーテンを申し訳なさげにくった。

「えっ?千脇さん?なにされてるんですか!?」カーテン内を覗き込むと、心配する智美にとって、信じられない光景が目に飛び込んできた。

「えっ?あぁ、相崎さんじゃないですか?どうかしましたか?」薫は3kgのダンベルを右腕の上腕筋を目一杯にふくれ上がらせてポンプアップしていた。

「ど…どうしたじゃありませんよ!事故に合ったって言うのに、何をしてるんですか?」智美は潤んだ瞳とは裏腹に、コメカミに青筋を立てて怒鳴った。

「シーッ、ここは病室ですよ。Be quiet prease.

なに、事故とは言っても大した事はありません。向こうの保険会社との兼ね合いもありますんで、一応の入院をしておこうかと思いましてね。相手方にはきちんと賠償していただいて、事故の反省をしてもらわないといけませんからね」薫は智美の心配を余所に、涼しい顔をしてポンプアップを続けた。

「な〜んだ。良かった、大事にならなくって」一転して智美は安堵あんどの表情を浮かべてより一層に瞳を潤ませた。その仕草は、薫にとっては "自分に気があるのでは?" と思わせるのに、十分過ぎた。

「そ…そうですか?心配してくれていたんですね。なんか嬉しいなぁ。あっ!退院は二〜三日後ですから、また今度、食事に誘っても良いですか?」薫は空いている左手で、照れくさそうに後頭部をいた。

「もちろん!今朝のお礼もありますんで、ぜひ」智美はハンカチで目元をぬぐいながらも、出来るだけ明るく返した。

「それでは退院の日にご連絡します。えーっと…自宅の方の番号を?」薫は慌ててダンベルを置いて、カバンからメモ帳を取り出した。

「イエ、アタシ携帯電話を持ってるんで、そちらに」そう言うと智美は薫からメモ帳を引き取って自分の携帯番号を記入した。

「それじゃあ、お大事になさって下さいね」そう言って智美は病院を後にした。


「さぁ、明日こそは伊織さんに会わなくっちゃ」薫と分かれたばかりの智美の脳裏には、 "未来の千脇" の事でいっぱいになっていた。

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