第13話 評価

朝の7時前、携帯電話の呼び出し音が鳴り、智美はENDボタンを押した。

「あれ?まだ6:48じゃん。なんで目覚ましが鳴んのよぉ?」時計の時刻を確認した後、寝ぼけまなこで携帯電話の液晶モニターに目線を移した智美の目は、これ以上はないくらいに見開いた。

「着信あり、千脇 伊織?い…伊織さんから電話?」智美は慌ててリダイヤルボタンを押して伊織の番号にかけ直した。するとワンコールも鳴らない内に、伊織の心地よい低音の声が智美の鼓膜を揺すぶった。

「もしもし、智美さんかい?」伊織の声は長らく聞いていなかった愛おしい声に感じられた。

「うん、ごめんなさい。朝から寝ぼけちゃって切っちゃった」智美の声は小刻みに震えていた。

「なに?また何かあったのか?」声に反応して、伊織は智美を気遣った。

「ううん、なんかね、伊織さんの声を聞いたら安心しちゃったのかな?本当に久しぶりだから」他の人間と違い、一日を過ごすのに二日を要している智美にとっては、例え一日しか空いていなくとも、それは二日ぶりの事になるのだ。なので今朝とは言っても、智美の感覚では一昨日の事なのである。伊織の声を聞くのは三日ぶりなので、智美にとっては一週間ぶりに、会ったのは一週間前なので、もう半月も会っていない感覚なのだ。

「今夜、会おうか。夜の7時…イヤ、7時半に…そうだな、たまには気分を変えて "みなとライナー" で会わないか?」

「"みなとライナー" ?それってどこ?」二十一世紀に入って再開発された隣県の湾沿いにある、若者に人気のデートスポットであったが、智美の生きる時代では、そこは開発以前の貿易用コンテナ置き場になっており、照明も少なく薄暗い、とてもデートをするのに相応ふさわしいとは思えない場所であった。伊織の場所の説明を聞き、智美は不安な気持ちを覚えたが、伊織を信じて約束を取りつけた。

伊織との久しぶりのデートに胸を踊らせる智美であったが、出社するなり宮下課長から、外回りに同行するように言いつかった。同行する営業マンは智美の二つ年上の三上 唯斗ゆいとと言う男で、若手ながら営業成績は常にトップクラスを誇る、宮下が信頼する若者であった。

「僕は三上だ。よろしく」

「あっ、アタシは相崎 と申…」

「さぁ、行こうか」三上は智美の自己紹介をさえぎるようにカバンを持って営業部を出た。それにつられて智美も慌てて荷物を用意して三上の背中を追った。三上は社外に出ず、物品倉庫に入った。

「すまないが僕はこの幻灯機を運ぶので、相崎さんはそこの白いボードが入っている紺色の袋を持って来てくれないか?」三上に言われるがまま、智美は訳も分からずに荷物を運んだ。そして営業用ワンボックスカーの荷台にそれらをせ、三上の運転の元、得意先に向けて車両を出発させた。

「あの…アタシ色んな事が初めてで、分からない事だらけですけど、よろしくお願いします」助手席から智美は丁寧に頭を提げた。

「相崎さんが初めてなのも、戸惑いだらけなのも分かっています。でもね、僕にとっては師匠とも言える岩下さんから教わった営業の遣り方が僕の遣り方なんだ。周りは岩下さんのり方は古臭ふるくさいだの昭和のにおいがするだのってバカにするけど、その遣り方が僕の成績を上げているって事で周りは岩下さんを認めざるを得ないんだ。営業は血の通った三次元の遣り方でスピードを持って、相手側に寄り添ってプレゼンする。それが僕のやりか…」

「えっ?岩下 武彦?」智美は緊張しつつ聞いていたが、自分の一年後輩の名を聞いて、思わずフルネームを叫んでいた。

「えっ?なんで岩下さんの事を?」三上は最近入ったばかりの派遣社員が、自分の尊敬する人物のフルネームを言った事に驚きを隠せなかった。

「えっ?あの…その…な…なんか岩下って言ったら武彦って感じじゃないですか?それで?その…ゆわした…岩下さんは今はどうされてるんですか?」智美は少し無理のある言い分で現在の岩下の処遇、立場の話しに変えて話しをらした。

「岩下さんはね、現在は下請け企業の安村電機に出向になってるんだよ。僕はなんとか岩下さんを本社に呼び戻す為に周りを認めさせなきゃいけないんだ」運転に集中しつつも真剣な眼差しで尊敬する先輩の現状を語る三上の姿が、智美には眩しく写った。

(へぇ、関西出身の木下さんから関西弁の悪くなった、駄目になったって言う意味の "ゆわたし" なんてニックネームを付けられてた岩下が27年も経ったらそんな風になってんだ。人生って分かんないモンよねぇ)智美は過去げんざいの世界に想いを巡らせた。


「さぁ、着いたよ。ここが僕が担当している "リン・ネット・ドット・コム" だ」そこは智美の生きる時代に萬有商事の得意先であった "杉原商店" が入っていたテナントビルであった。

「へぇ、懐かしい。杉原社長って今はどうしてんのかしら」思わず漏らした一人言を三上は聞き逃さなかった。

「えっ?杉原相談役の事を知っているのかい?」

「杉原相談役?なんの事ですか?」智美とすれば27年後の事など知るよしもない。

「杉原相談役は杉原商店を閉じる時、むすめ婿むこである台湾人のりん 晧月こうげつ氏に会社の全権を譲ろうとしたんだ。しかし林氏は日本文化にうとい自分が会社の全てを任されるのには抵抗があるとして、杉原氏に相談役に付くように提案したんだ。その事からもいまだに杉原氏の影響力は社名が変わった今も図り知れないんだよ」三上は言いながらも意も言われぬ期待感を抱いていた。

「へぇ、そうなんだぁ。まぁとにかく行きましょ」智美は過去げんざい未来いまの狭間の中、戸惑いつつも前向きに仕事に取り組もうとしていた。

「お世話になってます。マンユウコーポレーションの三上です」三上は進めてきた商談を詰めるべく、幻灯機を抱えたまま元気に挨拶をした。

「三上さん、しつこいですね。言いましたよね。相談役がYesを言わなければ私の一存ではこのプロジェクトは進める事は出来ないと」林社長は辟易へきえきした。

「大丈夫です。今日は杉原相談役にアポイントメントは取ってありますから。もうそろそろ…」三上が言うか言い終わるかの内に扉が開いた。

「晧月よ、調子はどうだ?」智美からすれば、すっかり老け込んでしまい、つえをついた杉原 道雄の姿がそこにあった。

「あっ、杉原社長!」老け込んだとは言っても、その存在感は変わらない杉原の威圧感に、智美は思わず "社長" の敬称を付けて呼んでいた。

「ん?社長?懐かしい呼び名だね。何方どなたかな?」流石の杉原も "社長" の敬称には反応した。

「えっ?あっ、失礼しました」あたふたしてびをする智美の言葉を受けて、杉原は智美をマジマジを見つめた。しかし杉原の脳裏には智美の姿が記憶の中には見当たらなかった。

「さっぱりアンタには記憶がないのぉ。大概は覚えておるんだが…」杉原の言葉を受け、智美は杉原にも遂にボケが始まったのかと思った。過去げんざいにおいて、確実に面識があるはずの杉原が、27年経った今も変わらない自分に気づかぬはずはないのだが。

「すみません、相談役。あっ、そうだ、どうせだったら商談この後、先進堂のあんみつを食べに行きましょうよ」智美のこの軽く発した言葉が戦況を一変させた。

「なに?先進堂のあんみつか?アンタも好きなのか?い…行こう。是非とも行こう!」言っている杉原の肌ツヤが見るみるつやを取り戻して行くのが、誰しもが分かるほどに杉原は顔を紅潮させていった。

「そ…相談役!それでは?」三上もその杉原の容姿を見て、期待に胸を膨らませた。

「まぁまぁ、落ち着きなされ。商談 云々うんぬんはあんみつの後でも良かろう。人間、甘いものを忘れては良い仕事も人間付き合いも出来ませんですからのぉ」杉原の入室した時の険しい表情は、すっかり柔和なものに変わっていた。


場所は変わり、舞台は先進堂へと移された。先進堂は1872年から続く老舗和菓子屋で、杉原のお気に入りの店であった。過去げんざいにおいて大の甘党であった智美は、経理に対して問題が起こった杉原商店に説明をすべく訪れた事があった。その際に担当の一人に任命されたのが智美であった。当初は別の責任者が説明をする事に、杉原は嫌悪感をあらわにした。しかしこの空気を嫌った智美が『先進堂のあんみつでも食べたらその堅い頭も柔らかくなるんじゃないかしら』との言葉を受け、杉原は一同を先進堂へと誘った。その際に味の感想を述べた智美の言葉に杉原は大いに賛同、意気投合した。

「やっぱりここのあんみつは最高ですのぉ。そうは思わんか、お嬢さん」今までにない柔和な表情を浮かべる杉原に対して、智美は遠慮なく返した。

「なんか違う。寒天の柔らかさが違う。これ固いもん。これじゃあお年寄りとかお子さんにも親切じゃないわ」この言葉に、店主が飛び出してきた。

「す…すみません。先代のころは吉野の本葛を100%使用していたのですが、今は品質よりも値段を守る事に重点を置いたせいで、どうしても味が落ちてしまいます。申し訳ありません」店主は9代目であり、先代の8代目までは、バブル時代をまたいだせいもあり、吉野葛の値段高騰に耐える事が出来た。しかし平成に入り、デフレと共に物価が下がっていく中、吉野葛のような本物の希少品は随分と贅沢品の価格へと変貌していった。そんな中で老舗と呼ばれる店子たなこの中でも、品質を落としてまで売り上げを上げるのか、売り上げを度外視してでも本物にこだわるのかの分岐点に各店舗、各社が立たされた。そんな中、ある店は成功し、ある店は失敗を重ねて倒産を余儀なくされた。その分岐点は当事者でさえはっきりと原因を述べる事が出来ないほどまでに時代は混沌としていったのだ。

「それでは相崎さんが言う正解とはなんですかな?」杉原は事務所に入ってきた時よりもより険しい表情を作って智美に問いかけた。

「んーっ、良くは分かんないだけど、結局は美味しいかどうか。だからお客さんが楽しく帰れるかどうかじゃん?」全くの的外れな言葉なのだが、"的を外るば射るなり" なのだ。そう思っていたはずの的が、実は狙うべき的ではなく、直ぐ側の的が正解の的であったと言う事である。

「んーっ、正解!お嬢さんの言う通りじゃ!」智美の意見に賛同した杉原はその後、上機嫌で会社へと戻った。


「つまりはこのグラフにありますように、弊社開発のシステムを導入していただければ、御社の経理コストは劇的に改善するのです。そこで…すまない、相崎さん、例のボードを」幻灯機から写し出された映像を元に、三上は杉原相談役、林社長の前でプレゼンテーションを行い、補足材料として、智美が持ってきた60cm✕100cmのボードを出すように示唆した。

「はい、どうぞ」(こんな大きなボードで何をすんのかしら?)

「これは実際に弊社取引先のシステム導入前と後の経理作業における時間を比較した数字と、それにおける人件費コストを可視化したデータを示したものです。相談役?お見えになりますか?」そこには高齢の杉原でも良く見えるよう、工夫して大きくプリントアウトされた文字やグラフが印字されていた。それを見た杉原は、杖を地面にドンと突き立てた。

「晧月よ。それで進めてみなさい。それでそのシステムとやらが立ち上がるまで、サポートはしっかりとしておるのか?」杉原は三上に鋭い視線を送った。

「もちろんです。しっかり立ち上がるまでは毎日でも通い詰めてレクチャーさせていただきます」三上も負けじと鋭く見つめ返した。

「よろしい。では後は頼んだぞ、晧月」そう言うと、杉原はゆっくり立ち上がり会社を後にした。


一旦、帰社した三上と智美は、リン・ネット・ドット・コムへ向けた見積書やシステム導入計画書の作成に追われた。そして時間は定時を迎えた。


「相崎さん、後、この資料なんだけど、今日中に頼め…」

「ごめんなさい。今日は大切な用事があって…失礼します」三上の頼みを断ち切り、智美は楚々草と退社してしまった。


「やっぱり派遣は派遣か。仕事が早いって言っても、責任感の欠片かけらもない」宮下課長が皮肉たっぷりに揶揄やゆした。

「いえ、十分過ぎるくらいですよ。あの杉原相談役の心を初めにほぐしたのは彼女と言って過言じゃありませんから。今日のプレゼンも彼女がいなかったら、上手くいったかどうか。それよりもこの契約が上手くいったらの約束は覚えてくれてますよね」三上は宮下を鋭くにらんだ。

「あぁ、もちろんだよ」宮下は深くため息をついた。


「さぁ、伊織さん…待ってるかしら?」会社の人間のうわさ話など知る由もなく、智美は "みなとライナー" へと急いだ。

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