第8話 雨に溶け込む二人

あわててネットカフェを出た愛崎 智美は最寄り駅から跳び乗るように電車に乗った。

千脇 伊織との待ち合わせ時間は19:00なので20分近くかかる事を考えると恐らくは少しの遅刻は覚悟しなければならない。

「もう!文明が進んでる世の中なんだから電車もワープとか出来ろって言うの!」自分勝手な物言いで無茶な一人言をブツブツつぶやきながら智美はドア付近の手摺てすりを強く握り締めていた。

やがて電車は伊織が待つ駅構内へと入り、スピードを緩めていった。その間も智美は苛立ちを覚えてドアの窓ガラスに顔を擦り付けるように到着駅を伺った。ドアが開くと、智美は競走馬がゲートを開かれた瞬間のようにホームに飛び出し、無我夢中で階段を駆け降りた。

改札を出ると、そこには見たかった顔、会いたかった姿が智美の瞳に写し出されていた。

「良かった。もしかしたら無理に誘ったから、来ないのかと思いましたよ」伊織は春風のように爽やかな笑顔を智美に瞳に投げつけた。

「ご…ごめんなさい。わたし…わたし…もう何がなんだか訳が分からなくて!」智美は伊織の姿を見た安堵感から、まるで父親っが大地のように大きな父にすがり付くように抱きついた。その智美を、伊織は細身ながらも引き締まった体躯たいくで受け止め、優しく頭に手の平を充てがった。

「もう大丈夫だから。オレが智美さんのつらさを一緒に抱えるから…」智美にとっては誰にも言えない、この訳の分からない状況を受け止めてもらえたようで嬉しかった。熱く抱擁を交わす男女の頭上には、やがて季節を象徴するように生暖なまあたたかい雨が降り注いできた。伊織は智美の手を引いて、初めて食事した駅裏とは反対側のロータリー側の静かなバーに入った。

「千脇さん、こっち側で良かったの?会社の人に見られたくなかったんじゃ…?」智美は食事をした時に伊織が言っていた "変な噂" を気にかけて言った。

「構わないよ、智美さんとだったら…

オレの心にやましい気持ちがあるんだったり、その気がないのに、そうしてんだったら別だけど…」伊織の言葉は遠回しに智美への気持ちを吐露とろしていた。


「私ね、今の職場でいない人間になってしまってるの。存在そのものがなかったみたいに…」ギムレットを口に運ぶ智美に陰が差した。

「それはひどいな。そんなのセクハラって言うよりもパワハラじゃないか?そんなの放って置いちゃいけないよ!」伊織が握っているバーボングラスを持つ手に力が入った。

「ありがとう、千脇さん。でもね、大丈夫なの。言ってるのはただの愚痴ぐちだから。この後どうするかは私…決めてるから」

「フッ、智美さんは強いんだね。オレも少しは見習わなきゃ」伊織はバーボンを一口、口に含んだ。

「私、強い訳じゃないの。何て言うか?千脇さんの顔を見たら元気をもらっただけよ。ここに向かう電車の中でも泣きそうだったんだから」智美は改めて伊織の方に向き直して自分の気持ちを吐露した。

「そうか。こんなオレでも智美さんの役に立ってたんだね。でもつらくなったらいつでも連絡をしなよ。辛い顔の智美さんは似合わない。作ったんじゃない心からの笑顔をオレは見てたいんだ」伊織の言葉は智美の心の奥底に深く刺さった。

「ちわ…伊織さん…」智美は細身ながらも大きな胸に包まれていき、やがて社会の闇に姿をゆだねて、身体を重ね合わせた。


翌朝、智美が目を覚ましたその場所には、いつもと変わらない住み慣れた景色が眼前に飛び込んできた。

いつもビデオテープで見ているリビングのテレビ画面。いつも無駄口を叩きながら酒を呷っていたダイニングテーブル。そして着慣れたねずみ色の上下対いになったウェットスーツ。

智美にとってしてみれば、何が夢で何が現実なのか分からずにいた。本人からすれば、今までの人生を極、普通に、極、自然に生きてきたはずなのである。なのにである。突然、痴漢被害にあってから、理想とも言える男性と出会ってしまったその時から何かが変わってしまったのだ。


普通の女性からすれば、そのまま素敵な想い出を相手と共有できた事だろう。なのに智美は、夢のような時間の余韻に浸る朝だったはずが一転して、目が覚めれば現実に帰って来ていたのである。昨夜の事は夢なのか幻なのか?はたまた1993年と2020年を行き来するあり得ない現実を繰り返し旅をする旅人のようなものなのだろうか?智美は幾ら考えても出るはずもない問題の答え合わせをしているような感覚でいた。


「昨夜の事は何だったんだろう?伊織かれに触れられた感覚も優しい唇の感触も今でもはっきりと残ってる。なのに何で起きた場所が自宅ウチなの?何で彼は横にいてくれないの?」智美の瞳から涙が流れ、ほうつたってひざの上に落ちた。

外は昨夜の続きのように雨が降り続いていた。その雨音が智美のむなしい心をより一層にふくらませていた。


「よしっ!明日・・に向けて今日も仕事を頑張るぞ!」1993年の智美は2020年に向けて仕事の準備を始めた。

智美が外に出た時、先程までの雨は嘘のようにみ、智美の前途を祝すように青空には七色の橋がかかっていた。

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