第7話 ネットカフェ

"MANYU CORPORATION" を後にした相崎 智美は、顔も耳も真っ赤にして、恥をさらしてしまっただけと言った感じにビルを出た。

1993年からいきなり2020年に27年もの年月を飛び越えて、この世界にやって来たのだから、無理もない。

何の経験も知識もなく、やって来たのだから、世間一般に言えば、51歳になっているはずの智美にとって、訳が分かるはずもなかろう。

それでは、51歳の自身は今、現在をどこでどのように過ごし、人生を送っているのであろうか?智美にとっては、その事が、頭の中の興味の大半をめていた。そんな時、智美の携帯電話に着信があった。


「もしもし、愛崎さんですか?オレです、千脇です」何と、電話のぬしは、千脇

伊織だった。伊織の低くも心地ここちよく通る声は、智美の心を落ち着かせた。「なーんだ、千脇さんか…」先ほどまでの、ざわついた雰囲気から開放された智美にとって、マイホームに帰ったような安心感から、つい、乱雑に返してしまった。

「えっ?あの…ご迷惑でしたか?」伊織にとってすれば、脈ありとの思いを、無碍むげにされた感が襲った。

「えっ!イヤ!…違うんです…ちょっと…仕事の事で色々あって…」言い訳がましくも、嘘を言っていない事を確認しつつ、智美は答えた。

「えっ?嫌な事?もしかして、セクハラとか?」またしても、智美にとって、意味が分からない言葉が伊織の口から放たれた。しかし、伊織にまさか『私は1993年からタイムスリップして来ました』など、言えるはずもなく、適当な相槌あいづちを打つしかなかった。

「そうなんです、その…セラハラです」その言葉を聞いた伊織は、言い間違いを、かなり動揺してしまい、頭が混乱しているのだととらえた。

「愛崎さん、今日の仕事終わりにでも、また食事でもどうですか?話しを聞いて上げられるくらいしか出来ないかも知れないけど…」智美にとって、その誘いは何よりも嬉しかった。断る理由も何もない。

「分かりました。じゃあ、この前と同じ場所で同じ時間で良いですか?」

「えぇ、それじゃあ7時に」そう言うと、電話を切った智美は、それまでの時間をつぶすのに困ってしまった。とりあえず駅前に戻り、周りを見渡すと、明らかに様変さまがわりしてしまった風景が広がっていた。

「だよねぇ。27年も経ってんだから、そうなるよねぇ」駅前のロータリーには、何の店かも分からない店舗なども存在していた。

「何だろう?ネットカフェ?喫茶店の最新版みたいなモンかな?」ネットカフェへ入る事にした智美だったが、店内はおおよそ喫茶店とは思えない光景が広がっていた。

(何?このブースみたいなの?一体、何をするトコなんだろう?)入り口の右側に設置されたカウンターの中に、店員とおぼしき男がいたが、智美は無視をして、中に入って行こうとした。

「あっ!お客様、すみません。こちらにて受け付けをお願いします」店員は無断で入店しようとした智美を呼び止めた。

「えっ?あぁ、ごめんなさい、アタシ初めてなモンですから」ごく、普通に返した智美を、店員の男は不審ふしんげに首をかしげた。無理もない。どう見ても若い女性が、ネットカフェを利用した事がないと言うのは、きわめてめずらしい事だ。しかし、智美にとってみれば、27年前の、インターネットも普及していない時代からやって来たのだから、カフェの意味は分かっても、ネットの意味など、何の事なのか、分かるすべを持たない。

「えーっとですね、単価的には2時間で1800円になります。フリードリンク制ですので、ドリンクバーからお好きな物を入れて、個室に持って入って下さい。何時間ご利用になられますか?」智美はまるで外国にでも来たような気分になった。店員が言う事の、一つ一つが意味が分からない。分からないところに分からない言葉をかぶせて来るので、余計に分からなくなる。

「あのー…コーヒーを飲むのに、1時間900円も取るんですか?それか、バーだからお酒類を置いてるとか?」店員はすっかり呆れ顔になり、仕方なく店内を案内し、ドリンクバーの使い方と場所、ルール、それから32番の個室をてがわれ、中のパソコンもインターネットも使い放題だし、眠ろうが、シャワー室でシャワーを浴びようが、好きにしていられる事、そして最後に11時までは、備え付けのトースターで食パンを焼いて、バターなりイチゴジャムを付けて食べ放題と言って説明を終えた。

(へーっ、パンも飲み物も飲み放題で、シャワーまで出来て1800円か…特なのかなぁ?って2時間じゃ大分余っちゃう。えーっと、今が10時だから…8時間も!それじゃあ7200円か…)

「お客様、どうされますか?」店員は料金表を提示した。

「あの…このお得パックってのは?」

「お得パックは入店24時間内の定額制です。12時にランチが、18時に夕飯がリスト内から物を好きな物を選んで食べて頂けます」

(それで12000円か…確かに泊まるんだったらお得かもだけど、8時間で出ないといけないし…あっ!8時間のコースは割安で6500円なんだ)

「すみません、じゃあ8時間コースでお願いします」そうして智美は32番の個室へ入った。

「あっ!飲み物だ」智美はドリンクバーコーナーに行った。(へーっ、色々あるんだ。これが飲み放題ならお得かも、ついでにパンも焼いちゃお)智美はバタージャムトーストとアイスミルクティーを持って個室へ戻った。


「へーっ、この時代のキーボードって、こんなに平べったくなってんだ」会社では総務部で働く智美は、パソコンの操作も慣れている。しかし、現在では考えられないだろうが、パソコン内に、様々なソフトウェアが内蔵されている物とは違い、智美が普段から使っている物は、一々いちいち、使用目的に合わせて、フロッピーディスクを差し込んでソフトを立ち上げなければならなかったのだ。

「何だろう?色んなマークが出て来たけど、マウスでクリックすれば良いのかなぁ?」アイコンの意味さえ分からない智美は、一番左上にあるアイコンをクリックした。

「ウワッ!す…すごい。何か色々と写真が出て来たよ。ん?この一番上のここにマウスを合わせて?…あっ!カーソルが出てきた。ここに文字を打てば良いのかなぁ?」智美は試しに "KBプロダクツ" と打ってみた。するとそこには "KBプロダクツ" に関する様々な情報が表示された。

「す…すごい!30年近くも経つと、こんなに進歩してるんだ。でも…一体、このパソコンって何とつながってるんだろう?」智美はパソコンから繋がれている、沢山のコードから、一本の線を見つけた。

「あっ!これって、電話のモジュラ・ジャックじゃん。そうか、電話回線を通じて、色んな情報が、ここに集まって来るんだ。だから、携帯電話もアタシの時代と違って、一人に一台とか持ってて、一般電話なんか使わないから、モジュラなんて必要なくなって、代わりにパソコンに繋ぐようになったんじゃない?」智美の生きている時代は、多くの人が

"ポケットベル" を使用しており、携帯電話機自体は、機種代だけで15万円ほどした。その為に、携帯電話を持つ者は、ほとんどおらず、持ったとしても、月額1万円前後でレンタルするのが普通だった。もちろんメール機能も付いていなかったので、出来る事と言えば、電話での通話と、携帯電話を持っていない者に対して、数字での語呂合わせで、ポケットベルにメッセージを送るくらいだった。智美の時代では、携帯電話を持っている事は、ステータスになったが、この時代では、『まだガラケー(ヒューチャーフォン)なんて使ってんだ』とバカにされてしまうだろう。そんな事も知らない智美は、パソコンで、新旧問わず、様々な事を調べられる事を理解し、夢中で2020年の常識を学んだ。


「なるほどねぇ、今は女性がどんどん働いて、社会的地位を上げてるんだ。だから性的な嫌がらせをセクシャルハラスメントなんて言って、法律が守ってくれるようになったんだ。アタシの時代じゃあ、結婚するまでの我慢って、皆んな思ってるけど、今は違うのね」夢中で自分がやっている事を、ネット検索とも知らずに、時間を忘れて没頭していた。

「あー、なんか疲れた。もう一杯ミルクティーを…ってヤバい、もう6:42じゃん!」智美は慌ててネットカフェを飛び出していった。

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