夜のこいのぼり

柚城佳歩

夜のこいのぼり

今年も我が家の庭を鯉のぼりが泳いでいる。

ささやか、という単語がよく似合う広さの庭とそれに見合う大きさの家。

そして、そんな庭には不釣り合いに思える、やたらと大きな鯉のぼり。


「いつまで飾るつもりなんだよ…」


俺の独り言はしっかりと母親の耳に拾われたらしい。キッチンで洗った皿を拭きながら言葉を返された。


「せっかくあんな立派な鯉のぼりがあるんだから、飾らないともったいないでしょ」

「俺、もう高校生なんだけど」

「あら、鯉のぼりを飾るのに年齢制限なんてないのよ。それに」


後ろの棚に皿を重ねて仕舞いつつ振り返る。


「親からすれば、いつまで経っても子どもは子どもなんだから」

「あぁ、そう…」


楽しげに笑う母親に溜め息で返しながらも、本音では全く嫌だなんて思っていなかった。

きっと母親も、俺のそんな気持ちを感じているんだろう。だから毎年嬉々として押し入れの奥から出してくるのだ。


ふと窓の外に目を向けると、ちょうど風が強く吹いて、鯉のぼりたちが青空に悠々と泳いでいるところだった。

…年に一回の事だもんな。

気持ち良さそうな姿を見ながら、俺も口許を緩める。


鯉のぼりを見る度に思い出す。あの特別な夜のことを。




俺がまだ小さかった頃、週末になると時々遠方に住むじいちゃんが車で遊びに来た。

ほとんど毎回何かしらのお土産を買ってきてくれて、だからという訳ではないが、俺はじいちゃんの事が好きだった。


そんなじいちゃんが、ある時鯉のぼりを持ってきた。

子どもの俺でもわかるくらいに良い物で、光に反射すると表面がきらきらと輝いて綺麗だった。

夢中になって見詰めていた俺に、じいちゃんは鯉のぼりの由来を教えてくれた。


健大けんた、鯉の滝登りって知ってるか?」

「こいのたきのぼり?」

「中国の言い伝えなんだがな、こんな話があるんだ。昔、竜門という激流が連なる滝があって、そこを登り切った魚は霊力が宿って龍になると言われていた。いろんな魚が滝登りに挑んだが、誰も登リ切る事は出来なかった。

だがある時、一匹の鯉が激しい流れに逆らいながら竜門を登り切った。するとその鯉は、龍へと姿を変えて天に昇っていったそうだ。

それを元にして、子どもの成長や出世を願って鯉のぼりを飾るようになったんだよ」

「鯉が龍になるの?」

「そうだよ」

「じゃあうちの鯉のぼりさんも龍になる!?」


身を乗り出して詰め寄る俺に、じいちゃんは眉尻を下げて少し困った風に笑った。


「さっきの話に出てきた鯉は川を泳ぐ鯉で、健大の鯉のぼりさんは空を泳ぐ鯉だから、難しいかもしれないなぁ」


そんな風には言われたが、俺は飾ってもらった鯉のぼりを飽きる事なくずっと眺めていた。

強い風が吹く度に大きく揺らめいて今にも飛び立ちそうなのに、当たり前ながらどこかへ飛んで行くなんて事はなく、その度に肩を落としたものだった。


「そんなに一所懸命見詰められちゃあ、鯉のぼりさんだって恥ずかしがって飛べないだろうさ」


じいちゃんが隣に腰掛けながら頭を撫でる。


「なら夜は?僕たちが寝てる時なら龍になる?」

「夜か…。夜はじいちゃんも寝てるから、確かめた事ないなぁ。でももしかしたらみんなが見てない間にこっそり飛び回って遊んでいるかもしれないね」


きっと俺を励ます為に言ってくれたんだろうと今ならわかる。でもその時の俺は、夜になら自由に飛んでいると思ったのだ。


その夜。

昼間のじいちゃんの言葉がどうしても頭から離れず、布団に入っても一向に眠気が訪れる気配はなかった。どうにも落ち着かなくて何度も寝返りを打つ。


何度目かの寝返りの後、ふと思い立った俺は、隣で寝ている両親を起こさないようにそっと布団を抜け出すと、毛布だけを持ってリビングへ向かった。


カーテンの隙間から漏れる月明かりを頼りに、暗い廊下を手探りでゆっくり進む。

街全部が寝静まっていてとても静かだ。


少しの期待を込めてリビングのカーテンを開けてみたが、鯉のぼりは昼間と変わらない場所にいた。しかも心做しかぐったりとして見える。


…もしかしたら鯉のぼりたちも寝ている時間なのかもしれない。

そう考えたが、簡単に諦める事も出来ず、毛布にくるまってじっと見ていた。


いつの間にかそのまま眠ってしまったらしい。

微かに物音が聞こえた気がして、ゆっくりと目を開ける。辺りはまだ暗く、家の中も静かだ。

少しずつ頭も冴えてきて、音の出所を探していると、ある一点で俺の目が縫い付けられた。


それは、三匹の鯉のぼりが激しくはためいている姿だった。


窓越しだからというのもあるかもしれないが、風の音なんて聞こえないのに、不自然なくらいにはためいている。

せっかくもらった鯉のぼりがどこかへ飛んでいってしまわないかと心配になって窓を開けると、裸足のまま庭へ下りた。

それと同時、一番上の黒い鯉のぼりがポールから外れ、こちらに向かって落ちてくる。


「うわぁっ!」


後ろに転びそうになって、無意識に掴まるものを探して振り回した手が何かに触れた。

掴んだ何かは、その場で止まる事なく動いている。すぐに手を離せばいいものを、俺は逆にしっかりと握り込んだ。


目を瞑って必死に掴まっていると、急にぐんと上に向かう感覚がする。

不思議に思いそっと目を開けると、大きな目と目が合った。


「わあっ!」


びっくりして思わず手を離しそうになり、慌てて全身でしがみつき直す。もう一度ちゃんと見てみると、自分が掴まった何かは庭にあった黒い鯉のぼりだった。

その間も俺を乗せたまま上昇を続け、振り返るとさっきまでいたうちの庭が指先程に小さく見えた。


「僕、飛んでる…?」


今日は一日中鯉のぼりを見ていたから、これは夢の続きを見ているのかもしれない。

そう思ったら、怖いという気持ちよりも楽しい気持ちがまさった。


すぐ後ろには、赤と青の鯉のぼりが続いている。

辺りをよく見てみると、他にもどこから集まったのか、夜空を覆う程たくさんの鯉のぼりたちが空を飛んでいた。

そのどれもが、どこか同じ場所に向かって飛んでいる。


背中に乗ってそのまましばらく飛んでいると、前に電車の窓から遠くに見ていた山を越えた。

随分遠くまで来た気がするが、鯉のぼりたちは尚も進んでいく。

また別の山を越え、大きな森の木の天辺がはっきりと見えた頃、鯉のぼりたちが高度をゆっくりと下げ始めた。


すると、触れていた感触が滑らかな布のものから、弾力のあるものに変わっていく。

あっという間に、ただの絵だった模様が本物の魚のように全身つややかな鱗で覆われた。

するりと何かが腕に触れる。見るとそれは長く伸びた鯉のヒゲだった。「ごめんね」と声を掛けてから、腕にしっかりと絡め、より身体を固定する。


まるでそれを待っていたかのように、黒い鯉のぼりは急にスピードを上げると、今度は森の中をぐんぐん進み始めた。

息も出来ないような向かい風。ものすごい速さのまま、木の間をぶつかる事なく器用に飛んでいく。


ふと水の音が聞こえ目を凝らすと、少し離れた所に広い川が流れているのが見え、あっと思った瞬間にはぐいんと方向転換していた。

横に振り落とされそうになるのを必死に堪え、ヒゲを手に巻き付け直す。どうやらさっきの川の上を飛んでいるらしかった。


目の前には、轟々と音を立てる大きな滝。

嫌な予感というものはよく当たるもので。

まさかと思った時にはもう滝に向かって突っ込んでいた。


「ぶっ…、ちょっ、ちょっと待って!」


ただ乗っているだけの俺の言う事なんて聞いてくれるはずもなく。

冷たい水が身体中を容赦なく打つ。

他の鯉のぼりたちも次々と続いて、流れに逆らってどんどん登っていく。


寒い。冷たい。痛い。冷たい。

口を開けると水が大量に入ってくるので息を止めて、目をぎゅっと瞑る。だんだんと息が苦しくなってきて、これはやばい。

そう思った時、急に圧迫感がなくなった。

ふわっと高く浮き上がる。

あの滝が真下に見えた。


「すごい、登り切ったんだ…!」


再び空を目指して舞い上がる中、乗っていた鯉のぼりの身体が青白く光り始めた。

その光りは少しずつ明るく強くなっていき、辺り一面が包まれる。


光が収まって見えたのは、広い空を自由に飛び回るたくさんの龍。

俺の乗っていた鯉のぼりも、立派な鬣と角の生えた大きな龍になっていた。


“竜門を登り切った鯉は、龍へと姿を変えて天に昇っていったそうだよ”


不意にじいちゃんの言葉が蘇る。

やっぱりあの話は本当だったんだ。

龍たちは縦横無尽に、一晩中飛び回って遊んでいた。




「健大、起きなさい!」


母親に叩き起こされ、眠い目を擦りながら起き上がると、どうしてか森でも庭でも布団でもなくリビングにいた。


「あれ、健大でしょ!服も汚して…、何やってたの」


指差す先には開けっぱなしの窓。

パジャマは所々擦り切れて、裸足の足には泥が付いている。


「え、これ、どうして…」

「それをお母さんが聞いてるの。もう、起きたら隣にいないし、リビングにいたと思ったら遊んだ後みたいに汚れてるし。…本当に何やってたの?」


最初は怒っていた母親の声も、途中から呆れの混じったものとなる。

呆然としたままの俺のパジャマを手早く脱がせると、代わりに着替えを投げて寄越してから、早くご飯を食べるようにと言い置いて戻っていった。


庭には昨日と変わらずポールに繋がったままの鯉のぼりたち。

あれは夢じゃなかった…?


どうしても確かめたくて、着替えてから今度はちゃんと靴を履いて外へ出る。

何かが爪先に当たって拾い上げてみると、三センチ四方くらいの不思議な色合いをした硬い物体。

太陽の光りを反射して煌めくそれは、昨晩見た龍の鱗に見えた。


はっとして鯉のぼりを見上げるが、やっぱり何も答えてくれる事はなく、ただ悠々と泳いでいる。


「…ありがとう」


奇跡のような夜を思い出す俺の言葉に答えるみたいに、一度大きくひらりと翻った。




その時の鱗は、ケースに入れて今でも大切に持っている。

でもあの夜以来、鯉のぼりが空を飛んでいるところなんて見ていない。


あの日の翌日も、こっそり鯉のぼりたちを見ようとしたけれど、今度はすぐに母親に見付かり部屋に戻されてしまった。


また夜間飛行に連れていってくれないかと、その後も母親の目を盗んで何度もチャレンジしたが、残念ながら未だ夢は叶っていない。


さぁて今年はどうかな。

夜のリビングに一人、毛布に包まって窓の外を眺める。隣にはケースに入った鱗。

夜空をバックにポールにぶら下がる鯉のぼりたちを見詰めて、再びの奇跡を願う。


長い夜は始まったばかりだ。




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