第2章 束の間の日常

2-1 新たな生活

 アオバの一日は、健二と共に始まる。アオバはお金を稼ぐような仕事をしているわけではないので、いつ起きてもなんら問題はないのだが、のそりと隣が動く気配を感じると、やはり生きてきた環境のせいか目を覚ましてしまうのだ。それが毎回のことなのだが、「もう少し眠ってて良いよ」といつも健二は眉を下げて困った顔をしながらアオバの頭を撫でるが、もう一度眠ってしまいたいという気持ちが無いことはないが、しかし今から仕事へと向かう健二を見送りたいという気持ちの方が遥かに勝り、一緒にベッドを降りるのだ。一度、健二が起きてしまうアオバを気遣い別々の部屋で眠ろうと提案したことはあったが、アオバはそんな理由で離れ離れになりたくなくて断った。分かってはくれたがそれでも納得はしていないからこうしてアオバの頭を撫でてくるのだろう。健二が優しいことは自分を救ってくれたことでそれをちゃんと知っている。

 起きた健二は街で買った食パンを二枚袋から取り出して健二の腰ほどの高さの棚に置いてあるオーブントースターの中に並べた。タイマーを摘んで右に少しだけ捻り、上下についている電光がじわじわとオレンジ色に変わっていくのを見て今度はトースターの隣にあるポットに水を入れてスイッチを入れてから湯を沸かし始める。

 健二がそうしている間に、アオバはマグカップと、食パンが丁度乗るくらいの平皿を、それから銀色のステンレス製のスプーンをそれぞれ二つずつ食器棚から出して食卓テーブルに置き、冷蔵庫から赤いパッケージに『苺』の絵が描いてあるジャム缶を真ん中に置いてそれから健二の近くに寄った。トースターやポットが置いてある棚の中には袋に入った飲み物の粉がいくつか備えてある。そこから飲み物を選んでからテーブルの上に置いた。健二のコップの中にはコーヒーの粉を一杯。自分のコップにはココアの粉を一杯。袋を直し終える頃にはトースターからは食パンの焼けた匂いがしてきて、同時にポット内の水が湯に変わる。アオバが出した平皿を手に取り焼け目のついた食パンを乗せ、ポットを持って並べてあるマグカップにお湯を注いでいく。マグカップ内を混ぜるのはアオバが行った。ココアを混ぜた後に、同じスプーンでコーヒーを混ぜる。健二はコーヒーをブラックのまま嗜むが、甘いココアを混ぜた後の、少しだけスプーンの先についたそのココアの粉がコーヒーに混ざるのが良いのだそう。

 混ぜ終えたら向かい合うようにそれぞれ置いて二人は椅子に座る。ジャムの封を開けて、もう一つのスプーンでお互い食パンに塗っていく。そうして準備を終えてからいただきます、と両の手を合わせてから食べ始める。もはやルーチンになった朝の動きはお互い声をかけずともここまでの流れが自然とできているのだ。


 出来立てのそれらを食べ終えてから健二は流しに置く。それを少し遅れてアオバが食べ終えた後に一緒に洗う。アオバが茶碗を洗っている間に健二は仕事に行く身支度をする。部屋に戻り、タンスから作業着であるつなぎ服を出してから寝間着から着替えて、洗面所へ。蛇口をひねり、目覚ましがわりにもなる冷水で顔をバシャバシャと派手に洗い濡れた手のまま少し跳ねている髪の毛を適当に整える。自身の歯ブラシに歯磨き粉を小指の腹ほど付けて力任せに磨く。そのため健二の歯ブラシは拓人やアオバの物と比べてブラシ部分が無造作に跳ねている。しかし使い始めてまだひと月も経っていないそれを新しい歯ブラシに交換することはなく元あった場所に置き玄関に向かう頃にはアオバも茶碗を洗い終えており、銃を背中に背負い下駄箱の上に置いてあるキャップを被って靴を履いたら出る準備は万端という格好の健二へと駆ける。


「じゃあ行ってくる」

「うん、気を付けて」


アオバが手を差し出すと、健二も同じタイミングで自身の手をアオバのそれに合わせた。握手。アオバは握ったその手に自分の熱を移すような勢いでぎゅっと握った。無事仕事が終わるように、怪我もなく帰ってこれるようにと想いも一緒に込めた。そんなアオバの想いを健二も分かっているから、送られるそれをしっかりと受け取るように握り返して手を離した。離した熱に後ろ髪を引かれるような気にもなるが、しかしそれでも仕事は健二を待ってはくれない。見送るその目を背中に感じながら、すっかりと履き古した靴を履いてまだ薄暗い外へと出た。


 健二を見送ったアオバは洗面所へと向かい、洗濯機の中と、近くに置いてある二つの籠のうちの一つにぎゅうぎゅうに詰め込まれた洗濯物。洗濯機の中に洗剤と柔軟剤を入れる。蓋を閉じて慣れた手つきでボタンを触り洗濯機を回し始める。静かな家に洗濯機の音だけが聞こえている。洗濯機の手前中央辺り。ボタンの横に表示された残り時間を確認してからアオバは一つ欠伸をして部屋へと戻る。ベッドを頭元に置いてある目覚まし時計を、丁度洗濯機が回り終える時間にセットしてからスリッパを脱いでいそいそと布団の中に入る。まだ二人分の温もりが残る布団の中。あっさりと眠気が襲ってきて逆らわずに目を閉じた。



 目覚ましが音を立ててアオバを起こす頃には、まだ開けていなかったカーテンの隙間から日が差し込んでいた。もう一つ欠伸をしてからもうそれから二度寝をすることなくアオバはスリッパを履き直して寝間着を着替える。洗面所に向かい歯磨きと洗顔、ブラッシングを済ませてから空の籠の中に終了した洗濯物を入れていく。溢れんばかりの洗濯物を詰めた籠を一先ず置いて、もう一つの籠に入った洗濯物を洗濯機に移し、ついでに脱いだ自分と健二の寝間着を含めた二回目の洗濯を始める。


 それから、アオバは両手に彼女の身長よりは小さな、しかし掛け声がなくては運べないほどの重くそれでいて大きめの籠を持ち洗濯場から玄関へと向かい、一度その籠を床に置いた後、室内用のスリッパから、外を歩く用のそれに履き替えて外へと続く扉を明けてから再び籠を持って、外へと出た。

 まだ空に顔を出してから時間も浅い陽の光を全身に浴びながらアオバは玄関の反対側にある物干し場へと向かう。


 物干し場は、この家に住んでいる中で一番背丈の低いアオバに合わせて作られている。それは単純にアオバが全員分の洗濯を干すことが多いからだ。背が低い拓人でも、しかし少女であるアオバよりは高い。背が低い方に合わせてあれば、例えば拓人や健二が洗濯を干す時には屈めばいいだけの話、ということだ。


 アオバは物干し竿の近くにある四つ足の板の上に持っていた籠を置いた。健二の拓人の手作りであるその板はプロが作るよりも当然丈夫ではなく全員分の洗濯物が入った籠を乗せると途端にぎい、と音を立てるが元々作った時からそんな歪な音がしていたのでまだ壊れる心配はない、とこの間健二がアオバと一緒に洗濯を干したときに言っていたので壊れた時に直すつもりでいるのだろう。

 いつか、こうして籠を置いたときにバキバキと音を立てて足が折れて壊れてしまって土足でしか歩かないそこに洗濯物が付いてしまったら、と考えるとアオバは気が気ではないが。


 そんなことを考えながら、籠から真っ白な白衣を手に取り、物干し竿へと向かう。シワがつかないように伸ばしてからハンガーにかけて、今度はそれを竿にかける。どうせ後でアイロンをかけてシワがないようにするのだが、少しでも手間が少ない方が楽に決まっている。そしてまた籠へと戻り、今度は青色で文字も何も入ってないパーカーを取った。この家で一番大きなサイズ。干しているのはアオバなのだから、濡れていることをもちろん分かった上で少しだけ顔を近付けた。健二のものだ。柔軟剤の匂いに混ざり、僅かだがしかしヒトには分からずともネトになら分かる健二の匂いがした。今日は一人で干しているから、もしここに健二が居たとしたらこんな真似は恥ずかしくて出来ないが、健二がここにいない今、言ってしまえば彼の洗濯物をどうしようがアオバの自由である。健二はアオバと違いヒトであり、もしかしたらアオバが健二の立場であれば、“自分と洗濯洗剤の匂いに混ざり他の匂いがするぞ”と思うかもしれないがそんな心配もない。しかしあまり長いことそうしていると、干し忘れた洗濯物の、鼻にツンとつくような生乾きの臭いがしてしまうので、匂いを嗅いで満足したアオバは同じようにハンガーにかけて、白衣の隣に干した。案外薄い白衣と違って分厚めのパーカーは、大抵均一になるように干す洗濯物よりすこしだけ長めに離した。

 干したら他の洗濯物を取りに籠の元へと向かう。あとはこの繰り返しだ。

 その繰り返しの動作が、もっと言ってしまえば洗濯をしたり、先ほどの茶碗洗いだったり、そういう家事というものを面倒だとも、他の人に任せたいとも、どうして自分がしなくてはいけないのか、とも思わなかった。むしろアオバの中にあるのはヒトと一緒の生活をしている今がとても幸せだ、という気持ちのみだ。自身を救い出し、味方でいる、と言ったヒト。ここを自分の家だと思って過ごして良いよと言ったヒト。アオバは今ここにはいない二人の大切なヒトの顔を思い浮かべながらまだ籠に大量に残っている洗濯物を取りにいく。


「随分と楽しそうにヒトの真似事をするんだな」


 聞こえた声に、悪いことをしたわけでもないのにとてもびっくりしてしまって声のした方を向いた。屋根の上。そこにはつい先日、拓人が連れて帰った亜種のネトが胡座をかいて座り、アオバを見下ろしていた。そこからひょいと軽く跳んで微かな音のみを立てて地面に着地した少女は籠の中に入った洗濯物を一瞥してアオバの方に視線を戻す。正確には、顔より下。首に取り付けられた首輪に目線は向けられていた。


「『アオバ』ね。名前がついてるってことは、どっちかにつけてもらったの?」

「うん、健二に。貴女は?」

「私に名前はないよ」


 そう言った少女の顔は、初めて見た時よりか穏やかなものになっていた。拓人が少女を連れて帰った翌日に病院を抜け出した。止めることができなかったと言ったアオバと健二に大丈夫だと言い、拓人のためにと駆けつけてきた烏と一緒に逃げ出した少女を追って、数刻して烏と共に帰ってきた拓人は両腕に少女を抱き、そして少女は怪我を負った烏を抱いていた。そのまま少女と烏のみを連れ治療室に入り、しばらく出て来なかったので中で何があったかはアオバには想像できないが、しかし少女がいまそうして穏やかな顔をしているのは、その治療室の中で何かがあったに他ならない、と思う。


「やっぱり、家の中では寝ないんだね」

「…ああ。中はヒト臭くて寝付けないんだ」


 それは暗に少女が外で眠っていると言っているようなものだった。

 しかしそうは言っても、逃げることはしないらしい。それも拓人が言ったことなのだろうか。しかし深く聞くことは憚られた。彼女の名前に付いても。触れられたくない部分なのかもしれない。だからアオバはそれ以上聞かずに洗濯干しを再開しようとしたら、少女は籠の中から服を数枚取ってアオバに渡してきた。


「一人でこの量は大変でしょ?手伝う」


 ぶっきらぼうにそう言い放った。けれどその目はアオバを見ており、手に持った洗濯物を意地悪で落としたりもしない。本当に穏やかになったんだな、とアオバは少女の行動に驚くと同時に感心した。けれど感謝は素直に受け取ることにした。ありがとう、と笑って返し、そのまま物干し竿の方へと向かう。

 自身の手に持った洗濯物を一枚一枚アオバに渡し、受け取ったアオバがそれらをハンガーにかけて竿に干していく。持った洗濯物が無くなれば少女は新たな洗濯物を数枚持ちまた戻ってくる。先ほどアオバがしていたことをそのまましてくれるらしい。


「ねえ、私が持ってくるから、貴女が干す方に回る?」

「いや。私はアンタみたいにそんなうまくは干せないからいいよ」


 むしろそっちをアオバが行うようにすれば少女の負担はなくなるのではないかと思ったが、そう返されてしまう。服にシワがつかないように伸ばし、洗濯物が重ならないように均一に間を空けて干す。それはアオバにとってとても単純な作業ではあったが、少女は出来ないと言う。しかし、少女のその言葉はまるでアオバに負担をかけまいとするような台詞のように聞こえた。アオバが少女の負担を減らすためにそう言ったように、少女もまたアオバの負担を増やさないためにそう言ったのではないかと思った。その真意は少女自身に聞いていないため分からない、が。


 そうして過去が空になると、アオバはその籠を持って室内へと戻る。量の手が塞がっているアオバの代わりに玄関の扉を開けてくれる。もしかして、と。少女がこうして優しくしてくれているのはアオバが大変そうだからではなく、単にヒトの手伝いをしているアオバを不憫に思ったゆえの行動なのかもしれない。確かに少女は最初「ヒトの真似事」だと口にしていた。少なくともそういったことを進んで行うことをよくは思っていなさそうだ。


「洗濯は終わり?」

「ううん。もう一回分回してるからそれもあるよ」


 外履きからスリッパへ。玄関から上がろうとしない少女を置いて洗面所へ向かい、静かになっている洗濯機の蓋を開けて、回し終えたばかりの洗濯物を、持って帰ってきた籠の中に入れていく。再び重さを取り戻した籠の持ち手をしっかりと握り持ち上げる。アオバの言葉にあからさまに顔を歪めた少女だったがそのまま逃げることはせず、しかし重たいものを持つということを手伝うこともしない。だが、歩いて外へと続く扉を開けてくれる。あくまでアオバがすることのサポートらしい。


 それでも少女にとってはいつも一人でこなしている量の仕事を手伝ってもらえる、ということは家事の大幅な短縮にも繋がった。

五メートルはある二本の物干し竿は、しかし二籠分あった洗濯物を干し終える頃には全て埋まってしまっていた。


「ありがとう、助かったよ」

「気にしないで」


 そういえば、とアオバは少女を見た。アオバは朝、まだ日が昇る前の早朝に朝ご飯を済ましたが少女は果たして朝食を済ませたのだろうか。

 きっとまだであろう。アオバよりは背の高い少女だが、しかしその両手両足は親指と小指で輪を作って出来た丸の形でその首を握っても余るほどの細さだった。もしかしたら、森にある木の実で生活していたのかもしれない。そしてここに住み出してからも同じ生活を続けているのかもしれない。


 だが、もしここでアオバが少女のために食事を、例えば朝アオバが食べたような食パンを持ってきたとしても頑なに受け取らないだろう。至って単純に、ヒトが作ったものだから。ヒトの手が加わったもの、それは少女にとっては自身の首に付けられている首輪と同じ扱いになるのだろう。

 だからアオバは何も言えなかった。その代わり、もっと少女と仲良くなれば一緒に木の実を探しに行こうと思った。

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幸せになるために 屑原 東風 @kuskuz

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