冷たいのか優しいのか
壮絶、とは言わない。だがそれでも、阿部が経験したこの数ヶ月間は、思春期の少女を暗がりに落とすには充分過ぎる時間だった。自他共に認める捻くれ者の俺ですら、この少女には同情を覚える。静かに涙する阿部を、俺は口元を隠して見つめていた。背もたれにかかった重さの分だけ、大きな溜息が漏れた。
ーーあーあ。こりゃ、しばらく来れねぇかもな。
阿部の話ではない。俺の話だ。今の俺の状況を一言で言うなら、睨まれている、だ。二人、いや、三人。初老の夫婦ともう一人、タメくらいの男が敵意に近い感情を俺に向けてきていた。まぁ、側から見れば阿部を泣かしているのは俺だ。三人は会話の内容ではなく、阿部の薄いマスカラが頬を伝っていることだけを思考材料にしている。これはいよいよ俺の安息地が消えて無くなりそうだ。タメの男は俺と行動時間が似ているから、おそらく同じ大学生だ。もしかしたら悪い噂を流されるかもしれない。
俺は阿部ではなく自分の心配をしている。それだけの余裕があるということだ。そこまで親身になっていないとも言える。余裕があったから、見逃さなかった。
「二、三聞くが」
俺の人差し指がテーブルを叩く。
「君のとこの新監督、元は烏沢学園男子サッカー部の監督だったんじゃないか?」
「え? は、はい。そうです……」
やはりか。烏沢学園のことは今でもよく覚えている。高校時代に対戦した時、烏沢はフィジカルを前面に押し出した戦術を展開してきた。それに苦戦したわけでもないが、あまりに極端だったので頭に残っていた。
そして、その記憶の中には、例の相手監督のことも含まれている。確かに指示の出し方は少し偉そうだった気もするが、別にそれ以外は普通の人間だった。スタンスは置いておくとしても、監督としての力量が低かったとは思えない。むしろ、全中で準優勝したチームを任される人間だ。学園側、ないし元監督からそれなりの評価を受けていたと考えるのが妥当だろう。
では、果たしてそんな人物が、反抗されたとは言え、女子中学生をチームから干すなどと言うキチガイな真似をするか? 俺はそれをあり得ないと判断する。
「最初の一ヶ月は試合に出ていたと。話し合いをしていた、と」
「……はい」
「だが一カ月後、君は干された。俺が思うに、その落差は少々異常だ。君側にも何か原因があったんじゃないかと思うのは至極当然のことだろう。なぁ、阿部。まだ話してないことがあるんじゃないか? いい大人が異常なほど激怒する理由が、君側にもあったんじゃないのか?」
おばちゃんが届けてくれたおしぼりを一捻りする。
「例えば、態度とか」
もう一捻り。
「言動、とか」
阿部の涙がピタリと止まった。充血していた瞳が下向きに泳ぎ、頬が白くなっていく。
「そこのところ、どうなんだ?」
別に、責めているわけではない。虐めているわけでもない。阿部の心の傷を逆側から引き裂くことになってはいるが、それは結果論だ。俺はただ、阿部がまだ話していない事実を明らかにしたいだけ。安息地を侵されたことにイラついて訊き方がねちっこくなっているのはオプションに過ぎない。
「……していたと、思います。いえ、してました。あの時の僕は、目上の方に対する態度を誤っていました」
誤魔化しのない返答がすぐに返ってくる。告白のタイミングは少し遅かったが、誠実さは充分伝わってきた。
「まぁ全中で準優勝したんだ。多少調子に乗ってしまうのはわかる。その中でも君は重要な役割を担っていただろうしな」
俺だって話のわからない人間じゃない。阿部の気持ちを想像することくらいはできる。何度か話に出てきている「全中」だが、これの正式名称は「JFA 全日本U-15女子サッカー選手権大会」だ。この大会は普通の中学総体とは様式が異なり、クラブチームが参戦してくる。女子サッカーの競技人口はバスケやバレーに比べて少なく、部活チームだけでは大会が成り立たないのだ。そうやって出場チームをごちゃ混ぜにした結果、近年ではJチームの女子ジュニアユース、もしくは全国的に有名な地域密着型クラブが上位を独占している。そりゃあ、練習環境、指導者、そして選手が揃っているクラブチームが勝ち上がるのは自然なことだろう。
中体連チームは時代の逆風の中で揉み散らかされている。だが、昨年の烏沢学園は決勝戦にまで駒を進めてみせた。これはまさに奇跡と呼んで良い躍進で、その偉大さはピッチに立ってプレーした選手達が一番よくわかっているだろう。
だがしかし、「奇跡の立役者」という肩書きは、一介の女子中学生が背負うには煌びやか過ぎるものだった。チームの偉業に目が眩んだ阿部は、自分の立ち位置を見誤った。
阿部が干された原因は、阿部本人にもあったということだ。
「まぁ、例えそうだとしても、その監督が君に行った行為は指導者としても大人としても最低の行為だった。それは間違いない。監督と言う役職に相応しい人間とは思えないな。さっさと辞任するか解任されて、小学生の道徳から学び直すべきだろう。だがな」
だが、俺は阿部翼の味方をしない。誰もが彼女の味方をするのだから、一人くらいは敵役がいても良いだろう。阿部の心の強さを測るためには、このやり方が一番手っ取り早い。
「君の経験の責任は、監督だけのものじゃない。君には君の問題があった。君は己の間違いについてどう思っている?」
「……っ!」
阿部の優しい顔が強張る。この話の展開だと、阿部は自分が責められていると感じるだろう。ここで一手間違えれば、また似たような境遇に陥ってしまうと考えるだろう。この子は今、尋常ではない恐怖に襲われているはずだ。
だか、だからこそ阿部の心の状態、強さが表に出る。
「凄く、凄く反省してます。一体何様のつもりだったんだって、今でも思います」
「ほう」
「でも」
阿部の瞳に強い光が灯った。その眩い輝きに、俺の心臓が震える。
「後悔はしてません。言うべきことを言ったこと、伝えたいことを伝えたこと、それは絶対に間違いじゃないから」
深く傷ついていても、被害者じゃない。自分の過去と向き合あおうとしている人間だから言える言葉だった。
「……確信したよ。君は信頼できる。桜峰に必要な
俺と似ている。そして、俺とは全く違う。
「終わった話はもう終わりだ。ここからは、君の未来の話だ」
ここからもエネルギーが必要だ。それに備えて充電しておきたい。
「腹減ったから、何か注文させてくれ」
俺が真面目な声でそう言うと、何故か阿部はくすりと笑った。
阿部もまだ夕飯を食べていなかったらしい。フットサルが終わった後、自分のプレーを思い返していたら食事をする気など起きなかったそうだ。言いようのない不安に駆られて、一も二もなく俺の家を訪ねてきたのだ。そして話が一段落した今になって、やっと空腹を自覚できるようになった。
そう言うわけで、俺達はそれぞれ注文した定食を食べることに集中していた。料理から立ち昇る湯気でレンズが曇るらしく、阿部は眼鏡を外している。
「美味しいですね」
「あぁ。毎日来ても飽きねぇよ」
「毎日はどうかと思いますけど」
「自炊しないんだよ。と言うかできない」
「それって不便じゃないですか?」
「……」
「……?」
「何でだろうな。君の敬語は気持ち悪くない」
「はい? え、あ、えっと。僕、また何か失礼なこと言ってしまいましたか?」
「いや、そうじゃない」
俺は歳下に尊敬されるのが苦手なのだが、阿部の敬語は不思議と嫌な感じがしなかった。
「でも、カロッちもアンっちも、アヤっちも敬語ですよね」
「小西と仲村は素でああ言う口調なんだよ。遠藤は、まぁ、あの子は真面目だからな」
敬語で話さないで良いと言っているのを無視して敬語を使ってくる仲村と小西は、逆説的に俺を尊敬していないと取れる。だからそこまで気にならない。
「君も無理して話さなくて良いんだぞ」
いくら気にならないとは言っても、他の子達が阿部に引き摺られて話し方を変える可能性がある。万が一、いや、億が一、久保が敬語なんか使ってきたら、気持ち悪さで全身の毛が抜けそうだ。
「で、でも……」
「不敬と言葉遣いは別物だろ。君が話しやすい口調で話してくれる方が俺はやりやすいんだが」
「な、なるほど。そ、れ、な、ら、カシコマでっす! ここからはつーちゃんモードをスイッチオンしちゃいまーす! よろしくネ!」
突然の横ピースとウィンク。
「……」
「スミマセン」
「……極端なんだよ君は」
どうして零か百かみたいな出力調整しかできないのか。横ピースが萎れるみたいに落ちていく。
「まぁ良いや。それで、君の試合恐怖症の話なんだが」
阿部の生姜焼きが全て無くなったのを見て、話を元に戻す。敬語の件は横に置いておこう。
「は、はい」
「治療方法は大きく分けて二つある。と言うか、二つしかない」
「……?」
「いや、横ピースじゃない」
俺のVサインに何故か横ピースを返してきた。なんだこの子。面白いな。
「まずは一つ。試合に出ること。出まくること。出続けること」
至ってシンプル。どんなに辛くても怖くても、試合に出る。恐怖を噛み砕けるまで、絶望に打ち勝てるまで、ひたすらトライアンドエラーを繰り返す。
「ただ、これは相当な荒療治だ。経過によっては、恐怖を克服するより先に君の心が折れてしまう未来もあり得る。どちらにしても、今まで以上の苦難を経験することになる。個人的にはオススメしない」
この治療法の辛さ、難しさは阿部が一番生々しくイメージできるはずだ。阿部が唾を飲み込んだのが喉の動きでわかった。料理の熱によるものではない脂汗が額に浮かんでいる。
「そしてもう一つ。試合に出ない方法。試合に出るのが怖いなら、出なければ良い。これは一種の病気なんだから、休んでいれば和らいでいく。多少時間はかかるが、確実なのはこっちだ。わざわざ苦しい思いをすることもないだろう?」
試合に出るか、出ないか。前者は博打、後者は安パイ。特にこの場合、前者は症状が悪化することも考えられるため、より危険な博打になる。二度とサッカーができない心になるかもしれない。
「ぼ、僕は……」
「おっとストップ」
答えようとした阿部に手のひらを突きつける。
「これはフィクションじゃない。物語の主人公みたいな心持ちで前者を選択するのはダメだ。その場の雰囲気とノリで決めるような事柄じゃない」
博打に出るとしても、準備と言うものがある。メンタルケアだけではない。フィジカルケア、仲間とのコミュニケーション、試合に出る時間や回数、色々なものを計算して、具体的な行動を計画するのだ。
「……」
「だが、のんびりできる状況でもない。君ほどの選手をベンチに座らせておく余裕はないし、インターハイ予選は一カ月先に迫ってる。それに君自身、高校生活はあと二年半。まぁ一年だけなら留年してもインターハイには出られるが、それは違うだろう?」
選択は時間との勝負だ。設定された期限までに決定しなければならない。
「インターハイ予選……」
阿部が口の中で呟く。それがどんな意味を持っているのかは俺には計り知れない。
「だから、君には今日、明日、明後日の三日間で決めてもらう。俺がチームを預かる以上、チームの骨を作るのに一カ月は欲しい。それに、明日は運良く強いチームとの試合だ。判断材料としては最高のはずだ」
「……わかりまし、わかったよ。よく考える。ちゃんと考える」
「よし。期限はあるが、焦るなよ。試合に出ることでどんな得をするか、また損をするか、紙に書き出してみると良い。頭を整理しやすいから」
「うん。ありがとう」
阿部は不安そうに笑った。一体どうして、俺なんかの話を素直に聞き、優しく笑って感謝してくれる少女がこんなにも苦しまなくてはならないのだろう。不親切な俺ですら、そんなことを考えてしまう。いつの時代、どんな場所でも、サッカーは残酷だ。しなくていい苦悩を押し付けるくせに、代わりに与えてくれるものは小さい。
阿部翼がこれから立ち向かわなくてはならない壁は、見上げても足りない程高く、それでいて反り返っている。
「なぁ」
「ん?」
この少女がその壁を越えるために、俺がしてあげられることは何だろう。らしくもない思考に失笑しながらも、言葉が零れ落ちてしまった。
「君の心は、白に近い赤になるまで熱せられている。それは時間をかけて冷めていくだろうが、柔らかくなった所についた傷は後々にまで深く残る」
試合に出ないやり方は、心をぬるま湯につけるのと同じことだ。冷める速度を若干早め、傷をつきにくくする。だが、心が完璧に冷え切ることはない。心の熱を帯びたぬるま湯が熱くなり、いつまでも温度を保ってしまうからだ。
「俺は試合に出ないことを勧めるよ。休むべき時ってのは存在するから。苦しい時に無理して闘うことなんてない。だが」
否定に否定を重ねて、理論が崩れていく。自分でも何を言ってるのかわからなくなってきた。
「だが、もし闘うつもりが1%でもあるなら、覚えていてくれ。限界を超えて熱くなった君の心は、叩けば変形する。叩けば叩くほど薄くなり、尖り、最終的には硬くなる」
叩く位置を間違えて、おかしな方向に曲がってしまうかもしれない。叩く強さを誤って、粉々に破壊してしまうかもしれない。だがもし、もしも心が耐えきれたなら、奇跡のような確率を飛び越えることができたなら。
「君の心は、阿部翼という存在は、何物にも負けない鋼になる。誰もが認める輝きを放つようになる。そう言う未来も、あるかもしれない」
多分無い。だが、あるかもしれない。
子供を博打に誘い込むような発言を、俺はしてしまった。そんな馬鹿な俺を見て、
「コーチっちって冷たいのか優しいのかわかんないね」
阿部はもう一度笑った。不安を言葉の端々に乗せながらも、どこか嬉しそうだった。
「誰かさん曰く、中途半端だからな」
こくこくとお冷を飲む阿部が、ガラス越しに俺を見つめていた。
「冷たくしてくれて、優しくしてくれて、どうもありがとう」
「……バカ言え」
少し身体が熱くなって、お冷に口をつけた。喉を通り落ちていく冷気はあまり役に立たないことに気づいて、そっと顔を背けた。
キックオフのその先に 夏目りほ @natsumeriho
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