夜中の訪問



「明日は市役所チームとか。どんだけ試合したいんだよ」


 さっき望から電話があった。明日の朝九時に河川敷に来てね、と。字面だけ見れば可愛い感じがするが、実際はかなりドスの効いた声だった。

 そしてもう一つ、俺が出していた条件「休みを月曜日に固定する」という話が学校に通ったらしい。顧問の働きかけと部員数が着実に増えているのが印象を良くした。なんだかんだで一年だけで八人だし、精力的に活動もしている。生徒のやる気や自主性を重んじるべき学校側が折れた形だ。こんな話を聞くとサッカー部ばかりが贔屓されている気がしなくもないが、その辺の文句は一つも出なかったそうだ。ソフトボール部は水曜日、陸上部は金曜日と、希望する休日が被らなかったのも大きい。

 桜峰サッカー部は着実に活動を野太いものにしていっている。ただ惜しむらくは、今後の部員増加がほぼ見込めないこと。インターハイ予選はこの七人で臨むしかない。色々と問題の多い少女達、選手達をどこまで磨いていけるか。与えられた時間は少なく、全てを解決するのは無理だろう。解決するものと、しないもの。冷静な取捨選択が必要だった。そしてその中で絶対に欠かせないものが、


「阿部だな……」


 阿部のプレーだ。あの少女が抱える異常とも言うべき怯えは、一体何なのか。

 試合への恐怖感そのものは理解できる。ミスをしてしまったらどうしよう。自分のせいで負けてしまったらどうしよう。そんなことをずうっと考えながらプレーしてしまう選手はいる。集団競技ゆえの責任感、焦燥感とでも言うのか、この思考は一度ハマってしまうとなかなか抜け出せない。もし阿部がこの症状に侵されているのだとしたら、かなり難しい問題になってくる。なにせ恐怖心の克服だ。本人だけにしかわからない感覚を周囲が理解し、「本人が」立ち向かえるようサポートしなくてはならない。

 息苦しそうにプレーする阿部の姿が、タバコの煙の向こうに浮かんでくる。繰り出す全てのプレーに迷いがあった。躊躇があった。あの選手が桜峰に来たことで、勝ち筋のようなものが見え隠れし始めた。もしかしたら万に一つの可能性があるかもしれない。それをみすみす逃すわけにはいかない。

 そして何より、あの少女のこれからのためにも。


 ーー柄にもねぇな。


 自分でもそう思う。だが、どうしても気になる。視界に入ってくる。あの子を見ていると、何故か手の平にじっとりとした汗をかいてしまう。

 この感覚が何物から生まれくるのか、まだわからない。自分の体験にルーツがあるはずだと記憶を色々さらっているのだが、確かなものは出てこなかった。苛立ちで煙を吸う間隔が短くなる。タバコの先が灰になって落ちたその時、インターホンが二度鳴った。


「……?」


 最初は宅配かとも思ったが、俺は誰かから贈り物をされるような人種じゃない。両親の場合なら事前に連絡が来るから、やはり宅配ではない。あとの心当たりは望くらいしかいないわけだが、それもさっき電話したばかりだ。

 どうにも不審に思えて、音を立てぬよう静かにドアスコープに近づいた。だが、俺の行動は相手に筒抜けだったらしい。覗いたドアスコープ越しに目が合った、気がした。そこにいたのは、


「こーんばんはっ! 僕です、つーです! あのねあのね、どぉしてもコーチに聞いてもらいたいことがあってね! 遅い時間だけど、思い切って来ちゃいました! ごめーんなさい! てへ!」


 多分、阿部翼だった。


「……………………あぁ?」


「……大変遅くに申し訳ありません。ご迷惑かと思いましたが、コーチにご相談が、その、どうしても聞いていただきたいことがありまして。もしよろしければお宅に上がらせてもらえれば、と。どうか、お願いします」


 やっぱり阿部だ。いつも俺が見ている格好とは違っていて、一瞬わからなかったのだが、こんな無意味なワンクッションを入れてくる人間は他にいない。


「一人か?」


「はい。一人です」


「……ちょっと待ってろ」


 俺は今、デロデロに伸びきったスウェット姿だ。人前に出られる格好じゃない。手早くジーパンとポロシャツに着替え、財布とケータイ、タバコを持つ。阿部を部屋に入れるのではなく、俺が外に出るのだ。


「こんばんは……」


「あー、マジか。マジで一人か。ったく、何考えてんだ。うちのことは望にでも聞いたんだろうが」


 俺と同じような格好の阿部がぽつんと立っていた。プリン頭は帽子で隠し、鼻にちょこんと乗った眼鏡が薄化粧をさらにわかりにくくしている。


「あの、部屋に……」


「入れられるわけないだろ。親は? ここに来ることは言ったのか?」


「え、えっと、言ってません。親は家に……」


「なら家までの距離は」


「自転車で三十分くらい、です」


「ハァ……。なら電話しろ。俺が話すから」


 俺みたいなのが夜中に未成年を連れ歩いて良いわけがない。お巡りさんに見つかればタダじゃ済まないだろう。学校に連絡いって即コーチ解任なんてこともあり得る。


「あの、親は、ちょっと。聞かせられないと言うか」


「なに? ……仕方ねぇな。付いてきてくれ」


「は、はい」


 今ならまだ、俺の行きつけの定食屋「ことりちゃん」が営業中だ。すぐ近くにあること、客観的な人目があること、あそこはこれ以上ない場所だった。

 早く店に入りたい気持ちが、自然と俺を足早にさせる。店の明かりが見えた時は安堵を覚えた。「ことりちゃん」はいつものように繁盛していて、客の話し声と良い匂いが窓から漏れてくる。赤い暖簾をくぐるとすぐ目の前におばちゃんがいた。看板娘の不在は、不思議とすぐに察せられた。


「あら、コウちゃんいらっしゃい。今日は遅かったじゃないか……って、んん? そちらは彼女さんかい?」


 おばちゃんの視線が阿部に向けられる。確かに、俺と阿部の服装はちょっと地味目のペアルックに見えなくもない。


「違います。俺がコーチしてる子です。相談したいことがあるって家まで来ちゃいまして」


 帽子を取るべきかどうか迷っている阿部。まぁ、取ったとしても出てくるのがプリンなのだから、誠意を表すには向かない。そんな阿部を視界の隅に入れながら説明を続ける。


「けど、流石に女子高生一人を部屋に入れるのもマズくて。話を聞くなら、とにかく人目のあるところ、まぁ飯でも食べながらと」


「は、はじめまして。桜峰女子の一年、阿部翼です」


 迷った末に帽子を取った阿部が頭を下げる。何だか他の客の視線まで集まってきた。その中には、あの男また女の子連れてるよ、みたいなのも混じっている。なんか、俺の聖域である「ことりちゃん」が、どんどん居辛い場所になってしまっている。


「ははー。なんだコウちゃん、なかなか良くやってあげてるみたいじゃないか」


 おばちゃんが驚き半分、感心半分の声で言う。なんか俺の株が上がりそうだったので、訂正をしておく。


「いや、この子が真面目なだけっす。ただ、ちょっとテンパってる感がありまして」


「ふふ。そうかいそうかい。コウちゃん、このくらいの歳の子の相談受けるってのは凄いことなんだよ」


「そんなんじゃないんですけどね」


「あはは。まぁそう言うことにしとくかね。それじゃ、静かにはしてやれないけど、ゆっくりやると良いよ。阿部、翼ちゃん? 遠慮せずに話すんだよ。そしたら力になってくれるからね」


 おばちゃんは何か意味ありげにニヤリと笑った。香港マフィアのドンみたいな笑い方だった。


「は、はい! どうもありがとうございます」


 初対面の大人に優しく声を掛けてもらった阿部は、鬱な雰囲気を少し和らげていた。


「うんうん。元気な良い子じゃないか。ウチの無愛想なのとは大違いだね」


 いや、娘さんの場合は無愛想とは少し違う気がしますが。おばちゃんはもう一度満足そうに笑うと、テキパキと片付けに戻っていった。他の客の視線も切れたので、俺は扉から一番近い席を選んで座る。阿部も俺が座ったのを確認してから席についた。つるつるしたテーブルに二人の影がかかる。メニューを開きながら声だけを阿部に向ける。


「さて、これだけは先に言っとくが、俺は他人の相談受けるのとかめちゃくちゃ嫌いだから。今回のは超レアなケースだと思ってくれ」


「は、はい。のぞっちに聞いてます」


「そうか。なら良い」


 阿部の話にはそれだけの意味があるということだ。そして、それは俺が聞きたいことと一致しているはずだ。


「それで、あの、いきなり質問になってしまうんですが、今日のぼ、わ……僕のプレー、ご覧になってどうでしたか?」


「あぁ、それか。まぁ、恐ろしく期待外れだったな」


「うぐ……」


 俺はチームを勝たせられる選手として阿部をピッチに送り出した。その評価自体は絶対に間違っていないはずだ。だが、実際の阿部のパフォーマンスは俺が期待していたのとは真逆のものだった。普段の彼女なら問題なくできていたことが、できない。早すぎたり遅すぎたりして、周りと息が合わない。そこで生まれたズレは仲間の歯車を狂わせ、チームを内部から瓦解させていった。酷な話、阿部のせいで負けたと言われても仕方のない内容だった。阿部もその自覚があるのだろう。歯に衣着せない俺の言い方に表情を青くさせる。血の流れが急に悪くなったみたいだ。だが、


「だが、期待以上だったこともある」


「……え。そんなの、あるんですか?」


「ある。君が、今日この日のうちに俺に相談しに来たことだ」


 阿部のこの行動はつまり、自分のパフォーマンスが振るわなかった理由をちゃんとわかっているということだ。原因究明の最も厄介なプロセスを省略できているのは、間違いなく期待以上の成果と言える。

 まぁ確かに、夜中に他人の家に押しかけるのは迷惑な行動だ。だが、それは俺側の目線、客観的な視点からの話であり、阿部の抱える事情とは別の問題だ。阿部は自分の困りごとの解決を第一に考えれば良いのだから。


「だから、遠慮なんかせずに早く本題に入れ。君のプレーが練習とは明らかに違った原因、それは何だ?」


 明確な返答が欲しくて、質問を簡潔にした。少しずつ平静を取り戻し始めた阿部が俺の目を見るようになる。だからだろうか、そこから阿部が放った言葉に、俺は二の句を失った。


「実は僕、他チームとの試合に出るのは半年ぶりだったんです。練習試合も含めて」


「……」


「正確には、全中の決勝戦が終わった丁度一カ月後からなんですけど」


「……」


  全中の決勝戦っていつだったっけと首を捻る。あぁ、そうそう。阿部が出場した大会の決勝戦は八月一日だ。そこから一カ月だから、阿部が試合に出れなくなったのは九月一日からということになる。

 要するに、阿部翼という選手は約八カ月間、試合に出ていなかったのだ。

 

「いやいや待て待て。話を端折りすぎだ。もっとディテールの説明をしろ」


「え、でも簡潔に言えって……」


「そんなことは言ってはない。そういう空気にはなってたが、口にはしてない」


「えぇ、ズルイ」


「ズルくない。そんなことより、何だその意味不明な経歴は。サッカーをやってなかったわけでは、ないよな。そういう話じゃないよな」


「はい。烏沢はエスカレーターなんで、基本的に引退とかないです。普通に毎日練習してました」


「でも、練習試合にすら出てなかったと?」


「はい」


「……」


 やっぱりよくわからなかった。だから、


「いや、なんで?」


 こんな馬鹿みたいな口調で聞くしかなかった。一から十まで教えてもらわないとイメージもできない。


「……干されちゃったんです」


「干さ……れた。干された? 君がか?」


「はい。夏が終わった後に就任した新しい監督が、選手の体格を重視するタイプの人だったんです」


 新監督という単語を聞いて、やっと事情が見えてきた。


「……小柄だった君は、監督の構想外になったってことか」


 それにしたって、全中の準優勝メンバーをいきなり外すなど、チーム作りとしてはあまりに強引で、理不尽だ。当然、阿部は監督のやり方に不満を覚えただろう。


「……仰る通りです。僕は何度も監督と話をしました。もちろん、最初はただの意見交換くらいだったんです。でも、ダメでした」


 だがしかし、その監督は自分の半分も生きていない少女が一丁前に意見してくるのが気に入らなかった。このままでは自分のやり方を植え付ける大事な時期をめちゃくちゃにされる。

 だから、干した。話し合いすらしなくなった。


「お前みたいな奴はチームに要らないって、皆んなの前で言われちゃいました」


 阿部の拳が赤黒くなる。温厚な彼女らしからぬ歯軋りが聞こえてくる。仲間達の前で己を否定されたことは、筆舌に尽くしがたい屈辱と、絶望だったのだろう。

 阿部から漏れ出した怒気は、熱で泥化した鉄のようだった。彼女の心の奥底は、その日からずっと灼かれ続けていた。


「…………それから僕は、紅白戦にすら出してもらえなくなりました。どんなに練習を頑張っても、良いプレーをしても、ダメでした。むしろ、やればやるほど目の敵にされるんです。はは。何か抵抗しているようにでも見えたんですかね」


 力無い嘲笑の後、阿部の瞳が洞のように暗くなった。握り締められていた拳がすぅと色を薄めていく。


「でも、何とか我慢はできました。あと半年頑張れば良いだけだからって。高等部に行けばまた普通にサッカーできるからって。そう思って生きてたんです。……けど、だけど」


 阿部がツーっと息を吸う。それがもう一度ゆっくり吐き出された時、無音の雫が頬に二つの筋を作った。


「だけど、アノヒトが高等部のカントクも兼任するってなったんです。それを知った瞬間……心が折れました」


 烏沢学園では、毎年四月に新一年生対二、三年生の試合をするらしい。ガチな試合ではなく、一種の歓迎会みたいな緩い試合だそうだ。だが、そんな試合ですら、阿部は出場させてもらえなかった。


「……四十分ハーフの試合、部員二十九人の内の二十八人が出たのに、僕だけ、一度も代わってくれなかった」


「……」


 目も耳朶も鼻頭も赤くした阿部が、必死で息を整えようとしている。いつも明るく振舞っていた少女の心は、とうとう決壊した。


「試合に、出たい……。もう一回、試合に出たい……! でも、でも、それ以上に怖いんです。試合に出れば、また監督に嫌われるかもしれない。お前なんか要らないって言われるかもしれない。皆んなからも避けられるかもしれない。だって僕は、全中が終わってからの一カ月間は、試合に出してもらっていたから……!」


 静かに涙する少女と俺は、温かい店内の端っこに座っていた。微かに漏れる音は賑やかな店内では掻き消されてしまう。

 何故この少女の姿に既視感を覚えていたのか、やっとわかった。同じなのだ。俺もこの子も、ずっと過去に囚われている。今を生きられないでいる。だから見覚えがあった。この少女は、他の誰でもない、俺だったのだ。

 

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