二人の活躍
坂田のおっさんが放ったシュートは、ゴールポストに当たってラインを切れていった。桜峰からしてみればかなり危ないシーンだった。坂田のおっさん、禿げてるくせになかなか良いシュートを打つ。現役時代はフォワードだったのだろう。思い切りが良いし、ボールに威力もある。Bad Boyzが一試合目に放ったシュートはこれで四本。その内の三本が坂田のおっさんのプレーだった。だが、まだ得点は無い。枠内に飛んだシュートは一つだけで、それも桜峰のカウンターの起点となったものだ。この十分間で桜峰のリードは2ー0にまで広がっていた。
加熱していくゲームを、ベンチから観察する。
遠藤の鋭い縦パスが右サイドの小鳥遊に入る。小鳥遊は身体を反転させながらボールを巻き込むようにトラップ。ディフェンダーと万全の状態での一対一に持ち込む。この瞬間、仲村がゴールを横切る形で斜めに走り出し、小鳥遊にスルーパスを要求した。そしてそこにしっかりボールが出る。良い連携だが、仲村はゴールに背を向けることになってしまった。だが。
「っ!?」
仲村はボールが自分よりも前に出る瞬間、右足で持ち替えた。めちゃくちゃ身体が柔らかいとできない、かなり無理矢理なクライフターンだ。この時すでに遠藤が逆サイドに、小鳥遊がフォローに入っている。仲村はそのどちらかに左足でパスする、と見せかけ停止。軽く足裏でボールを引き付け、右足のアウトサイドでちょこんと軌道を変えた。咄嗟に脚を出してきたディフェンダーの股下を華麗に抜き去る。プロのテクニシャンがタッチライン際やゴールライン際でよくやるプレーだ。だが、よくやるからと言って難易度の低いプレーというわけではない。むしろ難しいと言っていい。仲村はそれが試合中にできてしまう選手だった。
これでキーパーと一対一。角度がなかったが、仲村は迷わずシュートを選択する。ふりをしてキックフェイント。タイミングをズラしてシュートを打つ。だが、そこにキーパーの足が伸びてきた。こちらも仲村に負けず劣らず身体が柔らかい。あのおっさんもなかなか鍛えられているということだ。ボールが弾かれた先にいたのは坂田のおっさん。仲村、遠藤、小鳥遊が上がっているので、カウンターのチャンスだ。前線に残っていた(サボっていた)選手にロングパスを出そう、としてやめた。小西がカバーに飛び出していたからだ。相変わらずゴールをほっぽり出すプレーだが、坂田のおっさんの位置からではシュートを打てないと判断したのだろう。
プレーが切れたのを見て、望がタイムアップの笛を鳴らした。選手だけでなく、人工芝も息をついたように見えた。
「皆んなお疲れさま! 暑くなってきたから水分補給はしっかりしてね!」
「綾、はい。ほら、カロも」
「ん、リュウありがと」
「ありがとうございます」
戻ってきた選手達に望と久保が各自の水筒を配っていく。望の言うように、最近は蒸し蒸ししてきた。これからより体調管理に気を使う季節になってくる。
「はーい、塩餡欲しいひとー」
「ください〜」
「うちもー」
水分だけでなく塩分も。ここまでするのはまだ早い気もするが、クセをつけておくのは良いことだ。
「2ー0か。いい感じね。私達がリードするのって初めてじゃない?」
「そうだね。まぁカイトさんがいないし」
遠藤がBad Boyzのエース不在を指摘する。増長してはダメだと言うことだが、
「でも勝ちは勝ちですよ〜。私、二得点です〜」
仲村がポジティブに切り返す。たまたま目が合った俺に得意げにピースを向けてきた。二得点だぞ。どうだ凄いだろう。仲村は大人しそうに見えて、意外と単純に喜びを表現する少女だった。カニのようにチョキチョキさせている。
「コーチ。私達、どうでしたか?」
仲村のアピールを無言で受け流していると、遠藤が自分達の出来を尋ねてきた。それに答えるより先に、俺は右手で「座れ」のサインを出した。桜峰の選手達は休憩の仕方が下手だ。せっかく久保達がベンチを開けてくれたのだから、水分を受け取ったらすぐに座るべきなのだ。休憩時間も有限。休めない選手は戦えない。試合に出ていた五人が座るのを確認してから話し始める。
「かなり良いと思う。前の二人がゴールに向かって仕掛けられているから、向こうが少し混乱している」
ディフェンスがやられて最も嫌なことは、シュートを打たれることだ。そしてその次がドリブルで突破されること。前者は試合結果に関わるから。そして後者はそれだけでなく、単純に個人のプライドとして。個人技でドリブル突破ができる小鳥遊と仲村は、相手にとって非常に厄介な存在だった。二人が前を向いてボールを持てているから、攻撃が上手く機能している。
「二人はこのまま仕掛け続けること。ただしパスの出しどころを探すことはサボるなよ。『パスもある』と相手に思わせておけば、フェイクもかけやすい」
ドリブルだけだと読まれる。パスだけだと怖くない。両方あるから脅威なのだ。
「だがちょっと退がりすぎだ。南条とやった時とは状況が違う。もっと前からボールを取りに行って、真正面から勝負する回数を増やそう」
負けて良いわけではない。だが、負けることを恐れ過ぎると勝つための練習にならない。最初の十分間は、中沢と遠藤が自陣に退がってラインコントロールしていたが、それでは物足りない、勿体ない。
「小鳥遊、中沢は交代。久保と阿部がそれぞれ入ってくれ」
最初は中沢を残そうと思っていたのだが、遠藤の息が上がっているのを見て気が変わった。この選手には早く体力、走力をつけて欲しい。そのためには常に練習で限界まで走らせる必要がある。決して、辛そうにしてるのを見るのが楽しいとか、そんな意地悪なことは考えていない。決して考えていない。
それに、
「阿部、どうした? 交代だぞ」
隅っこで押し黙っているこっちの方がよっぽど心配だ。
「え? あ、うん。交代だね。交代。わかってるよ」
返事する声が震えている。いつもの空回り気味のハイテンションではなく、素の地味な性格に戻っていた。
「ふむ。じゃあ聞くが、外から試合を見て、何か掴んだことはあるか?」
少し心配になって、阿部の頭がゲームに入り込めているかを確認する。すると、
「うーん、そうだね。まずはトランジョンが相当重要ってのは感じたかな。ターンオーバーからシュートまでをどれだけ早くするかでチャンスにかなり幅があると思う。きっと、走力はもちろん、スピーディーにボールを扱える選手が重宝されるんじゃないかな? でもゲームが止まったら止まったで、個人技で崩せる部分が大きいよね。きりっちとあんっちが攻撃の軸になってたのが良い証拠だと思う。アイソレーションを上手く使えば、結構簡単にゲームコントロールできる気さえするもん。でも、それって草サッカーのレベルがって話であって、プロだともっと連携が必須になるんだろうね。まぁどちらにせよロースコアにはなりにくいスポーツで、点の取り合いが醍醐味だよ。ピッチが狭い分、シュートコースが見えやすいから……って。あれ……?」
全員が、質問した俺でさえ静かになってしまっていた。怒涛の分析に周りがポカンとしている。この空気を悪いものだと感じたのか、
「ぁ、スミマセン。喋りすぎました。プレーしてないのでわからないことの方が多いです」
阿部の豆腐メンタルが発動した。土下座しそうな勢いで頭を下げる。だが、それは全くの勘違いだ。
「い、いや。そういうことじゃない。よく見てるなと思って感心してたんだ」
「うん、そうだよ。流石つーちゃん! やっぱり頼りになるなぁ!」
「えぇ、そうね。つーになら安心してボールを預けられそうね」
選手達の顔がほころぶ。練習からわかっていたことだが、やっぱり阿部は凄い選手だ。そんな周りの反応に気分を立て直したのか、阿部も大きく深呼吸する。
「う、うん! どーんと、僕に任せといてよ!」
だが、この時の阿部の頬は引き攣っていた。そのことに気づけて、感じ取れていたのは、おそらく俺だけ。
何だ? 阿部翼。君は一体何に、何にそんなに。
ーー怯えている?
初めから警戒されていた。そこは俺が対策しなければならないことだったが、頭を回せていなかった。油断や慢心ではない。ただ単に俺がヘボだっただけだ。
坂田のおっさんは、小鳥遊の実力を前々から知っていた。だが、それを他のメンバーに話したりはしなかったのだろう。小鳥遊は完全にノーマークで、彼らは小鳥遊を「初めて見る綺麗な少女」くらいにしか思っていなかった。
だが、蓋を開けてみれば、その選手は一人でピッチを切り裂ける実力の持ち主だった。小鳥遊に掻き回されたから、Bad Boyzは後手を踏んだ。だからその誤算が二度とないよう、もう一人の「新しい選手」をしっかりマークしてきたのだ。
桜峰のキックオフで始まった二本目、遠藤から阿部にパスが渡った瞬間、彼らは一気に間合いを詰めてきた。未知数の選手に対し、まずは全力で当たってきた。そんなおっさんらしからぬ猛烈なプレッシングに遭った阿部は、小西へのバックパスを選んだ。
だが。
「っ!」
「あ!」
「うそ!?」
阿部がダイレクトで出したボールは、蝿が留まりそうなほど弱々しいものだった。きちんとミートせず、親指の先で蹴ってしまった。
ーー腰が、引けてる。
あっと言う間にボールを掻っ攫われる。阿部はその背中を、一度躊躇して、それから追いかけた。だが、もう間に合わない。独走態勢に入った坂田のおっさんは、力にモノを言わせてキックする。右四十五度からのシュートはニアサイド、小西の左脇横を抜けてゴールに捻じ込まれた。小西の身体を投げ出したブロックも、一歩及ばなかった。
Bad Boyz、二本目開始早々に得点。
「……」
「あ……」
「……ふぅ」
起きてはならないミスが起こったことで、上り調子だった桜峰の雰囲気が墜落した。先制されたとか、立ち上がりにやられたとか、こちらのミスで起こったなどなど、色々と要素はある。だが一番大きなものは、交代で出てきた阿部のプレーが「責任逃れ」だったことだ。
厳しいプレスを受けた阿部は、その時点でボールを奪われる可能性がとても高かった。それはもう、奪われても仕方ないと思えてしまうほどに。だが、どんな理由、状況であれ、ボールを奪われていいわけがない。詰めてくる選手を手や身体で抑えてキープするか、いっそのこと外に出してプレーを切るか。とにかく何らかの対処をしなければならなかった。ターンオーバーされるという事実を変えられないならば、できるだけこちらの不利面が小さくなるプレーを遂行すべきだった。
だが、一連の阿部のプレーはどうだったか。遠藤からの横パスを受ける前、阿部はすでに小西にパスをするために後ろ向きになっていた。最初から自分の力で切り抜ける発想を持っていなかったのだ。完全に小西に任せっきり、もっと言うなら、丸投げしている。
阿部と小西の距離は近く、阿部はバックパス以外の選択肢を持ってないのが丸わかりな態勢。相手は迷うことなく小西にまでプレスをかけられる。それでは結局、ボールを失う選手が阿部から小西に変わるだけだ。
阿部は、自分ではどうしようもないと判断して、仲間に押し付けた。そのせいで仲間がより困ることを知っていながら、だ。それが「責任逃れのプレー」。選手が絶対にやってはいけないプレーの一つであり、ピッチ上で最も恥ずべきプレーだ。これでは何のために選手がピッチに立つのかがわからなくなってしまう。
自分のプレーに責任を持つのが選手ならば、あの瞬間、阿部は選手ではなかった。
ーー何がどうしてああなったの……?
選手達の戸惑いが無音で漂う。阿部を見る目が迷いに満ちる。阿部は素晴らしい選手だ。そんなことは彼女達が一番わかっている。だからこそ、目の前にいる阿部が本当にいつもの彼女なのかどうかわからなくなる。責任逃れのプレーは、選手の信頼を一発で奪うほど忌避されるものなのだ。まだ試合は始まったばかりだというのに、選手達は気持ちの整理がつかなくなっている。信頼の大きさが仇になったか。
ーーショック受けすぎだ。繊細って柄じゃないだろうに。
微妙な沈黙の最中、阿部の横顔は冷凍されていた。自分のゴールを見つめているような姿勢だが、瞳には何も映っていない。小刻みな呼吸が肩を上下に揺らしている。明らかに様子がおかしかった。
人工芝の沼に沈んでいきそうなその姿に、俺は既視感を覚えた。
「ちょっと」
その時、久保が阿部の元に駆け寄った。キャプテンの瞳には鋭い光が宿っていた。一歩気圧される阿部に、久保は力強く言う。
「切り替えましょ。皆んなも、ほら。十分時間はあるから、落ち着いて」
「え、あ……」
「そんな、何もかも終わったみたいな顔しないで。ほら、行きましょう」
久保は小西からボールを受け取り、センターサークルで待つ仲村に回す。阿部から伝染した冷たい空気は、すでに消えようとしていた。
これもまた、いつか俺が見たのと同じ光景だった。崩れかけたチームを、おかしくなりそうな空気を、久保が声をかけて立て直す。彼女の凛とした声は、不思議と広く大きく届いた。
だが。
「……」
そこから一時間半、阿部のパフォーマンスが向上することはなかった。チームの主役になれる選手の不調は大きく響き、桜峰はBad Boyzに七点差をつけられて敗北した。
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