第3話

「天使か死神かなんて些細な違いです」


 ルシファーが遠くに目を向けて言ったことが思い出される。


 彼の踏み出した一歩が水面みなもにさざ波をたてた。


「天使が上で死神が下? 名前に神がつくから死神が上? 馬鹿げた話です」


 ゆっくりとザイオンの回りを歩きながら話を続けるルシファー。


「この世界に形を成した瞬間にどちらかの属性を持つだけのこと」


 ザイオンの脇で立ち止まったルシファーが、ザイオンの銀灰色の翼に触れた。愛おしそうに撫でて一枚の羽をグイと引き抜く。


「くっ…!」


 ザイオンはそれ以上の声を立てぬようぐっと堪えてルシファーを鋭く見つめたが、ルシファーは意にも介さず楽しげに笑い指先でクルクルと羽を回している。


「それは死神の育ちやすい大地に死神の種が芽吹いた様なものだろう? 時々、その大地に天使の種が芽吹くことがある。天使か死神かに関わらず誰の中にも幾つかの芽吹きがある、どの才能が延びるかは本人次第」


 ザイオンから引き抜いた銀灰色の羽を空にかざし、細かな光を放つ様を楽しげに眺めながらルシファーはそう言ってさらに続けた。


「せっかく芽吹いた物をその大地に相応しくないという理由で引き抜くのは・・・私は好きではない」


 ザイオンの耳に唇を寄せて、愛の言葉を語るようにルシファーが囁く。くすくすと笑い羽で自分の頬を撫でながら、ルシファーは天を仰いだ。


「かと言って、手厚く育てようとも思わないがね」


 一瞬、天に鋭い眼光を投げてルシファーは目をそらした。


「枯れるならそれまでのこと。枯れずにある程度育った苗ならばそれに合った大地に移してみたくもなる。合わぬ土地で育ったのだ、合った土地ならどれほど立派に育つものか・・・知りたくはないか? 私は知りたい」


 ルシファーが手にした羽をザイオンの翼に撫でつけると、羽は何事もなくザイオンの翼に馴染んで彼の一部に戻った。


「あわぬ世界で育つ苗を可哀想に思ったのですか?」

「可哀想? 可哀想だって?」


 目をくるりとさせて肩をすぼめ、ルシファーはまたザイオンの回りを歩き出した。


 右手の人差し指を立ててクルクルと回し何かをたぐり寄せるような仕草。彼が言葉を選ぶときによくそうしていた・・・とザイオンは遠い時間が引き寄せられる思いで見つめた。


「コップがコップとして使われなければ可哀想か? 花瓶として花を生けられたら? 筆洗いの水入れに使われたら悲しいか? コップとして生まれたのに使われず棚の中に飾られたままは可哀想だろうか?」


 ザイオンはただ黙って聞いていた。


「可哀想、悲しい。コップは何も思いはしない。・・・・・・思うのは人だ、お前は人に寄り添う事が似合っているね。だが、死神だった自分を可哀想だとか悲しいなどと思った事も無いのではないか?」


 そっとザイオンの肩にルシファーの手が触れた。


「死神は人に添いはしない。未練のある魂を地上から剥ぎ取り、分岐点の魂を説得はしても魂が死を選べば連れ帰るだけ。もし、あのまま地上で過ごしていたら・・・などと思ったりはしない」


 ザイオンは目を落とした。その瞳は地上ではなくかつての自分自身を映していた。


「あの子は・・・ウラルは、お前によく似ているよ、ザイオン」


「・・・だから、堕とすのですか?」

「堕ちたらどうだというのだ?」


 眉間にしわを寄せるザイオンの翼が微かに震えた。


「彼に問うたのですか? 答えを聞きましたか? 指南は?」


 ザイオンのさまよう言の葉をルシファーは黙って受ける。


光白色こうはくしょくの羽は生えませんでしたが、あなたの銀灰色の翼も美しくて好きですよ」


「彼は天使になりたいと言ったんですか?」


「天に流れる魂の川をウラルは見ることが出来ない、あの煌めきを彼は知らない。あれを見られないのは悲しく思いますよ。ウラルは地上の人々を気にして思いを馳せ・・・・・・とうとう選の仕事を忘れてしまった」


「・・・!」


 ザイオンは目を見張った。自分自身が死神だった頃に幾度もひやりとした事を、あの幼い死神はしてしまったのか・・・と。


 ルシファーは遠くを見つめながらそっとザイオンに言葉を掛ける。


「後悔してるか? 死神がよければ直ぐにでも戻せるが?」


 ザイオンは黙った。


「彼が根を上げて死神に戻りたいと泣き喚くようなら、私は拒むつもりはないよ」







(拒むつもりはない・・・か)


 ルシファーの言った事は本当だろうか・・・と思い言葉を心でなぞりながら、寝息をたてる少女の穏やかな顔をザイオンは愛おしく眺めた。


(私が天に戻りたいと願ったならルシファーは戻しただろうか?)


 絶望や悲しさ、そして羽の生まれ変わる苦しさと喜び。


 様々な苦闘が思い起こされた。

 しかし、何よりも忘れがたいのは柔らかな光の玉を初めて授かったときのあの極上の幸せ。


 この命のために我が命を落としても構わぬと思う強い感情。これ程の強い思いを死神の時に味わったことがあっただろうか? いや無い・・・と思いいたる。


(堕とされた後、私はルシファーに助けを求めなかった・・・)


 どんなに苦しくても人の側に居られることが嬉しかったのだ。彼らの行く末を見つめ共に荒波を受けて体験することが楽しいと感じるのだ。


 羽の生える痛みも自分らしくなっているのだという喜びになっていた。人に寄り添い彼らの見る物を見、心の移りゆく様を見つめ感じ語りかけ、人によって天使の姿へと成長できた。


「天使様、彼女の顔をもっとよく見てみたいのですが・・・側に近づいてもいいですか?」


 ウラルの願いにザイオンは黙って頷いた。

 ザイオンはそっとベッドに近づく少年の背を見つめ、壊れそうな細い翼に一枚の羽を見止めた。それは真っ白な羽だった。


 ルシファーの采配は間違ってはいなかったのだろう。例えそれが本人にとって胸をえぐる冷たい槍のようであったとしても、黒い翼から変わった今の喜びは死神では得られぬ喜びとなってザイオンを輝かせていた。



「彼には君がついている。・・・君にハーフエンジェルがついていたように」



 ルシファーが最後に言った言葉にザイオンはある天使を思い出していた。


 ザイオンが堕ちた遠い日に、今のザイオンの様に疎ましそうに黙ったまま側にいてくれたあの天使を。白い翼と黒い翼を持った変わった天使だった。


(ああ・・・)


 彼も・・・とザイオンは思った。

 ルシファーに彼も堕とされたにちがいない。そして、後から堕ちてきた死神崩れを押しつけられた・・・と。


 独り立ちしてだいぶ経った頃に再会した時、ハーフエンジェルの黒い方の翼には斑に白い羽が生えていた。


(彼にも誰かがついていただろうか?)


 ・・・とハーフエンジェルが地上へ降り立った当時に、彼に心の拠り所があったのかどうかと思い切なくなる。そして、彼の様々な言葉を表情を思い出して初めて深い感謝の感情を胸に抱いた。


「天使様!?」


 ウラルの声にザイオンの心がこの場に戻った。


「翼が・・・!」


 彼の指し示す先はザイオンの背だった。

 翼がどうしたのかと広げてみると世の明け切らぬ暗い病室が真昼の明るさを越えた輝きに包まれた。


「・・・ああ! 神様!! 天使様!」


 天の輝きに照らされて、寝ていたはずの少女の母親が目を覚まし声を震わせて手を合わせていた。


「この子を救ってくださって、有り難うございます! ありがとうございます」


 ザイオンは驚きすぐさま翼を閉じたが、母親はしばらく手を合わせたまま見えぬザイオンへ感謝し泣き続けていた。


 ウラルはザイオンの側に駆け寄り、仄白く輝く翼に見ほれてつい手を伸ばしていた。そっと触れた翼はことのほか柔らかくウラルの心を優しく包む様だった。


「天使様、こんな・・・こんな優しい翼を僕は今まで見たことがありません」


「ザ・・・ザイオンでいい」


 微かに頬を染めてザイオンはさっと翼を隠した。

 そんな2人の姿を部屋の隅で静かに見つめていた者が、そっと明るい場所へ歩み出て声をかけた。


「恥ずかしがることはない、素晴らしい翼だよ」


 輝く光白色の翼と銀灰色の翼を持った天使だった。


「アーク! 何故ここへ!?」


 彼こそ先程までザイオンが思い出していた天使。堕ちたばかりのザイオンと時を共にしたハーフエンジェルだった。


「大変なことになったと彼女から聞いたものだからね」


 その言葉とは逆に穏やかで幸福に包まれた表情で語るアークの背後から、女性の姿をした天使が顔を覗かせた。


「だが・・・素晴らしい瞬間に立ち会うことが出来たようだ」


 そう言ってアークはザイオンを優しく抱きしめた。

 冷たく寡黙だと思っていた天使の思いもよらぬ行動に驚き戸惑ったザイオンは、気恥ずかしさの矛先を別の天使へと投げる。


「しゅ・・・ 守護する者から離れたのか? 」


 アークの背後で舌を出している彼女は母親の守護天使だった。


「ほんのちょっとよ」


 彼女はそう言ってウインクするとウラルへ手を差し出した。


「よろしくね・・・うらる?」


 ウラルは人をまねた挨拶にぎこちなく応じる。


「あまり仲良くしない方がいい。また戻るかもしれないぞ」


 ザイオンはそっぽを向いて憎まれ口をきく。


「戻ったとしてもいずれ出会うこともあるでしょ? ねぇ~」


 そんな他愛もない会話に微笑んで、そっとアークの姿は消えていた。





「ルシファー様」


 じっと雲の切れ間から地上を見下ろすルシファーに死神の司が声をかけた。


「また死神の数が減りました」


 言わずとも分かることを・・・と思いながらルシファーは嬉しそうに地上を見ていた。


「人の営みも見ていて飽きませんが、天界の営みもまた面白いものですね」


 そう言ってルシファーの見上げる先に、灰色の翼の天使が舞い降りる姿が捉えられていた。


「人材は無限だ、私の囁きに応じて仲間が降り立つようですよ。司よ・・・この世の全てが巡り織りなす創造の産物を片目で見てはいけない。型にはめず色を付けず受け入れよ」


 言葉を言い終える間もなくルシファーは光砂こうさとなり姿を消した。


「また天使から羽をむしり取るのですね・・・。悪趣味な・・・」


 そう言いながら、司は黒い羽を一片ひとひら落として後を追った。




 □□□ 終わり □□□






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墜ちた死神の行く末 天猫 鳴 @amane_mei

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