第2話

 どれ程の時間丸まったままで居たのかウラルには分からない。長く感じたその時間も、実はほんの短い間なのかもしれなかった。




「いつまでそうしているつもりだ?」


 目を閉じ頭を抱えて丸まるウラルに誰かの声がかかる。聞き覚えがあると感じて恐る恐る顔を上げたウラルは声のする方へ顔を向けてみる。


 少し離れた所に銀灰色ぎんはいしょくの翼を持った黒髪の天使がいた。壁に寄りかかってこちらを見ながら立っている。


(天使だ!)


 数メートルの距離はあったがウラルはこんなに間近で天使を見るのは初めてだった。


 死者を迎えに行くときには既に天使は側にはいない。

 自殺しようとする者の側にもいなかった。そもそも天使が側に付いていられるなら自殺などさせはしない。天使を遠ざける何事かが起きてその状況に至ってしまうものだから・・・。


 それに・・・。

 天使と死神は基本的に住む世界が違い、互いを見ようと意識しなければ見えるものでもなかった。



 天使は床に転がったままのウラルをうとましそうに見下ろしていたが、数秒目を合わせただけで目線をはずした。


 端正な顔立ちだが冷たい印象の天使は20代位の男の姿をしている。


 ゆっくり体を起こしたウラルは彼が目を向ける先を目で追って立ち上がり、はっとした。彼が見つめていたのはあの少女だった。ウラルが天へ連れ帰ってしまった少女。


 病院のベッドに横たわる小さなその姿にウラルの胸がまたきゅっと痛みを伝える。ウラルは右手を胸にあてそっと見つめた。少女の頬は桜色に染まり、幸せな夢を見ているように思えた。


(あぁ・・・良かった・・・)


 また熱い水がウラルの頬を伝って落ちた。


 ベッドに横たわる少女と、傍らで眠りに落ちる女性の姿があった。彼女の顔に疲れた様子が見て取れるが、寝顔は穏やかで幸せそうに見えた。


 ウラルは泣き顔と笑顔の混ざった表情で天使に振り返った。・・・が、すぐに苦しそうな顔になってほろほろと涙をこぼす。


(そうだ・・・あの時の声だ!)


 聞き覚えのある声のはずだ。


(あの子を押し退けたあの時、僕に掛けられた制止の声を覚えてる。あれは彼の声だったんだ)


 彼がこの子の天使だとすぐに分かった。この子の側に付き添い助言し、少女のより良い人生のために傍らにいたのだ。


 ウラルはまた後悔の念が湧いて来るのを感じて胸を掴む。



 僕はなんて事をしたんだろう。

 彼からこの子を奪ったんだ。

 僕は彼に何と謝ればいいんだろう。



 次々と自分を責める言葉が浮かぶ。


 今更ながら考えのつたなさに気づき、ウラルは言葉を探して溢れる涙を止めることすら忘れていた。天に連れ帰ればいいと軽く考えていた事を今更ながらに後悔した。


「やめてくれ。何も聞きたくない」


 歩み寄ろうとするウラルに天使は両手を向けて目を閉じた。苦悶の表情だった。

 ウラルは激しく首を横に振った。


(ルシファー様は謝罪の機会を与えてくれたのだ)


 ウラルはそう思った。


(どんなに拒まれても僕は彼の羽先に触れる許可を乞わなくては!)


 ウラルは天使の前に片膝をつく。


「止めろと言っているだろう!」


 天使は少女と母親が目を覚ますとでも言いたげに、声を落としてそう言った。


「でも・・・!」

「謝罪なんて聞きたくない」

「でも、僕は謝らなくちゃ・・・!」

「いい加減にしろ」


 天使はウラルの頭に手をかけて顔を伏せさせた。


(そんな顔で見るなよ・・・)


 天使は心の中で唸る。

 眉間にしわ寄せて天を見上げ、うんざりした顔で「ルシファー」と呟いた。


 天使のため息のような声を耳にしてウラルは俯いたまま目をきょろきょろとさせた。ルシファーへ敬称無しの呼びかけなど死神の世界では有り得ない。天使なら許されるというのだろうか? むくむくと疑問が浮かび始める。


 ウラルの頭に乗せた手から彼の意識が流れてくるのを感じて天使は困惑する。


「・・・まったく。ルシファーの言う通りのやつだな、お前はッ」


 天使ルシファーを知っている事に驚き、当然かと納得する。知っている事よりも自分にについて何か会話があった事にウラルは驚いた。いったい何が話されたのか。


(この天使様はルシファー様へ直に抗議をしたのかな? それとも、ルシファー様直々に彼へ謝罪が? 直々に?!)


 ルシファーに頭を下げさせてしまったのかと畏れおののき、ウラルは血の気が引くのを感じた。


(天使はルシファー様に直に会えるものか? この方はいったい・・・)


 顔を上げようとしたが天使の手はまだウラルの後頭部を押さえつけたままだった。


「許しを乞いはもういい、止めてくれ」


 その言葉にぴたりと動きを止めるウラル。


「何も言うな。いいか?」


 天使の言葉に怒りはなく、むしろ許しを感じさせる声音こわねだった。ウラルは躊躇ししばらくの間があって、こくりと頷いた。


 本当かと見つめる気配が掌から伝わる。ほんの少しの間の後天使の手がそっと除けられた。


 ウラルがゆっくり顔を上げると、天使は初めて見た時と同じ立ち姿で壁にもたれていた。それは、一時たりとも少女から目を離したくないと言わんばかりの気配を感じさせた。


 ウラルは怖ず怖ずと天使の横に並び、天使に習って少女へと目を向ける。


 微かな寝息の他に音はなく静かに時が流れた。

 ウラルが天使を見上げると、天使が少女へと顔の向きを戻したのが分かった。






「驚かせてしまいましたね。怒ってますか? ザイオン」


 天使ザイオンはルシファーの言葉を思い出していた。


 守護対象が天へ上れば必然的に天使も地上を離れる。あの時、少女を失いザイオンは天と地獄の狭間の水面みなもに立っていた。


 突発的な出来事を整理し、まず初めに何をすべきかと考え始めた直後にルシファーは現れたのだった。


「元気そうでなによりです」


 ザイオンにかけられたルシファーの声は深く優しかった。


 微笑むルシファーの金色の髪が光を受けて輝きを増しザイオンは目を細めた。眩しさを隠すように軽く会釈をする。


「彼女は戻しましょう。 シナリオに無かったことが起こってしまいましたが、今回のことは大きく影響はしませんよ」


「シナリオ?」

「大した事ではありません。ちょっとした影響はありましたけどね」


(また何を企んでいるのだ!?)


 ザイオンが警戒する。そして鋭く言葉を返した。


「影響があるかないかではなく、死神が間違いを犯したことが問題なのでは?」


 ルシファーは花でも愛でるような微笑みをザイオンに向ける。


「彼女を守れなかった守護天使の過失については、どうでしょうねぇ?」


 水面の遙か彼方を見やりながら、甘い声で囁くようにルシファーはそう言った。


「・・・あの子はまるで人の子のよう」


 直ぐに「あの子」が誰を指すのか思い当たった。ザイオンは一瞬しかウラルを目に捉えることは出来なかったが、ルシファーの指す「あの子」の小さな背を思い出した。


「好奇心旺盛で知りたがり」


 そう言ってくすりとルシファーは笑う。


「あの子を側に置いてはくれませんか?」


 何を言い出すのかとザイオンは目を白黒させた。


「死神との契約・・・と言うことですか? そんな事しなくても・・・」


 そんな事をしなくても死を迎えれば死神とバトンタッチだ。

 しかし、ルシファーは掌をひらひらと振った。


「ザイオン。天使になって少しは柔らかくなったと思っていたのに笑顔も見せてくれないし、物事を難しく捉えようとする所は変わりませんねぇ」


 ルシファーが困った子だとでも言うような表情でザイオンを見つめる。


「ただ側に置いておくだけでいいのです」


 ザイオンは眉間にしわを寄せてルシファーを見つめ返した。


「そうですねぇ・・・あの子の夏休みだと思って連れ歩いてください」


 呆れて首を振るザイオンにルシファーも楽しげに首を振る。


「断れると思うの?」


 少女のような笑顔でザイオンの瞳を覗き込む。こんな時のルシファーはまるで悪戯な小悪魔だ。


「何もさせなくていい。何も教えなくていい。簡単でしょ?」


 何を企んでいるのか分からず、ザイオンは断る理由を探しあぐねる。


「人の側にいる・・・と言うことは、天使になるという事ですか? それならばミカエル様とはお話を?」


「・・・それは本人次第だ」

「本人次第・・・?」


 一瞬、真顔を見せたルシファーは直ぐに微笑みを浮かべた。


「何色の羽が生えてくるか楽しみですね」


 ザイオンの表情が険しくなる。


(私にした事と同じ様な事をまた!)


 腹立たしさと悲しさがザイオンの中に大波を起こす。


「おやおや、本当に天使らしくなって」


 ルシファーが嬉しそうな顔をする。


「人に近づきすぎて人の様な感情を持つなんて、本当に天使は面白い」


 楽しそうな表情とは裏腹に冷淡な気配を放って彼はそう言った。





 物思いを止めたザイオンは自分の肩にも届かぬ背丈のウラルを見下ろす。そして、その背に目をやって切ない表情を浮かべる。


 殆どの羽が抜け落ちて棒切れの様になった翼が痛々しかった。


 役目もなくただ地上にいるだけの日々をこの子はどう過ごしていくのだろうと、小さな存在の行く末を思わないわけにはいかなかった。

 何もしなくていいと言われたところで何も教えないわけにもいかない。何よりウラルの知りたがりは止め処も無さそうだ。




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