墜ちた死神の行く末

天猫 鳴

第1話

 死神の少年ウラルは高いビルの屋上に居た。


 柵の外側で足をぷらんと揺らしながら座り来るべき時を待ってその場にいた。なんとはなしに見ていたはずが、眼下に広がる景色に興味をそそられ瞬きすら忘れて見つめていた。


 彼は待つべき時刻よりも早く所定の場所へ向かうのが常だった。


 それは仕事に忠実だからとか真面目だからとかそう言う理由ではなかった。ただ、人間の世界を眺めることが好きだったから。


 人は常に動き回り何かを考え地上という呪縛の上で日々を過ごし、一定の時間を過ごして天へと帰って行く。長いようであり短いようでもあるその一瞬を、流星のようにもがきながら生きていく。ウラルにはそれが不思議だった。


 苦しみにより輝く魂や喜びによって輝きを増す魂を知っているけれど・・・。


(神の作り上げたこのシステムの真の目的とはなんだろう?)


 彼らの営みはまるで時を織る様に、行きつ戻りつ互いに織りなす出会いと別れの積み重ね。織りあがるとき何が創造されるのか。





「汽水域・・・」


 ふと、先輩の言葉を思い出して口にしてみる。


『この世は、天国と地獄の間にある汽水域のような場所なんだよ。人の心次第で天国にも地獄にもなる、不思議な所だ』


 先程まであった夕日も落ちて、今では地平線に近い場所がわずかな光の面影を深い青色に留めている。建物や車の放つ沢山の灯に人々を重ね合わせ、彼らの心が万華鏡の様に瞬時に変わる様をウラルは思いだしていた。


 その時、目の端に動く者を捉えてウラルははっとした。


 陰はゆっくりと地面へ落下していった。ウラルも咄嗟に外壁を蹴って後を追った。





「・・・今、何と言った?」


 低く押し殺した声は足元に振動を感じさせ、地を伝ってウラルの足から這い上がってくるように思われた。ウラルは身を縮ませ顔を上げる勇気も持てず足元に目を落とす。


「す・・・すみませんッ! あの、その、迷わせるよりはと思って・・・・・・」

「ああッ?!」


 お怒りはごもっともです、申し訳ありません。すみませんでした。心の中で何度も繰り返してみても、喉を締められたように声が出てこない。


 ウラルはひたすら上司と床の間で目を泳がせているばかりだった。


 少年の姿のウラルを死神の黒い制服が小さく見せるのに、今では蟻のように小さく見えそうな程縮こまり立ち尽くしていた。そんなウラルの袖を握りしめ半分隠れながら少女が脇に立っている。


 少女にチラリと視線を送っただけで、死神のつかさ忌々いまいましそうにウラルへ二の句を継ごうと口を開きかけた。


「どうしたのです? 大きな声で。天国まで届きそうですよ」


 そこへ現れたのは天使ルシファーだった。


 天から降り注ぐ光の様に柔らかく穏やかな声に、ウラルは背筋を伸ばし直立不動の姿勢で顔を真っ直ぐ前に向けた。


 ウラルの様子に隣に立つ少女も同じ姿勢でルシファーを見つめていた。それは敬愛からくるのか畏怖からくるのだろうか。


 死神の司が道を空けるように脇に一歩下がり軽くこうべを垂れる。


 ルシファーは一瞬少女に目を向けたが、それ程関心なさげに死神の司へ話しかけた。


「死ぬべきでない者を連れて来てしまったのですね」


 意外に楽しげに聞こえる声にウラルは少しほっとしたが、死神の司は顔色を変えた。


「申し訳ありません。自殺を選ばせないどころか、こんな事まで・・・」

「怒ったところで仕方のないこと。去った時は私でも戻せません」


 さらりと言うルシファー。


「それはそうですが、ウラルは自殺の説得をする事すら忘れております。説得に失敗したのも3回目ですし・・・」


 チラリとルシファーの目がこちらに向けられたことに驚いて、ウラルは目を左右に泳がせた。


せんにするには早かったのでしょうかね」

「あ、いえ。それは・・・」


 死神の司は言葉を濁した。役職を与えるのはルシファー、はいと答えてしまっては天使の過ちを指摘するようなもの。



 死神には二つの役職がある。


 一つはどう

 天寿を全うした者、或いは役目のある死を迎えた者を天界へ導く役職。


 もう一つはせん

 死と生の分岐点で生きる未来を選ぶよう説き伏せる役職であり、死を選んだ者は天へと導く役目を担っている。


 導の上の役職が選だ。

 天寿を全うした者は大抵素直についてくるので、駆け出しの死神に与えられる仕事だった。ウラルは下界に留まろうとする魂を二つ天へ連れて来ることが出来た事を見込まれて昇格が決まったのだった。死神の中では早い役職替えとなった。


「投身自殺を止めさせる事に失敗して慌てふためき、下で巻き添えになるわけでもない人間を助けようと車道へ突き飛ばしてしまうなど前代未聞」


 再び死神のつかさの声に怒りが混ざり始める。


「困ったものですねぇ」


 ルシファーの声は至ってのんきなものだった。


「ウラルは今回で3回立て続けの上、今回は説得すらせずしかもっ・・・!」

「3回続くと悪目立ちしてしまいますね、ウラルさん」


 優しく微笑みかけるルシファーにウラルの緊張も和らぐ。


「ルシファー様。そんなにお優しくては困ります」


 眉間にしわを寄せて話す死神の司とのんきそうなルシファーの会話は、まるでお坊ちゃまとそれに付き従う爺の様。


「あなたも確か・・・、選の時に8回失敗していませんでしたか?」

「そ、それは千年勤めている間の事で・・・」


 死神の司の困った顔を面白がりルシファーが楽しげに笑った。世界に金色の花が咲いた様な、華やかな空気が辺りを包み込んだ。


 彼らが立っているのは柱の立ち並ぶ広間かと思うほど幅広の廊下。


 高く伸びる柱は何処まで続いているのか、光も届かず天井がそこにあるのか天界へ続いているのかさえ判別のつかない闇があった。そんな闇の多い廊下がルシファーの笑い声一つで明るくなった気がしたのだ。これが天使の力だろうか?とウラルはルシファーを見つめる。


「・・・綺麗」


 ふいに少女がそう言った。少女は頭上に広がる闇を見上げていた。ウラルは少女と同じように見上げ、首をひねった。


(こんな闇の何処が綺麗なんだろう?)


「綺麗でしょう。あなたは天寿を全うしてあちらの入り口へ向かうべき人だから・・・分かるんですね」


 ルシファーの言葉に心がザクッと音を立てて裂けた気がして、ウラルは自分の手を胸に当てそっと声の主に目を向けた。


「彼女は、天の川のような煌めきを見ているのですよ」


(天の川? 煌めき?)


 聞いたことのない単語にウラルは曖昧な笑顔を作ってルシファーを見つめた。


 ルシファーがそっとウラルの顔に手をかざした後、また顔を上へ向けた。それに習ってウラルももう一度顔を上げる。


「あれは皆、魂の輝きです」


 静寂に似たルシファーの声と初めて見る光景に、ウラルは目を見張った。


 先程の闇が嘘のような眺め。

 砂金の様に細かな光の帯が頭上にあった。長い廊下の上を光の川が流れている様は余りに美しく、ずっと眺めていると宙に浮いた感覚に呑まれてしまいそう。


 時折、流れ星の様に魂の光が筋を引く。


「堕ちていきます。天へ上れず地獄へ向かう魂の涙」


 ルシファーの顔を覗き見てウラルははっとした。


(なんて悲しげな瞳だろう)


 金色に輝く長い髪に引けを取らず美しい瞳。ルシファのその琥珀色こはくいろの輝きに、光るものを見た気がした。



 永遠に似た束の間、皆でそうしていた。


「・・・さて」


 ため息の様なルシファーの声に3対の目が彼へと向けられた。


「選として生を選ばせる事が出来ないこともあります。許しましょう」


 ルシファーはウラルへそっと笑顔を向けた。


「でも、死ぬべきでない者を連れて来てしまうのは・・・」


 微笑みを湛えたルシファーが一歩、ウラルへ近づいた。何故だかウラルは、思わず足を引いた。


「良くありませんね」


 優しい笑顔を見せるルシファーは、さらに一歩近づいて来る。


「何か・・・」


 ウラルの右頬にルシファーはそっと左手を添える。

 死神の司がゴクリと唾を呑む音がした。


 明るかった世界からすうっと光が失われていくのをウラルは感じた。ルシファーが微笑む前よりもずっと暗くなった様だった。


「罰を与えねば・・・なるまい?」


 ルシファーの目が死神の司の立つ方へ微かに向けられた。それは一瞬のこと。


「は・・・はい。それは、そうです。・・・ですが」


 ルシファーはウラルの瞳を見つめたまま死神の司の言葉を右手で制した。

 心底ぞっとしながらも、ルシファーの瞳に見入られウラルは目をはずすことが出来なかった。


「堕ちてみるのも、いいかもしれませんね・・・」


 すっとルシファーの瞳が細くなったその瞬間。


 ウラルの体重を支えていた物が足下から消え失せていた。


 咄嗟に背に隠していた黒い翼を打ち振った。だが、それは意味を成さなかった。


 打ち振る翼は空気を捉えること叶わず。差し出した手は虚しくくうを切った。


 見る見るうちに視界に映る物が小さくなり空気にかすれ見えなくなっていった。やがて雲を切る音を耳にして、ウラルは焦った。




(落ちる! このまま落ち続け地面に叩きつけられるの!?)


 成す統べもなく、ただいたずらに翼をばたつかせ続けることしか出来なかった。でも、無意味だと思ってもそうせずにはいられなかった。



 少女は?



 もがきながら辺りに目を配ってみたが、彼女の姿を捉えることは出来なかった。


 体中を叩きつける空気を背に感じながら落ち続け、翼から羽がほろほろと剥がれ散っていくのをただ見つめるしか出来なかった。




(僕は、見放されたんだ・・・!)




 ウラルは、自分の目から熱い水が溢れている事に気づいて驚いた。


 これは涙と言うものではないか、人の目から頬を伝って落ちる水じゃないか? ウラルは我が身に起こっている変化が信じられない。


 自然と両手が胸を押さえていた。

 初めて感じる感覚だった。

 胸の辺りがぎゅっと締め付けられて、ウラルは胸の辺りを握りしめて体を丸めた。広い空の中でくるくると回転しながらウラルは落ちて行った。


 何も出来ず丸まりながら頭の中を考えが巡る。



 飛べない死神。

 死神?

 翼が無いなら・・・それは人ではないのか?

 僕は人になるんだろうか?



 丸まったまま顔を上げて地上に目を向けた。大地に叩きつけられるまで、もう数十秒も時間は無さそうだった。


(飛び降りる死を選んだ人は何を思って落ちていくんだろう?)


 胎児の様に丸まってその時を待った。

 どれほどの衝撃を受けるのかじっと待っていたが、その時は訪れなかった。












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