白き貌
蒸奇都市倶楽部
一.人か魔か
ゴォン、ゴォンと、帝都中央に
世界最高峰の計算機が奏でる駆動音でもあり、帝都の支配者が上げる雄叫びでもある。
中央官庁街である
その間隙を縫うように、誰にも気づかれることなく敷地外へと疾走していく影一つ。
それに老館長が浮かべる表情といったら! この世に成せぬことなど一つとしてないのだと、万事はたやすいのだと確信したような満面の笑みを浮かべている。
人は顔の筋肉をこれほどまで巧みに動かすことができるのか。
まこと驚愕に値する
しかし追う警官たちもけして無能ではない。館長の姿が見えないと気付くやいなや、すぐさま報告を取りまとめ、数にものをいわせて想定しうる限りの経路へ包囲網を形成しはじめる。
機動隊と本部に常駐している回転翼機の航空隊まで動員しての
たった一人を追い詰めるには異様な規模であるが、国宝級の美術品をみすみす盗み出され、その上で取り逃がしてしまったとあっては警察の沽券にかかわる。ましてや、変装の名手として帝都中で話題になっている、さる怪盗が相手とあらば、追う方もなおさら必死だ。
美術館の倉庫で気絶した本物の館長が発見されたころ。
幾本も立ち並ぶビルヂングの狭間。
都市型供給機関が放つ蒸気が白く煙る都市の
白い暗がり――白い闇の中。
「ここまで追ってくるとは、なかなか優秀な班だ」
老館長がつぶやく。しわがれ声は
「優秀だからといって不幸を避けられるわけではないがね」
老人の尋常ならざる力によって、またたく間に昏倒させられていった同僚たちを前に、残された年若い巡査が色を失う。
老翁の
「いや、訂正すべきかな」
と老翁が言った直後、若い巡査も膝をついて倒れこむ。年老いた見た目に騙されてしまうのか、同僚たちと同じく意外なほど呆気なく倒されてしまう。おそらく何をされたのかもわからなかっただろう。
「優秀なのは君たちではなく、君たちをここまで導いた指揮官だと」
現場の警官たちが怪盗のもとへとたどり着けたということは、その足取りをたどり、指示を出した者が背後にいるということだ。彼が知る限り、それほどの手練れは帝都警察にはいない。
であれば、優秀な指揮官は警察の者ではないということになる。怪盗はすでにその者に当たりをつけていた。帝都広しとはいえ、そんな者は限られているからだ。
「そこまでにしてもらおうか」
彼が待ち詫びていた
だが、ここまで足取りをたどって来た、かの人物にも事情があるようだ。
「遅い登壇だね。美術館には姿がなかったので落胆したものだ」
喉を触りながら老館長が言う。声の質が深みのあるものから、若さを感じさせる張りのある滑らかなものへと変化していく。これこそが本当の声なのだろうか。
あふれる蒸気の向こう側、賊を追い詰めた女は油断せずにその姿と声を見極める。
「ならば落胆したまま盗品を置いていけ、変装野郎。怪人には顔を隠して目立ちたがる
怪人。
それは警察当局の手を逃れつづけている犯罪者の総称だ。通常の犯罪者とは異なり、総じて奇矯な者が多い。たとえばこの怪盗のように。
「まあ、常軌を逸していなければ怪人などと呼ばれはせんだろうが」
長くまっすぐな追跡者の黒髪が揺れる。無骨な軍用外套を肩にかけ、その下に着こむ背広は毒々しいほどに紅い。
端正な顔立ちではあるが、穏やかさとは程遠い目付きをしていた。
「帝都探偵協会に属さぬ身とはいえ、政府の連中から
肩をすくめる女性に、怪盗は
「これは意外や意外! 君がしがらみを語るのかね! 帝都において君ほど自由な探偵はいないだろうにねぇ」
怪盗が両頬をサッと撫でつける。深く刻まれていた老翁の皺がきれいさっぱり消えた。
口、鼻、目と順に撫でるたびに、声に見合った張りのある若々しい肌が現れていき、しまいには若白髪の男となった。老館長の若かりしころの面相だろうか。追跡者には判別がつかない。猫背気味だった背筋もいつしかぴんと伸ばされている。背負った鞄と羽織袴だけはそのままだ。
「まったく、探偵の前で堂々と変装を解いてみせるなど、やはり貴様は常軌を逸した変装野郎だよ、
「捕縛だって? はは、まさかまさか。協会が誇る碩学級探偵でさえも捕えることができなかった私をかね? 君を何度も出し抜いてきた私をかね?」
揺るぎない自信を感じさせる怪盗の態度に、探偵は顔を歪めて嘆息した。
「まったく、しがらみのせいで甘い顔をしていたらこれだものな。盗みしか働かぬ怪盗とはいえ所詮は怪人、しがらみなどという下らない枷にはめられて生け捕りに固執することもなかったよ。貴様はもう十分に帝都を荒らし回っただろう? そろそろ満足したまえよ」
探偵は冷然と笑って、手にした
無骨な大型の軍用拳銃。
いかなる怪物であろうと食い破るのではないかと思われる銃口が、不敵に笑う白髪の怪盗の脳天を睨みつける。牙をむいて飛びださんとする弾丸が怪盗を獲物と定める。同時に女の威圧感がいや増す。
「ああ! ついに《
「勘違いしてるんだこの野郎。捕縛するつもりで殺しにかかるんだよ。知ってるかぁ? 死体にだって縄はかけられるんだ。生きて捕縛できりゃ御の字、てな」
凶暴さを露ほども隠そうとせず、嬉々とした表情で
対する怪盗もどこか愉快そうであった。まさに自身の命が危機に晒されている、この現状を楽しんでいるかのように。
「さあ、今夜こそ捕縛させてもらうぞ。ま、死体にならんよう精々あがけ、怪人」
「ははは! はははは! 言ってくれるね、名探偵」
薄暗い路地裏。二人は
都市型供給機関が排出する蒸気の白い煙に包まれて。
銃声が響く。
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