四.目覚め

 展覧会場で手毬月てまりづき河原崎かわらざきが会話を交わした日の朝、東條百貨店の本店を切り盛りする支配人のもとに一通の手紙が届けられていた。出勤してすぐ、支配人は執務机の上に置かれた封筒に気付いたという。

『今夜八時 受け取りに参上

           白貌びゃくぼう仮面』

 短文ではあるが、効果は絶大であった。

 支配人は血相を変えて、店内に設置されている対策本部へ駆けこんだ。対策本部長の禰宜山ねぎやま管理官はすぐに増援を要請し、各署から数十名の捜査官が派されてきた。また、昼前には禰宜山から連絡を受けた手毬月探偵が現場に入っている。

 この日は警備関係者以外の展覧会場への入場および最上階への立ち入りが禁止され、百貨店も通常より早く営業を終えている。百貨店側は当初、売上の減少を懸念して展覧会場の閉鎖と短縮営業に難色を示し、対策本部をはらはらさせた。しかし午後になって当局の要請をのみ、営業時間の短縮に踏みきった。会期中に宝物を盗まれてしまい、後々まで店名に傷がつくのに比べると、一日限りの閉店の方がはるかに影響が少ないと判断したようだ。

 手毬月が現場を離れてからしばらくして禰宜山管理官が臨場し、河原崎が宝物と警備の最終確認を終えるころには日も没していた。夜には戻るといった手毬月はまだ戻らない。河原崎は失望したような顔つきで上司に探偵のすっぽかしを訴えた。禰宜山管理官は「なるほど困ったな」とうなずいて、自ら陣頭で指揮を執ると宣言した。


 午後七時半を過ぎても手毬月は戻らない。

 河原崎はなおも何か言いたげである。しかし彼女を召喚した禰宜山は、探偵の不在にめげず現場に張りつづけている。河原崎としても、直属の上司が取り乱さず沈着に対応しているのと、すでに手毬月の不在を訴えているのとで、それ以上なにも切りだせなかった。こうして手毬月が不在のまま時間だけが過ぎていく。


 予告の午後八時、それは突然はじまった。

 東部市の鐘楼しょうろう、百貨店の柱時計、それぞれが鳴らす八時の鐘が聞こえるなかに異音が混じる。ものが燃え盛るような、何かが送りだされるような、そして、まるで歯車が噛み合うような。

 帝都の人々にとっては実に聞き慣れた音だ。いや、聞き慣れすぎているので、いちいち意識しなくなってしまっているといった方がよいかもしれない。捜査官たちもそれが何の音か、すぐには判断できなかった。

 異音はいっときに同じ箇所から聞こえる。

 その場にいる誰もが音の発生源、今夜の警護対象である〈金泥こんでい五彩ごさい螺鈿らでん鋼櫃器こうびっき〉に目を向けた。

 アッ、と誰かが声をあげる。

 これまで用途さえわからなかった古代の宝物が、突きだした腕を振り回し、円形の可動部を複雑に回転させているではないか。円筒に接続する棒が上下をはじめる。その動作はまさにシリンダーであった。

 筒に描かれた花を、棒に描かれた鳥が羽ばたくように上下してついばむ。そのたびに、螺鈿らでんで形作られた深山みやまの影から、もくもくと山気さんきが湧きあがってくる。実際のそれは清澄な山気ではない。湯気と化した水蒸気と煤煙が混じりあったものだ。

 捜査官たちは唖然あぜんとして、古代の至宝が麗々と稼働するさまを見ていた。

 もはや彼らには、それが現代の帝都になくてはならぬ文明の利器、蒸気機関だとしか思えなかった。なぜ怪盗の指定した時間きっかりに作動しはじめたのか。水や火、燃料はどこから入れたのか。

 いや、そもそも本当に蒸気機関なのか。

 そんな当たり前の疑問さえ浮かばない。


 長い年月を経て、古代の遺物が目覚めつつあった。

 神聖な名を掲げた欧州の権威より、時の権力者に譲り渡されたという宝物は、自身を狙う盗賊を手招きするかのように操作桿レバーを振り回し、ブシュっと勢いよく煙を噴き出す。あっという間に展覧会場の視界が利かなくなった。

 何人かの捜査官はまともに熱風を浴びてしまい、驚いたりむせたりと散々だ。火傷を負った者もいた。河原崎はきこみながら、部下の捜査官たちに会場の窓を開け放ち換気するよう命じた後、禰宜山管理官の方を振り返る。

 だが、今しがたまでいたはずの禰宜山の姿が忽然こつぜんと消えていた。

「おい、管理官はどこだ」

 微弱ながらも夜風が吹き込んで、煙幕はゆっくりと薄まりつつある。まだ管理官は見当たらない。

 姿が見えないことで、場内の捜査官たちにふとした疑問がよぎる。

 現場にいた禰宜山管理官ははたして本物だったのだろうか、と。

 にわかに場内が静まり、男たちが顔を見合わせる。禰宜山管理官は本部から任命された対策本部の総責任者である。ならば彼もまた、白貌仮面の事件に携わる者として、本物かどうかの調査を当然受けているはずである。さて、誰が彼を調査したのだろうか。捜査官たちは互いに目配せした。俺は調べていない。俺も調べていない。俺もだ。捜査官たちの誰もが目でそう訴えていた。

「かぁっ! 特高の捜査官が呆けて見つめあっとる場合か!」

 河原崎が胴間声で捜査官たちを喝破し、捜査官たちの動揺を瞬時にすくいとる。

「伝令はすぐに本部と本署に問い合わせろ! 禰宜山管理官の所在をはっきりさせるんだ! 他の者たちは総出で捜索にあたれ! 会場から姿を消して時間は経ってないぞ、まだこの辺りにいるやもしれん。かかれっ!」

 号令一下、捜査官たちは即座に視線だけのやり取りで役割分担を決め、会場から飛びだしていく。応援を頼む野太い怒号と甲高い呼子よびこ、遠ざかっていく無数の足音。

 こうして展覧会場に残されたのは、命令を出して満足した河原崎と、いまだうごめく〈金泥五彩螺鈿鋼櫃器〉だけとなった。

 風は弱く、蒸気と煤煙はまだ晴れきらず足元にただよっている。

 ふいに河原崎が奇妙な笑みを浮かべ、煙を吐く宝物にゆっくりと歩み寄る。大仕事を成し遂げたいま、世の中に不満などないといった顔つきである。

 金と黒からなる鋼製の櫃を前に、河原崎はしゃがみこんで何やら作業を開始した。手で歯車を回したり引きだしたり押しこんだり。螺鈿の紋様を一つ一つこまめに調整する。貝殻と石を嵌めこんだ紋様が整えられていく。やがて男は手を放してうっとりと息をつく。

 そこに現れたのは、歯車状の表面にはめられた螺鈿によって構成された、色とりどりの花畑である。本体に描かれた深山とあわせて見れば、見事な一つの絵画となっていた。

 まだ冬の装いも濃い深山。それと対照的な幽谷ゆうこくに咲き乱れる五彩の花々。一足早く谷に訪れた、春を告げる鳥や蝶たちが花の間を飛び交う。花々は優しい風を全身にたっぷりと浴びて左右に身を揺する。

 山気を放つ山も、飛ぶ鳥も、風に舞う花も、いずれも可動部の装飾にあたるために動いていた。

〈金泥五彩螺鈿鋼櫃器〉、それは爛漫らんまんの春を余すことなく表現するために作られた、古代の動く絵巻物であった。

 丹精国が興った大陸北方の冬は、厳しい雪と風、荒波と氷に長いあいだ閉ざされる。そんな地域に生まれた丹精の王、すなわち中の初代皇帝は長い冬の手慰みに、春を待ちわびてこの宝物を愛したのかもしれない。

 河原崎はうっとりとした顔で箱が告げる春に見惚れた。


 十秒、二十秒……、時間が経過していく。


 やがて花が散るようにして、歯車の部分が順繰じゅんぐりにずれだす。

 そうして花畑の下から光輝く美しい宝石が出現した。夏の新緑を凝集したような深い色つきだ。その石のなかで、ときどき緩やかな光がきらめく。光を放つ一瞬だけ、複雑に入り組んだ迷宮のような模様があらわになる。

星辰せいしんのりにて聖櫃せいひつを開きしとき、智慧Sophiaは時の檻より解き放たれ、世俗の権力者Dominusくうとなる。……道化師の言った通りだな」

 面白くなさそうにつぶやいて、河原崎がいままさに緑色の宝石を手にしようとした、

 その瞬間にけたたましい銃声がして部屋の窓が枠ごと粉々に吹き飛んだ。

 ギョッとした河原崎の注意が宝石から逸れる。

「よぉ、しゃくにさわるが望みどりに来てやったぞ」

 凛とした声が男の表情をかき消す。

 その間も石を露出させた宝物の歯車たちが噛み合っては解けてを繰り返す。シリンダーは猛烈な勢いで往復し、操作桿は腕を振りおろしきり、やがて、上面が蓋のようにゆっくりと開いていく。

 壊れた窓際に立っているのは、ああ、いつ戻って来るのかと河原崎がしきりに気を揉んでいた当の碩学せきがく級探偵ではないか。長い真っ直ぐな黒髪を夜の中から引き揚げながら、河原崎を射殺さんばかりに鋭い目つきでにらんでいる。

 手には黒く獰猛な愛銃、マウザーMP989mp。二年前にグラン=ハンザ帝国陸軍で制式採用されたばかりの最新軍用銃だ。通常は拳銃として用いるが、付属部品をいくつか換装すれば短機関銃にもなるという欲張りな武器である。手毬月が持つものには円盤型弾装、銃床には使用者の脇に挟める延長部位がついていた。室内や路地での面制圧などで弾をばらまく必要があるときに付け替える装備だ。銃身そのものも連発に耐えられる太い規格に換装してあり、黒く長い顎門あぎとを河原崎に向けている。

「な、なんの冗談ですか。そんな物騒なものを向けて」

「特高の裏切り者を始末するのに銃を使うなというのかね」

「この宝石が気になっただけで、盗もうという気はありませんよ。私の命令の仕方が悪かったのか、みんなして部屋を出て行ってしまいましたからね。不用心ですよ」

「確かに不用心だな。特高の捜査官が揃いもそろって変装野郎のしょうもない仕掛けと下手な芝居に乗せられちまうんだから。蒸気が生む影でさえ利用するのが怪人だってのに。しかも警護対象の箱を黙って狙われているだけの可哀そうな宝物だと思いこんじまって疑わない。まさかその宝物が自分たちの捜査の邪魔をするなんて考え、みじんも持っていないんだからな」

 手毬月はちらりと床を見やった。

「ま、言い含めてやったのに身元確認を怠り、あげくみすみす毒牙にかかっちまう管理官の部下ならこんなところか。特高といえどしょせんは役人、脳髄まで煤にまみれてやがる」

 ようやく晴れつつある煙の中に、地味な背広を着た男が倒れている。

「さてさて、お芝居は、『そこまでにしてもらおうか』ってね」

「…………窓の外に待機していたとね。正攻法もそこまで突き抜けられると、対処に困るものだ」

 男は表情に笑みを取り戻し、ようやく河原崎であることを止めた。胴間声ではなく、張りのある滑らかな男の声に変わっている。

「夜までには戻ると言ったろう。私は探偵だぜ? 約束を守らなくてどうして商売ができる。で、約束といえばもう一つ」

 一週間前の路地裏と同じく怪盗の脳天に狙いをつける。


「死体にしてでも縄をかけるっつったよなぁ?」

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