1393.構文篇:説明文:色・形といった特徴を説明する

 今回は「説明文」についてです。

「説明文」とくに物の特徴を説明する文をテーマにしています。

 感じたものを説明するのは「感想文」ですし、なにか主張があれば「意見文」です。

 単に「いつ・どこで・誰と誰が・なぜ・どうして・どのように」を揃えた文は「報告文」にすぎません。

 つまり一人称視点の小説で「説明文」が求められるのは見たり聞いたりしたものを客観的に認識するときくらいです。





説明文:色・形といった特徴を説明する


 人間の五感のうち、最も情報量が豊かなのは「視覚」です。およそ七〇パーセントから八〇パーセントを占めているとされます。

 しかし小説や文章では書籍を見てもWebページを見ても「文字」しかありません。

 多くの情報量がある「視覚」に訴えかけるのが「文字」だけなのです。

「文字」だけで読み手の皆様が正しい情景を思い浮かべられるのか。

 工夫が必要です。




真っ先に色が飛び込んでくる

 色弱の方でないかぎり、視覚で最初に網膜に焼きつくのは「色彩」です。

 なにが書かれているか。内容ではなく「見た目の色」が印象的なのです。

 であれば小説や文章も色を駆使しましょう。

 とは言っても書籍に印刷される「文字に色を着けなさい」ではありません。

 たとえば目を閉じた状態から小説や文章が始まるのなら、見えるのは真っ暗なまぶたの裏だけです。

 そこからまぶたを開いて飛び込んでくるのは「色」であって、文字の内容や文意ではない。

 真っ白い部屋の中に「赤い薔薇」が一輪置いてあったら。最初に飛び込んでくるのは「赤いなにか」です。まず「色彩」が飛び込んできます。

 そして「色彩」の濃淡や形などから、それが「薔薇」だと記憶に照らしてわかるのです。

「色彩」は記憶ではありません。網膜が受け取った光そのものです。

 たとえ近視でも遠くにある物体でも「色彩」の違いは感じ取れます。ただピンボケで外形がぼやっとしかわからない。だから記憶に照らしてもなにかがわからないのです。

 この視覚情報の構造を知れば、小説に最も必要な要素が理解できます。

 そう。「色彩」を書くのです。

 単に「部屋の机の上に薔薇が一輪置いてあった。」と書くのが凡人。

「白い部屋の茶色い机の上に赤い薔薇が一輪置いてあった。」と少なくともこれくらいは書きましょう。色が三つ出てきましたよね。

 この文を読めば、まず頭の中が真っ白に塗られます。それが部屋の壁紙の色です。次に茶色いなにかが置かれます。机だとわかります。その上に赤いなにかがあるのです。それは薔薇だった。

 すべて「色彩」から入り、形を記憶と照合してどんな物体かを導き出しているのです。

 脳の機能がそう出来ている以上、まず「色彩」ありきで書きましょう。

 もちろんすべての物体や光の色を書かなくてもかまいません。その物体や光の色がさほど重要でないのであれば、「あえて書かない」のも小説であり文章です。

 たとえば真っ白い部屋ではなくログハウスの中だったらどうでしょうか。ログハウスの内装が真っ白なのはまずありえません。ログハウスは丸太を組み上げているからこそ価値があるのです。だから単に「ログハウスの机の上に赤い薔薇が一輪置いてあった。」のように、「あえて書かない」で読み手の連想に任せてもかまいません。自然と「色彩」が導き出されるのならそれに委ねてもよいのです。ログハウスは木の色を活かした内装ですから、部屋の中は茶色い木肌であり、机も木を用いたものだと導き出せます。しかし「薔薇の色」については連想ゲームからは導き出せません。

 だからこそ「あえて書かない」は、初心者にはオススメしません。書き慣れるまではすべての物体や光の「色彩」を書くべきです。たとえ冗長になったとしても、連想ゲームで読み手に委ねるよりも正確に伝わります。

 たとえば「サッカーボール」と書かれたら、普通白い六角形と黒い五角形のものを思い浮かべますよね。そのとおりなら単に「サッカーボール」と書けばよいのです。

 もし「ワールドカップの公式サッカーボール」なら、カラフルなボールが多いので、その場合は「五色に彩られたサッカーボール」のような書き方をしなければ伝わりません。

 つまり「あえて書かない」のは固定観念があるときです。サッカーボールは「白と黒」、バスケットボールなら「ライトブラウン」、野球のボールなら「白球」、ゴルフボールなら「白」が定番。なのでこれらの色なら単に「ボール」と書くだけで色が導き出されます。それ以外なら「真っ先に色を書く」のです。

 その「色」がとるに足らないから「あえて書かない」のか、文字どおり「異色」なので「真っ先に色を書く」のか。

 視覚を書くとき、まず認識するのは「色」である、とわかっただけでもかなり書きようがあります。




形は認識するもの

「色」は感じるものですが、「形」は認識するものです。

 ボールは「丸い」。スマートフォンやタブレットPCは「直方体」。ノートPCは「折りたたむ」。まぁ最近「折りたためるスマートフォン」が発売されましたけどね。

 これらを書きたいときは「形」が記憶と直結して認識できるのならば「あえて書かない」でください。「形」が記憶と齟齬があるなら「折りたためるスマートフォン」と書けばよいのです。

 もちろん記憶や知識は人それぞれ異なるため、たとえば児童文学を書いているのなら対象となる児童が知っているかどうかがひとつのハードルとなります。

 たとえば「ラグビーボール」を知っている人には単に「ラグビーボール」と書くだけで「形」が伝わります。もし「ラグビーボール」を知らなければ、「楕円形のボール(楕円球)」と書かなければ「形」は伝わりません。「ぶた膀胱ぼうこうで出来たボール」の書き方は、「形」ではなく「成り立ち」を伝える説明文です。そもそも「ぶた膀胱ぼうこう」がどんな「形」をしているかなんて知っている人は少ないはず。となれば「ぶた膀胱ぼうこうで出来たボール」ではどんな「形」なのかは伝わりません。認識できないからです。でも「楕円形のボール(楕円球)」なら「こんな形かな」と思い浮かべられますよね。

 もし「形」が似ているものがあれば、それになぞらえるのも「あり」です。

 たとえば「ピーナッツのようなボール」なら「ピーナッツ」を食べている人にはすぐに「形」が認識できて伝わります。

 比喩は「形」を正確に伝えたいとき、強力な武器となるのです。

 比喩を思い浮かべるのは、「形」を記憶から引き出して脳内で認識する作業に近しいから。「比喩なんて憶えてもなんの意味もないよね」は、単に比喩としてならそのとおりです。しかし「形」のわからないものを読み手に認識させたいなら、比喩は使えたほうが断然よい。

 また、これも誤解なのですが、「形」をある物にたとえたとき毎回同じたとえを使わなければならない、と強迫観念に陥りやすい。ですがそれは誤りです。毎回その場で思いついたものにたとえていくことで、「形」がより明確になっていきます。

「メロンのようなボール」と書いたら毎回「メロン」である必要はないのです。「スイカのようなボール」でも「正露丸のようなボール」でもかまいません。

「文豪」はその時々でひとつの物の「形」でたとえる物をいくつも挙げているケースが多いのです。もし毎回同じ比喩が書いてあったら「またそれ?」と思いませんか。「文豪」は読み手が長編小説を飽きないで読ませるために、比喩ひとつとっても単調さを感じさせないのです。

 もし相手が「形」のわからないものを伝えようとしたら、「ラグビーボール」ではなく「楕円形のボール(楕円球)」と書くべき。

 あなたが読み手になったつもりで推敲しても、適切な「比喩」「たとえ」ができているかはまずわかりません。他人がどのレベルまで知っているのか知らないのかは書き手には知りようがないからです。

 だから気を利かせて「おそらく読み手は「ラグビーボール」なんて知らないかもしれない。それなら似ているものにたとえて「認識」しやすくしてあげなければ」と気をまわせる人だけが、巧みに比喩を使いこなせる書き手だと言えます。





最後に

 今回は「色・形といった特徴を説明する」について述べました。

「形」に比喩を書きましたが、「色」に比喩を使ってもかまいません。

 たとえば「広島カープのような赤い血が流れ出た。」は野球ファンならこれだけでどんな色かはわかります。サッカーなら「浦和レッズのような赤い血が流れ出た。」で伝わりますよね。

 どんな「色」なのか「形」なのかを読み手へ正確に伝える手段として、比喩はとても重宝します。

「比喩をうまく書けない」と悩んでいる方は、まず「色」や「形」をたとえてみましょう。



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