1392.構文篇:助詞「は・が・の」

 今回は主体・主語を指す助詞「は・が・の」の三つです。

 最近の書き手の作品では使い分けがうまくできていないものがあります。使い分けのポイントを、国語の授業で習っていないのかもしれません。

 そこで、一度基本に立ち返りたいと思います。





助詞「は・が・の」


 日本語は助詞がとてもたいせつです。

 噛み合う助詞を使わなければ、読み手へ正しく文意を伝えられません。

 文節のどれが文意に影響を与えているのか。

 それを端的に表すのが助詞「は」「が」「の」の使い分けです。




助詞「は」は含む文節そのものを言いたい

「小説は読み手を惹き込めなければ無価値だ。」

 この文は「小説」について言いたいのです。

「読み手を惹き込めなければ無価値だ。」はなにを指しているのでしょうか。

「小説」そのものです。

 つまりこの文は「小説」という言葉の持つ意味を指しています。

 いったん「小説は」の文節が出てきたら。それ以降の文で次に助詞「は」が出てくるまで、「小説」について語っていきます。

「今日は雨だ。」

 これも言いたいのは「今日」であり、それが「雨だ」というわけです。

 夏目漱石氏『吾輩は猫である』の書き出しを憶えているでしょうか。タイトルにもなっていますよね。そう。

「吾輩は猫である。名前はまだない。」

 です。おそらく日本で最も多くの人に知られている書き出しです。

 これを「構文」の観点から分析してみましょう。

 まず「吾輩は猫である。」ですが、上記したとおり助詞「は」はそれを含む文節そのものについて言いたいわけです。となれば「吾輩」そのものは「猫である」つまり「猫」だと定義しています。「〜である。」は定義の文末です。

 小学生からプログラミングを習う時代なので、これを数式にするなら「(LET) 吾輩 = "猫"」になります。つまり変数「吾輩」に「猫」という文字列を代入するのです。

 助詞「は」最大の機能はこの「代入」になります。

 この調子で次の文を分析しましょう。

「名前はまだない。」これは「〜である。」ではないから代入ではない、わけではありません。これもまた「代入」文なのです。詳しく言うなら「名前はまだないのである。」と書いても成立するので「代入」文だとわかります。つまり「(LET) 名前 = "まだない"」と書きたいところですが、これだと「まだない」という名前だと勘違いされます。プログラミングで正しく書くなら「(LET) 名前 = null」です。「null」は「なにもない値」を意味します。つまり変数「名前」には「なんの値も入っていません」と定義しているのです。

 ここでひらめくものがあったら「多くの物語」を生み出せます。

 ひらめいてもらいたかったのは「名前はまだない。」です。

 つまりパロディーとして「勇者「まだない」の冒険」という物語を思いつけたかどうか。別に冒険に限る必要はありません。「「まだない」の3分クッキング」でもかまいません。

 誰かが書いた文章をちょこっといじって違う意味で解釈する。

 これができないと小説の書き手は大成しないのです。

 ちょっとしたパロディーですが、この類いを思いつくだけの日本語力に達しているかの分かれ道となります。

「まだない」という名前の主人公が繰り広げるのはどんな物語なのか。さまざまなイメージ・光景が浮かんできませんか。「猫人族」の村人「まだない」が、世界を闇で覆い尽くそうとしている「鼠人族」の魔王を倒す冒険の旅に出る。まさにファンタジーですよね。

 こういう着想力・連想力から突飛な物語が生み出せるか。それがおのおのの力量を飛躍的に高めます。




助詞「が」を含む文節は修飾する言葉に焦点が当たる

 これに対し助詞「が」は修飾する言葉そのものを指しています。

「あなたの小説が読み手を惹き込める文章で書かれているか。」

 この文は「書かれているか。」を読み手に伝えたいのです。

 つまりこの文は「書かれているか。」という術部を修飾する言葉のひとつとして「あなたの小説が」があるだけなのです。

「小説は無価値だ」と「小説が書かれているか」は助詞が違うだけでなのに、文が強調したい文節が異なります。

 助詞「は」は含む文節を強調し、話の展開の主軸としているのです。

 助詞「が」は修飾する言葉を強調し、主部の範囲を一文に限定します。

「私は高橋です。」「私が高橋です。」の差はなにか。

「私は」は「私」を主張して以後の文脈を進めていきます。

「私が」は「高橋」を主張しているのです。

「私は蕎麦です。」「私が蕎麦です。」

 これは「私は」が自分の主張なのに対し、「私が」は蕎麦を頼んだ人物が誰かを指しているにすぎません。

 三人で蕎麦屋を訪れたと仮定します。「私は蕎麦」と注文して、三人分いっぺんに配膳されたら「私が蕎麦」と言って店員さんからもらいますよね。

 もっと違いがわかりやすいのは「私はあなたが好きだ。」でしょうか。

 この文で言いたいのは「私」についてです。

 そして「あなたが好きた。」は述部「好きだ」なのは主部「あなた」と限定しています。

 つまり「私は(あなたが)好きだ。」と書けるのです。

 もし「私は好きだ。」と書いたら「誰が?」「何が?」と聞かれますし、「あなたが好きだ。」と書いたら「誰の話?」と聞かれます。

「は」と「が」の違いは助詞を含むほうが言いたいのか、それがかかっているほうが言いたいのかの違いと言えますね。




助詞「の」は助詞「が」をまろやかに仕立てる

「山が色づきを増す初秋。」は「山の色づきを増す初秋。」とも書けます。

 実は助詞「が」は、ときに助詞「の」で置き換えても意味がそれほど変わらない場合もあるのです。

 今回の例ではわかりづらいのですが、複文を書くときに助詞「が」が複数出てくる場合が多くなります。そのときひとつの助詞「が」が助詞「の」に置き換えられるのです。

 今書いた「助詞「が」が複数出てくる場合が多くなります」が助詞「が」の重複する複文の一例となります。

「助詞「が」の複数出てくる場合が多くなります」は少しニュアンスこそ多少変わりますけど、文意が混乱しづらい。

 助詞とくに主部を表す格助詞は、構文を正しくするのには不可欠なものです。

「山が色づきを増す初秋が到来した。」を「山の色づきを増す初秋が到来した。」と書くのがわかりやすいかもしれませんね。

 助詞「が」を助詞「の」に置き換える発想は、今の若い方にはないようです。

 これまで私が添削してきた文章でも、「なぜ助詞「の」に置き換えられるのに助詞「が」を重複させているのだろう」という文をいくつも見てきました。

 そこを指摘すると「むやみやたらと助詞「が」の重複を助詞「の」へ置き換えて解決しよう」として、さらにおかしな文を書いてしまう方が多かったのです。

 今の学校教育では助詞「が」と助詞「の」の使い分けを習っていないのでしょうか。だとすると、日本はもっと国語の教育に力を入れたほうがよいですね。

 どんなに面白い物語でも、助詞を巧みに操れなければ読み手へ正しく伝わりません。

 助詞「が」が一文で重複したとき、片方を助詞「の」に置き換えできる場合とできない場合があります。

 置き換えできる場合は素直に助詞「の」を使いましょう。

 置き換えできない場合は、文をふたつに分けましょう。

「山が色づきを増す初秋が到来した。」は助詞「の」で置き換えられるパターンですが、仮にふたつに分けるなら「山が色づきを増す。初秋が到来した。」と単純に切り離すだけでよい場合が多いのです。

 助詞「が」を助詞「の」で置き換えるか、ふたつの文に分けるか。

 自然なほうを選んでください。





最後に

 今回は「助詞「は・が・の」」について述べました。

 助詞の中で主体を表すのが「は」、主語を表すのが「が」です。

 主語「が」が一文で重複する場合もあります。そのときは助詞「の」の持つ「範囲を絞る」機能に置き換えて解決する方法があります。

 しかしすべての文で助詞「が」の重複を助詞「の」に置き換えられるわけではない。置き換えられない文の場合は、素直に二文に分けてください。

 たったこれだけのルールで、主体・主語を正しく操れるようになりますよ。



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