構文篇〜正しい日本語を身につけるには
1381.構文篇:視点:感情を動かす文章
今回から「構文篇」に入ります。
当初は「和語篇」と名づけようと思ったのですが、ストックを書きながら「どうも和語の話をするより文章の書き方そのものを書こうとしているな」と気づきました。そこで予定を急遽変更して「構文篇」と致しました。
そんな「構文篇」の始まりは「視点」についてです。
視点を効果的に表現する。それが小説で最も重要なポイントです。
視点:感情を動かす文章
普通、小説を読むのは「胸を打つ」「琴線に触れる」「心を高揚させる」「うっとりと耽けさせる」といった「感情を動かす」ためです。
逆に言えば「感情が動かない」「感情を動かせない」文章は「小説」ではありません。ただの報告書であり、学術的・実務的な文章に類します。
一人称視点と三人称視点
私たちが小説を書くとき、まず決めなければならないのは「視点」です。
主人公に視点を持たせる「一人称視点」と、誰にも持たせずビデオカメラを通して観ているような「三人称視点」のどちらかを選んでください。
安易に交ぜ書きしてはなりません。おおかたの読み手は「一人称視点」と「三人称視点」の交ぜ書きを読むと混乱します。「今文章で語っているのはいったい誰なんだろう?」となるわけです。
たとえダブル主人公やメイン主人公・サブ主人公のように主人公がふたりいる場合でも、基本的には視点はひとりに固定してブレないでください。
メイン主人公がその場から去り、残されたサブ主人公が視点を引き継ぐ。
こういう作品もありますが、その場合は明確に「視点保有者が切り替わった」と示すべきです。またこの手の「例外」を許すと、ワンシーンでの視点保有者が複数名となる事態を防げなくなります。
だから基本的に「視点はひとりに固定」してブレないようにするべきなのです。
たとえダブル主人公でもメイン主人公・サブ主人公でも、「視点はひとりに固定」したほうが格段に読みやすい。
「視点を持つ主人公」がひとりであれば、他人の心を書いてしまう愚は犯しません。
初心者のみならず、ある程度書けるようになってきた書き手の方でも、つい他人の心を読む文章を書いてしまいがちです。
「一人称視点」では主人公の感情や思考はそのまま書けます。他の人物の感情や思考は見た目や推量でしか書けません。
もし他人の感情や思考を、なんの断りもなく文章で断定して書いてしまうと、主人公がテレパシーの使える超能力者になってしまいます。
もちろん読み手はテレパシーが使えません(よね?)。
であれば、テレパシストのような文章を書いてしまうと、読み手にはなんのことかさっぱり伝わらないのです。
だからたとえダブル主人公やメイン主人公・サブ主人公であっても、視点保有者は特定の主人公ひとりに限りましょう。
そうしなければ視点がブレまくり、読み手は混乱し、選考でも不利になります。
厳格な選考さんなら一次選考で一顧だにせず落とすのです。
ダブル主人公やメイン主人公・サブ主人公といった、主人公がふたりいる作品を書きたくても、よほど名が売れてからでなければ誰も読んでくれません。読めば少なからず混乱してしまうからです。
そういった混乱すらも楽しめるほど面白い物語が書けるのなら止めはしません。しかしほとんどの方はそういった意図で書いたつもりが、ただの支離滅裂な文章にしか仕上がらないものです。
一人称視点は主観的
小説は一般的にたったひとりの主人公に視点をもたせる「一人称視点」で書きます。
読み手の「感情を動かす」最も簡単な方法は、主人公が降りかかる状況でどう「感情を動かす」かを読ませること。つまり読み手を主人公と同化させるのが手っ取り早いのです。
その意味で、ダブル主人公やメイン主人公・サブ主人公のように「視点保有者が複数いる」と、主人公のキャラが立ちません。またふたりぶんの情報管理が必要になってきますから、難易度も格段に高まります。
しかしあなたの好きなドラマやアニメでは、複数の人物の視点で物語が展開しているはずです。それができるのは「映像」で見せられるから。
「百聞は一見にしかず」と言いますよね。どんなに言葉を重ねても、「映像」で見せられただけのほうがよく理解できるのです。文章で「マルチ視点」なんてやったら、確実に読み手は混乱します。
だから私は「三人称視点」よりも「一人称視点」を推奨しているのです。
難易度からいっても「小説賞・新人賞」を獲るまでは「一人称視点」で書き続けましょう。「一人称視点」を数多く書いていけば、主人公が知りえたり見聞きしたりしたものだけを書く、という「小説の基礎」が固まります。
「小説の基礎」も固まっていないのに「三人称視点」で書いても、読み手の感情は動かせません。
そもそも「三人称視点」では「感情を動かす」力が弱いのです。
たとえば、あなたはスペインのカンプ・ノウ(サッカークラブ・FCバルセロナのホームスタジアム)でFCバルセロナとレアル・マドリードの対戦を直接観たとします。自分の目と耳と身体でプレーや歓声や地響きなどを体験するのです。そのときの感動はとても深いと思います。
ではまったく同じ試合を日本の自宅のテレビで観ていたらどうでしょうか。直接観る興奮と比べて熱量が沸いてこないような気がするはずです。あの熱狂は味わえない。
感動は、現地で直接観るのと、自宅でテレビを観るのとでは格段に差があります。
しかし小説を書くとき「自宅でテレビを観せる」作品にしがちなのです。
三人称視点は客観的
「三人称視点」は登場人物の誰にも「視点」を持たせないで、客観的に淡々と綴ります。
新聞記事や報道番組のニュースのようなものです。
先ほどのサッカーの例で「日本の自宅のテレビを観ている」のが「三人称視点」になります。直接現地で観ているわけではなく、テレビカメラを通じてテレビ画面で試合を観ているだけ。伝わってくるのは引きの映像と実況と歓声。これで現地にいるかのように盛り上がれる方は相当な妄想癖があるはずです。ほとんどの方は現地ほど熱狂的に盛り上がれません。
音楽ライブにたとえてもよいですね。マイクを通していたとしても、実際に目の前で歌っている姿や歌声や演出などを体感するのと、テレビでBlu−ray Discを観るのとでは感動に差が生じて当たり前。直接体験しないと、本当のスゴさは伝わりません。
これが「一人称視点」と「三人称視点」の明確な差です。
「三人称視点」で読み手が感情移入するかといえばまずしません。伝わるのは「正確な情報」だけです。どこにも憶測や希望的観測を入れてはなりません。あくまでも「客観的事実」のみを正確に記述してください。
逆に言えば、「一人称視点」で「客観的事実」は書けないのです。どんな事実があろうとも、それを主人公がどう受け止めて解釈したのか。それだけしか書けません。
どんなに小難しい話でも一発で理解する主人公もいるでしょうが、多くの読み手はそこまで察しはよくないのです。
たとえば主人公が天才ハッカーで、どんな警備システムにもハッキングできる能力があるとします。これを「一人称視点」で書くと読み手は内容が深すぎてついていけません。しかし「三人称視点」で書けば「どんな警備システムもすいすいとハッキングする主人公」という情報が客観的に伝わります。主人公がとんでもなくスゴい人物の場合は、主観ではなく客観のほうがスゴさを表現できるのです。
親しみを持ってほしい主人公なら「一人称視点」が断然有利です。
スゴさを表現したい主人公なら「三人称視点」に挑戦してみましょう。
友だちになりたいのは感情が読みやすい人ですよね。そしてなにを考えているのかわからない人ほど「スゴい」と思いませんか。
「一人称視点」と「三人称視点」は小説の書き方そのものが異なります。
そして「小説賞・新人賞」で評価されるのは「一人称視点」のほうです。
感情移入もしやすいし、物語を追体験できますからね。
一人称視点は主人公の話し言葉、三人称視点は書き言葉
「一人称視点」は主人公から見た世界を書くわけですから、文体も当然主人公の「話し言葉」になります。
「三人称視点」は誰の感情も入らず客観的に語らなければならないので、文体も「書き言葉」になるのです。
「話し言葉」は皆様が普段使っていますので、改めて考えながら書く必要もありません。
「書き言葉」は「正しい日本語」で書かないかぎり構文でマイナス評価をされますから、「小説賞・新人賞」の選考でも不利になりやすいのです。
その点からも「話し言葉」で書ける「一人称視点」のほうが選考には有利に働きます。
最後に
今回は「視点:感情を動かす文章」について述べました。
本コラムでははっきりと断言致します。
「小説賞・新人賞」を獲るまでは「一人称視点」を徹底的に極めましょう。
受賞するには正確で高度な「一人称視点」の物語が断然有利です。
「三人称視点」は「スーパーマン」を主人公にするとき以外は避けましょう。
「一人称視点」で伝わらないものが、「三人称視点」にして伝わるはずもありません。
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