1365.物語篇:物語109.ユートピアと青い鳥

 今回は理想や幸せを追い求める物語についてです。

 そういう意味では理想郷や青い鳥を探すのは根っこが同じなのです。

 そういった根本から見つめ直すと、新しい物語が作れるかもしれません。





物語109.ユートピアと青い鳥


 どこかにある理想郷。それが「ユートピア」です。

 語源は1516年にイギリスの思想家トマス・モア氏がラテン語で著した『ユートピア』に登場する架空の国家の名称となっています。

 モーリス・メーテルリンク氏の戯曲『青い鳥』はクリスマス前夜、チルチルとミチルの兄妹が妖しげな女性から言いつかった「幸せの青い鳥」を探しに出かける物語です。




どうしたら行けるのだろう、教えてほしい

 実は「ユートピア」とはギリシャ語からの造語で「どこにも存在しない場所」の意味です。

 つまり理想郷など「どこにも存在しない」のです。

 これは『ユートピア』が現実への対比として提起され、現実がいかに駄目なのかを皮肉るために創られたのですから、そんな都合のよい場所なんてあってたまるか、ということなのです。

 それでも理想郷を求める旅は、どんな時代でも人気を博しました。

 ドラマ『西遊記』の主題歌・ゴダイゴの『ガンダーラ』では「そこに行けばどんな夢も叶うと言うよ」とあります。インドにある「ガンダーラ」は理想郷「ユートピア」だとされているのです。しかし「どうしたら行けるのだろう、教えてほしい」とも述べています。

 つまり「ユートピア」はあるのだけど、どうしたら行けるのかがわからないのです。

 これほど「ユートピア」を適切に表現した歌詞は類を見ません。

 そもそも「ユートピア」とはどんな場所なのでしょうか。

「生きることの苦しみさえ消える」とされていますから、俗世とは隔絶されたような場所なのかもしれません。

 かつて地上の楽園と呼ばれたブラジル、最後の楽園と呼ばれた北朝鮮は、いずれも「ユートピア」には遠く及びませんでした。広大な荒れ地を自ら開墾しなければ作物すら生産できない。夢を託して赴いた先にはなにもなかった。しかも人々は片道切符しか持っていませんから、日本へ帰るのもままならないのです。

 となれば、現実の「ユートピア」とはただの荒れ野が広がり、政府が存在しない治安の悪い場所なのかもしれません。

 政府がないので犯罪も取り締まれない。「生きることの苦しみ」を味わいながら自ら開拓するしかないのです。

 まぁ唯一の救いは、開拓に成功したら政府がないので自ら政府を立ち上げるチャンスがあったくらいでしょうか。

 王様にでもなれば「生きることの苦しみ」なんて消えてしまうかもしれませんよね。

 だからゼロからスタートする、グラウンド・ゼロからの復興は「ユートピア」を目指す物語となりえます。

 戦後日本は敗戦ののち復興によって高度経済成長を続けて地上の楽園「ユートピア」を体現したような風紀でした。それもバブル経済が泡と消え、氷河期が襲ってきて「ユートピア」どころか「地獄絵図」の様相を呈しました。

 はたして「アベノミクス相場」で株価が高騰した今の日本は「ユートピア」なのでしょうか。




青い鳥はどこにいる

 幸せの「青い鳥」を探しに出かけたチルチルとミチルは、旅の果てになにを見たのでしょうか。

「青い鳥」を探しに探しても見つからない。しかし「青い鳥」はひょんなところで見つかります。なんと自宅にいたのです。

「隣の芝生は青く見える」と言います。

 自分たちもじゅうぶん立派なのに、隣はさらに立派に見えてしまう。

 人間、自ら置かれている状況がどれほど恵まれているのかを見失ってしまいがちです。

 自由を夢見る若者は、すでに自由な境遇であると気づいていません。

 学生生徒として「勉強」はさせられますが、それ以外はほとんど自由意志で決められます。空き時間でスポーツをしたりゲームをしたり読書をしたりテレビを見たりネット動画やSNSを見たり。かなり自由な時間の使い方ができるのです。

 これが「幸せ」だと気づいている学生生徒は数少ない。

 つねに不満を口にしています。学生生徒の多くは社会人になったとき初めて「あの頃は「自由があった」「幸せだった」」と気づくのです。

 もちろん学生生徒のときに両親がおらず、養護施設に入っていた人からすれば、社会人となって独り立ちすれば、ようやく「自由になった」と感じるでしょう。しかし養護施設とは異なり、誰からも庇護されません。「自由」は得ましたが、「幸せ」かどうかはわからない。誰かに守られているときはなんでも叶うので「幸せ」だったのかもしれないのです。

 退屈な日常の中に「青い鳥」はいました。

 身近な「青い鳥」を見つけずに、どこかにいる「青い鳥」を探す旅へ出るのは、なにか割が合わないですよね。

 ですが「青い鳥」は自分たちとは関係ないんだと思い込んでいたら、やっぱり外へ探しに出てしまいます。

 世界の真実と自分たちの境遇。このふたつを正確に把握していなければ、人は「青い鳥」を探しに出かけるのです。

 世界は本当に自分たちよりも幸せなのか。自分たちよりも不幸な人は世界にはいないのか。世界には幸せのすべてが存在するのか。そして自分たちは本当に不幸なのか。

 これらがわからなければ、外に利益を求めてしまうものです。

 そして「青い鳥」の物語が読み手へ訴えかけている「テーマ」も、まさにこういう問いかけにあります。なんでも欲しがる人は、本当に満ち足りていないのか。ただ新しいものを手に入れないと気が済まないだけではないのか。自分を振り返って、本当に不幸だと言えるのか。自分たちより不幸な人は本当にいないのか。小さな幸せに価値を見出すべきではないか。

『青い鳥』で無邪気なチルチルとミチルはなにを求めて探しに出かけたのでしょうか。

 今の自分たちにはない「幸せ」を手に入れるためですよね。

 いくら探しても「青い鳥」を見つけ出せません。失意に包まれて家へ帰ると、そこに「青い鳥」はいたのです。彼らには帰るべき場所がありました。それは幸せなはずです。

『機動戦士ガンダム』の最終話でアムロは帰るべき場所が自分にもあったと気づいて物語が終わります。すべてひとりで抱え込んで、強敵をひとりで倒した先に待っていたのは、倒すべき敵がいなくなった最強の戦士の末路だったはずです。そう、用済みになったのです。しかしアムロはあがいてみます。ガンダムは大破してもコアファイターはまだ使える。それで決戦地ア・バオア・クーから脱出しようとします。しかし自分を必要とする人はもう誰もいない。いちばんわかりあえたララァは自らの手で殺めてしまった。本当に倒すべきザビ家も内紛とシャアによって倒された。その宿敵シャアも行方知れず。八方塞がりの中で聞こえてきたカツ、レツ、キッカの三人の声。導かれるように決戦地を脱出したアムロは、宇宙で彼の帰還を待っていた人たちがこんなにいたんだと知ります。

 そう。ララァという「青い鳥」はもういないんだと思い込んでいましたが、彼にはまだ帰るべき場所という「青い鳥」が待っていたのです。

 最終話はそのまま『青い鳥』の物語でもありました。アムロにとっての「青い鳥」探しが終わった瞬間で物語は幕を閉じます。





最後に

 今回は「ユートピアと青い鳥」について述べました。

「どこにも存在しない場所」である理想郷「ユートピア」。

「自分たちにはないもの」だと思っていた幸せが、実はすぐそばにあったと気づく「青い鳥」。

 このふたつは物語に深みを与えます。

 理想だけを追い求めて、結果手に入れられず、気づいたら今がいちばん幸せだった。

 この気づきは、きっと多くの物語に内包されている普遍の「テーマ」ではないでしょうか。



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