1345.物語篇:物語89.歴史と時代と伝奇

 今回はひとくくりに「歴史もの」と呼ばれる「歴史小説」「時代小説」「伝奇小説」についてです。

「歴史小説賞」に「時代小説」「伝奇小説」を書いて応募しては落とされるを繰り返す書き手もいらっしゃるでしょう。

「歴史小説」はまったくの別物なのです。小説とはいえほぼノンフィクションと同じ部類に入ります。





物語89.歴史と時代と伝奇


 過去の時間軸で繰り広げられるジャンルは主に三つあります。

「歴史小説」「時代小説」「伝記小説」です。

 この違いを明らかにして「小説賞・新人賞」には間違いのない作品を応募しましょう。




歴史小説は知識と根気が必要

「歴史小説」は実際の歴史上に起こった出来事を、実在の人物を主人公にして描いた小説です。

 マンガでいえば「マンガ日本の歴史」シリーズはこのパターンですね。

「歴史小説」は「史実以外に書いてはならない」縛りがあるから難しい。

 たとえば「本能寺の変」をエピソードとして書きたければ、織田信長氏か明智光秀氏を主人公にしなければならないのです。間違えても「本能寺の変」では中国地方所在の羽柴秀吉氏を本能寺に立ち会わせてはなりません。また織田信長氏が生き延びても駄目なのです。

 あくまでも史実の定説である「羽柴秀吉氏が中国地方攻略中に、本能寺に所在した織田信長氏が部下の明智光秀氏の奇襲を受けて焼け死ぬ」という流れを変えられません。そこに存在しないはずの人物を主人公にしてはならないのです。

 この縛りがあるため、たとえば明智光秀軍の足軽を主人公にはできません。確かに明智軍の中に足軽はいたはずですが、その場に存在した足軽を突き止めるのは不可能です。

 だから存在が確定している名のある武将が主人公になるしかありません。

 しかもその場に確かに存在していた人物です。

「寺田屋事件」も坂本龍馬氏と寺田屋の養女・お龍氏、そして伏見奉行配下の捕り方は存在がわかっていますから、彼らを主人公にしてください。そこに西郷隆盛氏がいたり木戸孝允がいたりするのはありえません。

 このように「歴史」を改変することなく、史実どおりの年、場所、人物が起こす史実どおりのエピソードをまとめたのが「歴史小説」なのです。ある意味「歴史を題材としたノンフィクション小説」に見えますよね。

 だから「もしも」が入った小説は「歴史小説」ではありません。

「歴史小説」が書ける方は、それだけの膨大な歴史資料に当たり、史実に裏打ちされた物語を書ける方なのです。もちろん登場人物の会話は創作でもかまいません。

 しかし「いないはずの人がいる」「いるはずの人がいない」「起こるはずのない事件が起こる」「起こるはずの事件が起こらない」は許されないのです。

 史実を曲げないでいかに物語を面白くするのか。

「歴史小説」には「史実に忠実」が求められます。




時代小説は人を加えてもよい

「時代小説」はたとえば「戦国時代」「江戸時代」「幕末」「明治初期」と「歴史小説」のように実在する時代が必要です。

 そしてその時代に起きたエピソードもそのまま使えます。

 しかし、そこに「いなかった人がいる」「いた人がいない」が可能です。

「時代もの」としてはマンガの和月伸宏氏『るろうに剣心〜明治剣客浪漫譚〜』で考えるとわかりやすいと思います。

「幕末」に「人斬り抜刀斎」と呼ばれた伝説の剣客・緋村剣心が、明治初期を舞台にさまざまなエピソードに巻き込まれていく物語です。

 史実では倒幕派の人斬りといえば「人斬り以蔵」こと岡田以蔵氏を指します。「人斬り抜刀斎」なんて存在しません。

 でも明治の世に逆刃刀を佩いた剣心にはリアリティーを感じましたよね。あれは大久保利通氏暗殺や京都大火といった史実を取り入れていたからです。もし大久保利通氏が暗殺されなければ「時代小説」にはなりません。それは明確な「ファンタジー」だからです。

「本能寺の変」を例にしましたのでここでも取り上げると、「明智光秀氏が織田信長氏の住む本能寺に火を放つ。信長氏の側には小姓の森蘭丸氏が付き添っていた」というのが「時代小説」になります。

 実際「森蘭丸」の正体ってなんでしょうね。歴史を調べてもほとんど出てこないかまったく出てこない。にもかかわらず信長氏の小姓としてはけっこう名が売れている。本能寺で信長氏と運命を共にしたとも言われていますし、本能寺から信長氏と共に逃げ延びたともされています。かなり創作の部分が大きいので、「森蘭丸」が出てきたら「時代小説」だと思うことにしています。

 つまり「歴史としては存在するエピソードだけど、それにこの人いなかったよね」「それにこの人を入れてみた」のが「時代小説」なのです。

「本能寺の変」は確かにあった。それを仕掛けたのが必ずしも明智光秀氏とはかぎらない。と考え始めたら「時代小説」になります。




伝奇小説は民間伝承や説話の類い

「伝奇小説」とは民間伝承や説話の類いを指します。

 たとえば小泉八雲氏ことラフカディオ・ハーン氏は日本各地の民間伝承や説話を集めて怪談を数多く遺しています。そこから下ると柳田國男氏が同じように民間伝承を調べていたそうです。

「伝奇小説」でも「時代小説」のように史実を扱えますが、その適用範囲はほぼ無限です。

 書き手のオリジナルな解釈で、史実をいかようにも変えた「歴史もの」となります。

「実はあの歴史的な出来事の裏には、このような者が暗躍していた」なんて「時代小説」すら超えていますよね。場合によっては「歴史的な出来事」の結果そのものを正反対にすらできます。

「歴史書」である陳寿氏『三国志』から、羅漢中氏が「時代小説」である『三国志演義』が生まれ、そこからさらに「伝奇小説」である周大荒氏『反三国志演義』(『超三国志』の題で和訳)に発展しました。

『三国志』は魏呉蜀の三国の興亡を後漢末期から晋による統一までをカバーしています。

『三国志演義』は蜀の初代皇帝の劉備と軍師の諸葛亮を主に取り上げ、劉備が関羽・張飛と義兄弟の契りを結んだ「桃園の誓い」で始まり、劉備が戦没すると諸葛亮に主人公が変わって魏への第五次北伐「五丈原の戦い」で戦没するところで終わっています。その後蜀が魏に滅ぼされたとは記されていません。

『反三国志演義』は『三国志演義』同様に蜀が主人公ですが、死ぬはずの人が死なず、別離するはずの人が別離せず、蜀の人材がどんどん膨らんでいって、ついには蜀が中国を統一してしまうのです。まさになんでもありの「伝奇小説」を地で行っています。

 ちなみに元々「伝奇小説」とは主に中国の唐宋時代に書かれた短編小説と、現代に書かれた幻想的な小説を指す言葉です。その意味では『三国志演義』も辞書的には「伝奇小説」となりますね。





最後に

 今回は「物語89.歴史と時代と伝奇」について述べました。

 歴史小説といってもフィクションレベルによって異なります。

 通常求められる「歴史小説」はフィクションは基本的になしの歴史書のような小説です。文献できちんと確認できる歴史的事実しか書けません。

「歴史的事実」を作者なりに解釈して書くのが「時代小説」です。こちらは文献の裏打ちがなくてもかまいません。最初と最後が合っていれば、途中経過がどうなってもかまわないとされます。

 ときに「歴史的事実」すら無視して、あらぬ歴史を「でっち上げる」のが「伝奇小説」です。

 この三つの差をわきまえずに「歴史文学賞」に応募すると、たいてい初見で落とされますよ。ご注意くださいませ。



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