1341.物語篇:物語85.献身と慈悲
今回は「献身と慈悲」についてです。
けっこう混ざっている部分がありますけれども、明確に違います。
また「慈悲」には「手出し」と「手助け」の二種類あるのです。その違いも見ていきましょう。
物語85.献身と慈悲
献身的に他者に施す者には慈悲が舞い込んでくる。神様がいればちゃんと見ているのです。
「献身と慈悲」は、他者のために命を懸けて損失を意に介さず、それを誰かが見ていて哀れと思い手を差し伸べる。そんな物語です。
真の献身は手本たりうる
「献身」は誰にも気づかれず、誰もが知っている。そんな行動を指します。
「勇者と魔王」にしても、「勇者」の献身は世間には広まっていません。ただ「勇者が魔王を倒した」と結果だけが残るのです。
しかし「勇者譚」を読むとき、単に「勇者」の活躍だけが記憶に残るものでしょうか。
私たちの心に残るのは「魔王」を倒すために「献身」的な働きを見せてくれた人物だと思います。
たとえば「魔王」へ突進して注意を引きつけ、他のメンバーが「魔王」の視界から消える時間を稼ぐ。パーティーでのバトルでは、そんな「献身」的なメンバーがひじょうに重要な役割を担います。
もし「魔王」が意識を「勇者パーティー」に限定しているのなら、ある人物が「魔王」の死角から攻撃を仕掛ける。そうすれば「魔王」の意表をついて倒せないまでも深い傷を負わせられるでしょう。奇襲攻撃できるメンバーは、とくに単独の強敵相手に威力を発揮します。なまじ強いがため、注意を「勇者パーティー」に集中しているのて、奇襲を受ければ意外と脆いものです。
しかし奇襲担当はつねに命を懸けています。「魔王」に突進するのも圧倒的な実力を前にして抗しきれるものではありません。「魔王」の意表をつく奇襲攻撃も、読まれていれば安全とは言いがたいのです。
それだけの危険を冒しているにもかかわらず、注目されるのはいつも「勇者」だけ。「献身」的な働きを見せた人物であっても、単なる「勇者パーティーの一員」としか認識されません。
報われない境遇ではありますが、「献身」するほどの人物は不平不満など言わないものです。もし不平不満があるのなら、黙って「勇者パーティー」を去ります。それが「献身」を旨とする人物の矜持です。そしてまた別の「パーティー」に加わって「献身」的な働きをします。
それほど「献身」は美徳であり、なにものにも代えがたい存在なのです。
現実には、クリミア戦争にイギリスの看護婦として従軍し、「献身」的な看護で死者を減らして看護師の理想像となった「クリミアの天使」ことフローレンス・ナイチンゲール氏のようなケースもあります。
国威発揚のための広告塔だったのかもしれません。たいていの看護師にはまったくスポットライトが当てられていないのです。ナイチンゲール氏だけが妙に高く評価されています。もちろん実績や兵士たちからの信頼をかちえてきたから、というのもあるでしょう。負傷兵であれば敵味方関係なく「献身的」に看護したナイチンゲール氏を見て「これほどの人物はいないだろう」と感銘したのかもしれません。
事実を鑑みると、シドニー・ハーバート戦時大臣がナイチンゲール氏に、シスター二十四名、職業看護婦十四名を率いて後方基地で病院のあるスクタリで活動するよう要請したそうです。そしてスクタリの病院の惨状を目の当たりにして、改革を決意します。ヴィクトリア女王はハーバート戦時大臣に対してナイチンゲール氏からの報告を直接自身に届けるよう命じていました。つまり女王公認の看護婦だったのです。
「クリミアの天使」の愛称は、のちに看護婦を「白衣の天使」と呼ぶきっかけとなりました。ナイチンゲール氏本人はそう呼ばれるのを嫌がったそうですが。
ナイチンゲール氏は「犠牲なき献身こそ真の奉仕」という有名な言葉を述べています。
なんの見返りもない「献身」は長続きしないのです。
被災地のボランティアを考えてみてください。事態が発生してすぐは多くのボランティアが集まりますが、ひと月も経たないうちに大半のボランティアは帰ってしまうのです。
ここに挙げている「献身」も、「見返り」「対価」のある「献身」を指します。
真の慈悲は誰かを救済する
相手を慈しめば、救済する「手助け」ができます。あくまでも「手助け」だけです。
慈しむ心が強すぎれば「救ってあげたい」と強く思い、余計な「手出し」をしてしまいます。
すると「手助け」だけすればよいのに、相手の自主性を奪いかねません。
真の慈しみとは「手出し」するのではないのです。「手助け」して相手が自力で立ち上がれるようにします。
これは足腰の弱い老人のためになにをするべきか、の問題に似ているのです。
多くの人は車椅子を勧めるかもしれませんね。しかしそれは「手出し」であり、老人を慈しんでいないのです。そもそも足腰が弱いのに、車椅子に頼られたらさらに足腰が衰えて車椅子なしでは移動できなくなってしまいます。
本当に足腰の弱い老人のためになるのは「転倒防止のために杖を渡す」だけです。これなら「万が一バランスを失っても、杖に寄りかかれば倒れませんよ」と言えば、老人は安心して歩けます。
足腰の弱い老人のためを思うのなら、足腰を強くしてもらうためにできるかぎり歩かせるべきです。車椅子は歩く苦労を省けますが、足腰をさらに衰えさせてしまいます。それは老人のためになるのでしょうか。
私の住む市では、視覚障害の方をよく見かけます。しかし道路には自転車が並べてあって彼ら彼女らは白杖を自転車に何度もぶつけながら歩いているのです。
こういう場合、視覚障害者のためになにをするべきでしょうか。
「自転車を撤去する」のが最も安全に歩けるだろうことは疑いようがありません。しかしそれは「手出し」です。
私は彼ら彼女らに話しかけ、「ここに自転車が置いてあるので、私に捕まって避けてくださいね」と言って自転車を避けるところまで案内します。視覚障害の方は頭の中に地図を作っています。いくつ歩いて右に曲がり、またいくつ歩いて交差点。という情報がすべて頭の中に入っています。だから「ここに自転車が置いてある」と告げれば、彼ら彼女の頭の地図でそこに自転車が置かれるのです。だから避けられるところまで誘導すれば、帰り道では放置されている自転車を避けて歩けます。これが「手助け」です。
単に目の前の問題を解決すればよいわけではありません。相手の自主性を重んじるところからでしか「相手のため」は見つからないのです。
『老子』にこんな故事があります。
「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣り方を教えれば一生食べていける」
これが「慈悲」の真の意味です。
ストリート・ライブをしている若者に路銀を払うのはその日食べるものには事欠かないでしょう。しかしそれではいくら経ってもストリート・ライブから抜け出せません。きちんとデモテープを音楽事務所や音楽プロデューサーへ送ってあげれば、いつかプロのミュージシャンになって食いっぱぐれない生活を送れるかもしれないのです。
あなたは路銀を渡す人なのか、デモテープを送ってあげる人なのか。
そこに本当の慈しみの心「慈悲」が表れます。
最後に
今回は「物語85.献身と慈悲」について述べました。
対価のない「献身」は長続きしません。災害ボランティアも長くて一か月すれば帰ってしまいます。復興を手助けしてもらいたいなら、正当な対価を払うべきです。
これはナイチンゲール氏も主張していました。
そして弱い立場の人に慈しみの心「慈悲」を持って接するのです。
困っている人になにをするのがベストのだろうか。
高齢者や障害者にとって必要な「手助け」とはなにか。
彼ら彼女らの自主性を考えず、自己満足のために取り組んではなりません。あくまでも自主性を重んじて、自分たちでできる範囲のものは見ていてツラいでしょうが自力でやってもらうのです。その中で平時とは明らかに異なる厄介ごとが起きたら、そのとき手を差し伸べればよい。それが本当の慈しみだと思います。
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