1339.物語篇:物語83.喧嘩と仲直り

 今回は「喧嘩と仲直り」の物語です。

 物語が始まって「喧嘩別れ」し、物語のラストに「仲直り」して終わります。

 また遠距離などで「疎遠」になって、物語のラストに「親密」になる物語でもあります。





物語83.喧嘩と仲直り


「喧嘩」とは書いていますが、単に仲のよかった親友や仲間と疎遠になり、再び結びつく物語でもあるのです。

 物語冒頭でいきなり「喧嘩別れ」して、ラストで「仲直り」。それだけでなく、関係が一歩進んでいるのがベストです。

 プロポーズ直前に「喧嘩別れ」して、ラストでプロポーズして「結ばれる」。これなら一歩進んでいますよね。エピローグで結婚後の生活を書く手もありますが、ちょっと野暮ったくなりがちなので、よほど本編が好評でないかぎり、プロポーズ成功までで手を止めたほうがよいでしょう。




喧嘩や疎遠

 それまで仲がよかったのに、「喧嘩別れ」をしたり、勉強や部活動や仕事が忙しくなって「疎遠」になったりします。関係が途絶えてしまうのです。

 なにか「きっかけ」がなければ関係を修復できません。そう「きっかけ」が必要なのです。

 その「きっかけ」を見つけ出すのがこの物語の目的になります。

 たいていの「喧嘩と仲直り」の物語は、物語の最初の一文で「喧嘩別れ」や「疎遠」になった状態から始まるのです。そして、なぜそうなってしまったのかを主人公に認識させます。

 まぁいきなり主人公が原因を認識してしまったら、そこで物語が終わりなので、たいていは物語の佳境クライマックスになって原因を認識できるのです。

 原因がわかればそれを解消すればよいので、状況は急転直下、一瞬で解決方法がわかります。

 だから書き手には明確な「解決方法」がわかっていながらも、物語を通じて「わからない」ていで主人公を描写しなければなりません。「解決方法」をちらつかせるのもあまりよい手段ではないのです。

 主人公は「解決方法」に気づかない。そもそも「なにが原因で喧嘩別れや疎遠になったのか」すら認識していないのですから当然です。

 原因がわからないのに解決方法が見つかるのなら、皆お釈迦様になってしまいますよ。つまり悟りを会得してしまっているのです。




悟りを会得していない主人公

 小説の主人公として「悟りを会得」している状態ほどつまらないものはありません。

 どんな出来事イベントを起こしても「はい、そうですか」「それが私となんの関係が」と流されたら、物語になんの見せ場も作れません。

 もし「悟りを会得」している主人公なら、そもそも「喧嘩」なんてしませんし、「疎遠」になっても「仕方ない」「それも人生」としか思わないものです。

「悟り」は「諦観」に近い。「執着」を削ぎ落としていくと「悟りを会得」できます。お釈迦様も百八つの「煩悩」を削ぎ落として「悟りを会得」したのです。「煩悩」とは簡単に言うと「執着」です。

 主人公に降りかかる出来事イベントに「執着」しているうちは「解決方法」なんて見つかりません。

 その出来事を「だからなんだというのだ」と開き直るのが「諦観」であり、「執着」を削ぎ落とす行為です。

 始まりの頃には「執着」していたものも、「きっかけ」があると「あきらめ」て「だからどうした」の心境にたどり着きます。そうして「悟り」へと一歩近づくのです。

 どんな物語でも「悟りを会得」する過程を描いています。「執着」を続けていると底なし沼に引きずり込まれて悲劇で終わってしまうのです。

 愛しい人と「喧嘩別れ」したら、主人公の中のなにが原因なのかに気づくまで物語は続きます。原因に気づいたら「執着」せず削ぎ落としていけば「解決方法」が見えてくるのです。でもそれは「執着」ですから、捨てるには心境の変化が必要となります。心境が変わらずに「執着」を削ぎ落とそうとしても「悟り」には達しません。

 物語に「完全な悟りを会得」した主人公なんて要りません。なにが起きても冷静で適切に対処してしまいますから、葛藤を読ませられないのです。

「完全な悟りを会得」することを「解脱」と言います。

 すべての「執着」や「しがらみ」から脱して解き放たれるわけですね。

 もちろん物語にひとりくらい「解脱」者を出してもかまいません。しかし主人公を「解脱」者にすると面白くなくなります。

 達観した主人公ほど、物語はつまらなくなるのです。

 読み手と同じように悩み苦しみあがきながら、ひとつの選択をする。もちろん間違えた選択をするかもしれません。それが人間というものです。

「悟りを会得」して「解脱」し「執着」「しがらみ」を削ぎ落とす。

 その行動にはなんの迷いもないのです。たとえハズレを引いたとしても、それを恨まず惜しまず、「なるようになる」だけと達観できる主人公。

 とても面白い物語になるとは思えません。

 人生にシナリオはない。ある人にいつどんな出来事が起こるのか。それを受けて主人公はどう動くのか。どう感じるのか。

 その過程を書くからこそ、物語は面白くなりますし教訓を有するのです。

 ときに間違えた選択をして、収拾に追われます。それもまた人生です。もし「悟りを会得」していたら収拾に乗り出しません。「なるようになる」「今を受け入れる」ではそもそも物語が前に進みませんからね。

 あなたの物語の主人公は、このようなよく言えば「物わかりのよい」、悪く言えば「すべてあきらめている」人物ではありませんか。そうであれば、すぐに執筆する手を止めて、主人公から「悟り」を取り除いて「執着」するようにしてください。

「悟りを会得」していると無味無臭なのです。なんの感慨も抱きません。「執着」していれば香りが漂い、味わいが生じます。




仲直りはわだかまりを解消すること

「喧嘩別れ」や「疎遠」になってしまったら、解消して再び手を握るまで物語は続きます。ときに致命的な「別れ」を経験するかもしれませんが、バッドエンドになるのでオススメはしません。ライトノベルならハッピーエンドが望ましいとされています。バッドエンドが書きたければ「メリーバッドエンド」でよいでしょう。

「仲直り」するには原因を明らかにし、それを改善してください。

 未熟さが原因なら習熟すればよい。勘違いなら誠実に伝えればよい。距離が問題なら近くに引っ越すなり文通(今は電子メールのほうが一般的ですが)したりして心の距離を縮めればよい。

 原因さえ見つかれば、誰もが変えようとします。

 しかし問題が発生した直後に原因が見つかるはずもありません。見つかるのならそもそも「喧嘩別れ」や「疎遠」にはならないからです。

 小説は、たったひとつの原因を見つけ出し、主人公のあり方を変えて他者に受け入れられる物語と言えます。

「勇者と魔王」ですら「世界を乱す魔王」が原因で、それを取り除くつまり「魔王を倒し」て完結し、他者に受け入れられる物語です。

 たかが「喧嘩」。長編の物語の中で答えが見つからないはずがありません。

「疎遠」なら問題は「距離」だと明確にわかります。身体的な距離たとえば東京とリオ・デ・ジャネイロなら地球の裏側ですからかなり遠いですよね。これで緊密に連絡をとりあうのは難しい。精神的な距離たとえば旦那が浮気をしていてこちらを向いてくれないなら興味は浮気相手にあるのですから、乗り込んでいって話をつけてもよいでしょう。

 いずれにせよ「喧嘩別れ」や「疎遠」になった原因を解消すれば「仲直り」できます。

 原因を解消せずに無理やり「仲直り」しようとしても表面だけで、本心から許してくれるとはかぎりません。





最後に

 今回は「物語83.喧嘩と仲直り」について述べました。

 一度関係が途絶えた人と、再び関係を結ぶ「修交する」物語です。

 国家同士でも断絶・鎖国から修交・開国へと進む場合がありますよね。

「喧嘩と仲直り」はそれをひとりの人間が体験するレベルに落とし込んでいるのです。

「出会いと別れ」の逆パターンでもあります。そちらは出会いから始まって別れで終わる。こちらは別れで始まって再会して終わるのです。

 いちばん近いのは「離別と絆」「対立と融和」になりますね。このふたつの中間くらいに位置する物語です。

 まぁ人間って、出会っては別れ、別れては再会するの繰り返しで生きています。

 程度の差こそあれ、つねに人生を彩っているのです。



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