1305.物語篇:物語49.罪と償い

 今回は「罪と償い」の物語です。

 誰かから「罰される」のではなく、自ら進んで罪滅ぼしをしていきます。

 その点が「罪と罰」との違いです。





物語49.罪と償い


 フョードル・ドストエフスキー氏『罪と罰』のように、タイトルでずばり「罪と償い」の物語だと明示する方法もあります。

 しかしここでは他者から「罰」を受けるのではなく、自ら「償い」を行なう物語について述べていきます。




罪を犯す

 人間、真面目に生きていればまず罪は犯しません。

 なんらか不測の事態が発生したとき、場当たり的な判断から「罪を犯す」のです。

 計画犯、確信犯は事前に計画や信念などを固めたうえで行ないますから、「場当たり的」ではありません。

 だからこそ場当たり犯は改悛の情もあり、情状酌量の余地もあります。

 人間社会において「罪」とはなにか。

 他人を損ねるのが「罪」です。

 たとえば相手の体を傷つける。傷害や殺害ですね。

 相手の精神を傷つける。脅迫や強要ですね。

 相手の名誉を傷つける。名誉毀損ですね。

 相手の財産を傷つける。窃盗や器物損壊や放火ですね。

 相手の愛しいものを奪う。誘拐や略奪ですね。

 このように、他人のなにかを損ねれば、それが「罪」であると明確に主張できます。

 現代日本において最も罪が重いのは「強盗殺人」「放火殺人」です。この二つにはためらわず「死刑」が適用されます。とくに複数名が死んだ場合「永山基準」が適用されて「死刑」が命じられる可能性が高いのです。

 2019年7月18日に起こった「京都アニメーション放火殺人事件」においては、被告も全身火傷を負って治療が行なわれ、事情聴取すらままなりませんでした。しかし懸命の救命措置により被告は回復し、現在事情聴取が進められています。

 これまでの司法の判断から「複数名の死者が出た放火殺人事件」なので「永山基準」を適用して「死刑」は免れないでしょう。

 ではなぜ国は「死刑」にするべき被告の命を救ったのでしょうか。これに矛盾を感じている方も多いと思います。

 理由は明白で「罪を問うて法に従って裁く」ためです。

 私怨が入れば「全身火傷ならそのまま殺せ」となります。しかし日本は法治国家なので、犯人を裁く権利があるのは司法である裁判所だけです。

 いくら憎いからといって、私怨を晴らすために犯人を殺してはなりません。それは「未必の故意」での「殺人」と大差ないからです。

 このように、他人のなにかを損ねたら、それが「罪」となります。




罪の贖い方

 そして「罪」はいずれあがなわなければならないのです。

 もちろん法によって裁かれるだけが贖う道ではありません。

 自発的に「償う」方法もあります。

 今回の「罪と償い」の物語は、誰かから処罰されるのではなく、自発的に「これは駄目なことだったんだ」と感じて相手へ「償う」のが本筋です。

 いちばんわかりやすいのはマンガの和月伸宏氏『るろうに剣心〜明治剣客浪漫譚〜』でしょうか。

 幕末に暗躍した伝説の「人斬り抜刀斎」が、「償い」の思いで逆刃刀を差しています。誰かが危機に陥ったら、相手を殺さずに制して弱い人々を守る使命を己に課しているのです。

 小説にするなら、まず幕末で「人斬り」をしていたシーンを入れて、読み手に主人公の「罪」を認識してもらいます。そして明治時代になり「人斬り」の「償い」を始める姿を見せる。「罪と償い」の物語であるとわかる構成にするのがベストです。

 かつての「人斬り」が元で、誰かから恨まれることだってあるでしょう。「人斬り抜刀斎」こと緋村剣心だって、かつての妻・雪代巴の弟・雪代縁に恨まれていましたからね。

 それでも剣心は縁に対して「償い」を果たしたのです。

 かつての剣豪が、身分を偽って風来坊や用心棒になる。

 その設定だけなら、類例は多数あります。実際、時代劇の剣豪もの『木枯し紋次郎』『子連れ狼』『座頭市』や「仕事人」シリーズなどで数多く見られるのです。

 アメリカのハリウッド映画でも、ベトナム戦争の帰還兵が再び銃器を携えて巨悪を倒す「勧善懲悪」ものは一時代を築きました。

 まぁ『木枯し紋次郎』以下はすべて相手を殺しているので「償い」の気持ちがあるのかは疑問ですが。

 現在では厄除けのほかに「償い」のために四国八十八ヶ所霊場巡りをされる方もいらっしゃいます。教会の懺悔の部屋で罪を告白して助言を得るのも、とくにキリスト教信者に多いですね。「苦しいときの神頼み」はいつの時代どの場所も同じなのかもしれませんね。




罰か償いか

 では主人公の「罪」に対して「罰」を与えるべきか、自ら「償わせる」べきか。

「罰」を与えるのは「勧善懲悪」のパターンを、悪役サイドから描いた物語です。

 そういう意味ではマンガの大場つぐみ氏&小畑健氏『DEATH NOTE』はまさに主人公・夜神月が死神のノートで犯罪者を殺しまくった「罪」に対して、絶体絶命に陥って死神リュークに頼ったところで「罰」を与えられる物語として見られますよね。

「勧善懲悪」を犯罪者の視点から描くのはかなりの異色作です。テレビドラマのピーター・フォーク氏主演『刑事コロンボ』や田村正和氏『古畑任三郎』などのいわゆる「倒叙ミステリー」も、それぞれコロンボ、古畑任三郎が登場するものの、その回の主人公は犯人の側になっています。

 犯人がトリックを仕掛けて殺人を行なう「罪」。トリックを見抜いて犯人に突きつける「罰」。これがセットだから面白いのです。

 しかし「罪」に対して「償い」を選ぶ物語はごく少数になります。

 前述の『るろうに剣心』のほか矢吹健太朗氏『BLACK CAT』の主人公トレイン=ハートネットも、昔は要人暗殺を生業としていた伝説の抹殺者の「罪」があり、それを「償う」ために賞金稼ぎへと転身しているのです。

 アニメのサンライズ『新機動戦記ガンダムW』の主人公ヒイロ・ユイも、地球圏統一連合の穏健派が乗ったシャトルを誤って撃墜する「罪」を犯し、その後仲間のトロワ・バートンとともに遺族のもとへ「償い」の旅に出ます。

 この三名に共通しているのは、根は平和主義者だったところでしょうか。平たく言えば「やさしかった」のです。

 だから自らが犯した「罪」を、「償わ」ずにおれない。

 非情であるべき殺し屋が「罪」の意識にさいなまれ、「償い」の旅に出る。

 そういう行動こそが、振れ幅を大きくして「キャラが立つ」のです。

 緋村剣心もトレイン=ハートネットもヒイロ・ユイも。

 だからこそ人々の心に残る主人公となりえたのです。





最後に

 今回は「物語49.罪と償い」の物語について述べました。

 通常なら「勧善懲悪」の裏側で「罪と罰」が物語になりやすいのです。

 しかし犯罪者はなにも極悪非道ばかりではありません。

 誰よりもやさしい人が「罪」を犯してしまうこともあります。

 だからこそ、自ら「償う」べく旅に出るのです。



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