1242.学習篇:書き手の存在感など要らない

 今回は「ニッポン放送(1242kHz)」……ではなくて「書き手の存在感」についてです。

「あなたにしか書けない作品」はけっして「あなたの存在感」を表に出すことではないのです。





書き手の存在感など要らない


 書き手の皆様の中には、文章にクセを作って「書き手の存在感」を主張している方もいらっしゃるでしょう。

 しかし「書き手の存在感」が強ければ強いほど「小説賞・新人賞」から遠ざかってしまいます。




誠実さが求められる

 文章が書けるから小説も書けるとは限りません。

 小説はただの文章よりも「相手に伝えよう」と工夫するものです。

 そもそも小説は絵空事を書いているにすぎません。

 ほとんどの小説は「フィクション」で構成されています。「ノンフィクション」や「ルポルタージュ」などのジャンルもありますが、まったく「フィクション」を含まないなんてありえない。「ノンフィクション」小説こそ「もっともらしいフィクション」で書かれているジャンルだと言えます。「実録○○」なんて言葉が躍っても、そこには脚色「フィクション」が必ず含まれているのです。

 かえって「フィクション」前提の小説のほうが、「テーマ」を直接読み手へ訴えかける力があります。

 多くの方が「剣と魔法のファンタジー」を書くのも、「フィクション」前提だからです。

 なにを書いても「これはフィクションなので」と逃げ道を用意してあるとも言えます。

 しかし文責を明確にして「こう書いたのには理由があるのです」と言い切れる強さが欲しいところです。

 つまり小説を書くのなら「誠実さ」が求められる時代になりました。

 どんなトンデモを書いても笑って許される時代はとうに過ぎたのです。




剣と魔法のファンタジーは現代日本の田舎ふう

 ある程度現実との整合性がとれている世界を舞台にする。

 少なくとも日本人には日本的な社会や世界でなければ理解されづらいのです。

 そもそも「中世ヨーロッパ風」がどんなものか知っている日本人はいません。

 だからなぜか「現代日本」のような社会が生まれてしまうのです。

 中世ヨーロッパなら奴隷制度もありましたから、本来なら奴隷がいてもいいはずなのに「剣と魔法のファンタジー」の「ライトノベル」にはほとんど出てこない。現在の「日本」と相反する設定がなかなか受け入れられない証かもしれません。

 現在の日本でも奴隷はいるんですよ。よく派遣社員や契約社員がSNSで奴隷扱いされますが、それとは比べものにならないほどの奴隷が存在します。東南アジアやアフリカなどの諸国から受け入れている「技能実習生」です。彼らは日本人の派遣社員や契約社員とはかけ離れた安い賃金で働かされているのです。政府は農業従事者が少なくなったから「技能実習生」を受け入れたとしています。しかし実際はていのよい「奴隷」です。

 現在の「日本」を基準にするのなら、時事に強くなりましょう。「新聞を読め」「テレビを観ろ」とは言いません。インターネットでもその気になれば時事に詳しくなれます。

 現代日本にいないと思っていた奴隷は、存在するのです。ただそれを「奴隷」と呼ばないだけで。

 もっと誠実に現実を見つめ直してください。

「技能実習生」という名の「奴隷」制度があると認識できるかどうか。

「奴隷はいない」と思い込むのではなく、きちんと「取材」して事実を追い求めてください。

「剣と魔法のファンタジー」世界が「中世ヨーロッパ風」のはずなのに、社会構造は現在の普遍化された「日本」社会と大差ない。それが「ライトノベル」の現実です。

「剣と魔法のファンタジー」世界は「中世ヨーロッパ風」と呼ばれます。「ふう」と付くのは「中世ヨーロッパ」の実情を知らない日本人が、それらしい世界観を生み出したからです。多くの「剣と魔法のファンタジー」作品はその世界観を踏襲してきたにすぎません。

 つまり現在の「剣と魔法のファンタジー」の世界観は多くの書き手の「思い込み」で成立しています。

 そういう世界観でよしとする向きもありますが、私はもっと「中世ヨーロッパ」に近づけた世界観を提示したいところです。

 たとえばドレスの裾が長く広がっているのは「階段の踊り場などで用を足すため」とか。中世ヨーロッパに現代日本のような水洗トイレがあるはずもないのです。だからドレスの形状と香水が発展したとされています。香水をつけなければ「用を足した」ニオイがプンプンしてしまいますからね。男性は「百年の恋も冷める」のではないでしょうか。

 香水の起源には諸説あります、しかし今のようにバリエーションが豊かになったのは、間違いなく「用足しのニオイ消し」としてです。

 お食事中の方、失礼致しました。




書き手の存在感を消す

 小説と誠実に向かい合う。そのために作品世界をきちんと作り上げてください。それとともに「読み手へ誤りなく伝えよう」とする真心が必要です。

 小説がただの文章と違うのは「読み手に物語を噛み砕いて伝えようとする」からかもしれません。

 そういった真心がなければどんな物語もただの文章です。読み手に伝わるような配慮をしていません。

 読み手を理解し、彼ら彼女らがわかるような表現を心がけましょう。

 相手を想定して文章を書いていれば、真心の花が綻ぶのも時間の問題です。

 小説を何本か書いてきて、それなりにこなれた文章が書けるようになっても、「読み手に物語を噛み砕いて伝えようとしな」ければ「仏作って魂入れず」。形はあっても、そこに魂が宿っていません。

 それで読み手へ「テーマ」が伝わるものでしょうか。

「テーマ」を直接書かず、物語の形で迂遠に読ませるから小説は人気が出るのです。

 物語に落とし込まれた「テーマ」を、「読み手に伝わるように」書いてください。

「俺様の書いた世紀の傑作を読みやがれ」の精神では見向きもされません。

 小説に「書き手の存在感」を出してはならないのです。

 三人称視点なら「語り手の存在感」もときには必要でしょう。しかしライトノベルの多くが採用する一人称視点では「書き手の存在感」など必要ありません。

「書き手の存在感」「語り手の存在感」を限りなく消し去り、読み手が自然と物語に入り込めるように配慮するのです。

「書き手の存在感」については、私が評価しない村上春樹氏を挙げてみます。

 村上春樹氏の小説はひじょうに「書き手の存在感」を主張する文章なのです。だから好き嫌いが分かれるのではないでしょうか。

 読み手の心にズカズカと踏み込んできます。

 なんの配慮もありません。だから私は村上春樹氏の作品を楽しめないのでしょう。

 小説は「お伽噺を読む語り手」など必要としないのです。

 ひたすら「書き手の存在感」を消し、読み手に抵抗されずすんなりと入り込めるよう工夫してください。

「ハルキスト」は村上春樹氏が小説世界で「村上春樹氏の存在感」を主張するのが好きなのでしょうか。そんな気もしています。「存在感」があるから「これぞ村上春樹文学」という共通認識が生まれるのかもしれません。

 私は「書き手の存在感」は不要だと思っています。しかし村上春樹氏は「書き手の存在感」を主張しなければ小説ではないと思っているように感じられるのです。

 妙にひねりを利かせた比喩表現も「村上春樹氏の存在感」を全面に出すための手法ではないのか。

 確かに「小説賞・新人賞」は「その書き手でなければ書けない作品」が獲るものです。

 しかしそれは「書き手の存在感」を主張する文章とは違います。

 むしろ「書き手の存在感」を消し、物語世界へスムーズに入り込めるように配慮するべきです。





最後に

 今回は「書き手の存在感など要らない」について述べました。

「この書き手だから書けた小説」とは「書き手の存在感」が全面に出た小説を指していません。

 むしろ「書き手の存在感」など微塵も感じない平易な文章こそ、「この作者だから書けた小説」とみなされます。

 比喩にクセを作るのも結構です。しかしあまりにひねりすぎるとクセが強すぎて肝心な味わいを失ってしまいます。

 読み手に「なぜこんな表現をするのだろうか」と思われない、読みやすくわかりやすい小説を目指しましょう。



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