1222,技術篇:家庭によって教育格差が存在する日本という国

 今回は「教育格差」についてです。

 日本は国民の三大義務に「教育」を入れています。

 ですが、すべての子どもに等しい「教育」が提供されているわけではありません。





家庭によって教育格差が存在する日本という国


 日本は「教育」を国民の三大義務のひとつとしています。

 それほど「教育」に力を入れていますが、家庭の所得によって格差が生じるのです。




貧富の差が教育格差に直結する

 日本に限らず、世界の教育現場では貧富の差がそのまま教育格差につながっています。

 たとえば世界一の先進国とされるアメリカですら、スラムの住人は満足に学校へ通えません。裕福な家庭の子どもなら、有名私立を渡り歩いて高学歴で幹部候補として就職できます。つまり富める者はより富み、貧しき者はより貧しくなっていく。これがアメリカの現実です。

 日本は曲がりなりにも「教育の義務」があるため「義務教育」が存在します。だから中学校卒業までは国や都道府県、市区町村が面倒を見てくれます。最近では高校無償化施策によって高卒までは行けるようにもなっているのですが、家庭の事情から中卒で就職して家庭に仕送りしなければならない子どもはまだまだ多いのです。

 その意味ではアメリカよりも公平・平等だとは思います。しかし日本にも教育格差は存在するのです。

 貧しい家庭の子どもは中卒で就職せざるをえません。裕福な家庭では有名私立高校から有名大学へ通い、留学までして自身の価値をじゅうぶんに高められます。そうなれば就職でも幹部候補として採用されますから、万年平社員の中卒者が企業のトップに立つなんてそう簡単には起こりません。

 中卒でトップに立つには起業するほかありません。ときどき中卒から叩き上げで社長まで昇りつめる強者もいますが、ひじょうに稀です。

 起業の形ですと「GMOインターネット株式会社」の熊谷正寿社長が高校中退で最終学歴が中卒となっています。

 起業ができるということは、それなりの元手があったわけで、貧しい家庭ではなかったのかもしれません。そうであれば、ここでもやはり貧富の差が見えてきます。

 私のように母子家庭の四人兄弟だと高校に通うだけでも精いっぱいなんですよね。

 そんな背景もあるので、せっかく大学へ進んだのなら、一生モノのスキルを身につけてください。そこへ入れなかった方がいた事実も受け止めましょう。ムダにしたら私の怨念が襲いかかってきますよ。




画一教育が発想の乏しい子どもを生む

 日本の義務教育は「教育機会の均等化」のために導入されています。

 しかし子どもによって理解力には差があるのです。ある子どもはどんどん理解していきますが、他の子どもはまったく理解できなくて取り残されてしまいます。

 そのため、日本は「学習塾大国」です。

 学校教育では物足りなくて高等教育を受けるために学習塾に通う子どももいますし、学校教育についていけなくて学習塾で補習する子どももいます。

 学習塾の「公文くもん」を運営する「日本公文教育研究会」は世界に展開しています。とくに算数教室が好評で「公文式」と呼ばれるメソッドが確立しているのです。

 そうなると学習塾に通わなくても学校教育についていける子どもはどうすればよいのでしょうか。

 今よりも難しい知識を憶えるのは難しく、だからといって補習するために通う必要もない。

 こういった子どもこそ、日本が持つ「画一教育」の犠牲になります。

 つまり「可もなく不可もなし」ないたって平凡な子どもを量産してしまったのです。

 もちろん補習で学習塾に通っている子どもも、追いつけば同じ教育を受けます。

 それだと才能があって学校教育では物足りない生徒だけが、型から外れるのです。しかも才能があっても学習塾に通えない貧しい子どもは、才能を腐らせます。せっかく有能でも貧富の差が子どもの将来を潰してしまうのです。

 富める家庭の子どもは、学習塾ではなく家庭教師を雇います。学習塾もそこに特化した「画一教育」を叩き込まれるだけですからね。その点家庭教師なら、子どもの理解度を把握しながら先の知識へと子どもを導けます。


 家庭教師の偉大さがよくわかる例は「発明王」トーマス・アルバ・エジソン氏です。

 好奇心旺盛な彼は先生を困らせる質問ばかりしたため、小学校をわずか三か月で退学させられました。その後、教育熱心な母親に勉強を教わりながら、科学を学んでいったのです。

 このときの母親の教え方こそが家庭教師の見本となります。

 子どもの好奇心をひとつずつ満たしてあげて、知識をどんどん吸収させていくのです。教えなければならない知識などいっさいありません。子どもが好奇心を持って憶えたい知識があれば、子どもとともに見つけていく。これがよい家庭教師なのです。

 子どもの自主性を引き出し、子ども自身に答えを発見させる。

 答えを知っている大人はつい先を急いで教えてしまうものです。よい大人は子どもが発見するまで放置します。聞かれたときだけヒントを答えればよい。正解は子ども自身に見つけさせるのです。


 エジソン氏ほどの天才であろうとも、母親が家庭教師にならなければ「発明王」にはなっていません。

 日本の義務教育の枠にハメ込んでしまったら、エジソン氏は「発明王」にはならず、「困ったことばかり引き起こす異端児」としか見られなかったはずです。

 いつの時代も「天才」は周囲の調和を乱します。

 退屈な授業なんて「天才」には必要ないのです。適切に導いてあげるだけで、とんでもない「怪物」が生み出されます。

 残念なことに、日本の「義務教育」は「天才」も「怪物」も生み出しません。学習要領に従って画一化された、金太郎飴のような「製品」しか生み出さないのです。

 そろそろ日本の義務教育も「単位制」にしたほうがよいでしょう。

 子どもが憶えたい知識を際限なく与えるためには、小学四年生の教科書ではなく、専門書を渡すべきだからです。

 本当に才能のある子どもは、教科書ではなく専門書で知識を得ます。誰に言われるでもなく、自分から専門書を読み解こうとするのです。その学習意欲こそが「天才」を生み出す母胎になります。


 あなたは、人に劣らない趣味を持っていませんか。「これなら誰にも負けない」くらいに力強い趣味です。

 私なら「コンピュータ」ですね。小学二年生からコンピュータが「0と1」からできていると理解し、今では端末を少し自由にいじくるだけでシステムを制圧できるレベルに達しています。

 官公庁へ派遣社員で行っていた際、「官庁会計システム」をほんの少し触っただけで制圧したのです。「官庁会計システム」のオペレーションルームで処理している間に、操作が不慣れな職員を補佐したことが幾度もあります。

 他の職場でもコンピュータを使ったシステムであれば、少し自由にいじくるだけで制圧可能です。

 小学二年生で「0と1」とプログラム言語「BASIC」を学び、中学二年生でマシン語を憶えて初のゲームソフトを作り、高校二年生でプログラム言語「C」を憶えました。

 それもこれも、私が自ら「知りたい」「憶えたい」と思ったからできたのです。

 他人から強制されて憶えさせられたら、けっして憶えなかったでしょうね。

 知識は押しつけられるものではなく、自ら求めて吸収していくものだからです。





最後に

 今回は「家庭によって教育格差が存在する日本という国」について述べました。

 日本の学習環境には「貧富の差による教育格差」と「レベルの差による教育格差」があります。

 いずれも政治力で改善が可能なのですから、政治家が正しい方向を示すべきなのです。

 それすらもしないのは、画一化された人のほうが国(政治家)にとっては扱いやすいからに他なりません。

 ほどほどの知識があれば、生活に困らない。

 その程度の知識しか教えられないのが、日本の「義務教育」なのです。



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