1200.技術篇:【著者自己紹介(社会人として)】

 社会人となり、現在までの要約です。

「失われた20年」「就職氷河期世代」直撃で就職できず、社会人生活はアルバイトから始めています。

 波乱万丈の半生をお楽しみくださいませ。





【著者自己紹介(社会人として)】


 前回に引き続き「私の自己紹介」についてです。

 あまり聞きたくないかもしれませんが、日頃偉そうな口を利いているのはどんな人物なのか。知っておくと皆様のやる気が沸いてくると思います。

 たいした人物でもないので。




自己鍛錬とアルバイト

 とりあえず体質を安定させるために高卒でいったんプー太郎になります。

 そして本来やりたかった「ゲームクリエイター」を目指すべく独学で勉強を始めました。ここで「プログラミング」「ゲームデザイン」「音楽」「コンピュータ・グラフィックス」そして「シナリオ」の勉強をもう一度基礎から学びなおします。ですがこのときにはすでに分業制が主流で、一人ですべてを創らなければならない時代ではなかったんですよね。それでも一人にこだわっていました。やはり昔雑誌で見たスタープログラマーを夢見ていたんですよ。

 そのためパソコンNECの「PC−9801RA2」を手に入れます。この頃はすでに「パソコン」と呼ばれていたのです。

 そして就職用に当時主流のOSであるMicrosoft『MS−DOS』を全面32ビット化して、16ビットのソフトがすべて走るという独自OSを開発しました。まぁ「ディスアセンブル(挙動解析)」して、どのコマンドでどこにどの情報が格納されるのかをすべて解析していたので、今から思えば完全に「脱法行為」ですけどね。

 ちなみに、マシン性能をモニターの割り込み周波数である60Hzで割り込み処理するという代物でした。

 独自OSが完成してゲーム会社へ就職しようと活動しましたが、すべての会社が新卒大学生しか採らない方針だったため、通える範囲のゲーム会社は全滅でした。高校を卒業した年に「バブル崩壊」による「就職氷河期」が始まっていたからです。「失われた20年」とも言われる時代でしたから、たとえ実力があっても当時は「学歴優先」の買い手市場だったんですよね。そこでいったんゲーム開発から離れて、ビル内清掃のアルバイトを経て、中古ゲームやCDを販売する店のアルバイトを始めます。


 このときに「演技」の知識が将来の役に立たないかなと考えて都内の俳優養成所に通うことにしました。そこで表現者としての自覚が芽生えたのです。元々「ゲームクリエイター」志望つまり表現者を目指していたので、かなり意欲的に取り組みました。

 しかし前述したとおり私は体が弱いので、アルバイト先の職場環境から今でいう「エコノミークラス症候群」にかかったのです。とにかく昼から夜まで立ちっぱなしで座れず、しかもトイレにもなかなか行けないので水分も摂れませんでした。血液がドロドロになってしまったのです。

 生活と夢のどちらをとるかで悩みましたが、生活できないことには夢は追えません。そこで俳優養成所は辞め、体調の回復を期待しましたが上記の環境ではそれほど改善しないのでアルバイトも辞めました。

 その後体調の回復を待って次のアルバイト先を探します。前回が販売業だったので、次も販売がいいなと探していたところ、市内の書店が募集していたのです。そこを受けて一発合格してアルバイトを開始。一か月後に「店長にならないか」と誘われて、まず社員に、三か月後に主任に、そして九か月後に店長になりました。そして本社の通信販売事業立ち上げメンバーに選ばれて、本社付係長となります。

 この昇格・昇進には裏があります。まず高校で「簿記」を選択授業でしていたので貸借対照表・損益計算書が読めました。複式簿記もわかる。高校ではさらに「情報処理」を選択授業でしています。ですが前記したとおり、小学二年からコンピュータにどっぷり浸かっていたので、高校の「情報処理」程度の知識は中学二年までに修了しています。そもそも当時の国家試験「情報処理一種」が取れるだけの勉強をすでに済ませていましたからね。受験料が一万円を超える高額なため、試験は受けませんでしたが。

 もし今アルバイトや派遣社員などをしていて、正社員になりたければ「簿記」資格を取りましょう。一級は法律が絡んでくるため、本格的に学ばなければなりませんが、二級までなら独学でどうとでもなります。一級が取れたら税理士試験も望めますから「簿記」を極めて税理士を目指す手もありますからね。だから少なくとも「簿記二級」の知識は手に入れておくと私のように「いきなり店長」なんてこともありえますよ。


 主任の頃に自転車通勤中、自動車との交通事故に遭って自転車が縦に二回転し、後頭部と頸部をしたたかに打ちました。その影響で右半身に軽度の麻痺が遺ったのです。のちに自律神経失調症と髄液減少症を患ったと知りましたが、これは派遣を辞めたあとに判明しています。

 そして店長引き継ぎの1月1日未明、新しくフランチャイズ社員となる方の車で、私物のパソコン富士通『FM−TOWNS MA2』を自宅に運ぶべくその方の軽自動車の後部座席に載せて自宅までドライブすることになりました。後ろが塞がっているので私は助手席に。

 そして国道の信号機に差しかかったとき、信号が赤なのにエンジン音を高めながら車は交差点に侵入していったのです。運転手に呼びかけますが反応はなく、右足がアクセルを踏みながら意識を失っていました。私はすぐに運転手の右足をアクセルペダルからどけて、まず助手席からハンドルを操作して国道の路肩へ寄せ、ブレーキペダルを右手で押し込んで停車させます。そしてすぐにサイドブレーキを引いて完全に止めました。そうしてから運転手の脈と呼吸を調べましたが、すでに脈は振れておらず、息もしていませんでした。そうです。交差点に差しかかる直前ですでに急死していました。それを確認して救急へ通報したのです。

 なぜ運転手が急死したにもかかわらずパニックに陥らず事故も起こさないで軽自動車を安全な場所へ止められたのか。事前に「非常時の対処法」としてこのようなシチュエーションが脳内にストックされていたからです。まぁ想定は「高速バスで運転手が急死したらどう対処するべきか」だったのですが。当時自動車運転免許証は持っていませんでした。それでも自動車はアクセルペダルを踏むと加速する、ブレーキペダルを踏むと減速する、クラッチペダルの役割もわかっていました。まぁ軽自動車はAT車だったのでクラッチペダルはなかったんですけどね。

 緊急対応としてはほぼ完璧でした。知らなかったので想像が及ばなかったのですが、「ハザードランプを点滅させる」と「停止板を置く」もできたら完璧です。逆に言えば、これができれば完璧だったのですから、「小説のネタとして使える」と今なら思いますけどね。

 これはのちに自動車運転免許証を取得したときに判明したのですが。

 心臓マッサージと人工呼吸を続けながら救急車を待ちました。その方は心臓に持病を持っている方だったので、交差点で加速したときにした軽いうめき声が最後の言葉だったようです。その方の四十九日に納骨されるとのことで仕事場から二時間ほど離れたところまで出向き、そのあと家に帰れずすぐに引き継ぎの職場へ行かなければならなかったので、納骨の儀には参加しましたが遺族に臨終の様子もお伝えできませんでした。この頃からこの書店運営会社によい印象を抱かなくなります。

 それからほどなく就任した通信販売部門は、私にかかる期待と与えられた役職が見合っていませんでした。本社付係長は各店店長よりも下、主任より上の扱いだったからです。通信販売は各書店の在庫を売ることになりますから、店長と同等かそれ以上つまり課長か部長並みの権限がなければ、実店舗の在庫を押さえる手腕を発揮できず期待に応えられないのは目に見えています。

 だましだまし通販事業を立ち上げますが、権限もないのでどうせコケるだろうなと思っていました。そこで右半身の軽度麻痺が治らないことと、会社への不信感を理由として退職することにしました。

 店長時代のツテで他社の販売職を少しだけ引き継いでバトンタッチし、その会社とは完全に手を切ったのです。このときは勤務時間一日十三時間、八か月で休みは一日だけ、二日ほど通院しましたがすぐに出勤しなければならないハードスケジュールで、体調を完全に壊しました。ここで長期の休みに入るのです。




派遣社員から現在へ

 それからのちは派遣社員となって各省庁の事務をこなしていきます。

 派遣社員になったので時間にも余裕が生まれ、三たび「プログラミング」「ゲームデザイン」「音楽」「コンピュータ・グラフィックス」「シナリオ」について勉強する機会を得ました。自分のWebサイトを持ってCGや小説の書き方などを載せ始めたのもこの頃です。

 本コラムの基礎篇と中級篇は、そのときのサイトへ掲載したものに手を加えただけだったりします。

 順調に見えた派遣社員生活でしたが、右半身の麻痺が次第に強くなり、病院に通って処方薬を飲んでもいっこうに改善しなかったため、泣く泣く契約を解除しました。

 ここからさらに長期の療養生活が始まります。


 空いた時間を利用して、まず「コンピュータ・グラフィックス」を完全に身につけようと『お絵かきBBS』で腕を磨き、Adobe『Photoshop』もマスターし、『pixiv』に登録していくつか作品をアップしました。その次になにをやろうかなと考えて「小説」を書こうと思い立ったのです。

 このときに小説投稿サイト『小説家になろう』の存在を知りました。しかし、まずは使い慣れた『pixiv』の姉妹サイトで立ち上げられたばかりの『ピクシブ文芸』へ短編作品をいくつか投稿したのです。

 そうしてから満を持して本コラムの連載を開始しました。

 前述した個人Webサイトを再構成して『ピクシブ文芸』で連載を開始したのが2017年4月17日。以後本日まで1200本のコラムを毎日連載しているのです。

 我ながらよくここまで続いたなと感心しております。これも読み手である皆様が評価してくださるからです。誠にありがとうございます。

 ちなみにまだ右半身軽度麻痺とめまい・頭痛は続いているので、長期休養はまだ明けないようです。

 もし会社に務めていたら丸三年以上も毎日連載は継続できなかったでしょう。





最後に

 今回は「【著者自己紹介(社会人として)】」について述べました。

 ざっくりとしていますが、だいたいこんな人物が偉そうに「小説の書き方」コラムを書いております。

 幻滅された方もいらっしゃると思いますが、生ぬるく見守っていただければ幸いです。

 以後はいつ不定期連載になるかもしれませんが、よろしくお願い致します。

 終わるときはスパッと終わるつもりです。

 書籍を読んでいて「これ、コラムのネタに使えるな」と思ったらコラムを書き、そこから派生させて「こんなことをネタにできないか」を考えています。

 今は主に「株式投資」を勉強しています。小説で「デイトレーダー」を登場させたいからです。実際に「株式トレード」をやるとどういう見方になるのだろうと考えました。しかし実際にやってみるのがいちばん手っ取り早いと感じるあたり、児童時代からの行動力の為せる技です。

 そして「株式投資」の書籍を読んでいるのに、そこから「小説の書き方」へのヒントが次々と湧いてきます。

 ジャンルは違えど、憶えること自体には大差がないからです。

 まぁまだデイトレードはしていないんですけどね。まだ現物取引のスイングトレードが手いっぱい。もう少し余裕ができたらデイトレードにも挑戦して、視座を養いたいと思います。

「株式投資」でも思ったのですが、聞くとやるとでは大違いです。

 小説も、本コラムをただ読むだけで書けるようにはなりません。コラムに書かれているものを実際に行動してみて初めて書けるのです。

 そして本コラムは実際に小説を書き始めてから読み返すと、詰まった配管の通りがよくなります。

 そういう使い方ができれば、あなたもきっと小説が一本仕上げられるでしょう。



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