1199.技術篇:【著者自己紹介(高卒まで)】

 もうすぐ1200回となりますので、私の経歴を披露いたします。

 だいたいこんなやつが、偉そうに「小説の書き方」コラムを書いていると思ってくださいませ。

 なかなか波乱万丈の半生だと思います。





【著者自己紹介(高卒まで)】


 これまで断片的にお伝えしてきた私のプロフィールを改めて書き出してみました。

 こんな人物が偉そうに「小説の書き方」の話をしているんだと思っていただければと存じます。




小学卒業まで

 物心ついた頃から養護施設で暮らしていました。

 二歳で養護施設に入り、物心のついた三歳の頃には施設内保育園でのお昼寝の時間に部屋を抜け出し、施設内の遊具で遊んだり、施設内を探検したり(園長室へ無断で忍び込むなど)、ときには施設外へ出てターミナル駅まで歩いて出かけたこともあります。もちろん帰り時間を考慮しながら。こんな三歳児って怖いですよね。またとんぼ返りやバク転などを練習し始めたのも物心がついた頃から。

 養護施設は普段あまり「おしゃべり」できません。少しでもうるさくしていると年上から怒られる。だからどうしても気持ちをためこみがちで、内向的になるのです。

 つまり養護施設育ちながら、想像以上に外向的という摩訶不思議な児童に育ちました。

 小学校へ上がるタイミングで母親の下に四人兄弟が引き取られました。なので学童保育や塾などには通っていません。

 そこからは私が本来持つ行動力が全開で発揮されたのです。

 小学校ではクラスを引っ張るガキ大将です。しかも「剣と魔法のファンタジー」である『アーサー王伝説』に影響されて、級友とほうきとちりとりを剣と盾に見立てて剣術ごっこをする。そして当たり前のように天井の蛍光灯を割っていましたね。窓ガラスを割ったのはさすがに一回だったかな。本当にそら恐ろしいほど外向的な性格をしていたのです。

 級友と一緒ならいつも遅くまで遊んでいましたし、誰もいなくなったら学校の砂場でひとりアクロバットの練習をしていました。もちろん教えてくれる人なんていませんよ。剣術もアクロバットもすべて独学です。

 小学二年で「マイコン」の存在を書店に置いてある雑誌で知りました。アスキー『月刊マイコン』だったかな。これが運命の出会いでしたね。「プログラム」というのをその「マイコン」に入れれば、計算やゲームができる。まさに魔法のような機械です。もう可能性を感じざるをえませんよね。

「これからはコンピュータの時代だ!」と。

 そこで自分も「プログラム」が作れるようになろうと考えました。しかしわが家は母子家庭の四人兄弟なので、当時はコンピュータを買えるほど豊かではありません。そこで書籍を買ってもらってプログラム言語「BASIC」は独学で習得しました。実機がないので頭の中でプログラムを走らせて成否を判断するという芸当を身につけたのです。以降プログラムで苦労しなくなります。なにせ頭の中でコンピュータと同様、完璧に走らせられますから。

 そんな折、小学三年生の三学期の直前に引っ越しをし、新しい小学校へ通うこととなります。その小学校がクセモノで、ほとんどの児童が同じ幼稚園・保育園通いをしていたらしく、外部から来た私をいじめてきたのです。

 ですが元々外向的なのでいじめられるとつい反撃に出てしまう。あまりに絡まれるので中国武術の書籍を買って独学で少林拳の勉強をしました。ただ打撃で相手を倒してしまうと正当防衛にならないと知ったので、ついでに柔道の一本背負い投げと巴投げを取り入れしました。元々アクロバットの練習で思うように体が動かせましたので、少林拳も柔道の投げ技もすぐ身につけました。

 小学五年で電波新聞社『マイコンBASICマガジン』を読んで、ゲームを作るなら「プログラミング」「ゲームデザイン」「音楽」「コンピュータ・グラフィックス」「シナリオ」をひとりで創らなければならないと知りました。そこでひとつずつ習得することにします。

「ゲームデザイン」と言っても当時はアドベンチャーゲーム全盛期でしたから、設計する必要がありません。「プログラミング」も「BASIC」言語は憶えていましたから学ぶ必要がない。そこで『楽典』から「音楽」を、マンガやイラストの模写をして「コンピュータ・グラフィックス」を、小説を読んで「シナリオ」をそれぞれ学びました。

 結局マイコンは小学六年の頃にNECの「PC−6001mkII」を買ってもらえました。これで本格的にゲームを創る環境が整ったのです。




高校卒業まで

 中学校も、小学校のメンツがそのまま近くにある市立中学校へ進学するので、いじめられる日々は続きました。とは言えその都度返り討ちにしているわけですが。この繰り返しがとにかく鬱陶しい。

 いつも追い返されるためある日上級生ふたりを連れてきていじめに来ました。私は一本背負い投げと巴投げで上級生を片っ端から投げ飛ばしていったのです。ここで脳天逆落とし(頭頂部から地面に投げつける一本背負い投げ)を連発。それでもしつこく迫ってくるので適当に反撃を食らったことにして、すぐ警察沙汰にしました。こちらが母子家庭だったこともあり、その日の夜に上級生の親が謝りにやってきましたね。「ケンカを売るなら相手を選べ」という見本です。

 中学二年で新しいマイコンSHARPの「X1 turboII」を買ってもらいました。今回は熱転写プリンタも付けてもらって、これで試験勉強もマイコンでできるようになりました。効率が高まりますね。

 ただアクロバットや自転車でのトレーニングで両膝に激痛が襲ってきたこともあり、手術のため進学する高校は定時制を選びました。全日制だと必ず長距離走をさせられるので、膝の悪化は避けられないからです。

 林間学校での山登りで完全に膝を痛めてしまって、手術が確定しました。修学旅行は班でまわる先を主導して決めただけで、結局参加していません。

 中学三年の十二月に右膝、高校一年の十二月に左膝の手術をしました。

 中学三年の手術の際は、二週間の入院だったので、そのあいた時間で小説を書き始めました。今まで「シナリオ」なら書いていましたが「小説」は初めてなので、なんとか短編小説一本書けたくらいですね。このときの構想はまだ頭にあるので、忘れないうちにまた文章化したいなと思っています。「小説賞・新人賞」への応募作を書く前に、リハビリで書くつもりです。


 高校受験も右膝の手術後に松葉杖を突いて受けます。受験にたいせつな中学三年二学期を手術で棒に振って内申点が下がり、結果的に定時制を選んで正解でした。しかし手術して期末試験を受けなかっただけで内申点が十以上下がるとは思いませんでしたよ。受験はとくに心配していませんでした。元々の成績を考えても楽勝ですからね。私が苦手なのは英語だけで、それも五段評価で三はとれるくらいはありましたから。手術跡の痛みがありながら三百八十五点で首席入学となり、入学式の新入生代表に選ばれるといったハプニングもありましたが。

 中学校の修学旅行にも行っていないし、卒業式も前日リハーサルだけ参加して当日は行っていませんので、高校入学式も当然ズルケましたが。代理で読まされた次席の方に申し訳ない。


 進学した高校には同じ中学から五名だけ一緒でしたので、ほとんどの同級生は初対面と言ってよいでしょう。そうなれば本来の外向的な性格がいかんなく発揮されます。

 ストレスも感じないので勉強もうまくこなして英語以外は五段評価でオール5でした。やはりいじめは返り討ちにしてもストレスが溜まるんだなぁと思い知らされたのです。

 定時制高校は四年制なので、三年生で進路を決めなければなりません。しかし、なにしろわが家は母子家庭の四人兄弟。姉と兄と弟は高卒で就職、私が大学へ行くプランとなっていました。

 ですが兄が突然「アルバイトしながら大学へ行く」とわがままを言い出します。しかも当の兄は大学へ入学するとアルバイトはいっさいしません。母親が学費と小遣いを全額出していました。そうなると私の大学進学はできなくなります。私の一歳下の弟が奨学金を受けながらアルバイトもして夜間大学へ行くことに。私は元々外向的な人間ですが、体は弱かった(虚弱体質な)のでアルバイトして大学へ行くという無茶はききません。


 ここから社会へ出ていくのですが、スタートダッシュはできませんでした。高校四年で虚弱体質が発動して六日に一日学校を休むような状態でしたので。

 社会人篇は次回にまわしますね。





最後に

 今回は「【著者自己紹介(高卒まで)】」について述べました。

 こんなわんぱく小僧が、今偉そうに「小説の書き方」のコラムを書いています。

 人生どう転ぶかわかりませんね。

 次回は「社会人篇」です。



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