1198.技術篇:そこに愛はあるか2(対になる存在・脇役)
今回は前後編の後編です。
「主人公を愛している」は最低条件です。
小説を書くなら「対になる存在」も愛せなければなりません。
そして「脇役」も添え物ではなく、存在感を持たせたいものです。
そこに愛はあるか2(対になる存在・脇役)
主人公に魅力のない作品は読まれない。これは厳然たる事実です。
しかし「対になる存在」がなおざりにされてしまうと、主人公が引き立ちません。
よくある「勧善懲悪」の物語なら、邪悪な「対になる存在」が多い。
主人公が自然と憎む対象としてはそれでよいのかもしれません。
でも「対になる存在」にも魅力がないと、物語が面白くならないのです。
対になる存在を愛せるか
魅力的な「対になる存在」とはどのようなものでしょうか。
最も有名なのが前回もご紹介したマンガの武論尊氏&原哲夫氏『北斗の拳』に登場するラオウです。
ただひたすらに強い。肉体的にも精神的にも強いのです。主人公のケンシロウも苦闘を強いられました。しかしラオウはただ強く、ただ純粋な悪であったかといえば違います。ケンシロウからユリアを奪ったのも、彼女のためを思ってこそ。やさしさを併せ持った強さが、ラオウを「愛される対になる存在」に押し上げたのです。
ライトノベルの祖である水野良氏『ロードス島戦記 灰色の魔女』に登場する「対になる存在」灰色の魔女カーラ。彼女はロードス島の善と悪のバランスをとり、どちらかに傾かないように歴史の影から操っていました。そのために英雄戦争を引き起こし、聖王ファーンと皇帝ベルドが共倒れするように仕向けたのです。カーラもただ憎むべき「対になる存在」ではありません。ある意味で純粋すぎたがゆえに、魔法文明が滅んだ理由を誤った価値観で受け止めてしまったのです。
群像劇からは田中芳樹氏『銀河英雄伝説』が挙げましょう。本作の主人公は銀河帝国のラインハルト・フォン・ローエングラムです。そして「対になる存在」は自由惑星同盟のヤン・ウェンリーになります。ご存じの方も多いでしょうが、ヤン・ウェンリーは邪悪な存在ではありません。むしろ軍隊を辞めて隠居生活をしたがっていたほど無害な存在です。邪悪な存在はむしろ地球教のド・ヴィリエ大主教の役回りでしょう。キュンメル男爵を利用してラインハルトの殺害を謀ったり、フォーク准将を利用してヤンを殺害させたり。まさに『銀河英雄伝説』の中では邪悪な存在そのもの。ですが物語の中では単なる脇役でしかありません。そのあたりが群像劇の難しさです。
明確な悪との対決構図にすると、単なる「勧善懲悪」ものにしかなりません。たとえ名前のある登場人物が三百人を超えていたとしても、単なる「勧善懲悪」ものなのです。群像劇では「対になる存在」が邪悪では成り立ちません。それぞれの群雄が各々の正義を持っていて人々から支持されている。だから群雄のひとりとなれるのです。
脇役にも愛を
『銀河英雄伝説』では群雄それぞれが魅力を放っており、主人公のラインハルトだけでなく、「対になる存在」であるヤンのファンも数多くいます。
それだけでなく脇役であるロイエンタールやミッターマイヤー、アッテンボローやポプランなどにもファンがいるのです。
ちなみに私はナイトハルト・ミュラーのファンです。陳寿氏『三国志』に登場する蜀の宿将・趙雲子龍のような立ち位置なので。武勲の誉れが高い関羽・張飛に知名度では劣りますが、軍師・諸葛亮の戦術を完璧に遂行する点では趙雲の右に出る者はいませんでした。そんな趙雲が老衰で亡くなった際、諸葛亮は慟哭したとされます。ミュラーもロイエンタール、ミッターマイヤーの「双璧」に知名度では劣りますが、身を挺してよく主君を助ける働きを見せるのです。まさに『銀河英雄伝説』の趙雲そのもの。
群像劇を勧善懲悪にしない
とまぁ群像劇の場合は、主人公と「対になる存在」それぞれにファンがつかなければ失敗作となります。主人公だけにしかファンがつかなければ、それは群像劇の顔をした「勧善懲悪」ものだからです。
「勧善懲悪」ものが悪いと言っているわけではありません。
お子さまでもわかる単純な構図だから、先を読まれやすいし飽きられやすい。
また群像劇に「勧善懲悪」の構図を取り入れてしまうと、それは群像劇ではなく壮大な「勧善懲悪」でしかないのです。
群像劇で明確な「悪」を出したいのなら、脇役にとどめましょう。全体の中で目立ちすぎると「勧善懲悪」になってしまいます。しかし脇役で
『銀河英雄伝説』でも、キュンメル男爵やフォーク准将はそのときくらいしか登場しません。ド・ヴィリエ大主教にしても歴史の裏で暗躍する存在としてフェザーン自治領のアドリアン・ルビンスキーに接触したり、地球で地球教徒へ指示を出したりするだけです。アニメでは地球教の残党が最終話でラインハルトの病室を襲おうとする場面に登場し、ユリアン・ミンツたちに射殺されます。このシーンはユリアンを主人公にした「勧善懲悪」が成立しています。なにせユリアンは養父のヤンを地球教徒に殺害されたからです。
このように群像劇の中へ「勧善懲悪」を組み込めますが、「勧善懲悪」へ群像劇は持ち込めません。
群雄割拠した『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』は想像できませんよね。
小説賞・新人賞へは勧善懲悪で挑む
翻ってライトノベルとくに小説投稿サイト発の作品は主に「勧善懲悪」で成り立っています。
主人公と、倒すべき敵が明確だからこそ、わかりやすい物語になって読み手を惹きつけるのです。
「主人公最強」「俺TUEEE」「チート」は、悪をバッタバッタと薙ぎ倒す爽快感がウケます。一度でも悪に負けたら、爽快感を味わえないので読み手が離れていってしまいます。
「追放」「ざまぁ」も、勇者パーティーを「悪」に仕立てて、主人公が復讐を果たす筋書きだから読まれるのです。挫折した人が奮起して大逆転を決めたときの爽快感は格別ではないでしょうか。
「文豪」でも、主人公が挫折して、そこから一念発起して鍛錬を積み、最終的な勝利を勝ち取る作品はよく書かれています。
そもそも原稿用紙三百枚・十万字の長編小説に群像劇をするだけの紙幅はありません。それこそ上限なしの連載小説でなければ群像劇をじゅうぶんには表現できないのです。
だから上限ありの「小説賞・新人賞」へ応募するなら「勧善懲悪」ものにしてください。これなら主人公の魅力だけを書けばよいので、三百枚・十万字にじゅうぶん収まります。
ちなみに陳寿氏『三国志』は魏志・蜀志・呉志はそれぞれ長編小説程度の文量しかありません。しかし羅貫中氏『三国志演義』は長編小説を大幅に超える巻数を誇ります。日本語の吉川英治氏『三国志』も群像劇であり、新聞連載が四年続いて、単行本は全八巻です。
『銀河英雄伝説』も本伝だけで単行本十巻なので、群像劇を書こうと思ったら、単行本八巻以上は覚悟したほうがよいでしょう。単行本五巻に無理やり収めた田中芳樹氏『タイタニア』は群像劇としては少し弱いように見えます。田中芳樹氏なら『アルスラーン戦記』は単行本十六巻で完結。こちらはじゅうぶんに群雄割拠した世界を描ききれたと思います。
最後に
今回は「そこに愛はあるか2(対になる存在・脇役)」について述べました。
主人公だけでなく「対になる存在」も愛されるかどうか。
少なくとも執筆時は「対になる存在」にも愛情を注いで、読み手に好かれる・嫌われるように表現してあげてください。
そして忘れてはならないのが「脇役」です。彼ら彼女らがいなければ、物語はふたりの関係だけで書かなければならなくなります。とてもではありませんが、間がもちません。
ときには主人公を食うほどの「脇役」が登場してもよいでしょう。
そして本文中でも書きましたが、「小説賞・新人賞」へは「勧善懲悪」ものを書きましょう。
三百枚・十万字は群像劇を書けるほど長くはありません。実際に書いてみればわかります。制限字数が短すぎることに。
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