1197.技術篇:そこに愛はあるか1(主人公)

 今回は前後編の前編です。

 小説を書くのに必要なのは「愛」です。

 まずは主人公を愛していますか。





そこに愛はあるか1(主人公)


 小説を書くのは楽しいですよね。

 えっ、こちとら「小説賞・新人賞」を狙っているんだから、楽しんでなんていられるか。いつも真剣勝負だよ。との声も聞こえてきそうです。

 しかし書き手が楽しく書けない作品を、生み出すのはかなり難産になりませんか。実際手が止まっているのも、楽しく書けないからではないでしょうか。




主人公を愛していますか

 主人公は物語の要です。一人称視点であれば主人公を通して物語世界を味わいます。

 ところが「視点保有者」の意識が強いと、主人公のリアクションが薄れてしまうのです。

 一人称視点は主人公が感じたものを即座に書き出せる点で優位性があります。

 しかし主人公がただの実況者で終わる可能性もあるのです。

 実況者のまま終わってしまうと、ただの「二人称小説」になってしまいます。

 まぁ難しいと言われる「二人称小説」が書けるのなら、それはそれでありでしょう。

 読み手を深く感情移入させたいと思って一人称視点を採用しているのに、ワクワク・ハラハラ・ドキドキが味わえないのは、ただの欠陥小説でしかありません。

 どうして主人公の内面へ踏み込めないのか。

「主人公を愛していない」からです。

 もし主人公を愛していたら、できるだけ丁寧に書いてあげたいと思いますよね。主人公に愛を傾けなければ「別にここまで書かなくてもいいんじゃないか」と表面的なものしか書けないのです。

 主人公を愛しているかどうか。

 それが一人称視点を成功させられるかどうかを左右します。

 もし愛せない主人公なら、いっそ三人称視点で書きましょう。そうすれば表面的なものしか書けなくても、それが普通なのですから問題にはなりません。




アンチヒーローが主人公なら

 たとえば「アンチヒーロー」ものの場合、「アンチヒーロー」に感情移入できる人は限られています。それを主人公に据えるのですから、へたに感情移入を促進させるべきではありません。社会規範として「悪」と呼ばれるものを推奨するのは間違いです。

 この考えからすれば、マンガの尾田栄一郎氏『ONE PIECE』はどうなのか、という話になります。主人公は海賊王を目指す少年です(そのうち青年になりましたが)。まぁあの世界の「海賊」は悪いヤツらではない、という設定なのでそこまで非難されないのかなとも思えますが。

 じゃあマンガの北条司氏『CITY HUNTER』はどうなのか。主人公は始末屋スイーパーを生業としています。依頼次第では容赦なく人を殺す。当初はためらいもなく殺していましたが、槇村香をパートナーとしてからは「美女の依頼しか受けない」と言って仕事を選んでいましたけどね。でもきっちり勝たなければならない相手に対しては、躊躇なく殺しています。香に殺害現場を見せたくなかった、というのが真相なのかもしれません。

 このように、社会規範で「悪」と呼ばれるものを、前提を変えて応援できるようにした作品は強いのです。「アンチヒーロー」にも人間臭さを感じさせて、読み手が応援できるようにしてしまいます。

 もしあなたの書きたい主人公が「アンチヒーロー」なのでしたら『ONE PIECE』『CITY HUNTER』から「アンチヒーロー」の見せ方を参考にしてください。

 嫌われてもよい「アンチヒーロー」としてはマンガの大場つぐみ氏&小畑健氏『DEATH NOTE』の主人公・夜神月が参考になりますね。全国模試一位の天才が死神のノート「デスノート」を手に入れたことで本質が捻じ曲がっていく過程、屈折した正義感が醸し出す禁断の殺人といった「アンチヒーロー」像が憎らしいまでに表現されています。ライトノベルでもあそこまで屈折した「アンチヒーロー」はなかなかいないのではないでしょうか。

「アンチヒーロー」を得意とする海外の小説家はかなりいます。一例を挙げれば精神科医ハンニバル・レクターが登場するトマス・ハリス氏『羊たちの沈黙』。レクター博士が要約できないほどの悪逆ぶりを発揮しています。それが作品の魅力であり、海外で「アンチヒーロー」が強い理由ともなっているのです。




勧善懲悪は外国人にウケる

 外国人ってこういう悪道ぶりをけっこう囃し立てるんですよね。外国人は基本的に宗教に根ざした「勧善懲悪」の世界観で生きており、明確な「悪」の存在を望んでいます。そうでなければ彼らが「善」の存在とみなしている「救世主」が引き立たないからです。

 そうなのです。一神教の世界には「罪のない善人」と「巨大な悪」とそれを倒す「救世主」がワンセットで存在しています。そして「救世主」はたいてい「神の子」であり物語の主人公なのです。

 だから外国人ウケを狙うのなら「巨大な悪」と「救世主」は存在しないと困ります。

 こう書くと八十年代の『週刊少年ジャンプ』作品が外国人に大ウケしているのも理解できませんか。たとえば武論尊氏&原哲夫氏『北斗の拳』ではラオウとケンシロウ、『聖闘士星矢』では教皇と星矢、『CITY HUNTER』ではユニオン・テオーペの海原神と冴羽リョウのような存在です。鳥山明氏『DRAGON BALL』は「救世主」を孫悟空に固定し、「巨大な悪」をレッドリボン軍、ピッコロ大魔王、フリーザ、セル、魔人ブウと変えることで外国人に熱狂的なファンを生み出しました。

 このように一神教の「救世主伝説」が反映されている物語は、外国人にとてもよくウケます。近作なら久保帯人氏『BLEACH』や岸本斉史氏『NARUTO〜ナルト〜』も「巨大な悪」と「救世主」による物語だったと言えますね。それでいて和のテイストがありましたから、外国人からすれば実に「日本を感じさせる」「日本らしい」作品だったのです。





最後に

 今回は「そこに愛はあるか1(主人公)」について述べました。

 一人称視点では語り手も務める主人公へ愛着を覚えなければ、読んでいて面白くありません。

 最低限、主人公に感情移入できない物語は、よほどの怪作でないかぎりまず見限られます。



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