1183.技術篇:正しい日本語力を身につける
今回は「正しい日本語力」のたいせつさについてです。
少し前に書いた「すべき」「することができる」も「正しい日本語」とは呼べません。
基礎が出来ていないのに応用に進めるはずがないのです。
正しい日本語力を身につける
一次選考を通過したからもう受賞も目の前だ。そう思いたくなるかもしれませんが、焦ってはなりません。二次選考の通過を目指しながらも、毎回一次選考を通過できるだけの土台をしっかりと固めましょう。
応用は基礎の反復から生まれる
野球で変化球を投げたいとします。それでスライダーを憶えたとして、スライダーだけを投げていれば打たれないものでしょうか。
打たれてしまいますよね。
基礎であるストレートが投げられないのに、スライダーだけを投げていたらタイミングや曲がりを見極められてしまいます。スライダーは基礎のストレートがあるから生きるのです。
だからスライダーを投げたいのなら、より効果的になるよう基礎のストレートに磨きをかけましょう。ストレートと同じ速度で打者の手前でクッと曲がるから打者は迷うのです。
小説も同じで、まず基礎である「日本語力」を鍛えずして技巧を憶えても、ほとんど役には立ちません。
どんなにひねりの利いた言葉を遣っても、そもそもの日本語力が乱れていたら、まったく効果がないのです。
私が村上春樹氏の小説が嫌いな理由も、「日本語力が怪しいのに、ひねった表現を多用する」ところ。元々村上春樹氏は英文小説の翻訳をされていた方です。つまり日本語なのに、言い回しが英語の直訳っぽい。文末で「〜た。〜た。」と過去形が何文も続くのも、英文の直訳ではよくあります。
求められる日本語力とは
では、そもそも「日本語力」とはなんぞや。ということですが「文語体の日本語」です。
いくら「口語体の日本語」がうまくても、小説では活かしにくい。一人称視点の小説なら、地の文も主人公の語りになりますから、口語体で押し切ってもそれなりに読める作品にはなります。しかし一人称視点であっても地の文は文語体を用いるのが本来の「日本語の小説」です。
村上春樹氏もここを誤解しているようで、地の文が主人公の口語体による独り語りとなっています。英文の小説は、構文上どうしても主語を必要としますし、地の文では「I」つまり「私・僕・俺など」がどうしても出てくるのです。そんな英文の小説に親しんだ村上春樹氏は、自身の日本語の作品でも主語を主張してしまいます。
以前からお話ししていますが、日本語は「省く」言語です。
最小限の言葉だけを書いて、残りは読み手の想像におまかせします。
これが日本語の小説の正しい基本スタンスです。
つまり毎文主語を書くのは「日本語力が低い」証拠。逆に主語を削り込んだ作品は名作になります。
名作は主人公が後れて出てくる
「ノーベル文学賞」を授かった川端康成氏『雪国』の出だしは本コラムではすでにおなじみですよね。改めて書く必要もないのですが、確認のために何度でも書きますね。ただ字数稼ぎをするためではありませんよ。その意図もありますが。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。」
この書き出しが絶妙なのは「なにがトンネルを抜けたのか」の主語がないところです。その文に書かれていなければ、通常なら次文に書かれているはず。なのですが次文の主語は「夜の底が」です。「夜の底がトンネルを抜けた」のでしょうか。違いますよね。
ここに川端康成氏の「省く」技術が表れています。冒頭の一文の主語を省いて、主人公への感情移入をしやすくしているのです。
そうです。この「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。」の主語は読み手であるあなた自身。それが「最小限の言葉だけを書いて、残りは読み手の想像におまかせする」日本語の特性を最大限に活かした最高の書き出しなのです。
これが『伊豆の踊子』になると、出し方にかなりの工夫が見られます。
「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。」
この文は一見すると「私」があるから主人公のある書き出しだ。と思ってしまいますが、違います。川端康成氏ほどの達人は、ふたつの文を一文で表現しているのです。つまりこの文は二文に分けられます。
「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ。雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。」
句点を読点にして一文へと転換しているのですが、読んでいてそれに気づかせない。私が気づいたのは「なぜ川端康成氏ほどの書き手が、助詞の重複をしているのだろう」という疑問からでした。助詞「に」の重複は他の「文豪」もよく行なっているのですが、助詞「が」の重複はあまり見ません。なのに書き出しの一文で助詞「が」の重複を「あえて」行なっているのです。
二文に分けると気づきますが、これも冒頭の一文に一人称視点の主人公を表す主語がありませんよね。「道がつづら折りになって」の「道が」は情景描写で使っているだけです。次文も「雨足が杉の密林を白く染めながら、」で情景描写。主人公は終わり際にようやく「私を追って来た。」に出てきます。
ここまで主人公を「省いて」出さなかったからこそ、読み手は物語に入り込んでいくのです。
それに比べると夏目漱石氏『吾輩は猫である』や太宰治氏『走れメロス』はド直球で冒頭の一文にドンと主人公を登場させています。
一人称視点の「吾輩は猫である。名前はまだない。」、三人称視点の「メロスは激怒した。」
冒頭の一文に主人公を登場させると、わかりやすいのです。でもなかなかうまく惹き込めません。『吾輩は猫である』も『走れメロス』も、主人公が特殊な状態であることで注意を惹こうとしているのです。
その点、夏目漱石氏は『坊っちゃん』の書き出しで「省く」技術を存分に発揮しています。
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。」
引用はここまでにしますが、主人公がいっさい登場していません。
「読み手こそがこの物語の主人公なのだ」と夏目漱石氏は語っているのです。
『雪国』も主人公の「島村」が出てくるまでにかなりの文量を要しています。
「名作」は有無を言わさず「読み手を主人公に仕立てる」技術が格段にうまいのです。だから読み手はついつい小説世界に惹き込まれて、さも自分がそういう状況にいるんだと、周りを囲まれてしまいます。まさに「文豪」の思うままです。
日本語の小説では、できるかぎり「主人公をあとに書く」よう徹底しましょう。中には本文中で「主人公を書かずに終わる」作品すらあるのです。
「文豪」から学ぶべきは「省く」技術です。なにが削られているのか。
主人公に関する情報が削られているのです。
『坊っちゃん』は主人公の過去の話から入っていて、今の主人公の情報が入っていません。だから読んでいるうちに、自分が「無鉄砲な主人公自身」になりきってしまうのです。
この「主人公をあとに書く」は「日本語力が高い」小説全般に見られる「秘術」といえます。
最後に
今回は「正しい日本語力を身につける」について述べました。
一人称視点の作品であれば、主人公に関する情報はできるだけ書かないようにしてください。書きたくなるのをぐっと堪らえて、可能なかぎりあとにまわしてください。
主人公が主張してこないから、あとまわしができるようになると、読み手は没入を深めるのです。
あなたがハマった一人称視点の小説の書き出しをよく読んでみましょう。
おそらく主人公はあとから出てきます。
それが「正しい日本語の小説」なのです。
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