1173.技術篇:固定観念を打ち砕く
小説に限らず、自由な創作を邪魔するのはいつも「固定観念」です。
絵画も「写実派」からの揺り返しで「印象派」が生まれましたし「シュールレアリスム」へと過激化していきました。
「小説賞・新人賞」を狙うなら、そんな「固定観念」を盛大に打ち砕いてください。
鉄板の展開は安定感こそありますが、新鮮味がなくて「別にこの作品でなくても」と言われがちです。
固定観念を打ち砕く
勇者は勇者というだけで正義で勇敢であり、魔王は魔王というだけでずる賢くて悪人である。
果たして、世の中はそんなに単純なものでしょうか。
勇者は正義で勇敢、魔王はずる賢くて悪人。そんな固定観念は御伽噺や童話、民間伝承や神話だけにしてください。
小説では勇者が悪人で、魔王が善人であってもよいのです。
魔王が善人で、勇者が悪人
これは象徴的に取り出したものですが、現在小説投稿サイトやライトノベルでは、この「魔王が善人」という設定の作品が数多く見られるようになりました。
橙乃ままれ氏『まおゆう魔王勇者』が先鞭をつけたように考えますが、これより古い作品も当然あるでしょう。ゲームのSir−Tech『Wizardry』の小説版であるベニー松山氏『隣り合わせの灰と青春』でも主人公たちの敵となる大魔法使いワードナが実は善人だった、というオチをつけています。まだ遡れるかもしれませんが、私にはこれが限界ですね。
和ヶ原聡司氏『はたらく魔王さま!』も状況は違いますが、意外と善人な魔王でしたよね。
「魔王」と書けば、読み手の誰もが「悪人」だと先入観を持つものです。しかしその思い込みを利用したミスリードで、魔王と対峙したときに「実は善人だった」とわかったら。勇者もそして感情移入している読み手も、それまでの憎しみがすべて忘れられるほどの強い衝撃を受けます。
「魔王討伐」を唱えた国王のほうが、実はよっぽどの悪人だったなんてケースは、意外と多いものです。
「勇者が悪人」という設定は、最近とみに見かけるようになりました。
この場合「勇者」イコール「主人公」ではありません。「悪人な主人公」に感情移入できる読み手はまずいない。共感を得られない作品がランキング上位になるはずがないのです。
ですので「勇者が悪人」のときは、勇者以外の人が主人公になります。
小説投稿サイト『小説家になろう』では「主人公が勇者パーティーから追放される」が一大トレンドです。そこから「辺境でスローライフ」であったり「ざまぁ」であったりして物語が展開されます。
「見返す相手」として「出し抜く相手」として「倒すべき敵」として、「悪人な勇者」は存在するのです。
そもそも、いつから勇者は善人となったのでしょうか。ほとんど「白馬の王子様」「白馬の騎士」あたりの幻想から来ているように思います。
庶民が苦しんでいるときに、白馬に跨って颯爽と現われる好青年。そして有無を言わさず悪党を蹴散らしていく。これが善人でなければなんなのでしょうか。
おそらくそういったところから「勇者は善人」思想が始まっているように感じられます。
「白馬に跨って颯爽と現われる好青年」……誰ですか、『暴れん坊将軍』のオープニングを思い浮かべた人は。
はい、書いている私です。
いや、だって、オープニングから白馬に跨って鞭を入れて海岸線を颯爽と走る姿はカッコいいじゃないですか。しかも徳田新之助は善人だし。「白馬の王子様」ならぬ「白馬の将軍」ですけど。
そもそもの話「剣と魔法のファンタジー」の祖であるJ.R.R.トールキン氏『指輪物語』の主人公フロドは、諸悪の根源である冥王サウロンを完全に滅ぼすため、すべてを統べる「一つの指輪」を破壊しようとする善人ですが、とても「勇者」とは呼べません。できるかぎり人目を避けてこそこそと動いています。もし勇者なら、サウロンの軍勢と正面切って戦い、すべてに勝利してサウロンと刺し違えてでも倒そうとするでしょう。
つまり「主人公が勇者ではない」わけです。勇敢でもなければ正義漢でもない。
ただ自分の手元にある「一つの指輪」を破壊しようと考えているだけです。
お嬢様は深窓の令嬢から派手好きで高飛車な娘に
これもよくあるステレオタイプなのですが、昔は「お嬢様」と言ったら「深窓の令嬢」を指していました。
しかし今は「派手好きで高飛車な娘」の代名詞といったところです。
同じ単語なのに意味合いは百八十度異なります。なぜこんなことになったのか。これは「日本に貴族階級・特権階級が少なくなった」からです。
昔は財閥が幅を利かせていて、「お嬢様」はそんな財閥のご令嬢を指していました。幼い頃から躾られてきた、品のよい女の子だからこそ「お嬢様」と言えば「深窓の令嬢」だったのです。
しかし今は財閥がほとんど存在しません。以前まであった十の財閥も業界再編で離合集散し、壊滅状態です。戦後GHQは皆様がよく知っている三井、三菱、住友、安田、野村の他、鮎川、浅野、古河、大倉、中島の五つを十大財閥と指定しました。
財閥に取って代わったのが一代で財を成した実業家。たとえばユニクロを展開するファーストリテイリンググループの柳井正氏や、ソフトバンクグループの孫正義氏、大塚家具(現在は匠大塚)の大塚勝久氏のような存在です。
こういった人物は実業家ではあっても実質「成金」とみなされます。突然金が入ってボロ儲けという構図ですね。そういった印象を抱かれていると、その「ご令嬢」は「派手好きで高飛車な娘」になってしまいます。なんでも金で解決しようとするのです。
とくに大塚家具の現社長で大塚勝久氏の娘・大塚久美子氏はまさに「派手好きで高飛車な娘」と言えます。そうでなければあんな大きな会社を傾けはしません。
時代背景によって、受ける印象はがらりと変わってしまいます。
「青年実業家」も昔は胡散臭い人物の代名詞でした。しかし今では「ひと山当てた好青年」の印象が強くなっています。
桃太郎は英雄か
最後に童話を考えてみます。
実は『桃太郎』に出てくる鬼たちは暴力で村人を苦しめていたという記載がありません。つまり鬼であっても悪行を働いていたわけではないのです。
それなのに桃太郎は元服後に鬼退治に出かけます。犬・猿・雉を味方にして鬼たちを倒して金銀財宝を手に入れて村へ凱旋する。
これって冷静に考えると、金持ちの家に押し入って一家に暴行を働いた挙げ句財産をぶんどった「強盗傷害事件」と言えませんか。
桃太郎は本当に「正義」だったのでしょうか。ただ自分たちより弱い相手をカモにしたカツアゲ行為だったのだとしたら。桃太郎は凶悪犯だった可能性もあります。
童話『カチカチ山』のウサギはどうでしょうか。確かにタヌキはおばあさんを殺害し、おじいさんをだまして酷い目に遭わせました。でもおじいさんの代わりにウサギがタヌキへの復讐を図ります。薪を背負わせて火をつけたり、その火傷に辛子を擦り込んだり、挙げ句の果てにはタヌキを泥舟に乗せて溺死させるのです。
この話の怖いところは「仇討ちのためなら、相手をどんな酷い目に遭わせても殺害してもかまわない」という歪んだ正義感にあります。これは『桃太郎』も同様ですよね。
子どもは疑いもなく桃太郎もウサギも「正義の味方」と思いますが、実際には自己満足の歪んだ正義感によるものだった。
これは日本の軍国主義化も影響を与えていると思います。
大義名分があれば、なにをやっても許される。そういう観念がないと戦争なんてやっていられませんからね。
最後に
今回は「固定観念を打ち砕く」について述べました。
勇者は正義で、魔王は悪人。こんなステレオタイプな認識で「剣と魔法のファンタジー」は書けません。小説は童話ではないのです。
魔王には魔王なりの正義がある。正義対正義の戦いが読み手へ強いメッセージを送るのです。
世の中「明確な悪意を持った確信犯」はそれほどいませんからね。
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