1168.技術篇:夢に見られる寓話性

 今回は「夢」についてです。

 書き手にとって「夢」を書くのが怖くなる。そんなときがあります。

「夢オチ」が忌み嫌われる傾向にあるのも、「夢」を敬遠してしまう要素となるのです。





夢に見られる寓話性


 小説は、なにも主人公が実際に体験したものだけを書く物語ではありません。

 主人公が見た「夢」を通して、過去や現状や未来を象徴する手法があるのです。

 よく「夢オチ」と言われて忌み嫌われていますが、「オチ」に使わなければ「夢」には多彩な表現が隠されていると気づくでしょう。




夢を分析したフロイトの呪縛

 よくも悪くも、我々は「夢」にある種の象徴性を求めてしまいます。

 その端緒となったのがオーストリアの精神科医ジークムント・フロイト氏が発表した『夢判断』です。

 この発表により「夢」は深層心理(無意識)を映す鏡であるとみなされました。「精神分析」や「心理学」の多くは『夢判断』から派生していったとも考えられます。

 フロイト氏の定説では「夢は本能的な欲望の表れ」とされているのです。

 だから『夢判断』を知っている書き手は、へたに「夢」を小説へ持ち込めなくなりました。その「夢」がフロイト氏の研究によって穿った見方をされてしまうからです。

 いっそ『夢判断』やフロイト氏の存在を知らない書き手なら、「夢」をふんだんに盛り込んだ作品が書けるでしょう。

 知らないほうが自由に書ける。


 小説にはそのような「縛り」が結構あります。

 現在は禁じ手となっている「神の視点」だって、なぜそう呼ばれているのかやなぜ禁じ手になっているのか知らなければ、自由に視点を操った小説が書けるのです。

 ぐちゃぐちゃのスパゲティーのような作品になり、評価も散々かもしれませんが、一本の小説を書けはします。


 自殺する人の気持ちは正直私にはわかりません。

 しかしもし自殺するときに相当苦しむと知っていれば、自殺しようとしている方は思いとどまるかもしれない。

 ロープで首を吊って死のうとしても、窒息する苦しみを意識を失うまで味わい続けるのだと知っていたら。

 高所から飛び降りて死のうとしても、着地したときの痛みが脳に伝わって激痛を味わってから死ぬのだと知っていたら。

 通過電車に飛び込んで死のうとしても、電車にぶつかったときの体を打ちつける痛みや車輪で手足が引き裂かれる痛みを感じながら死ぬのだと知っていたら。

 おそらく自殺を思いとどまるはずです。

 自殺の苦しさを知っていたら、つらいことがあったくらいで自殺を選択しないでしょう。もっと現状を変える努力はするはずです。

 どれだけ苦しいか知らないから人は自殺に走ります。


 今なら「新型コロナウイルス感染症」をどれだけ知っているのか。これにより外出自粛を積極的に行なうか自由勝手に外出するかが分かれます。

「新型コロナウイルス感染症」は感染してから潜伏期間を経て発症します。そして一度発症したら劇的に変化することもあるのです。もし急変したらそれまでピンピンしていた方も呼吸困難に陥って助けも呼べず、その場で倒れて窒息死してしまうのです。

 窒息の苦しみは味わわなければわからないと思います。

 私は小学六年の頃に練炭コタツに全身入り込んで「一酸化炭素中毒」になりました。

 運よく生き延びましたが、とにかく呼吸が苦しく、目がチカチカして車酔いのような状態となり、すぐに吐き気を催しては延々と吐き続けました。

 窒息はとんでもなく苦しいのです。死の手前まで行ったので私は肌感覚でわかっています。だから「新型コロナウイルス感染症」対策としてフェイスマスクで鼻と口を欠かさず覆って日々生活しているのです。もう二度と窒息なんかしてたまるか、と思っています。




フロイトの呪縛を打ち破る

 私たち小説の書き手は『夢判断』やフロイト氏の影響を排して、小説で主人公が見る「夢」を書くべきです。

 その夢の解釈は、書き手であるあなたが決めるべきであって、『夢判断』やフロイト氏の基準で決めるものではありません。

 もちろん『夢判断』やフロイト氏の提唱する「現在の願望の表れ」として書いてもかまいません。しかし書き手は「夢」に主人公の「過去の出来事」や「将来の展望」を託してもよいのです。現実の敵を「夢」の形で暗示する方法もあります。これはマンガでよく見るパターンですね。

『夢判断』をベースにしてしまうと、蛇や杖などの細長いものはすべて「男性器」を表してしまいます。そうだと知ってしまうと、女性の主人公が見る「夢」へ安易に細長いものを出せなくなるのです。これでは「夢」という表現手段を封じられたも同然。本来「夢」は現実とは異なる一面を読ませるために書きます。その手段を封じられるのは、表現の多彩さを失うことにつながるのです。


「夢」の中で「対になる存在」を匂わせる演出だって、「剣と魔法のファンタジー」ではよく見られます。J.K.ローリング氏『ハリー・ポッター』シリーズだって同じことをしていますよね。

「夢」に特別な意味を持たせるのは、小説の書き手次第です。なんでもかんでも性的な意味合いにしてしまう方もいらっしゃいますし、「対になる存在」を匂わせる方もいらっしゃいます。

 そもそも「夢」なんて、脳に置かれた情報を整理して収納する際に見るものとされており、そこに深層心理や願望を見出だしたのはフロイト氏の勇み足だったのかもしれません。発表当時は脳科学なんて発達していませんでしたから「深層心理や願望の表れ」という捉え方になっただけでしょう。




夢の中に物語を込める

 以上のように「夢」とはフロイト氏の呪縛が形になったようにも思えます。

 しかし創作としての小説において、「夢」は「小さな物語」が繰り広げられる場所でもあるのです。

 主人公の見る「夢」は、主人公にあることを気づかせるために存在します。

 もしなんらの気づきも得られない「夢」を書いてしまったら。それはただ文字数をムダにしただけです。

「夢」は主人公に影響を与える「小さな物語」であるべきでしょう。主人公が「夢」を通して自分に足りないものに気づいたり、自分を脅かしているものに気づいたりするから、「夢」を書く理由となります。もちろん願望にだって気づくことでしょう。

 しかしフロイト氏の研究とは異なり、願望だけが反映された世界ではないのです。

 教訓を得る。手がかりを得る。

 そんな「夢」を見て正気に戻る為政者や謎が解ける名探偵もいます。

 しかし「教訓」や「手がかり」を直接書いただけでは露骨です。

「夢」はあくまでも「物語」として書いてください。

 現実に見る「夢」は、たいていムチャクチャ・支離滅裂な「物語」です。そこから「教訓」や「手がかり」を得られることはまずありません。

 しかし小説に登場する「夢」には意味を持たせなければならないのです。

 意味のない「夢」は書くに能わず。

 主人公が、そして感情移入している読み手が「夢」を読んでなにに気づくのか。どんな意味を汲み取るのか。なにも得られない「夢」なんて書くだけムダです。

「夢」にフロイト氏流の『夢判断』を適用しないでください。

 それは登場人物の性格や運命を占いで決めてしまうようなものです。

「夢」の持つ意味は、書き手が恣意的に決めましょう。

 けっして『夢判断』やフロイト氏の呪縛に陥らないようにしてください。





最後に

 今回は「夢に見られる寓話性」について述べました。

 小説で「夢」を書こうとする。

 そのときジークムント・フロイト氏『夢判断』を気にする方がけっこういらっしゃいます。

 あんなものは無視してかまいません。というより無視しないと延々と「書けない」状態が続きます。

「夢」の意味は書き手が自由に決めてよいのです。それが書き手の特権なのですから。

 もし「夢」の意味に『夢判断』の思想を込めたいというのであれば止めはしません。しかし完璧にマスターするまでの時間で、長編小説一本は余裕で書けます。時間がもったいないのです。

 だから『夢判断』もフロイト氏もこの際無視してください。



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