1165.技術篇:天気を操る

 皆様はご存じでしょうか。

 小説家は皆、超常の力を持っていることを。

 雲を呼び、雨を降らせることだってできます。

 人々の将来すら思いのままです。

 しかし気づいていない書き手は数多い。





天気を操る


 小説家は皆、天変地異を引き起こす魔法を身につけています。

 しかし多くの書き手はそれに気づいていません。

 ときに人を殺したり、ときに人を蘇らせたり。

 しかし多くの書き手はそれに気づいていません。

 なぜでしょうか。




時間を操る

 多くの書き手が、自分には「時間を操る」能力があると知っています。

 夜が明けて朝が来る。学校で授業を受けると昼になる。夕方になると部活動をして家に帰る。家族と食事して夜になり眠る。

 なんの不思議もない一日です。

 小説を書くとき、書き手は自由に時間を操ります。

 そうしなければ、時間はつねに一定で流れてしまい、なにもしていない時間さえも書かなければならないからです。

 出来事が起こるときまで、時間を一気に飛ばす能力は、ほぼすべての書き手が身につけています。

 小説は基本的に前方向へ時間を飛ばして話を進めるものです。

 しかし構成上、昔の出来事をあえて差し挟むときがあります。「過去話」「振り返り」などですね。この「以前の時間へ飛ぶ」能力は技量が高くないと破綻しやすくなります。

 先に未来つまり結末寸前を書いてから、物語の中で最も古い出来事まで戻って順繰り書いていく。そんなこともできてしまいます。

 まさに書き手は「時間を操る」能力を持っているのです。

 いつでも必要なときに、最適な時間へと読み手を連れて行ってくれる。

 読み手を「タイムトラベラー」にさえもできるのです。




生死を操る

 多くの書き手は、自分に「生死を操る」能力があると知っています。

 主人公を生み出し、「対になる存在」を生み出し、脇役を生み出す。

 そして脇役が怪我をする、「対になる存在」と生死を賭けた戦いに身を投じる。

 その結果「対になる存在」が死ぬことも、主人公が死ぬこともあります。

 誰が生まれて、いつ死んでいくのか。すべてを操るのは書き手にしかできません。

 もちろん読み手から望まれて死を免れる人物も出てくるでしょう。

 連載中、ある人物が死に瀕する。すると読み手の方々から「この人を死なせないで!」の声があがります。

 このとき書き手は、自らの「あらすじ」どおりにその人物を殺せます。これは書き手の特権なのです。しかし読み手の支持が高いキャラである場合、行方不明や瀕死で済ませるなどの結末を用意できます。

 サー・アーサー・コナン・ドイル氏『シャーロック・ホームズの冒険』で、主人公シャーロック・ホームズは宿敵ジェームズ・モリアーティ教授と「ライヘンバッハの滝」で行方不明となり連載が終了します。

 コナン・ドイル氏はホームズの人気が高まるにつれ、連載をどのように終わらせるべきか熟考した結果、明確に死なすよりも行方不明を選んだのです。

 これでホームズは読み手の中で生き続け、連載の再開を熱望するようになります。

 その熱意に負けてコナン・ドイル氏は『シャーロック・ホームズの冒険』シリーズの再開を決意したのです。

 明確に死なせなかったから、ホームズは復活できました。

 もしモリアーティ教授とともに死亡したと確定したら、ホームズの復活はありえなかったでしょう。

 ここにコナン・ドイル氏の心の迷いが見て取れます。




天気を操る

「時間を操る」「生死を操る」は知っていても「天気を操る」を知らない書き手が意外と多い。

 天気はその世界が生きている証でもあります。

 物語世界がつねに「晴れ」なのはひじょうに稀です。砂漠の星が舞台なら、毎日「晴れ」ていても不思議はないでしょう。そんな設定のマンガもありますからね。

 現実では「晴れ」が何日続いても、いつかは「曇り」になったり「雨」が降ったりしますよね。ときには「雪」が降りますし、あまりありませんが「ひょう」だって降るのです。

 物語でとくに天候へ言及していない場合、たいてい「晴れ」か「曇り」だと思います。

 なぜなら「雨」や「雪」が降っているのなら、いつもとは異なりますから特記するべき事象となるのです。だから「雨」や「雪」なら書く方はそれなりにいます。

 ですが「晴れ」や「曇り」といった日常的な天気なら、殆どの場合天気は書かれません。

 私が構想中の『秋暁の霧、地を治む』は「霧」を舞台にした戦争ものになっています。

「霧」は特記するべき事象であり、誰もが明確に書ける天候です。

 しかし「箱書き」を見ると、戦闘中の「霧」「雷雨」の描写はあれど、日常の天気を決めていませんでした。夜空の星を眺めるシーンもあるのですが、雲ひとつない夜空なのか、雲が多いけれどなんとか星が見えている夜空なのかがわからないのです。

 これは私自身が「天気を操る」能力を失念していた現れでしょう。

「霧」「雷雨」は非日常な天気なので「書かなきゃ伝わらない」と思うのですが、「晴れ」「曇り」はあまりにも平凡な天気のため「書かなくてもわかるだろう」と思いがちなのです。それこそが「天気を操る」能力者である私たち書き手が最も陥りやすい罠といえます。

「晴れ」ているなら「晴れている」と書く。「曇り」がちなら「曇っている」と書く。

 天気を書かなければ、読み手は舞台を明確に思い浮かべられません。

 たとえば宇宙空間を飛行する宇宙船の中なら、天気なんてないでしょう。それなら天気を書く必要がないかといえば、書かなければならないのです。「船内は気温二十二度、湿度五十パーセントに保たれている。」と書いてあるからこそ、読み手は「快適な環境を整えているのだな」と理解します。もし気温も湿度も書いていなければ、太陽に近づいて船内温度が六十度を大きく超えていても、その危機感が伝わらない。太陽から遠ざかってマイナス一〇〇度を下回っても、誰も防寒具を着用しないのです。不自然だと思いませんか。

 読み手としては、今主人公がどんな天候の中にいるのかは重大な関心事です。せっかく読み手を主人公へ感情移入させても、置かれている環境がわからないのです。こうなると読み手は明確な疑似体験を得られません。

 今主人公はどのくらいの気温と湿度の中にいるのかまで書く必要はありません。

 ですが「晴れ」ているのか「曇り」なのか。「雨」なのか「雪」なのか。この程度の天気は必ず書くようにしてください。




心象描写としての天気

 怒ることを「雷を落とす」、思いがけない出来事を「青天の霹靂」と言います。

 ともに雷の意ですが、天気を用いているのです。

 死者をお見送りする際に降る雨を「涙雨」と呼びます。

 前途洋々なら雲ひとつない「快晴」であることが多い。逆に不穏な船出ならどんよりした「曇り」や「荒天」というのがひとつのパターンです。

 このように、心の状態を天気に置き換えて表現する手法は昔から存在していました。

 とはいえ「文豪」の作品を読んでもそういった心象描写は少ないのが事実です。

 誰かが心象描写に天候を用いたのが始まりでしょうけど、誰が始めたのかまではわかりません。

 おそらく海外の書き手だと思います。

 各章で「一月三日、晴れのち雨。」のようにシチュエーションを設定する書き方が初出でしょう。

 しかし章内で天候は変わりません。

 主人公の置かれた状態は、たいてい主人公の心理を反映しています。

 ショックを受けたら雷が落ちる。前途多難なら雲行きが怪しくなる。しんみりしたときは雪が降る。




季節を操る

 天気と同様、物語の雰囲気を醸し出すのが「季節」です。

 たとえば希望を象徴したいなら「春」の桜の咲く頃に据えます。桜は卒業や進学、就職など心機一転する契機を意味するのです。

 一般的に「出産」も「春」に絡められます。動物の子どもが生まれるのもだいたいは「春」ですよね。

 物語が大団円で終わるとき「春」に子どもが生まれるパターンが多いのも、「春」の雰囲気が大団円にふさわしいから。

 一時の逢瀬をテーマにするなら「晩夏」が多く使われます。「一気に燃え盛って、あっという間に秋(飽き)が来る」というのは、小説では鉄板のシチュエーションです。

 とくに日本には「四季」があります。清少納言『枕草子』でも「春はあけぼの」と書かれているように、おおかたの小説でも季節が設定されているのです。川端康成氏『雪国』だって「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。」と書いています。「今は冬ですよ」と冒頭で伝えているのです。

 日本の小説にはたいてい「季節」が設定されています。しかし「季節」のわからない作品も中にはあるのです。たとえば太宰治氏『走れメロス』はどの季節かわかりますか。すぐには思い浮かばないはずです。それらしいことが明確に書かれていない。だから『走れメロス』が駄目とは言いません。ただ「どんな状況にいるのだろうか」と疑問が湧きます。「季節」がわからないと肌感覚が作品に入り込まないため、臨場感に欠けるきらいがあるのです。

「季節」は時間と天気を同時に操るようなもので、万能に思えてきます。

 しかし「季節」は固定されたものではありません。三か月も経てば季節も変わります。半年経ったはずなのに、いつまでも夏のままなんてことも小説ではよく見受けられるのです。とくにライトノベルの場合「異世界ファンタジー」が多いですから、「季節」が現代日本と大きく異なる場合も当然あるでしょう。だから夏が半年以上続くのも不思議はないのかもしれません。しかしそれだけで没入感は浅くなってしまいます。

 読み手に支持される「異世界ファンタジー」では、季節はほぼ現代日本と同じに設定されているものです。

 すぐれた作品は、一般的な読み手に近い環境を舞台にしています。

「春」の桜について書いたのも、日本人の生活とは切り離せない存在だからです。

 とりあえず「春になったら桜を書け」も、日本人の感覚に合っているから言われます。

「季節」は「天気」の素ともなりますので、作品の「季節」を決めるときは「天気」を考慮してください。「真夏」を舞台にしたのに「雪」が降るのでは荒唐無稽です。まぁそういう「事件」を起こすのであれば別ですが。





最後に

 今回は「天気を操る」について述べました。

 小説の書き手はあらゆるものを操れます。まさに全知全能の神です。

 とはいえ、それは小説の作品にのみ影響を及ぼすもので、実生活にはなんの役にも立ちません。

 それを織り込んだうえでいうなら、作品のすべてを見事に操って読み手が感動してくれたら、小説の評価は高まります。すると「小説賞・新人賞」でも高い評価を得ますし、大賞を授かって「紙の書籍」化するかもしれません。

 つまり虚構を巧みに操れば、実利も操れるのです。



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