1160.技術篇:異世界である必然性はありますか
今回は「異世界」である必然性についてです。
なぜ小説投稿サイトには「異世界」作品が多いのでしょうか。
本当に「異世界」でなければ書けないものなのでしょうか。
少し疑ってみるのも、書き手としての成長につながると思います。
本日で『ピクシブ文芸』毎日連載四年目となります。これまでの丸三年間お付き合いいただきありがとうございます。あと少しでもうひと区切りを迎えますので、それが過ぎたら連載ペースを落とす予定でいます。
今しばらくお付き合いいただければと存じます。
異世界である必然性はありますか
小説には当然舞台があり、世界観があります。
川端康成氏『雪国』なら越後湯沢が舞台で、雪深い山間地で起こる出来事を記しているのです。この物語は舞台が越後湯沢でなければならない理由があります。川端康成氏なら『伊豆の踊子』も伊豆である必然性があるのです。
理由や必然性はなにか。そこで働いている人物を絡めた物語なのです。
異世界である必然性
小説投稿サイトには、実に多くの「異世界ファンタジー」が掲載されています。読み手はその中から読みたい作品を選ぶのです。
ですが、読んでみたらいまいちしっくり来なかった。
なぜだろうと考えたら、「異世界」の出来事である必然性が見つからないからでした。
確かに「剣と魔法」は出てくる。だから「剣と魔法のファンタジー」つまり「異世界ファンタジー」でいいじゃないか。それだけの理由で「異世界」を舞台にする必然性はありません。「現実世界ファンタジー」「伝奇」でも「剣と魔法」は出せます。なにも「異世界ファンタジー」でなければならない理由にはなりません。
「異世界」で暮らしている人々が物語で重要な役割を担っている。そこが「異世界」でなければ物語が成立しない。だからこそ、舞台を「異世界」にする必然性が生じるのです。
これから書こうとしている物語は、本当に「異世界」を舞台にする必然性があるのでしょうか。
同じ警句を「現実世界」でも語れないものでしょうか。
「異世界」で暮らす人が欠かせない物語なら、舞台は「異世界」にする必要があります。ですが世の「異世界ファンタジー」は、なにも「異世界」にする必然性がない作品が多いのです。
現実世界を過小評価しすぎ
私たち書き手は「現実世界」を過小評価しすぎかもしれません。
たとえば私の構想作である『秋暁の霧、地を治む』は「異世界」が舞台のファンタジー小説にする必然性なんてあるのでしょうか。「現実世界」でもふさわしい舞台が見つかれば、そこで物語が創れるのではないか。そのように考えていました。
私が読み手へ訴えたいテーマは「綺麗ごとを並べても戦争は人殺しにすぎない」です。
それを「異世界ファンタジー」にする必然性が本当にあるのか。戦争のなくなった「現実世界」で、戦争をテーマにした作品を発表すると、どうしても浮いてしまいます。
だからといって「異世界」が正解なのか。たとえば古代中国の春秋戦国時代を舞台にして、同じ警句は語れると思います。ただし、当時の中国に相当な知識を持っていなければ、単なる「中華風異世界ファンタジー」になってしまいます。きちんと「時代」小説とするには、今以上の知識が必要です。私は『左氏春秋』『戦国策』『史記』などを読んでおり、一般的な日本人よりも古代中国の知識があります。だからそれらの時代を舞台にしても訴えたいテーマはじゅうぶんに書けるでしょう。
ではなぜ「異世界ファンタジー」にしたのか。
「現実世界」では内戦こそありますが対外戦争が起こっていない。「歴史」上の出来事を書くわけでもない。しかしどこかの時代に
それでも「異世界ファンタジー」にこだわったのは、長きにわたる戦争によって疲弊した「異世界人」を取り上げたかったからです。
とくに主人公ミゲルの設定を考えた際「現実世界」だとここまで酷な環境は用意できないだろうと考えました。
ですが「現実世界」にできなかったのでしょうか。
少なくとも「現実世界ファンタジー」にはできたかもしれません。「現実世界ファンタジー」であれば、現在米中で戦争が行なわれていても不思議はない。舞台となる地域を見つけて、そこで起こった架空の戦争にすれば「現実世界ファンタジー」でもなんら問題ないのです。
ここまで考えが至ったとき、私は立ち止まりました。
「現実世界ファンタジー」にしても書けるのではないか。「現実世界」の可能性を過小評価しすぎではないか。たとえばイギリスとフランスの「百年戦争」で仮託できないか。
実はこの悩みのせいで、「箱書き」から先へ手を着けられていません。
「本当に異世界ファンタジーである必然性は」と考えたとき、あえて競争の激しい「異世界ファンタジー」で書くのは正しいのか考えてしまいました。
私が考えるに、小説投稿サイトに掲載されている「異世界ファンタジー」の多くは「現実世界」が舞台でも成立します。「魔法」だって「超能力」に置き換えればよいのです。「超能力」が出てくると「現実世界ファンタジー」になるかもしれません。しかし「現実世界」を舞台にできるのです。
そしておおかたの「異世界ファンタジー」は、「現実世界」を舞台にしても同じテーマを扱えます。それなのに「剣と魔法のファンタジー」だからと「異世界ファンタジー」に直結するのがよくないのかもしれません。
とくに「異世界転移」「異世界転生」「悪役令嬢」といった流行りものは、「異世界」や「ゲーム世界」へ行くことが既定路線となっているため、「異世界ファンタジー」でよいだろうと判断してしまいがちです。
でも「転移」「転生」が必ず「異世界」である必然性はあるのでしょうか。「現実世界」の別の土地へ転移したり転生したりするのもじゅうぶん「あり」です。
たとえば「転生したら平安時代だった」場合、「異世界転生」のキーワードは使えません。でも中身はほとんど「異世界転生」と同じです。この場合「現実世界」の過去の時代へと「転生」します。それなら「現実世界転生」と呼んでもよいのかもしれません。まぁこういった作品の場合はたいてい夢枕獏氏『陰陽師』のような「時代ファンタジー」ものとして扱われますが。
ですが夢枕獏氏は「異世界ファンタジー」にはせず、「時代ファンタジー」にしたのです。「現実世界」にはまだまだ可能性が眠っています。掘られていないだけで、地下水は脈々と流れているのです。「現実世界」もまだ掘り尽くされていない井戸だと思います。
それなのに、小説投稿サイトの掲載作品は「異世界ファンタジー」に偏っているのです。
それらの作品で本当に「異世界」が舞台となる必然性はあったのでしょうか。
私たちは一度立ち止まって考えなければなりません。
舞台が「異世界」である必然性はあるのかどうか。時代はともかく「現実世界」を舞台にしても成立するのではないか。
ウィリアム・シェイクスピア氏『ロミオとジュリエット』はヴェローナを舞台にしています。シェイクスピア氏ほどの人物であれば、架空の都市を舞台にできたはずです。しかし悲劇の舞台としてあえて実在するヴェローナを選んでいます。
「現実世界」を舞台にしてリアリティーを高めているのです。
あなたが書こうとしている「異世界ファンタジー」は、本当に「異世界」が舞台である必然性はあるのでしょうか。
最後に
今回は「異世界である必然性はありますか」について述べました。
小説投稿サイトの「異世界ファンタジー」には、舞台を「現実世界」にしても通じてしまう作品がごまんとあります。
本当に「異世界」が舞台である必然性はあるのでしょうか。
「剣と魔法のファンタジー」だから「異世界」だというのは暴論です。
「現実世界」が舞台でも「剣と魔法のファンタジー」は書けます。西谷史氏『デジタル・デビル・ストーリー 女神転生』は「現実世界」を舞台とした「剣と魔法のファンタジー」と言えます。ゲームの原作にもなりましたから、ご存じの方も多いでしょう。
「現実世界」でやってやれないことはない。安易に「異世界」に走らず、「現実世界」で表現できないか。考えてから選択しましょう。
「異世界ファンタジー」の評価が図抜けて高いから、という理由で「異世界ファンタジー」を選ぶのは安直ですよ。
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